東金御成街道③
2010年8月20日
千城台駅(千葉モノレール)・・・御成台1交差点・・・鼻付き坂・・・提灯塚(一里塚跡・御成公園)・・・金親宿・・・金光院・・・御茶屋御殿跡・・・中田宿・・・(県道66号)・・・中田橋(平川)・・・真光寺・・・富田橋(鹿島川)・・椎の古木(富田の一里塚跡)・・・千葉市乳牛育成牧場・・・街道消滅地点・風景谷の険・・・(鍋島開墾)・・・沖十文字交差点・県道289号・・・街道復活地点・・・蛇田谷の険・・・上砂の一里塚跡・馬渡しの険・・・太郎坊・・・ビンダライ池・・・(千葉東金道路)・・・(県道301号)・・・国道409号・・・道祖神・・・滝交差点・県道301号・・・東金高等技術専門校・・・地蔵(道祖神)道標・旧道(表道)・・・おあし坂・・・油井(一本松)の一里塚跡・・・国道126号・・・裏道(県道301号)・・・コンレイ(魂霊)坂・・・楓ケ池・・・丸山公園・・・八鶴湖・・・東漸寺・東金城址・東金御殿跡(東金高校)・・・最福寺・・・東金駅(JR東金線)
千城台駅から先、御成街道は交通の便が悪くなる。一気に東金御殿まで行くことにする。この区間は家康ゆかりの所や逸話の残る所も多く楽しみだ。今日は少し暑さが和らいでいるのでぶっ倒れることもないだろう。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
鼻付き坂 《地図》
御成台一丁目交差点から先は、アップダウンが続き、道幅も狭くなり歩道もついていない。前から後ろから車がぶんぶん来るので気疲れする。
塚上にあった大木に昼は白旗、夜は提灯をかかげ、直線道を造る目安にしたという。
なかなかいい坂だ。車が通らなければ尚更なのだが。坂を上り返せば金親宿だ。
金親(かなおや)宿 《地図》
長屋門が3つ残っている。この3軒が江戸時代の名主家で、宿内には高札場あり、石井家には高札が保存されているそうだ。人馬継ぎ立てが多い場合に業務を行っていた間の宿のような所だった。
御茶屋御殿の裏門という。裏門とはいえ御殿の門とは思えない小振りで質素な門だ。
家康が2度目の鷹狩りの時(元和元年(1615)11月16日)に宿泊したといい、その時、褒め称えたという「御手掛桜」があったという。なぜ、御茶屋御殿に泊まらなかったのか?
御茶屋御殿跡 《地図》
空堀、土塁の向こうが主殿跡で、広場になっている。
今でも薬研堀のV字形が残っている。
人馬の継ぎ立て業務だけで旅籠などはなく、間の宿の役割だったようだ。
真光寺 《地図》
傾斜のきつい屋根だ。
「西 中田 古泉道」・「東 沖小間子砂 東金道」
向いの仲田家にも大きな椎の木があってアーチ形になっていたそうだ。
写真を撮ろうとしたら人なつこいのか何頭も近寄ってきた。
街道消滅地点 《地図》
旧道はここを直進して上ったが、今は左に迂回する。手前に説明板が立つ。
昔は急坂で家康は駕籠から馬に乗り換えて登ったという。登り切った所から下総台地が一望でき、その遠大さに感嘆したところから、「風景谷」の名が起こったといわれる。
山林中に旧道の一部が残るというが、踏み跡も分からず。
ここは小間子牧跡で明治時代に鍋島家の所有となり開墾された。
街道はこの中を直進していた。この先の竹林や住宅地内に街道の跡が残るようだが、沖十字路経由で迂回する。
街道復活地点 《地図》
墓地の中を通りここへ出ていた。
蛇田谷(へびたさく)の険 《地図》
慶長19年(1614)、家康一行がこのあたりで昼食を取った時に、女中が杓子(しゃくし)を川に落としてしまい、それが1.5km先の角谷(すみや)の岸まで流された。後にこの杓子が根付いて、大樹になったという伝承があるそうだ。この大樹は「角谷(すみや)の杓子神」と呼ばれていた。
