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2010年10月29日 (金)

清戸道①

2010年10月16日

江戸川橋駅(地下鉄有楽町線)・・・江戸川橋(神田川)・・・目白坂・大泉寺・永泉寺・養国寺・正八幡神社・・幸神社・・・椿山荘・・目白通(都道8号)・・・講談社野間記念館・・・和敬塾・・・目白台運動公園・・・日本女子大・・・清戸坂上(不忍通)・・日無坂上・富士見坂上・・・稲荷坂上・・・宿坂上・・・のぞき坂上・・・千登勢橋(明治通・都電荒川線)・・・学習院大学・・・目白駅(JR山手線)・・・子安地蔵尊・・・(山手通)・・・二又交番・旧道(南長崎ニコニコ商店街)・・二又子育地蔵尊・・トキワ荘記念碑(南長崎花咲公園)・・・千川通り・・穴守稲荷神社・・武蔵大学・・・(環七通)・・・(練馬駅)・・・豊玉北6交差点・目白通・・・(西武池袋線)・・・旧道・・須賀神社・・目白通・・子津橋跡・・円光院・・東高野山道標・旧道・・おさる坂・・道楽橋(石神井川)・・・宮田橋跡(敷石供養塔・高松の庚申塔)・・(環8通)・・下の堂・・庚申塔・・東京ガスタンク・・目白通・・練馬区立総合体育館・・谷原交差点(笹目通)・・・大泉駅前通り・・・庚申塔・・・三原台稲荷神社・・・石神井神社・・・庚申塔・・・天祖神社・・・妙延寺・・・大泉学園駅(西武池袋線)

 清戸(きよと)道は練馬方面から農民が野菜などの農作物を江戸の町中に運んだ道で、清戸(清瀬市)にあった尾張徳川家の鷹場御殿への道でもあった。参考にした『練馬の道』(石神井図書館郷土資料室・昭和49年の発行)当時と、どんなに変わっているかも楽しみながら起点の江戸川橋(文京区)から清戸までを2回で歩く。 

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6408 清戸道説明板

練馬区立総合体育館前に設置のもの。

Img_6232 江戸川橋から神田川 

Img_6234 目白坂を上る。 【ル-ト地図】の①

昔はもっと急な坂で、坂上近くは傾斜が増す。清戸、練馬方面から野菜などを運んできた農民は、帰りには下肥を積んでこの坂を上った。そこで「汚わい街道」の汚名でも呼ばれた。ここには農民の手助けをする「目白坂の立ちん坊」がたむろしていて荷車を押して駄賃をもらっていた。

Img_6236 説明板

Img_6239 永泉寺

大泉寺、養国寺と3ケ寺が並ぶ。かつては南側に目白の地名由来となった「目白不動」の新長谷寺があった。寺は戦災で焼失し廃寺となり、目白不動は宿坂下の豊島区の金乗院に移された。

Img_6244 正八幡神社

Img_6247 幸神社

 

Img_6249 椿山荘

 

Img_6251 説明板

 

Img_6252 講談社野間記念館 《地図

 

Img_6256 和敬塾

 

Img_6261 目白台運動公園

 

Img_6269 清戸坂上(不忍通) 《地図

清戸道へ上る坂なので清戸坂。

 

Img_6270鳳山(ホーザン)酒店ここは日無坂と富士見坂の坂上

 

Img_6274 日無坂(左・文京区)・富士見坂(右・豊島区) 《地図

 

Img_6279 宿坂 《地図

坂下に「江戸五色不動」の一つ、目白不動の金乗院がある。この坂は鎌倉街道「中の道」の道筋。

 

Img_6283 のぞき坂 《地図

23区内で有名な急坂

 

Img_6284 千登勢橋

下は明治通りで都電荒川線が通る。

 

Img_6287 都電荒川線

 

Img_6295 子安地蔵尊(新宿区下落合4-23) 《地図

 

Img_6299 二又交番前から右に旧道(南長崎ニコニコ商店街通り)に入る。《地図

 

Img_6305 二又子育地蔵尊 《地図

もとは分岐の二又交番の所にあったもの。

 

Img_6306 説明板

文中に「清戸道」がある。

 

Img_6307 二又子育地蔵

宝永7年(1710)の造立 

 

Img_6320 トキワ荘記念碑(南長崎花咲公園内) 【ル-ト地図】の②

 

Img_6317 記念碑

 

Img_6314 説明板

 

Img_6324 岩崎家

 

Img_6326 千川通り 《地図

昔はここを千川上水が流れていた。

 

Img_6336 半鐘

もとは千川上水の堤上の火の見櫓にあったもの。

 

Img_6335 説明板

 

Img_6333 穴守稲荷神社 【ル-ト地図】の③

 

Img_6329 鳥居と社殿?には隙間がない。

 

Img_6342 江古田銀座通りを右に見て進む。

 

Img_6343 武蔵大学沿いを進む。

 

Img_6349 西武池袋線をくぐる。

 

Img_6350 旧道(右)に入る。

ここは練馬区貫井5-1

 

Img_6353 須賀神社(右) 《地図

 

Img_6355 清戸道の石柱・説明板(須賀神社の下)

説明板は最初に載せた練馬区立総合体育館前のものとほぼ同じ文面。

 

Img_6358 子津橋跡 《地図

 

Img_6363 円光院

左に「子ノ聖観世音」(文化7年(1810)))の石柱。

 

Img_6365 説明板

「武州大鱗山子聖権現」とは埼玉県飯能市の「子の権現天龍寺」のこと。

 

Img_6369東高野山道標(正面右) 《地図

練馬区高野台の東高野山長命寺への道標

 

Img_6370 道標

後ろは「東高野山」に関する石碑のようだが、碑文は読めず。

 

Img_6377_3 おさる坂を下ると道楽橋(石神井川) 【ル-ト地図】の④

以前この坂の左手の丘の上に草に埋もれた二基の庚申塔があった。寛文2年(1662)、安永2年(1773)造立のものであったという。(現在は長谷川家に安置されている) それでこれをおさる()坂と言ったといわれているが、この呼び名から、祝儀の際、花嫁が通ると離縁になるといわれ通らないようにしたという。『練馬の伝説』

Img_6380 道楽橋

「道楽」の由来には、①この橋を架けるため農民を集めようとしたが農繁期で集まらず、いつまでも橋が架からないので、まるで道楽で橋をかけているといわれたのが橋の名になった。 ②南の台地上(貫井5丁目)に地蔵堂を建て、堂の落成の喜びをあらわすため「堂落橋」と名づけたが、何年か後に橋の架け替えの時、道楽橋と書いてしまった。③農民たちが地蔵堂を托鉢喜捨して建てた。余材で橋まで架けることができた。楽に堂が建ったので「堂楽橋」とした。幕末に橋を架け替える際に石屋が字が解らず、「堂」が「道」になった。 また道楽橋を渡ってゆくと、道楽者の所へ嫁ぐと言うので、渡らないようになったともいう。この他にも道楽橋のあたりで一緒になれない男女が心中したので縁起が悪いといって花嫁が渡らなくなったという話もある。『練馬の伝説』

 

Img_6382 宮田橋敷石供養塔・高松の庚申塔 《地図

庚申塔は練馬区内で最大のもの。

 

Img_6384 説明板

 

Img_6388 下の堂(大日如来・虚空蔵堂) 《地図

前は庚申塔(左)と回国供養塔? ここは墓地の一角で庚申塔、地蔵などの石造物も集められている。

 

Img_6392 地蔵 

 

Img_6396 右に庚申塔の小祠 

ここにも「清戸道」の説明板が立つ。

 

Img_6397 庚申塔(元禄11年(1698)の造立)

 

Img_6401 東京ガスのタンクを左に見て目白通りへと下って行く。

 

Img_6410 清戸道石柱と説明板

練馬区立総合体育館前

 

Img_6416 左に大泉駅前通りに入って行く。《地図

 

Img_6418 庚申塔(宝暦11年(1761))の造立) 

三原台1-28、そばには「ファミール庚申」というマンションもある。

 

Img_6424 三原台稲荷神社 《地図

もとの下石神井村の鎮守

 

Img_6429 石神井神社 【ル-ト地図】の⑤

「石神井」の地名由来の神社。神体は上石神井村三宝寺池から出現した石剣だとか。またこの地で井戸を掘った時に石剣が出土したことから、「石神の井」で石神井になったともいう。

 

Img_6434 庚申塔と石仏 《地図

交番の脇に守られているから安心? とんでもない。警察、検察なんて信じちゃお終いよ。

 

Img_6435 庚申塔(天保6年(1835))・右の石仏は?

