成田街道④
2010年8月29日
京成佐倉駅・・・海隣寺の坂・・海隣寺・麻賀多神社・佐倉宿・札の辻・佐倉町道路元標・市立美術館・宗円寺・嶺南寺・甚大寺・・・松林寺・・・三谷家住宅・・・久保町の坂・・妙経寺・・妙見堂・・・順天堂記念館・・・昌柏寺・・・藤沢地蔵尊・藤坂・・・妙胤寺・・・白山神社・・・根古谷の石仏・双体道祖神・・・本佐倉城跡・・・県道137号・・・酒々井宿・大鷲神社・酒々井一里塚跡あたり・八坂神社・多古街道分岐地点(酒々井町役場交差点)・勝蔵院・酒の井跡碑・・麻賀多神社・・・下り松跡あたり・・・宗吾入口交差点・旧道・・・国道51号・・・旧道・大坂・大崎馬頭観音・・・宗吾道道標・・・伊篠の松並木跡・成田山護摩供養碑・・・(国道51号)・・・旧道・・・並木坂・・並木坂上交差点・・・不動塚(不動尊旧跡①)・・・和算家飯嶋武雄の墓・・・一本松跡・・・(JR成田線)・・・庚申塔・・・阿利耶橋(京成線)・不動尊旧跡②・・・成宗電車線路跡・・・薬師堂・台の坂・・成田山新勝寺・・・京成成田駅
【ル-ト地図】
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海隣寺の坂 《地図》
坂下方向を振り返る。長い急坂で、荷車の後押しをして駄賃を稼ぐ「おっぺし」がいたという。
千葉氏の菩提寺で、歴代の墓がある。
佐倉藩の鎮守、佐倉七福神の福禄寿、恵比寿。
新町交差点の旧家 《地図》
ここは「札の辻」で高札場、木戸があった。佐倉町道路元標が立っている。ここから宿の中心部、新町へ入る。
明治15年創業の和菓子店
大正時代の旧川崎銀行佐倉支店の建物。
佐倉七福神の寿老人。向いの嶺南寺が弁財天。
佐倉藩主歴代の菩提寺。佐倉七福神の毘沙門天。門前には金毘羅大権現の大きな石柱が立つ。
土塁に囲まれている感じだ。佐倉七福神の毘沙門天。
享保以前から佐倉に定住し、薬種商だった時期もあり、幕末には呉服などを商っていた。
久保町の坂 《地図》
順天堂大学の前身。森鴎外の父もここに学んだそうだ。
藤坂 《地図》
逆くの字形に下って上る坂。藤の大木があったらしい。
右に大小2体の藤沢地蔵
大きい地蔵は成田山への道標も兼ねているようだ。
本佐倉城主千葉勝胤からつけられた山号寺号。本寺は別名清正公とも呼ばれ加藤清正公の木像・手形があるそうだ。
このあたりは猿楽場(さがくば)という地名でバス停もある。中世の頃、寺社に属していた猿楽師が猿楽を演じた場所だったのだろう。
本佐倉城跡への坂 《地図》
庚申塔、地蔵など。正面が本佐倉城跡
「子孫長命祈願」と彫られているそうだ。年代は不詳。
文明年間(1469~86)に千葉輔胤(ちばすけたね)が築城。天正18年(1590)に豊臣秀吉により滅ぼされるまでの千葉氏の居城。正面の道を上った所が千葉氏の守護神の妙見社。
千葉氏の家臣屋敷に向かう肥前坂もあるのだが、妙見社前までとした。
酒々井大鷲神社 《地図》
酒々井宿の入口、上宿(新宿)の鎮守。新宿は一番新しい宿で、宿の繁栄を祈願した神社。祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)。鳥居の脇に酒々井観光ナビが設置されている。
酒々井町役場交差点で右に多古街道が分岐する。【ル-ト地図】の12
昭和の後半まで東側に(酒々井)一里塚跡が一つだけ残っていたそうだ。成田山までは二里八町(約8.7km)。
碑は下総地方に特徴的な室町時代前期の「供養碑(下総形石板碑)」で、梵字「キリーク(阿弥陀如来)」が彫られている。左が酒の井の跡か。それとも後から堀った井戸か? 水(酒)は涸れている。各地に残る、「養老の瀧」・「子は清水」と同類の話が伝わる。
