布施街道①
2010年9月1日
北柏駅(JR常磐線)・・・水戸街道・・・根戸十字路・県道7号・・・庚申塔・・・常夜灯・布施弁天道標・布施弁天通り・・・南龍寺・道標・・・紅竜霊園・・・寺山坂・・・大日・薬師如来堂・・布施弁天東海寺・・・利根川河川敷・・・七里ケ渡し・布施河岸跡・・・新大利根橋・・・前掘橋(大野川)・・・稲戸井村道路元標・戸頭神社・・・永蔵寺・・・戸頭公園・・・乙子交差点・国道294号・・・(南守谷駅・関東鉄道常総線)・・・愛宕神社・・・西林寺・・・守谷城大手門跡(守谷小学校)・・・八坂神社・・・守谷城址公園・・・森林公園・・・(つくばエクスプレス)・・・法花坊(ほっけぼう)交差点・・・守谷駅(つくばエクスプレス)
布施街道は享保15年(1730)頃に開かれた水戸街道の脇往還で、根戸(柏市)で水戸街道から分かれ、布施弁天、利根川の七里ケ渡し、守谷、板橋、谷田部を経由し、土浦の中高津で水戸街道に合流する。谷田部藩、笠間藩の参勤交代の道、新四国相馬霊場巡礼の道、布施弁天、板橋不動尊への参拝の道だった。脇街道ながら利用者が多く、元文4年(1739)に水戸藩では本街道の7つの宿場(我孫子宿~中村宿)が衰えるので、布施街道を通らないようにとの触書まで出したという。
今では道路、住宅、鉄道などで旧道の道筋も消滅したり、はっきりしない所もあり、昔の街道風情は期待できないだろうが、まあ気楽にゆるりと猛暑の中を出発した。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
水戸街道追分(根戸十字路) 【ル-ト地図】の①
直進が水戸街道、左折が布施街道。
富勢郵便局向い側。「布施」と「富勢」どっちが先か?
常夜灯(文化7年(1810)建立) 《地図》
常夜灯には「筑波街道」とある。谷田部から北条に出て、筑波山登拝へと向かったようだ。右脇には布施弁天への道標(貞享4年(1687))も立っている。後ろは追分蕎麦店だが、むろん開店前。
南龍寺
明治6年に富勢小学校の前身の寺子屋、天真学校がこの寺に開設された。
新四国相馬霊場の第26番札所
こちらが江戸道で歩いて来た道。道標の向こう側が流山道(諏訪道)で、小林一茶が守谷の西林寺からの帰りに通った道。流山は一茶の寄遇の地で「第二の故郷」とも呼ばれている。『下総葛飾小金道』・『流山の坂①』
新四国大師道は「新四国相馬霊場」のこと。
オリエント企画の宣伝用キャラだろう。平将門は布施弁天の岩窟に住む「紅龍」と平良将(良持)との間に生まれたとする伝説もある。
『布施弁天の将門絵馬と紅龍伝説』(柏市)・ 『将門マップ』
寺山坂を下る。《地図》
大日如来堂・薬師如来堂・安産不動明王堂・新四国相馬霊場第67番札所などが一緒。《地図》
紅龍山布施弁天東海寺楼門 【ル-ト地図】の②
堂内には顔を白粉で化粧したふくよかな弁天さんが立っている。弘法大師の作という本尊(秘仏)ではなく、客寄せの前仏だ。(本堂内は撮影禁止、布施弁天のHPに写真あり) 狩野探舟作という竜も外陣に描かれている。
江ノ島弁天、浅草弁天(上野不忍池)と並ぶ、「関東三弁天」の一つ。新四国相馬霊場の第68番札所
八角形の基壇、十二角の柱、十二支の彫刻のユニークで、奇抜、独創的な鐘楼だ。設計者の「からくり伊賀」こと伊賀七は、この先の谷田部の街道沿いに五角堂、木製和時計なども手掛けている。楽しみだ。よほど数字が好きなのか、縁があるのか。どうせなら梵鐘も三角形か四角形にしたら面白いのに。でも梵鐘はもっと古いものか。
七里ケ渡し跡へ河川敷を進む。 《地図》