Img_6430 天祖稲荷神社 《地図

昔は笠間稲荷だったようだが。

 

Img_6439 妙延寺

樹齢400年のイチョウ。

 

Img_6437 説明板

文中に「清戸道」がある。

 

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2010年10月21日 (木)

浜街道(絹の道)③

2010年10月14日

西谷駅(相鉄線)・・・西谷不動尊・・・橋戸橋・・・(相鉄線)・・・(国道16号)・・妙福寺・・・庚申塔・・・堅牢地神塔・・正観寺・・・東川島隧道(環状2号)・・・国道16号・・・杉山神社・・・旧道・・・国道16号・・・堅牢地神塔・・・(東海道貨物線)・・・釜台つづら坂下・・・和田村道橋改修碑・・・和田町交差点・旧道・・・国道16号・・・(横浜新道)・保土ヶ谷陸橋下交差点・旧道・・・国道16号・・・旧道・・・(国道16号)・旧道・・・国道16号・・・宮田2丁目交差点・旧道・・・宮田坂下・・・庚申塔・・芝生の追分・旧東海道・・・浅間神社・・・新横浜通り・・・新田間(あらたま)橋(新田間川)・・・平沼橋(帷子川)・(相鉄線・東海道線)・・・(京浜急行線)・・・平沼商店街・・・(石崎川)・・・岩亀横丁・・岩亀稲荷・・・(紅葉坂下)・・・野毛坂交差点・・・都橋(大間川)・・・(JR京浜東北線)・・・横浜開港記念館・・・神奈川運上所跡(県庁)・・・シルクセンター・・・横浜港・・・みなと大通り・衣紋坂跡・・港崎遊郭跡(横浜公園)・・・関内駅(JR京浜東北線)

  【ル-ト地図

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Img_6109 西谷不動尊 【ル-ト地図】の①

寛政3年(1791)に当地の有志により祀られた。説明板には「当時の八王子街道はシルクロードとして知られ・・・・」とあるが、江戸時代にシルクロードと呼ばれていたことはあるまい。

Img_6108 説明板

Img_6106 不動明王

Img_6118 庚申塔

妙福寺脇の旧道沿いの左側。元禄?年の古いもの。

Img_6121 堅牢地神塔(寛政3年(1791))・前は薬師如来?

正観寺の手前の左側

Img_6130 旧八王子道道標 《地図

直進すると環状2号に突当たるので、右へ迂回し東川島隧道をくぐる。

Img_6137 堅牢地神塔(右)・庚申塔(中)・2体並ぶのは何の石仏か?

東海道貨物線の下あたりの左側だったか。

Img_6139 釜台つづら坂下 【ル-ト地図】の②

延長(163m)と高低差(38m)は保土ヶ谷区内の階段坂の第1位。このあたりは4年前に「保土ヶ谷区の坂⑤」で歩いている。梅雨入り前の蒸し暑い中を汗を拭き拭き、急な石段坂をいくつも上り下りしたことを思い出した。

Img_6145 和田村道橋改修碑(釜台歩道橋下)

Img_6146 説明板

Img_6168 芝生(しぼう)の追分の手前

左に庚申塔の小祠

Img_6166 庚申塔

かなり風化している。

Img_6172 芝生の追分(左角に標柱) 【ル-ト地図】の③

左から来るのが浜街道(八王子道)で、左折して旧東海道を直進し北に向かう。 

ここの南は大繁盛の「ハマのアメ横」こと「洪福寺松原商店街」で、橘樹神社近くに東海道の江戸方見付があった。

Img_6170 標柱の説明

Img_6178 浅間神社 《地図

富士の人穴(横穴墓)は跡形もない。

Img_6179 説明板

Img_6183 平沼橋(帷子川)を渡り、右下に旧道に入る。

Img_6189 岩亀(がんき)横丁に寄る。

Img_6187説明板

Img_6192岩亀稲荷神社 【ル-ト地図】の④

ここは民家の敷地内で、奥の左に稲荷の小祠が祀られているが、暗くて写真は失敗作となった。

Img_6190由来

有吉佐和子の「ふるあめりかに袖はぬらさじ

Img_6196 野毛坂交差点を左折。右から下ってくるのが野毛坂。《地図

Img_6204 横浜開港記念館

Img_6226 神奈川運上所跡(県庁)

Img_6209横浜海岸教会

明治5年に設立された日本で最初のプロテスタント教会。

Img_6224 横浜貿易協会ビル

「横浜貿易協会」は、明治38年に横浜の貿易業者が横浜港の貿易振興のために創立。この建物は、昭和4年に大倉土木(現大成建設)の設計による。

Img_6222シルクセンター国際貿易観光会館 【ル-ト地図】の⑤

横浜開港100年記念事業として、貿易・観光の振興、とくに生糸及び絹製品貿易の振興発展を図ることを目的として、昭和34(1959)年「英一番館」の跡地に開館した。去年が開港150年だった。早いものだが開港200年の時にはとっくにおさらばしているよ。

Img_6216 横浜港大さん橋(象の鼻防波堤から)

鑓水峠を越え、絹の道を通って運ばれた生糸はここから外国へと旅立った。

Img_6218 明治40年代の象の鼻防波堤・横浜港

Img_6217 説明板

Img_6230 衣紋坂跡あたり 《地図

横浜開港後、坂下左側の現在の横浜公園に港崎遊郭(みよざきゆうかく)ができた。岩亀稲荷に参拝した遊女たちの「岩亀楼」もこの中にあった。江戸吉原遊郭の衣紋坂をまねて、こう呼んでいたのだろう。

岩亀楼の灯籠が横浜公園内の横浜スタジアム脇にある日本庭園に現存する。

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2010年10月20日 (水)

浜街道(絹の道)②

2010年10月13日

町田駅(小田急線)・・・浄雲寺・・・二・六の市碑・・・勝楽寺・・・三塚交差点・・(JR横浜線)・・都道56号・・都道141号・・・金森4丁目バス停・・旧道・・・都道141号・・・(東急田園都市線)・・・長津田辻(国道246号交差)・・・国道16号・・・(東名高速)・・・(環状4号)・・旧道・・川井浄水場・・(大和バイパス)・・旧道・・・亀甲山教会・・・横浜身代り不動尊・・・長源寺・・・神明神社・・・川井宿バス停・・・中原街道(県道45号)・都筑郡役所跡碑・・・築池交差点・国道16号・・・今宿西町交差点・・・鶴ヶ峰本町交差点・旧道・・・六つ塚・畠山重忠供養塚(薬王寺)・・・鶴ヶ峰神社・・駕籠塚・鶴ヶ峰浄水場・・・本町第二公園・・・鶴ヶ峰坂下・白根交差点・(国道16号)・旧道・・・国道16号・愛宕交差点・白根不動道標・・白根村道橋改修碑・・・旧道・・(相鉄線)・・・西谷駅(相鉄線)

  【ル-ト地図

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Img_5979 二・六の市碑 【ル-ト地図】の①

浄雲寺門前あたりから勝楽寺門前あたりまで、六斎市(2と6の付く日の月6回)が開かれていた。

Img_5992 長津田辻 【ル-ト地図】の②

江戸期には神奈川道と大山道の交差点で、大山詣での人たちと、神奈川へ往来する人たちが行き交った所。

Img_5999 東名高速をくぐる。《地図

このあたりは入り組んでいて、かつての道筋は失われている。とにかく東名高速を越えるか、くぐればOK。

Img_6001 ラブホ街を行く。

向うは船の形のホテル「クイーンエリザベス石庭」

国道16号から離れ旧道に入るほっとする。亀甲山一帯は教会の敷地のようだ。

Img_6017セブンスデー・アドベンチスト教会(亀甲山教会) 《地図

「聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会」だそうだ。カトリック、プロテスタントの違いなど分からんし、興味もないが。といって仏教も神道も同じだが。

Img_6019 北側に空中水道管?が見える。下には社会福祉法人「湧翠会虹のかけはし」なんてのもある。

Img_6031 神明社 《地図

Img_6037 なかなかいい坂だ。ここは右へ下る。

Img_6039 川井宿バス停

この先で左折し、右カーブして直進して中原街道を横切る。

Img_6041 堅牢地神塔と地蔵(中原街道に出る手前の辻の左側)

Img_6044 中原街道を横切る。《地図

左は都岡公舎で都筑郡役所跡。中原街道沿いに碑が立つ。ここは『中原街道③』で歩いている。

築池交差点で国道16号に出る。

Img_6050 今宿西町交差点近くの旧家

鶴ヶ峰本町交差点から左に旧道に入る。

Img_6054 地神塔(左)・地蔵(中)・右は馬頭観音?

Img_6062 六つ塚(薬王寺) 【ル-ト地図】の③

元久2年(1205)畠山重忠は北条時政の謀略により、愛甲三郎の矢に当たりこの地で一族郎党とともに玉砕したという。主従一同を葬った六つの塚。

Img_6057 説明板

Img_6059 畠山重忠供養塚

旭区役所のそばには「首塚」・「首洗い井戸」跡がある。

Img_6068 駕籠塚 【ル-ト地図】の④

重忠の妻は駕籠で駆けつけたが、重忠の戦死を聞き駕籠の中で自害して駕籠ごとここに埋葬された。駕籠に揺られて着いたのは天国だったか地獄だったか?

Img_6069 説明板

Img_6071 旧道は鶴ヶ峰浄水場を横切り、鶴ヶ峰坂を下っていたのだろう。

Img_6078 今は浄水場の南を迂回して鶴ヶ峰坂の坂下の白根交差点に出る。

Img_6080 鶴ヶ峰坂 《地図

旧道はここへ下りていた。左に木に隠れて坂標が立っている。説明文には、「長さ2町(218m)の急坂で、旧八王子街道の難所であった。馬の蹄鉄を造った鍛冶屋が坂の両側にあった」とある。
坂下の道は鎌倉街道「中の道」だ。

Img_6086 白根不動道標 【ル-ト地図】の⑤

寛政9年(1797)の造立で、「従是右 不動道」

道路を挟んで、白根村道橋改修碑がある。

Img_6097 白根村道橋改修碑(右)

左は延享3年(1746)の庚申塔?

