成田街道③
2010年8月27日
前原駅(新京成電鉄)・・・国道296号・・・道入庵・・・百庚申・・・御嶽神社・・・馬頭観音・・・東福寺滝台阿弥陀堂・・・道祖神・・・高憧庵・木っぱ地蔵・・・庚申塔・・・道祖神・・・(郷土資料館)・・・陸上自衛隊習志野演習場・・・新木戸交差点・成田山道標・血流地蔵道道標・・・八幡神社・・・馬頭観音など・・・神明社・・・「おたきさん道」道標・・・子安観音・・・庚塚バス停・道祖神・・・市役所入口交差点・大和田宿・円光院・長妙寺・時平神社①・陣屋跡・明治天皇行在所跡・薬師寺・子安観音・・・宮坂・・時平神社②・・・大和橋(新川)・・・白旗神社・・・(国道16号)・・・八坂神社・・・台町稲荷神社・・・(勝田台駅)・・・成田山道標・・・加賀清水・・稲荷神社・・・(ユーカリが丘駅)・・・成田山道標・・・志津村道標元標・・・上座総合公園・・・皇産霊神社・・・手繰の坂・・手繰不動堂(跡)・・手繰橋(手繰川)・・・旧道・弥右衛門坂・・・成田山道標・・・雷電の碑・妙覚寺・・・妙伝寺・新坂・・・臼井宿・甘酒茶屋跡・中宿交差点・明治天皇臼井行在所跡・臼井町道路元標・国道296号・・・長源寺・・・(京成電鉄)・・・成田山道標・・・八丁坂・・・江原刑場跡・・・八幡神社・・・鹿島地蔵・鹿島橋(鹿島川)・・・旧道・海隣寺の坂・・・京成佐倉駅
【ル-ト地図】
*佐倉市内は『佐倉市の坂』にも記載あり。
写真をクリックすると拡大します。
地蔵(道入庵境内) 《地図》
前原新田の開墾を記念して、延宝3年(1675)に造立。道入庵は吉橋大師講の第49番。このサイトに88の札所の一覧が載っている。
百庚申 《地図》
木造蔵王権現三尊立像は平安時代の作と推定という。扉が開いているのに中を覗くのを忘れた。
馬頭観音の脇を左斜めに入る道は地元では木下(きおろし)道と伝える。
東福寺滝台阿弥陀堂 《地図》
本尊の阿弥陀如来坐像は中世末から近世初期の作という。
この先、270mほどの左側に立場があったそうだ。
安永8年(1779)の造立
「諦通院日慮」の石碑。薬園台の地名の由来となった薬草園を開いた医者。
後ろが木食僧観信の墓と「木っぱ地蔵」の小堂。正面右奥の小祠が吉橋大師講の第41番。
観信が一本の木から彫り上げたという木造の坐像。素朴な表情をしている。
墓地の向い側に観信が享保年間(1716~35)に開いたという高憧庵がある。
読めないだろうな。
このあたり一帯は幕府の下野牧で、木戸があった。今は右側は自衛隊習志野駐屯地。
「成田山 是より七■」
血流地蔵を見たいものだが、貞福寺まではここから4kmもあり、あきらめた。
「おたきさん道」道標(慶応元年(1865)) 一本松前バス停手前の交差点
滝不動(金蔵寺)への道標。新京成電鉄に「滝不動駅」がある。
女人講中、子安講中によって立てられた子安観音がしっかり子を抱いている。
庚塚(かのえづか)バス停の脇
市役所入口交差点を渡り、大和田宿に入る。
お七が(今の)八千代市の生まれで、江戸本郷の八百屋の養女となったとは知らなんだ。
お七の墓は白山の円乗寺にもある。『文京区の坂-4』に記載。 相手の吉三郎の墓は東海道島田宿の関川庵にある。『東海道(藤枝宿→掛川宿)』に記載。
このあたりが陣屋跡で、大和田宿の家並みは1kmほど続き、旅籠の近江屋、中村屋、若竹屋、東屋、舛屋などがあったそうだ。
宮坂を下る。 《地図》