このあたりは人も車も通らず、今でも蛇が出そうな雰囲気だ。
急坂が下って、上り返している。下りは今でも斜度14%で、御成街道で一番起伏のある所。家康はここで駕籠から馬に乗り換えたことからこの名がついたとも、野馬を追い込んで、向こう側の丘に渡らせる唯一の渡し場だったことから「馬渡し」の名がついたともいう。
天正10年(1582)、東金城主酒井小太郎と土気城主酒井胤治父子が椎崎城主椎崎三郎と争った。この地で酒井氏が椎崎軍の侵入を防いだところから「太郎防」との地名がつき、後に「太郎坊」になったという。付近には椎崎軍の捕虜の首を切ったという「首切り谷」、大将の首を埋めた「かま塚」や「死人谷(しびとざく)」などの地名が残るそうだ。今はのどかな田園風景が広がっている。
ビンダライ池 《地図》
家康一行はここの風景に目を見張り休憩したという。池の水を鬢盥(ビンダライ)に入れ、髪の乱れを直したと伝える。年を取ってもお洒落なお爺ちゃんなのだ。昭和52年までは池は街道の両側にあったが、左側は埋め立てられた。
未舗装の道になる。
この先で国道409号に出て東金市に入る。滝交差点からは県道301号となる。
表道(本道)は右へ入り「おあし坂」を下る。裏道は県道301号を進み、「コンレイ坂」を下る。今は表裏が逆転しているが。
表道(今の旧道)は、②の地蔵(道祖神)道標から、③おあし坂、④油井の一里塚跡、⑤十六石殿→東金御殿
裏道(県道301号)は、⑥からコンレイ坂を下り、厳島神社前を通り、表道と合流し、→東金御殿
説明板などでは道祖神としているが地蔵に見える。地元では「地蔵様」と呼ばれているようだ。「地蔵道祖神」としておこう。
正面に「是より下間東金道 是より上間左倉道」で、表道(本道)がおあし坂経由だったことが分かる。左側面に「是より西 江戸道」。
おあし坂へ向かうが行き止まりのような感じで不安になるが、正面のフェンスの「御成街道 おあし坂入口 →」の表示板が掛っていて一安心。
急坂で歩幅を広くとり、大足で上り下りしたことからおあし(大足)坂の名がついた。
落ち葉と樹木に覆われた坂で廃道に近い感じだ。逗子市の古東海道の「七曲り」を思い出した。
家康がここを通った時にはもっと整備された道だったのだろう。
油井(一本松)一里塚跡あたり 《地図》
1970年代まで高さ2mほどの塚の上に黒松が立っていたという。この先、表道は大豆谷(まめざく)の十六石殿(説明板①の⑦)と呼ばれた星野家前を通り、国道126号沿いにあった東金御殿表門へと向かうのだが、坂道散歩としては裏道のコンレイ坂へ行かねばならない。国道126号まで出て戻り、裏道まで行くことにする。
天正18年(1590)に家康軍の侵攻で戦死した酒井氏家臣をこの付近の大木の下に葬ったところから、生物の魂を守る聖域であり、近づくことを恐れたという。
坂上に殿山の一里塚があった。
「此方 東金道」などと刻まれているようだ。
丸山公園の先で右折し、日吉神社の東側の坂を八鶴湖(はっかくこ)へと下る。《地図》
八鶴湖から東金御殿跡(東金高校)、東漸寺、その背後が東金城址 【ル-ト地図】の15
八鶴湖は文禄3年(1594)に灌漑と防火用水のために造られた人造湖。
境内には家康が「御手植えの蜜柑橘子」という大木があったそうだ。
昭和27年の寒波で凍死した多くの越冬つばめの供養塚。
歌碑は昭和26年に中西悟堂が詠んだもの。「みんなみに 帰り得ざりし 燕らが 冬越すここは 上総東金」
八鶴亭(国登録有形文化財)
明治18年創業の湖畔の料亭(2021年5月1日 フランス料理レストランに生まれ変わった。)
歌舞伎の「切られ与三」のモデルとなった人の墓があるそうだが探さなかった。
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