Img_6099 説明板

Img_6103 西谷駅(相鉄線)

上を新幹線が通って行く。

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2010年10月19日 (火)

浜街道(絹の道)①

2010年10月11日

八王子駅(JR中央線)・・・甲州街道(国道20号)・八日町交差点・浜街道(国道16号)・・・(中央線)・・・黄金橋(山田川)・・・旧道・・八王子医療刑務所・・・国道16号・・子安町交差点・・(京王高尾線)・・・(北野街道)・・・住吉橋(湯殿川)・・・住吉神社・片倉城址公園・・・国道16号・・旧道・・・(JR横浜線)・・・釜貫橋(兵衛川)・・・旧家(富士家登)・・・慈眼寺・・・白山神社・・・片倉台小学校・・・白山通り・・・(八王子バイパス)・・・鑓水(やりみず)峠(205m)・・絹の道・・道了堂(大塚山公園)・・・絹の道資料館・・一里塚跡・・・道標・御殿橋(大栗川)・・・永泉寺・・・嫁入橋(大栗川)・・・小泉屋敷跡・・・稲荷社・・・板木の名水・・・鑓水中学校・・鑓水公園(東の坂・西の坂)・・・(穂成田歩道橋)・・・(浜街道歩道橋)・・・(浜見場)・・田端坂・・・田端環状積石遺構・・・(県道158号)・・・(京王相模原線)・・・町田街道(都道47号)・・・福生寺・・・御嶽堂バス停・・旧道・・・御嶽神社・・・(都道158号)・・・長泉寺・・・町田街道・・・中村地蔵尊・・・下馬場交差点・・旧道・・・町田街道・・桜美林学園・・・箭幹八幡宮・・・上宿交差点・旧道・・木曽宿・上の地蔵堂・秋葉地蔵・福昌寺・・・伝重寺・金毘羅社・・・木曽の一里塚跡・・覚園坊・・・下の地蔵堂・・・町田街道・・・森野交差点(鎌倉街道)・・・(小田急線)・・絹乃道碑・町田駅(小田急線)

 幕末の横浜開港から鉄道の開通までの約半世紀、八王子に集積された輸出用の生糸が運ばれた道で、鑓水村の生糸商人「鑓水商人」が活躍し、「江戸鑓水」とまで呼ばれ繁栄した名残りの一部は「絹の道」として保存されている。
 むろん横浜開港以前からあった道で、東海道神奈川宿から生活物資を運ぶ「八王子道」、八王子からは「神奈川道」、「神奈川往還」と呼ばれ複数のルートがあった。開港後は八王子から原町田を経て芝生村(東海道との合流地点の芝生(しぼう)の追分)への直線的な道が重要視され「浜街道・浜道」と呼ばれた。この道を甲州街道との分岐点から横浜港までを3回で歩く。 

  参考:『歴史の道調査報告書 浜街道』(東京都教育委員会)

  【ル-ト地図

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Img_5729 八日町交差点 《地図

直進が甲州街道、左折が浜街道(国道16号)で、このあたりに高札場があったようだ。

Img_5735 八王子医療刑務所(左)に沿う旧道

松尾和子の♪『再会』♪を思い出した。古いね俺も。

Img_5741 北野街道を横切る。

右手後方が片倉城跡

Img_5748 住吉神社

片倉城の鎮守で、ここは城内の一画。

Img_5747 由緒

Img_5752 城跡公園案内図

Img_5754 片倉城の空堀跡 【ル-ト地図】の①

Img_5753 二の丸跡

Img_5749 説明板

Img_5758 喫茶店の前あたりから旧道に入る。

Img_5764屋号「富士家登」の旧家 《地図

「富士谷戸」だろう。今は晴れていても富士山は見えないようだ。

Img_5773 慈眼寺参道前の道標

「至ヤリミズ村」・「至子安村」などと刻まれてる。

Img_5766 慈眼寺山門

上の鐘楼の梵鐘には「鑓水商人」の名が刻まれているそうだ。

Img_5771 山門左脇の六地蔵(天保2年(1831))・百萬遍供養塔(左端・寛政11年(1799)) 

Img_5777 白山神社

小堂右に馬頭観音などの石造物がある。

Img_5778 馬頭観音道標(文化2年(1805))

「右当所片倉村 左□□ 多摩郡上柚木村鑓水村」とあるそうだが、風化、剥落がひどくどれか分からず。

Img_5779 住宅街の坂を片倉台小学校へ上って行く。《地図

白山通りへ出て、八王子バイパスを越え、鑓水峠へ石段下に出る。

Img_5789 鑓水峠(205m)への151段の石段

Img_5792鑓水峠から八王子市街地と奥多摩、奥武蔵の山並み眺め 【ル-ト地図】の②

Img_5797「絹の道」へ入る。

Img_5817 説明板

Img_5812 道了堂跡(大塚山公園)

鑓水村の生糸流通の仲買商人の「鑓水商人」たちが建てた堂跡。左に「絹の道」(昭和32年)の石柱が立つ。

Img_5799 説明板

Img_5807 堂の礎石が残る。

Img_5837 当時の道了堂の銅版画(複製)

御殿橋の欄干にはめ込まれているもの。

Img_5809延命児育地蔵(明治14年)

生糸商人が建てたもの。

Img_5810築礎碑(明治13年)

Img_5813 絹の道は御殿橋の方へ下りとなる。《地図

Img_5822 鑓水峠(右)、御殿峠(左)の分岐点 《地図

庚申塔(左・寛政10年(1798))、秋葉大権現塔(中・文化11年(1814))、供養塔(右)

Img_5830絹の道資料館

鑓水商人の一人で「石垣大尽」と呼ばれた、八木下要右衛門家の屋敷跡。

Img_5831_2 一里塚跡(右の榎の所)

下ると御殿橋で、そこまでが史跡「絹の道」

Img_5834 道標(御殿橋の脇・慶応元年(1865))

正面に「八王子道」、東面に「此方はら町田 神奈川 ふぢさわ」、西面に「此方 はしもと 大山 津久井」

Img_5843 永泉寺本堂

八木下要右衛門の屋敷を移築

Img_5842 説明板

Img_5844嫁入橋(大栗川)を渡る。江戸の豪商から嫁を迎えたのでこの名だとか。このあたりを嫁入谷戸というそうだ。 《地図

Img_5845 小泉屋敷

Img_5847 説明板

Img_5849 現在も居住しているようで、ここまで。

Img_5854 板木の名水 《地図

「この水は飲めません」の貼紙がしてある。

Img_5852 説明板

この地にアイヌ民族が住んでいたとある。「鑓水」の地名由来も書かれている。

Img_5856 湧き水が流れているようだ。

Img_5853 案内図

ちょうど「板木の名水」の崖上を鎌倉街道が通っていたようだ。

Img_5859 鑓水公園案内図 

東の坂、西の坂がある。折角つけてくれた坂名なので、公園内でも歩かねばなるまい。

Img_5861 東の坂を上る。

Img_5862 西の坂を下って街道に戻る。

Img_5865 浜街道歩道橋をくぐる。《地図

Img_5866 見場(跡)あたりか

ここから横が見えたのだろう。給水塔に上れば見えるかも。

Img_5870 田端坂を下ると町田市に入り、町田街道に出る手前で左折し旧道に入る。《地図

Img_5874 田端環状積石遺構 【ル-ト地図】の③

縄文中期から晩期までの集落、祭祀、墓地遺構。富士山は見えない。雲の向うなのか?

Img_5875 説明板

Img_5887 御嶽神社

このあたり御嶽堂谷戸の鎮守 

Img_5889新しい道路ができるようだ。

Img_5891 石燈篭など(右側)

左側は普門品供養塔(右)(文政10年(1827))と太子塔(弘化2年(1845))

Img_5898 石燈篭(慶応元年(1865))・石灯籠改修記念碑(中)・地蔵?(左・寛政9年(1797))

Img_5903 長泉寺前

左の石造物は何か分からず。

Img_5911 中村地蔵尊 【ル-ト地図】の④

宝暦から天明までの13体の地蔵だが、新しい地蔵も追加されているようだ。後ろに「菊水延命経」石塔(慶応2年(1866))がある。

Img_5910 隣には道祖神(右・安永9年(1780))、庚申塔などが並ぶ。

Img_5927箭幹(やがら)八幡宮随身門

推古24年(616)に勅令によって勧請されたとか。康平5年(1062)には源義家が戦勝を祈願したという。

Img_5931 説明板

上宿交差点から右へ旧道に入ると木曽宿

Img_5937 木曽宿の家並み 《地図

木曽の中宿には江戸の吉原を買い切って豪遊したという、飯田勘右衛門の通称「店」(たな)と呼ばれた大屋敷があった。当時の勘右衛門は質屋で、豪農でもあり、名主、村役なども勤める土地の代表的顔役だった。『町田の民話と伝承 第一集』

Img_5939 上の地蔵(秋葉神社の隣)

もとは木曽宿の入口にあった。

Img_5946 秋葉神社の欅(ケヤキ)

縁結び、子宝の神木。嘉永3年(1850)の火災で焼かれ、幹が空洞になってしまった。その形が・・・。あとは由来書を読めば分かるよ。

このあたりに江戸時代の刑場の「百叩き場」があり、明治の初め頃までは「百叩きの刑」は行われていたという。『町田の民話と伝承 第一集』

Img_5944 由来

Img_5949 福昌寺

元和元年(1615)3月、家康の遺骸が久能山から日光へ移送された時の休息所になった寺。山門後ろに樹齢400年以上というイチョウがそびえる。

Img_5953 変則四辻 《地図

ここを左折する道はかつての矢倉沢往還(旧大山道)で、奥州古道(古東海道)ともいい、小野路一里塚、向坂、小野路宿を通り奥州方面へと通じていた。家康の遺骸もこの道を通った。『町田市の坂-3』に記載