昔は荷車の難所で、坂下には後押しをして日銭を稼ぐ人たちがたむろしていたという。左の木々の中に時平神社②が鎮座する。
下総三山の七年祭の一社。平清盛によって排斥、左遷され、この地に流れ着いた藤原時平の子孫たちの一人、高津姫が時平を祀ったという。左大臣藤原時平は右大臣菅原道真を大宰府に配流した権力者。子孫が流される破目に遭うとは因果応報の歴史のなせる業か。八千代市には時平神社が4社あるようだ。菅原道真を祀る天神社、天満宮は全国にごまんとある。
七代目市川団十郎銘の道標(右端・天保2年(1831)) 《地図》
左側面と裏面には、この清水(加賀清水)を飲めば子どもを授かるという意味のことが書かれているそうだ。ここにあった林屋という茶屋がこの清水の茶を成田山参詣客に振舞っていたという。中古自動車に挟まれ、ひいきが立てた「成田屋」の幟ならぬ派手な宣伝旗を見たら団十郎は「こりゃー ぶったまげた げに怪しかりき世の中よ」と大見得を切るかも。
加賀清水 《地図》
モノレール山万ユーカリが丘線をくぐる。
コンクリで接合されていたのが、また折れたようだ。
手繰(たぐり)の坂を下る。 《地図》
もとは「田久里」だったが、年々起こる印旛沼の大洪水でこの川も氾濫し橋も道も水没するため、両側に杭を打ち綱を張り、舟に乗ってこの綱を手で繰って渡ったことから、「手繰」という文字になったという。
昔は粘土層が厚くひどくぬかるんだ道で、この先の新坂を下るまでは臼井峠と呼ばれていたという。
坂上を進んだT字路に道標が立つ。
道標(文化3年(1806)) 《地図》
正面に「右成田道」、左側面に「西さくば道」
このあたりを大名宿といい、北方の台地上には臼井城址がある。印旛沼の眺めがいいという。
雷電の碑(妙覚寺前)
手形は自分の2倍もあるか。
新坂(にいざか)を下る。《地図》
坂下を右に入った墓地(浄行寺跡)に雷電夫妻の墓がある。港区赤坂の三分坂(さんぶんざか)の坂下の報土寺にも墓がある。『港区の坂-6』 長野県東御市には生家跡がある。『善光寺街道①』
坂下左側には旅籠坂本屋、左折する突当たりには継立場があった。
このあたりは臼井宿の上宿で、甘酒茶屋の看板娘のおはんさんを雷電が見初め妻にした。相撲界から退いた後は永くこの地で暮らしたという。
明治天皇臼井行在所跡(中宿交差点) 《地図》
ここは高札場跡で、臼井町道路元標も立っている。
成田不動尊の江戸出開帳の際には、不動尊の宿舎?に当てられたという。
道標(京成線を渡った辻) 《地図》
左端の「西 江戸道」は文化3年(1806)の造立、その隣の「さくら道」は成田道ではなく、佐倉道と呼ばれていた頃のもの。その隣は六十六部廻国供養塔、右端は墓のようだ。
坂上の江原刑場の処刑者の埋葬場所で、「首さらし場」、「首洗い池」などもあったそうだ。
坂上方向 《地図》
鹿島地蔵(右)・鹿島橋 《地図》
後ろに旧道の一部が残るようだ。
付近で溺死した者のために地元の人が建てたという。台座に「宝暦五・・・・再興万人講 享和元・・・・」と刻む。宝暦5年(1755)に造立した地蔵を享和元年(1801)に再建したのか?
佐倉城三十三間堀
成田街道が台地上の町へと上がる坂で、街道筋の要所として木戸が設置され、土手、竹矢来で守られていた。坂上に海隣寺がある。
途中で左折し京成佐倉駅に向かう。
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