東金御成街道①
2010年8月13日
船橋駅(JR総武線)・・・(京成本線)・・・御殿通り・・・道祖神社・・・船橋御殿跡(東照宮)・・・御蔵稲荷神社(郷蔵跡)・・・県道69号・・・厳島神社・・・海老川橋(海老川)・・・(京成本線)・・・船橋大神宮・・・宮坂・・・西福寺・・・了源寺・・・日枝神社・・・馬頭観音堂・・・(県道8号)・・・徳兵衛地蔵堂・・・成田街道追分・道標・・・(新京成電鉄)・・・藤崎交番前交差点・・・藤崎古道・・・森林公園・旧大沢家住宅・・・藤崎堀込貝塚・・・県道69号・・・薬師寺・・・誉田八幡神社・・・道六神・・・庚申塔・・・大原神社・・・(京成本線)・・・一里塚跡あたり・・・実籾本郷公園・旧鴇田家住宅・・・無量寺・・・実籾駅(京成本線)
東金御成街道は徳川家康が鷹狩りのため、短期間で造らせた船橋御殿と東金御殿を結ぶ直線的な街道で、「一夜街道」・「提灯街道」・「権現道」とも呼ばれていた。「鷹狩り」は表向きの理由で、房総の諸勢力の動向を牽制・警戒し、いざという時の兵力移動の軍事道路でもあったようだ。家康2回、秀忠10回、家光1回の「御成り」が記録されている。
*参考:『千葉県歴史の道調査報告書 9』・『東金御成街道を探る』(本保弘文)
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
(船橋御殿南)→(船橋大神宮下)→成田街道追分→藤崎→長作→犢橋→長沼→金親→中田→富田→滝→油井→大豆谷→東金御殿
愛染明王?(文化8年(1811))と三面八臂の馬頭観音(安永3年(1774))
ここが御殿の中心部。家康は一回しか泊まらなかった。
御蔵稲荷神社 《地図》
郷蔵跡で、ここ九日市村は船橋宿の中心で、五日市村、海神村と一体となり人馬継ぎ立ての業務を行っていた。このほか御成街道には、犢橋(こてはし)宿、金親宿、中田宿、東金宿があったが、継ぎ立て業務が主で、宿場町というイメージとは違っていたようだ。
パン・お菓子の店。店の後ろの中庭みたいな空間も敷地のようで相当広い。
船橋の地名の由来伝説にちなみ、船の舳が欄干から突き出している。
東征した古代の英雄とは、日本武尊のことか。
もとは延喜式の意富比(おおい)神社
社殿は船に乗っている。
灯明台(大神宮内) 【ル-ト地図】の②
和洋折衷の擬洋風建築の変わった形の常夜灯(というより灯台)だが、木々に覆われ全体が見えないし、そばに近づく道もない(分からない)。
宮坂 《地図》
大神宮(右)に沿って上る坂
左に並ぶのは「ふくふく(冨久福)地蔵」
享保年間に幕府の大砲試射台があった。その跡に鐘楼堂が建てられ、明治4年まで時の鐘として船橋一帯に時を告げた。
太田南畝の狂歌は、黒船来航の時の 「泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」と少し似ているか?
左は文化4年(1807)、右は明治時代の造立。
徳兵衛地蔵堂(サイゼリアの先の右側) 《地図》
由緒沿革碑によれば、安政年間(1854~59)に悪疫が流行った時、屋号が「徳兵衛」の原田氏の寄進と願により、西福寺の住職が造立した。(違っているかも)
成田街道分岐(左) 【ル-ト地図】の③
ここまでは成田街道で、ここが東金御成街道の始点だろう。道路標識もここまでは「成田街道」となっている。
右側面に「従是房總街道」とある。それが東金御成街道のこと。
藤崎交番前交差点を右折すると、すぐに藤崎古道の入口がある。
御成街道以前の道。家康が近くの子安神社で休憩した時、境内の藤の花が見事に咲いているのを見て、「藤咲村」と命名したという。
古道といってもほんの一部が残るだけで、すぐに一般道に上ってしまう。
森林公園に向かう途中で、新しい住宅地の中に入ってしまい何度も行き止まりの憂き目にあい、抜け出すのに苦労した。
寛文4年(1664)に建てられた旧名主宅。
藤崎堀込貝塚 【ル-ト地図】の⑤
鳥居の内側には富士塚が築かれている。頂上には天保4年(1833)造立の石祠が立つ。
下には貝殻片が散らばっている。縄文時代のものなのか? 貝塚の西側はかつては楕円形の凹地になっていて「ダイダラ坊の足跡」と呼ばれていたそうだ。
ここから御成街道に出るのもずいぶんと回り道をして時間がかかった。
薬師寺 《地図》
右の説明板には、「六地蔵は市角頼母により享保13年(1728)の建立された」とある。
碑文には、延宝年間(1673~80)に豊臣方の武将市角頼母が河内の誉田八幡宮を勧請したとある。市角頼母は、豊臣方の武将でありながら、随分と長生きをしたようだ? なんだかしっくりこない感じだ。
火事か?
「足の神様の道六神」の祠(享保13年(1728)の造立) (酒店の先の右側)
わらじなどの姿はない。信心はすたれたのか。
庚申塔が民家の窓下にしっかりと守られている。(道六神の先の交差点を右折した右側)
道路拡張で2度移された。ここが安住の地になればよいが。右の2つは三猿の庚申塔で、延宝8年(1680)と元禄14年(1701)のものだそうだ。
右から寛政5年(1793)、宝暦2年(1752)、正徳元年(1711)の造立。
かつては右側の塚上に椎の古木が立っていたという。これは左の塚跡のようにも見える?
一里塚は船橋から東金までの間に8つあった。①実籾の一里塚(一里山・習志野市実籾)、②向山(庚申塚・千葉市犢橋(こてはし)町)、③焼塚(千葉市若松町)、④提灯塚(千葉市千城台東)、⑤椎の古木(千葉市冨田町)、⑥クヌギ山(一里塚・八街市上砂)、⑦の1 一本松(一里塚・東金市油井)・⑦の2 殿山(東金市黒田) (⑦が2つあるのは表道と裏道の2つの道筋があったため)
鴇田(ときた)家住宅(実籾本郷公園に移築復元)
御成街道沿いにあった実籾村の名主家。
公開は16時30分までで、外から眺めるだけ。
享保12年(1727)から翌13年に建てられた、東北地方に多い「曲屋(まがりや)」形式の住宅。
無量寺 《地図》
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