今は左折すると伝重寺に突当たる。正面奥が覚園坊、右折するとすぐに木曽一里塚跡がある。

Img_5959伝重寺

左隣の金毘羅社はもとは境内にあった。

Img_5954 木曽一里塚跡 【ル-ト地図】の⑤

久能山に埋葬された徳川家康の遺骸を日光に移す際にここを通った。この時に木曾や小野路に一里塚を築いたものと思われる。『町田の歴史をたどる』

Img_5962 覚園坊(木曽観音堂・武相観音第33番札所)

木曽観音で知られ、「矢拾観音・矢受観音」の名がある。源義賢と義平の戦の中に白髪の老翁と童子が現れ、飛来する矢を拾い集めて和平をすすめ、鎮守(箭幹)八幡の方へ忽然と姿を消した。両軍は老翁は鎮守八幡の化身で、童子は木曽観音の化身と信じ、互いに軍を引き和睦したという。行基の作と伝える本尊の聖観世音菩薩は義仲寺からここに移ったものという。昔の境内は5000坪もあり、鉄砲馬場と呼ばれた馬場道では流鏑馬が行われていた。「矢受観音」の別名はこの流鏑馬行事に由来する。『町田の民話と伝承 第一集』 源義賢(木曽義仲の父)は義平により、大蔵合戦で殺されている。この話はそれ以前の逸話か。

鍵が掛っていて境内には入れず。今は無住の寺ようだ。

Img_5964 木曽宿の「下の地蔵」だろう。

Img_5970 鎌倉街道(現在)との森野交差点

旧鎌倉街道「上の道」

Img_5972 小田急線町田駅の「開かずの踏切」

Img_5975 絹乃道碑 《地図

右側面に「此方はちおゝじ」・左側面に「此方よこはま」、裏面に「原町田誕生四百年記念」で昭和58年に建てられた。

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2010年10月17日 (日)

五日市街道③

2010年10月7日

牛浜駅(JR青梅線)・・・都道7号・・・(新奥多摩街道)・・・牛浜橋(玉川上水)・・・(奥多摩街道)・大坂(牛浜坂)・・・多摩川中央公園・石濱渡津跡碑・・・多摩橋(多摩川)・・・多西橋(平井川)・・・突抜坂跡あたり・・二宮宿本宿坂(大坂・寺の坂)・・・玉泉寺・・・大塚古墳・・・(JR五日市線)・・・旧道・・・都道7号・・・天満宮・・・能満寺・・・旧道・・・(都道185号)・・・塩地蔵・・・都道7号・・・旧道・・伊奈宿・・宮沢坂(伊奈坂)・・岩走神社・・・(JR五日市線)・・・大悲願寺・・・五輪坂・・(JR五日市線)・・・三内橋(三内川)・・薬師坂跡・・・(都道7号)・・・正光寺・・・都道7号・・・檜原街道・権田坂下・・武蔵五日市駅(JR五日市線)

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5604 大坂(牛浜坂)を下る。 【ル-ト地図】の①

昔は坂上に、立場の藤屋、木賃宿を兼ねた角屋、茶店の油屋などがあったという。

Img_5608 坂下方向

坂下で多摩川中央公園に突当たる。

Img_5615 多摩川中央公園

左に「石濱渡津跡碑」、このあたりは足利尊氏と新田義興・義宗の武蔵野合戦での石浜古戦場跡ともいわれる。
今は正面の多摩橋で渡る。

Img_5616 碑の裏面には大沼枕山の「石浜の戦い」の漢詩が刻まれている。大沼枕山といえば『なま道(鮮魚街道)』の金比羅宮にも撰碑があった。

右は「うしはまの渡し碑」で大正14年に多摩橋ができて廃されたことの記念碑 《地図

Img_5618 説明板

Img_5623 牛浜(石浜)の渡しあたりの多摩川

Img_5625 街道は平井川の土手の急坂の突抜坂(月の木坂)を上って二宮宿へ入った。

Img_5627 突抜坂はこのあたりに上っていたようだ。《地図

Img_5629 坂上近くの馬頭観音(左・明治時代のもの)・右は?

Img_5635 本宿坂(大坂・寺の坂) 【ル-ト地図】の②

二宮宿は本宿と北宿に分かれ、北宿には下、中、上宿があった。交差点を左折すれば宿の名の由来となった二宮神社がある。『あきるの市の坂⑩』に記載。

Img_5637 玉泉寺

天台宗延暦寺派の寺。創建は不詳。明治6年から24年まで二宮小学校として使用されていた。境内の醤油の大樽の中には「大樽平和観音」が祀られている。『あきるの市の坂⑪』に記載。

Img_5651 大塚古墳 【ル-ト地図】の③

「雨間の大塚」と呼ばれた方墳。

Img_5647 説明板

Img_5649 墳丘上には鳥居と石碑がある。

JR五日市線をくぐり、坂を下り途中から右に旧道に入る。

Img_5656 旧道 《地図

Img_5658 旧道らしき面影も残っている。

原店バス停あたりで都道7号と合流する。

Img_5663 天満宮 《地図

足利尊氏の母、瑞雲尼の創建と伝える。「山田の天神さま」と呼ばれている。

Img_5667 山田交差点の手前で、右に旧道に入る。《地図

Img_5670 道標

八王子、拝島などが読める。すぐ前の都道185号は鎌倉街道の上道の支道の一つで、「山の道」ともいわれる古道の道筋。

Img_5671 伊奈宿の家並み 《地図

中世には伊奈郷と呼ばれた伊奈宿は近世になっても市が立ち賑わっていたが、五日市との市をめぐる争いが起こり、地の利を占めた五日市が伊奈にとって変わった。戦後まで「こぶなし」と呼ばれた美しい梨の並木があったそうだ。

Img_5677 塩地蔵堂 《地図

Img_5675 塩地蔵の前の皿に塩はない。名前の由来は何か?

ここから都道に出て新秋川橋の手前まで西進する。

Img_5678 右に旧道に入ると、宮沢坂の下りとなる。

Img_5679 宮沢坂(伊奈坂) 【ル-ト地図】の④

正面奥に岩走神社の鳥居。

Img_5681 岩走神社

元の伊奈村の鎮守で、信州伊奈から移り住んだ人々が戸隠大明神を勧請したと伝える。

また、『五日市町の古道と地名』では、「伊那は昔から伊那石といわれた石材の埋もれていたところで、石材処理に秀でた技術を持っていた信州伊那谷高遠付近の石切職人(石工)が、この伊那石に目を付けて移住し、石造物の製作に従事していた。これらのことから「伊那」という地名は、移住職人が生地「伊那」の名を取って名付けたのだ、などと書かれたものもあり(例えば新篇武蔵風土記稿)、これを定説のように思う者もあるが、これには異論がある。「イナ」という地名は各地にあり、何れも岩・石に関係あるところで、「イナ」は岩石に関係ある地形の呼び名であることが分かる。五日市町の伊那も古くから石材の産地だったので、それに因んだ地名と思う」と言っている。

Img_5684岩走神社前の南側下に 旧道が一部残り、集落もある。その下を秋川が流れている。《地図

Img_5685 右に石段を上って大悲願寺に向かう。

Img_5686 参道を五日市線が横切る。

Img_5705 大悲願寺

Img_5689 仁王門

Img_5694 説明板

Img_5693 仁王門の天井画

Img_5692 説明板

Img_5690 観音堂(無畏閣)

木造阿弥陀三尊像(国重文)を安置。

Img_5695 説明板

Img_5702 地獄絵

観音堂の欄間

Img_5697 極楽絵

Img_5701 本堂

Img_5706 ヒガン(彼岸)花も色あせてきたが、大悲願寺には似合うか。

Img_5708 五輪坂を下る。 【ル-ト地図】の⑤

Img_5710 坂下方向

五日市線の踏切を渡ると急坂となる。

Img_5713 坂下方向

Img_5715 坂下方向

右に馬頭観音(寛政?年)と石造物

Img_5719 坂下で交差点を渡った所の庚申塔、馬頭観音、地蔵など。ここは岩走神社前から下った旧道が今の街道と合流する地点。《地図

Img_5721 三内橋 《地図

昔ははるか下に架かっていた木橋で、渡って薬師坂の急坂を上って正光寺の門前へ出たそうだ。

Img_5723 正光寺

Img_5724 旧家

この先で都道7号に出て、五日市駅前で五日市街道は終わる。 《地図

Img_5728 五日市街道の終点の五日市駅前

ここから檜原街道(都道33号)となり、五日市宿に入る。宿は大下宿、下宿、中宿、上宿、番場と続いていた。そのあたりは『あきるの市の坂』で歩いている。

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2010年10月14日 (木)

五日市街道②

2010年10月6日

武蔵小金井駅(JR中央線)・・・小金井街道(都道15号)・・・小金井橋(玉川上水)・五日市街道(都道7号)・・秋葉神社・・小金井桜樹碑・海岸寺・・・(貫井橋)・・・(茜屋橋)・・・(小桜橋)・・・喜平橋(玉川上水)・・・稲荷神社・・(西武多摩湖線)・・・旧道・・上鈴木不動尊・・・馬頭観音・・・都道7号・・・鎌倉街道・・二ツ塚緑道・・上鈴木稲荷・・・都道7号・・・(府中街道)・・・(西武国分寺線)・・・神明宮・・・愛宕神社・・・鳳林寺・・・妙法寺(川崎・伊奈両大官謝恩塔)・・・地蔵道標・・・砂川九番交差点(立川通)・・・回国供養塔・・・(多摩都市モノレール・砂川七番交差点)・・・稲荷社・・・阿豆佐味天神社①・・・大山道標・・・流泉寺・・・残堀橋(残堀川)・・・八雲神社・天王橋(玉川上水)・・・(西武拝島線)・・・玉林寺・・・旧道(西砂川街道)・・・阿豆佐味天神社②・・・林泉寺・・・西砂中里交差点・米軍横田基地迂回・・・都道7号・・・国道16号・・・横田基地第5ゲート・・・(JR八高線)・・地蔵坂・・道標(福生公園)・・・牛浜駅(JR青梅線)