麻賀多神社 《地図》
千年以上前に建立されたと伝わる酒々井の鎮守。
両側から古松が枝を垂れていたという。
宗吾入口交差点から県道137号と離れ直進し、国道51号に出て少し進み右に旧道に入る。
木陰は暑さを和らげてくれる。昔の旅人も大助かりだったろう。
左の崖上に大崎馬頭観音がある。
江戸時代に馬を使った運送業者たちに祀られていた。天保10年(1839)銘の俳句が彫られた成田山道標があるというがどれか分からず。
伊篠の松並木跡 《地図》
松喰虫で枯れ死したというがまだ一部残り、旧道の面影をとどめている。
成田不動尊の護摩を焚くための材木を用立てるため、信者が寄付した山林、土地を記念した石碑。山林、土地を買い取ってまで寄進してくれるのだから信者はありがたい。「坊主丸儲け」とはよく言ったものよ。
この中には「成田山 宗吾社道」道標もある。
帽子を被っているが一日中日に照らされ地蔵もつらいよ。 台座に「文政四年 三界萬霊 当村女人講中」とある。
国道51号に出て飯沖交差点を直進し下って、並木坂を上り返す。
並木坂(前方の上り坂) 《地図》
成田山の本尊の不動明王を最初に安置した所と伝える成田山発祥の地、草創の地だ。天慶3年(940)、平将門の乱鎮圧のため寛朝大僧正が調伏祈願した地。大僧正というが寛朝はこの年には若干24歳で大僧正になったのは986年(寛和2年)でずっと後年のことよ。成田山のHPでも「大僧正」となっている。まあ、寺も神社もいい加減なものだから、ご容赦、ご報謝。 『将門マップ』
この一画には十九夜塔の小祠、金比羅の小社がある。
道路の中央に一本の松がそびえ成田の入口として親しまれてきた。自動車の排ガスなどで枯れ死し、昭和51年に交通の障害になるため伐採された。
馬頭観音道標(安政5年(1858))は、義民の代表格、元締めの佐倉宗吾(惣五郎)を祀る宗吾霊堂への道標。『宗吾街道』
不動尊旧跡② 《地図》
さきほどの旧跡①が遠いので、ここに不動尊を仮安置し、ここから本堂へ出発したという。たった1.7kmしか離れていないのに、手抜きをするとご利益も薄れるというものだ。
明治43年から昭和19年まで、成田山の門前と宗吾霊堂の間を走っていた電車線路跡。人力車の車夫、土産物屋、旅館などの賛成反対が入り混じり、流血騒ぎまで起こったという。
坂を下って成田線をくぐり、宗吾駅へと走っていたようだ。
薬師堂 《地図》
3代前の成田山新勝寺の本堂。今の本堂と比べるとはるかに小さい。通称「日陰の薬師」で、相模の日向の薬師、三河の鳳来寺の峰の薬師とともに、「日本の三薬師」の一つと歌われているそうだが、三薬師の組合せは他にもあるようだ。
猛暑の日曜日だが、くねった急坂を善男善女が行き交う。夏休みで子どもも多く、外人さんも目立つ。絶え間なく流れているモーツアルトの曲が自然で心地よく耳に響く。やっぱりモーツアルトは不動さんより偉大か。
元禄14年(1701)には成田村には旅籠が1軒もない純農村だったが、天保14年(1843)には旅籠32軒をはじめ商店が軒を並べ門前町へと移行していたそうだ。
大野屋旅館
成田山新勝寺総門(平成20年建立) 【ル-ト地図】の15
後ろに仁王門、本堂と続く。
昭和48年の建立。後方に2代前の本堂の光明堂(元禄14年(1701)建立)がある。3代前までの4棟の本堂が残るとは珍しく、成田山の発展、繁盛ぶりを物語るようだ。
安政5年(1858)建立の前本堂。今の本堂より小振りだが装飾は豪華絢爛だ。
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