庚申塔や石の小祠、ただの石ころのようなものが並んでいる。もうここは河川敷で左側には新大利根橋が架かっている。、「将門記」に記されている「大井の津」ではないかという説がある。
右は新大利根橋、説明板の後ろは鈴掛(プラタナス)の大木。根元に享保4年(1719)の渡船事故の水死者供養の水神の小祠があるようだが見逃がした。
以前の説明板には水神の祠の記載があった。
昭和30年頃までは渡しは存続していたようだ。
七里ケ渡・布施河岸跡あたり(説明板の後ろの利根川・右上は新大利根橋)
対岸の戸頭への渡しは平安時代以前からあったという。元和2年(1616)江戸幕府から御定船場に指定されてから発展し、とくに布施の船着場は利根川を往来する船の河岸場として繁栄した。渡しの名は布施村下の七里ケ浜に由来するとの説もある。下流の水戸街道には「青山(取手)の渡し」(大利根橋あたり)があった。
全長2.4kmあるらしい。途中から橋に上り、途中で戸頭側に下りられるがやはり長い。
この先は「取手の坂」の坂道散歩の時に歩いているのだが、その時の写真、記録を探しても見つからない。ブログにも記事がない。この道でいいのかちょっと不安になりそうな所だが、一度歩いているので安心、自信はある。
河川敷の雑草の間の殺風景の道を進む。《地図》
足利尊氏の創建とも伝え、七里ケ渡のある利根川沿いの交通の要衝の地として栄えた戸頭の鎮守。このあたりに将門の館があったという話もあるそうだ。
神社前は道路工事中、前回来た時もそうだった。3年間も続いているのではあるまい?
かつては48もの末寺と、20石の朱印地を有していたという大寺の面影はないが敷地は広い。薬師堂の本尊は薬師如来(戸頭瑠璃光薬師)で、平将門の守り本尊と伝えられている。
新四国相馬霊場の第45番札所で、薬師堂は第34番札所。このあたりには遍路用の宿坊が5、6軒あり毎晩のように騒がしく、賑わっていたという。今は新旧の住宅が混在する静かな集落だ。
戸頭公園脇の坂を上る。《地図》
昔は公園内を突っ切って上っていたのだろう。この先の旧道の道筋は消滅している所もあり、はっきりしない。
乙子交差点に出て、南守谷駅で線路をくぐる。このあたりの道筋もよく分からず。
愛宕神社 《地図》
「この鰐口」といっても、すぐそばに現物があるわけではない。
下部の方には「・・・一千人宿址」とあるようにも見えるが、分からん。
西林寺 《地図》
小林一茶が9回も訪れた寺でもある。寄寓地の流山と当寺を間を布施街道、七里ケ渡、流山道で往来したのだろう。
平将門についても、「梅さくや平親王の御月夜」と詠んでいる。(我春集 文化8年)
鎌倉時代に北東の平台に築かれた守谷本城が戦国時代にこの地に増築、移転された。
説明板の「この絵馬」
図の現在地あたりから堀切、矢倉台、御馬家台方向。水堀跡で最近?までは湿地帯だったようだ。
俗説では平将門の築城だが、源頼朝の有力な家人の千葉常胤の子、相馬師常(もろつね)が相馬一郡を領有してから築いたという。城は古城沼(守谷沼)に突出した台地(平台)で、本郭を中心に二郭、三郭で構成されている、通路は馬場(ばんば)と呼ばれている所だけの、要害堅固の中世期の城郭だった。
法花坊交差点のつくばエクスプレス下 《地図》
日陰で風通しが良く涼しい。そばのコンビニで買ったコロッケ、メンチ、茶で一休み。まだお昼前だが、あまりの暑さに今日はここまでとし、守谷駅に向かった。
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