  【ル-ト地図

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Img_5447 秋葉神社 《地図

Img_5450 小金井桜樹碑(海岸寺入口右)

文化7年(1810)建立

Img_5449 説明板

Img_5452 海岸寺山門 【ル-ト地図】の①

江戸時代に建てられた鎌倉時代の様式を持つ山門。

Img_5453 説明板

 喜平橋で五日市街道は玉川上水の南側に出る。

Img_5464 稲荷神社(桜橋の手前) 《地図

町人請負新田の野中新田六左衛門組の鎮守。

Img_5466 説明板

Img_5468 旧家

Img_5470 右に旧道へ入ると上鈴木不動尊

Img_5471 上鈴木不動尊 【ル-ト地図】の②

Img_5473 料亭「いろりの里四季亭」の塀

突当たりを左折する。都道に出る手前右の生垣に隠れるように3体の石造物が並ぶ。見つけにくい。

Img_5477 ①石橋供養塔(右)・②庚申塔(中)・③馬頭観音(左) 《地図

①はこの脇を流れている(いた)深大寺用水に架かっていた石橋の供養塔で、天保15年(1844)の造立。②は寛政13年(1801) ③は安政4年(1857)の造立。

Img_5481 この道は鎌倉街道(上の道)の幹線道路で、南は恋ヶ窪から来て、北は久米川宿に通じていた。《地図

北の玉川上水には鎌倉橋が架かり、手前には砂川用水上に「二ツ塚緑道」が東西に通る。二ツ塚は鎌倉街道の一里塚跡といわれていたとも。その頃から一里塚は築かれていたのか?

Img_5487 二ツ塚緑道

西に入ると上鈴木稲荷がある。

Img_5484 上鈴木稲荷神社

Img_4570説明板

 府中街道、西武国分寺線を越える。

Img_5492 神明社 《地図

Img_5494 愛宕神社

Img_5497 川崎・伊奈両代官謝恩塔(妙法寺境内) 《地図

Img_5496 説明板

妙法寺の斜向いの鳳林寺の街道沿いに「府中 八王子」などと道標を兼ねた馬頭観音と庚申塔があるというが見当たらない。どこかに移されてしまったか。

Img_5500 地蔵堂 【ル-ト地図】の③

左側には文政9年(1826)の出羽三山碑が立つ。

Img_5502 地蔵道標( 寛保元年(1741)建立の再建)

ユニークな顔をしている。今も台座に「右ハ府中」、「左ハ江戸」とあるのか未確認。

Img_5501 説明板

Img_5512 回国供養塔

浅見亀右エ門が文化11年(1814)に建てたもの。

Img_5516 多摩都市モノレールをくぐる。《地図

Img_5524 吉沢家?

Img_5528 左右の空き地は砂川闘争の名残りという。

Img_5534阿豆佐味天神社① 《地図

後ろの本殿は覆屋の中。

Img_5536 説明板

Img_5539 井戸跡

砂川新田を開発した人たちが掘った生活用の井戸跡のようだ。説明板はガラス製のような作りで、光が反射し、自分の顔が移り込んで見にくい。折角、作るならもっとましな物を作ってよ。これじゃ税金の無駄遣いというものよ。

Img_5541 大山道標(安政4年(1857)) 《地図

正面に「大山道」、村山方面から来た道がここから南に進み、築地の渡しで多摩川を渡り、八王子から大山へ通じていた。

Img_5543 流泉寺

砂川新田の村民の菩提寺として承応3年(1654)に開創された。

Img_5553 砂川村名主の砂川家 

巨木が敷地を囲み、玉石垣を巡らし、手入れされた木々が家を囲む。かつては街道沿いに水車があったそうだ。

Img_5547 砂川家

Img_5554 このあたりは旧家が多い。

Img_5556 旧家

城の櫓のようなものも見える。

Img_5564 天王橋で玉川上水を渡る。

Img_5565 八雲神社(天王様) 《地図

入口に道標があるはずだが見あたらず。入った右側の覆屋の地蔵(享保4年(1719))の側面には「左伊奈道」とあるそうだ。五日市街道が伊奈道と呼ばれていたことを示している。

西武拝島線をくぐって進む。

Img_5568 けやき並木が片側に残っている。

Img_5571 玉林寺 《地図

享保15年(1730)に開創された殿ケ谷新田の村民の菩提寺。

Img_5573 右に旧道入る。

Img_5575 ケヤキの葉が道を覆い、トンネルのような感じで「砂川のもぐら街道」といわれた。今は「西砂川街道」が正式の名のようだ。

Img_5576阿豆佐味天神社②

殿ケ谷新田の鎮守

Img_5578 庚申塔(明和元年(1764))、馬頭観音(文化6年(1809))

Img_5580 林泉寺 【ル-ト地図】の④

中里新田開発当初の享保14年(1729)に開創された。

Img_5584 米軍横田基地に突当たり、街道は途切れる。基地に沿って南下する道もあるが、手前の西砂中里交差点で南に左折して迂回する。

Img_5588 神明社 《地図

中里新田の鎮守、基地拡張でここに移転させられた。

国道16号に出て北上する。

Img_5592 右は横田基地

ここは正式な歩道ではないだろう。

Img_5594 第5ゲート前から旧道が復活する。《地図

左折し、八高線を渡ると地蔵坂の下りとなる。

Img_5597 地蔵坂を下る。 【ル-ト地図】の⑤

右は福生市市民会館、地蔵は千手院に移されている。『福生市の坂

前庭にあるという道標が見つからない。何度も行ったり来たり、キョロキョロと探しても分からず、近くの郷土資料館に聞きに行こうとしたら、自転車で散歩中の地元のおじさんが、隣の福生公園内に道標らしきものがあると教えてくれた。

Img_5599 道標(年代不明)

もとは地蔵坂の坂下にあったもので、今は市民会館隣の福生公園にある。正面に、「右 江戸 左 きよと」 で、清瀬市の清戸のこと。『清戸道②

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2010年10月13日 (水)

五日市街道①

2010年10月2日

新高円寺駅(地下鉄丸の内線)・・・青梅街道(都道4号)追分・・・心月院・・慶安寺・・大法寺・・円福寺・・華徳院・・・(鎌倉道)・・・七曲り・・・白幡の坂・・(馬橋道)・・・尾崎橋(善福寺川)・・・三年坂・・宝昌寺・・・(環八通り)・・・庚申の藤・・・春日神社・慈宏寺・・・松庵稲荷神社・・・(JR中央線)・・・サンロード・・月窓寺・・光専寺・・蓮乗寺・・安養寺・・武蔵野八幡宮・・(吉祥寺通)・・・八枝神社・・・(三鷹通り)・・・西窪稲荷神社・・源正寺・・・延命寺・・関前八幡神社・・・(グリーン通り)・・・御門訴事件記念碑・旧関前村名主役宅・・・武蔵野大学前交差点・石橋供養塔・庚申塔道標・千川上水・・・(多摩湖自転車道)・・・境橋・玉川上水・・・くぬぎ橋・・・梶野橋・・・関野橋・・・八幡神社・・・真蔵院・・・新小金井橋・・・陣屋橋・・・小金井橋・・・小金井街道・・・赤い稲荷坂・・・大松木下之稲荷・・・武蔵小金井駅(JR中央線)

 五日市街道は五日市、檜原の木材や炭、織物などを江戸へ運んだ道で、江戸時代初期には伊奈道と呼ばれていた。青梅街道との追分から武蔵五日市駅前の檜原街道入口までを3日間で歩く。

 参考:『歴史の道調査報告書 五日市街道』(東京都教育委員会)

  【ル-ト地図

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Img_5297 五日市街道説明板(柳窪交差点(高井戸東4丁目)の手前に設置のもの)

Img_5231_2青梅街道から分かれ南に五日市街道に入る。《地図

五日市街道の入口は旧高円寺村で、少し入ると馬橋村となり、古くは「馬橋おんだし」と呼ばれていた。

Img_5235 慶安寺

「解体新書」の前野良沢の墓がある。街道沿いの円福寺には南画家の椿椿山の墓がある。

堀の内の妙法寺への古道、大宮八幡宮への「鎌倉みち」を横切り、街道随一の難所といわれた「七曲り」へ入る。

Img_5251 ここを左折し「七曲り」となる。《地図

現在の五日市街道(都道7号)を南北へ何度も横切る道で、急坂があるわけでもなく、今は難所でも何でもない。

Img_5255 加冨山米店の左を入る。

Img_5256 白幡の坂を下る。【ル-ト地図】の①

昔は急坂だったという。

Img_5261白幡の坂(右)・馬橋道(左)の分岐点の小堂に3体の石造物

馬橋道は江戸時代以前からの古道で、練馬、豊島方面から武蔵国府に通じていたといわれる。

Img_5259 左右が地蔵で、中央が馬頭観音

Img_5258 説明板

Img_5266善福寺川(尾崎橋から)

Img_5265 説明板

Img_5269 三年坂 《地図

五日市街道の坂ではないが。坂上は鎌倉街道で「鎌倉街道」バス停がある。

Img_5270 説明板

Img_5274 宝昌寺

左下に石橋供養塔道標(文久4年(1864))

Img_5276 説明板

Img_5275 石橋供養塔道標

正面は「石橋供養 十方村」、右側面に「東江戸道」と刻む。

まだ七曲りは続いている。都道を渡って旧道へ入る。

Img_5287 稲荷社

この先で直角に右に曲がり横倉家前の都道に出て、七曲りは終わる。

Img_5293横倉家の前にはケヤキ並木が残る。

Img_5306庚申の藤 【ル-ト地図】の②

2代目の藤が植えられている。左に庚申堂がある。清掃をしている地元の方からこのあたりの変貌ぶるなどを伺う。

Img_5303 庚申塔

左が延宝6年(1678)、右が元禄9年(1696)の造立。

Img_5302 説明板

Img_5307ケヤキ並木

Img_5308 魚鐘の先が春日神社

Img_5319春日神社

兎の向うは春日神社の神使いの鹿。兎は何んだろう。境内には「力石」もごろごろとある。

Img_5311 説明板

Img_5323 慈宏寺

「荒布(あらめ)の祖師」といわれる日蓮上人像があるそうだ。

Img_5329 松庵稲荷神社 【ル-ト地図】の③

Img_5330 庚申塔

元禄3年と6年のものだがどっちがどっちだったか?

Img_5328 説明板

Img_5333 旧店

Img_5335 月窓寺

吉祥寺のサンロードの雑踏の中だが、敷地も広く静かだ。白衣観音の観音堂は閉ざされていた。

隣の光専寺の「箪笥(たんす)地蔵」(80cmの立像?)を見たかったが、屋内にあるようで拝めず。蓮乗寺には「厄除け日蓮」の坐像がある。安養寺を含めて「四軒寺」と呼ばれる。

Img_5354 安養寺

左の後生車の隣の石造物の中に「甲辛供養塔」がある。

Img_5349 甲辛供養塔

「甲辛」(庚申)も珍しいが、「南無阿弥仏」も珍しい。

Img_5348 説明板

Img_5343武蔵野八幡宮

Img_5342 井之頭弁財天道標

井の頭公園はここから近い。

Img_5341 説明板

Img_5358 八枝神社(八幡宮交差点の先の左側)

牛頭天王社なら八坂神社、八雲神社だろうが「八枝」とは珍しいか。

Img_5356 説明板

Img_5363 材木屋

五日市街道は木材を運んだ道だった。

Img_5367 庚申塔(嘉永6年(1853))

武蔵野文化会館の先の左側

Img_5368 西窪稲荷神社 《地図

Img_5375 源正寺

戦災で大破した本堂をインド様式に改築。

Img_5382 延命寺

武蔵野市最古の地蔵があるらしいが、これも屋内か。

隣は関前八幡神社

Img_5392 御門訴事件記念碑 【ル-ト地図】の④

Img_5391 説明板

Img_5394 井口家

「旧関前村名主役宅」が邸内に保存されているというが、この先は入りづらい。今でも公開しているのだろうか?

Img_5395 武蔵野大学前で千川上水に突当たる。

Img_5399 石橋供養塔・庚申塔(歩道橋を渡った千川上水沿い)

Img_5398 説明板

Img_5400千川上水遊歩道

Img_5408 庚申塔道標 《地図

右側面に「右 小川 村山 道」、正面に「北 たなし きよと 川こゑ とこ路さハ 東 江戸道」、左側面に「左 ふちう すな川道 八王子」

Img_5404 説明板

Img_5409 千川上水が左を流れる。

Img_5415 多摩湖自転車道が右に延びている。《地図

Img_5420玉川上水の碑(境橋の東側)

Img_5424 桜樹接種碑(玉川上水関野橋の手前)

Img_5423 説明板

Img_5427 八幡神社 《地図

関野新田の鎮守

Img_5430 砲弾が奉納?

八幡神社内の猿田彦神社前

Img_5433_2 真蔵院

武蔵野新田の開発に尽くした代官川崎平右衛門の供養碑があるというが見当たらず。門前左手に百番供養塔道標がある。

Img_5434 百番供養塔道標(寛政5年(1793))

「たなし ねりま道」

Img_5437 陣屋橋 【ル-ト地図】の⑤

北側に武蔵野新田世話役の川崎平右衛門の役宅(陣屋)があり、手代の高木三郎兵衛が常駐していた。

Img_5436 説明板

Img_5439 柏屋跡(小金井橋交差点) 《地図

「小金井の桜」の見物客などで、繁盛した料亭があった。ここを左折し小金井橋を渡り、赤い稲荷坂を下って武蔵小金井駅に向かう。

Img_5443 大松木下之稲荷(赤稲荷) 《地図

Img_5444 説明板

Img_5446 説明板の石造物

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2010年10月12日 (火)

塩釜街道②

2010年9月25日

岩切駅(JR東北本線)・・・県道35号・(東北新幹線)・(東北本線)・・・(東北本線)・・・庚申供養塔・・・慈雲寺・・・(三陸自動車道)・・・市川橋(砂押川)・・・分岐道標・新道・・・多賀城南門跡・多賀城碑(壷碑)・・・分岐点・旧道・・・伏石・・・貴船神社・・・多賀城神社・多賀城政庁跡・・・六月坂・・・多賀神社・・・多賀城東門跡・・・睦奥総社宮・男坂・女坂・・・母子石・・・赤坂・・・(東北本線)・・・(県道35号)・・・(東北本線)・・・・浪切不動尊・・・赤坂橋跡・・・塩竃神社・表坂・裏坂・七曲坂・・・芭蕉船出の地・・・塩釜港(千賀の浦)・・・本塩釜駅(JR仙石線)

  塩釜街道①』の続きです。

 台風が近づいているようだ。今にも降り出しそうで相変わらず寒い。芭蕉も杖を引き壷碑では涙した道だが、こっちは風を引きそうだ。ちょうど塩釜港に着く頃に雨が落ちてきた。荒れた海を見れるかと思ったが風波ともそれほどのことはなかった。そして、ここを今回の街道歩きの終点とした。前半の暑さと膝痛、後半の雨と寒さの8日間だったが、結局当初予定していた所を全部歩けたので、まあ満足とすべきだろう。

  【ル-ト地図】 

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Img_5062 鳥居の奥に庚申供養塔 《地図

Img_5057 庚申供養塔(明和4年(1767))の造立

Img_5069 塩釜新道(右)と塩釜旧道(左)の分岐点 《地図

Img_5070 道標(大正13年の造立)

「右 塩釜新道 左 塩釜旧道」とある。

多賀城碑(壷碑(つぼのいしぶみ))を見に新道を行く。

Img_5082 多賀城南門跡から政庁方向

Img_5078 説明板

Img_5075 南門の推定復元図

Img_5081多賀城碑 【ル-ト地図】の①

これが芭蕉が感動し、『奥の細道』に「羇旅の労をわすれて泪も落つるばかり也」と記した「壷碑」(つぼのいしぶみ)。

芭蕉が訪れた時は露天に放置されたままの石碑だったが、水戸光圀が伊達綱村に保存措置を依頼し、覆堂が造られたという。「多胡碑」、「那須国造碑」とともに日本三古碑の一つ。

Img_5080 説明板

 道標の分岐点に戻り、旧道に入る。

Img_5089 伏石

起こしたら疫病が流行り、また伏せたんだと。弘安10年(1287)の銘のある供養碑。

Img_5090 説明板

Img_5093 貴船神社 《地図

左は樹齢450年以上という樫(ウラジロガシ)

Img_5092 縁起

Img_5100 馬歴神社碑(左)・三大神碑(右)

馬歴神は馬の守護神

Img_5104 多賀城神社

Img_5110 多賀城政庁跡 【ル-ト地図】の②

石敷広場から正殿方向

Img_5111 説明板

Img_5109 正殿推定図

Img_5114 六月坂を上る。《地図

Img_5119 多賀神社

Img_5134 陸奥総社宮

右の木に男坂、左の木に女坂と札が貼ってある。正面の石段が男坂で、左の木の左に回り込むのを女坂としているのだろう。この下に石段は続いていないから坂とは呼ぶのには苦しいが、神社が決めたのだから従うべきで、坂道散歩としては何の不満、文句があるはずもない。

Img_5137 塩釜の市街地へと下って行く。《地図

この先で道に迷って、母子石を見つけた。

Img_5142 母子石(白菊町と赤坂(地名)の間の坂の途中)

伝説の母娘の足跡が残る??

Img_5140 伝説

Img_5150 赤坂を下って東北本線をくぐる。【ル-ト地図】の③

Img_5155 浪切不動尊へ再び東北本線をくぐる。

Img_5158浪切不動堂 【ル-ト地図】の④

江戸時代に都の僧の夢枕に不動が立った。僧は泉沢堤のほとりで不動を見つけ出し、当地の清水湧く崖下の窪みに祀ったと伝える。鉄道敷設工事で現在地に遷座した。もとは塩釜トンネルの所にあったのか?近くに泉沢町もある。

Img_5159 不動尊

Img_5161 赤坂橋跡

ここを流れていた祓川に架かっていたのだろう。「平成3年の交差点改良で橋の形態は消えた」とある。

Img_5166 塩竃神社表坂 《地図

表参道の202段の石段。その上に楼門まで25段の石段が続く。男坂のこと。

Img_5183 楼門(随神門)

Img_5170 拝殿

Img_5189 塩竃桜

この細い木に咲くのだろうか?

Img_5187 説明板

Img_5191 塩竃桜

芭蕉もこの桜を見ることを奥州行脚の旅の目的の一つとしていたようだが、塩竃神社を訪れたのは花の見頃からは1ヶ月以上も遅かった。

Img_5193 裏坂 《地図

女坂のこと。

Img_5195 七曲坂 【ル-ト地図】の⑤

裏坂の途中から右に下る未舗装の坂で、創建時からといわれる神社最古の参道。塩土老翁神(シオツチノオジ)が通ったと伝えられている坂道。

Img_5194 説明板

Img_5197 坂下方向

Img_5202 何度も曲がりながら下って行く。

途中に金花水という湧き水があり、かつては参拝者の喉を潤したという。

Img_5207 坂下には道標が立っている。

Img_5213 道標

「北 なヽまがり坂」とある。享保16年(1731)に塩竃の菓子商の越後屋喜三郎が建立。

Img_5210 道標説明板

Img_5216 裏坂を下りて来るとここに出る。《地図

Img_5218 佐浦酒造の石蔵 

清酒「浦霞」

Img_5219 丹六園

Img_5221 芭蕉船出の地

このあたりは入江になっていた。芭蕉はここから船で松島に渡った。

Img_5226 塩釜港(千賀の浦)

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2010年10月 9日 (土)

東街道

2010年9月24日

岩沼駅(JR東北本線)・岩沼市民バス→玉崎・・・(国道4号)・・・宝橋(五間堀川)・・・(東北本線)・・・千貫神社・・・東平王塚古墳・・・県道39号・・・旧道・・・鷹硯寺・・・常寿寺・・・長谷寺・・・平等山(長谷寺)横穴墓群・・・竹倉部遺跡・・・東安寺・・・金蛇水神社・・・ハナトピア岩沼・・・(北原遺跡)・・・(県道25号)・・・河原橋(志賀沢川)・・・貴船神社・・・県道39号・北目大橋・・・旧道・・・薬師神社・・・諏訪神社・・・福寿院・・・愛島小学校・・・智福院・・・舟橋(川内沢川)・・・県道39号・・・大塚山古墳・・・御上古墳・・・(東北新幹線)・・・道祖神社(佐倍乃神社)・古道・笠島廃寺跡・・・十石上古墳・・・塩薬師如来・・・永禅寺・・・実方橋・藤原実方の墓・・・今熊野遺跡・・・今熊野神社・・・旧道・・・幾世・小佐治の墓・・・観音橋(増田川)・・・五方の辻・熊野那智神社仮宮・・・秀麓斉・・・四脚門・・・新宮寺・・・熊野新宮・・・熊野本宮・・・(仙台南道路)・・・(国道286号)・・・栗木橋(名取川)・・・竹の内前バス停→仙台駅

 東街道は国府多賀城に至る古代の官道「東山道」とほぼ一致するといわれ、中世には「奥大道」と呼ばれていた。(宮→大河原)→玉崎→千貫→北目→笠島→塩手→箕輪→熊野堂→名取川→鈎取→宮城野→多賀城へと進んだ。しかし東街道には幾つもの道筋があり、それも時代とともに幾度も変わったようだ。江戸時代に奥州街道が整備されるまでは基街道として利用され、陸奥守が赴任地へ向かい、西行が旅し、奥州合戦で源頼朝の大軍が北上したのもこの道とされる。

 奥州街道と分かれる玉崎から名取川の栗木橋までちょうど1日の坂道散歩としては手頃の距離を歩く。名取川までは県道39号の西側に旧道と多くの旧蹟・遺跡などが残っている。車の往来も少なく、静かな街道歩きが楽しめるだろう。名取川を渡った東街道は①鹿落坂を下って広瀬川を渡り、あるいは②七曲り坂を下り宮沢で広瀬川を渡り石名坂から陸奥国分寺、比丘尼坂(塩釜街道)を通って多賀城へと通じていたようだ。そのあたりは去年の坂道散歩と塩釜街道で歩いている。

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4572 奥州街道から分かれ東街道に入る。《地図

ここより西側の玉崎西バス停から北東に入る道もある。その道の方が古いかも。

Img_4800 国道4号を地下道でくぐる。

Img_4803 東北本線も地下道でくぐる。

この先、左に回りこんで千貫神社前に出る。

Img_4804_2 千貫神社

天平元年(729)の創建といい大山祗神を主祭神に五柱を祀る。かつては「千貫の松」の生い茂る千貫山の山頂にあり、漁船守護の神として航海の目標物となっていた。

Img_4807 社殿の脇の石段上には何があるのか。「立入禁止」の立札があるが、かまわず上って行く。

Img_4806 石段上には小祠がある。後ろはゴルフ練習場でゴルフボールが石祠の前に落ちている。球が飛んで来て危険なので「立入禁止」のようだ。神さんの後頭部に当たったらどうするんだ。神罰が当たること間違いなし。

Img_4809 東平王塚古墳 【ル-ト地図】の①

墳丘は破壊され崩れている。直径40mの前方後円墳だったようだ。東平王とは、多賀城を築いた大野東人だとする説があるが前方後円墳の時代とは合わない。

Img_4817県道39号から旧道に入り北上する。

左下に道標?

Img_4818_2 道標

「左 ○道祖神・・・・」?

Img_4820_2 車も通らない静かな道を行く。

Img_4821 常寿寺

大日如来の背中を拝んで。

Img_4830 庚申塔・湯殿山碑・念仏供養塔など

北長谷公会堂前

Img_4832 けやき沢不動尊

北長谷の山中に不動堂があり、その裏手で2体の不動明王像が滝に打たれているそうだ。

Img_4837 長谷寺

Img_4835 平等山(長谷寺)横穴墓群) 《地図

斜面を探しても横穴(跡)らしき物は見つからない。農作業中の人に聞くと、全部崩れて埋ってしまったという。

Img_4840 気分のいい道を上る。

Img_4841 「瀧之入不動尊入口」

竹倉部遺跡の南側、沢沿いに登ると不動堂があるようだ。その上部(西方)にはため池が2つある。 

Img_4844 竹倉部遺跡

標柱のみで説明はない。このあたりは「竹倉部」という地名。正面も立派な竹薮だ。竹に関係のある遺跡なのか?

Img_4849 くねった坂を上り突当たりを左折すれば金蛇水神社

Img_4851金蛇水(かなへびすい)神社 《地図

刀鍛冶にまつわる由来話がある。参道には休憩所(左端)があり、境内の接与所には巫女さんがいて、意外と明るい大きな神社だ。

Img_4853 拝殿

ハナトピア岩沼の北側を通り県道に出て、すぐに北西に東街道に入る。

Img_4860 北原遺跡あたりなのだが、何の標示、案内板もない。《地図

台地上に営まれた古墳時代前期の集落跡で、多くの竪穴住居跡が発見されたそうだ。手前にある大窪地蔵尊も分からず通り過ぎた。

Img_4871 貴船神社 《地図

鬼の顔のような狛犬、石がごろごろ転がる暗い参道で金蛇水神社より気に入った。

Img_4875 馬頭観音

左は志賀沢川

Img_4879 薬師神社 《地図

神社だから狛犬だが堂内は薬師如来を安置するのだろう。まさに神仏一体だ。

Img_4881 諏訪神社参道 《地図

Img_4886 福寿院

Img_4891 樹木のトンネルの坂を上る。

Img_4893 木の根がむき出し、今にも崩れてきそうだ。

この先で道に迷う。東街道からははずれているかも知れない。

Img_4894 松尾観世音・金毘羅・馬頭観音・西国三十三観世音など 《地図

愛島(めでしま)小学校前

Img_4906 蟹王山智福院 

Img_4901 御詠歌に「東(あずま)の道」(東街道)、「蟹の報恩」と歌われている。

Img_4903 弁財天

「蟹の恩返し」の話は京都木津川市の蟹満寺、『山背古道②』、東京福生市の「かに坂」にもある。『福生市の坂

Img_4909 ここを上って県道39号に合流する。《地図

Img_4922 大塚山古墳後円部 【ル-ト地図】の②

全長90mの県内で4番目に大きい前方後円墳。賽ノ窪古墳群の一つ。

Img_4915 説明板

Img_4923 後円部上から前方部

かなり低い。私有地で立入禁止。

Img_4928 御上古墳 《地図

賽ノ窪古墳群の一つの、直径18mの円墳

Img_4935 笠島道祖神社(佐倍乃(さえの)神社) 【ル-ト地図】の③

長徳4年(998)、陸奥守に左遷された藤原実方は多賀城に赴く途中、(赴任中に歌枕の「阿古耶の松」を訪れた帰途ともいう)ここを下馬せずに通り過ぎようとして落馬して落命した。「佐倍乃」は道祖神とおなじ「塞(さえ)の神」のこと。

Img_4931 由緒

Img_4937 鳥居下の石段を下ると東街道の古道が残っている。《地図

Img_4938 竹藪の間の暗い道

ここを下って行くと一般道に出る。国見峠の廃道の長坂跡よりもずっと長く残っている。

Img_4941 笠島廃寺跡(右)

道祖神社の方向。

Img_4940 説明板

Img_4945_2 十石上古墳 《地図

全長約32mの前方後円墳。賽ノ窪古墳群の一つ。

Img_4953 塩薬師如来

昔は仮宿囲の東の堂に祀られていた。万延2年(文久元年・1861)に堂は火災に遭い、薬師像は空中高く飛んで、南方の木の枝に避難した。村人はここに堂を再建し薬師像を祀ったという。名前の由来は昔、塩手村で製塩が行われていたことがあり、塩薬師と名づけた。塩手村の由来は往古、老僧が湖水を汲んで塩を煮て、村人に与え病を治した。それで塩釜のある所を釜の前、村を塩手村と称した。二百十日の前夜には、五穀豊穣の作祭りという夜祭りが行われている。『西多賀探訪記』より 

夜祭りは今でも行われているのだろうか? 今でもここは愛島塩手という地名。 

Img_4952 小さな薬師如来像

これなら空中高く飛べるかも。

Img_4955 永禅寺

Img_4958 「藤原実方の墓」への大きな案内板

これなら墓もさぞかし大きいと思いきや。

Img_4973 実方橋を渡るとコスモスが出迎えてくれる。【ル-ト地図】の④

Img_4961 芭蕉紀行碑・芭蕉句碑

ここを訪れることができなかった無念の一句。「笠嶋はいづこ皐月のぬかり道」

Img_4962 かたみのすすき(草鞋塚)

まるで俺の頭のようだ。この中にも仙台藩の俳人、松洞馬年の句碑が立つ。「笠嶋はあすの草鞋のぬき処」

Img_4965 墓は板囲いの中

周りは西行の歌碑(右前)、その後ろが「実方朝臣之墳碑」、左奥が実方の「桜狩り」の歌碑。

文治2年(1186)にここを訪れた西行の歌、「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野の薄かたみにぞ見る」、実方の「桜狩り」の歌は「桜かり 雨は降りきぬ 同じくは ぬるとも 花の蔭にかくれむ」で、この歌をめぐって一条天皇の前で藤原行成と口論、喧嘩となり陸奥守へ左遷された。

Img_4967 ただの土くれだけ。もとは五輪塔もあったというが。

これが中古三十六歌仙の一人で光源氏のモデルの一人、清少納言にも言い寄ったというプレイボーイ、都の貴公子、鄙を馬鹿にして死んじまった藤原実方の成れの果てだ。伊達朝宗の墓は石ころだけだったが、質素、素朴さを感じた。ここはなぜか哀れを誘う。藤原実方は嫌いだが。実方の墓は山形県の千歳山萬松寺にもある。右に阿古耶姫、左に中将姫と並んでいてそちらの方がましだ。女好きな実方も2人の姫に囲まれ満足だろう。ただし中将姫は実方の娘だが。詳しくは『藤原実方の哀れ』が面白い。

Img_4968 説明板

県道39号に戻り北上する。

Img_4976 庚申塔・馬頭観音・石神など左側の崖上に集められている

Img_4982 今熊野遺跡(県農業園芸総合研究所)

縄文から平安時代までの複合遺跡。

Img_4983 説明板

Img_4991 今熊野神社 《地図

100段近くある石段がこたえてきて、膝が心配になってきた。

Img_4993 桑島館跡方向

浄水場の西側の逢形山にある。館主の桑島長者の娘が「幾世と小佐治の物語」の幾世。

Img_4995幾世・小佐治の墓 《地図

墓は道路を挟んで別れ別れだ。もとは一緒に並んでいたのではないだろうか?せめて死後は一緒に暮らせるように並べてあげたらどうか。

Img_4996 幾世の墓

左の小さな石。永和2年(1376)と刻まれているというが見えず。

Img_4997 小佐治の墓

観音橋(増田川)の先に川上十一面観音堂があるはずだが、見当たらず。

Img_5003 五方の辻 《地図

左に熊野那智神社仮宮の鳥居。

Img_5004 熊野那智神社の仮宮

左は川上大館、右は熊野那智神社方向。鳥居の下に道標がある。

Img_5006五方の道標(享保2年(1717)の造立)

東街道は北面の「くまのしんくう ほんくう」道を行く。

Img_5009 秀麓斎 《地図

奥州三十三観音霊場の第二番

Img_5018 四つ脚門 《地図

伊達政宗は参勤交代で東街道を通った? 奥州街道はまだ整備されてなかったのだろう。

Img_5016 説明板

Img_5020 地蔵などの石造物が並ぶ。

Img_5026 新宮寺 《地図

もとは熊野新宮内にあった寺だろう。

Img_5033 熊野新宮

保安4年(1123)に名取老女により勧請されたと伝える名取熊野三社の一社。

Img_5035 説明板

Img_5034 鐘楼と文殊堂は移されず境内に残っている。

Img_5043 熊野堂温泉

今でも営業しているのか?

Img_5046 熊野本宮

ここあたりにに大門山遺跡熊野堂横穴墓群があるのだが案内板などはなくどこか分からず。

Img_5047 車道を2本くぐり栗木橋へ。

Img_5049 栗木橋(名取川) 【ル-ト地図】の④

狭い橋で歩道は分離していない。県道に出て「竹の内前」バス停から仙台駅行きの宮城交通バスに乗る。30分くらいかかるから一眠りできると思っていたが、乗った途端その車中のうるさいのにビックリ。まるで鶏小屋、猿の檻にでも入ったよう、蜂の巣を突いたような騒ぎだ。某(短)大の学生(特に女子)の下校時だったのだ。何とか座れたがとても居眠りできる状態ではない。すると若い運転手もさすがこのうるささには呆れたか、「少し静かにしなさい。このバスは貸切ではないんだから」と。いや拍手喝采だ。でもそれぐらいのことでへこたれる連中ではないが、少しは静かになった。(短)大学生といっても、おつむの程度は、幼稚園児か小学生並みだから致し方なしか。毎日こんな輩と付き合わされる運転手、乗客が可哀想になった。

 

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2010年10月 8日 (金)

奥州街道(中田宿→長町宿→仙台城下)

2010年9月23日

南仙台駅(JR東北本線)・・・国道4号・・・名取橋(名取川)・・・旧荒川・・・(太子堂駅)・旧道・・・長町宿・・・道標・橋姫明神社・広瀬橋(広瀬川)・・・(東北新幹線・東北本線)・・・旅立稲荷神社・・・金刀比羅神社・・・三宝大荒神社・・・泰心院・・・円福寺・・・仏眼寺・・・柳町大日堂・・・芭蕉の辻・・・仙台駅

  この先は『奥州街道奥道中(七北田宿→富谷宿)』に続く。仙台城下は『仙台市の坂-1~4』に記載。

 朝から雨だが仙台城下の芭蕉の辻までは残りわずかだ。それにしても寒い。昨日は25度あったのが今日は15度以下らしい。まあ仙台のビル街の車道歩きで見所も少く、広瀬橋から先は去年の坂道散歩で所々歩いているし、2時間少しで着くだろう。

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4707 名取橋(名取川)を渡る。《地図

北からの雨と風で寒い。南仙台駅あたりから名取川までが中田宿で南北に木戸があり、検断屋敷もあったというが、今はただの車道で街道風情の残る家並みなどは見当たらず。傘をさして足早に進んだので見逃したのかも。

Img_4713 旧家

 太子堂駅の所で国道4号から分かれ、東北本線に西側に出る。

Img_4716 笹谷道道標(長町駅の北の三叉路の所) 《地図

仙台→川崎→笹谷峠(906m)を越えて山形に通ずる笹谷街道の起点。
ここが長町の一里塚跡のようだ。

Img_4723 道標(広瀬橋の手前)

左が「多賀神社道案内」道標で、右が「門前道」道標(大年寺門前町)。もとは10mほど南の長町宿の枡形の所にあったもの。

Img_4718 説明板

Img_4724 橋姫明神社 【ル-ト地図】の①

昔、広瀬川が荒れて橋が架けられなかった。それは竜神の怒りで、若い娘を差し出さなければ治まらないとの噂が立った。その時、根岸の長者の娘が自ら人身御供となった。川は静まり無事、橋が架けられたという伝説。その娘を橋姫として祀っている。左に文政6年(1823)の橋供養碑が立つ。

Img_4727 広瀬橋から広瀬川上流方向

水量が増え河川敷にも水が上がって来ている。

Img_4731 旅立稲荷神社 【ル-ト地図】の②

右は広瀬川の土手。福島城下の荒川土手の柳稲荷神社と同種の社。

Img_4729 説明板

 ここから先の旧街道は左右に曲がりながら芭蕉の辻に向かう。

Img_4740 旧仙南堂薬店

大正元年の建築。

Img_4743 旧家

Img_4745 針生屋 《地図

河原町の木戸番を勤めた家。左側に金刀比羅神社がある。

Img_4753 古い家並みも残っている。

Img_4756 三宝大荒神社(正面奥) 【ル-ト地図】の③

雌雄同株のイチョウが聳え、境内に耳権現の小祠がある。

Img_4766 説明板

Img_4760 説明板(耳権現)

Img_4768 泰心院山門 《地図

Img_4769 説明板

Img_4781 宮城華僑総会

Img_4784 柳町大日堂 【ル-ト地図】の④

手前に北目町の一里塚があったようだ。

Img_4785 縁起

Img_4786 狛羊と狛猿

大日如来は、ひつじ(未)歳とさる(申)歳生まれの守り本尊。

Img_4791芭蕉の辻 【ル-ト地図】の⑤

名前の由来は次の『奥州街道奥道中』に記載。松尾芭蕉とは関係がないようだ。

Img_4792 道標には

「北 津軽三厩迄 四十五次 百七里二十二丁 奥道中」・「南 江戸日本橋迄 六十九次 九十三里 奥州街道」 

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2010年10月 7日 (木)

奥州街道(船迫宿→槻木宿→岩沼宿→増田宿→中田宿)

2010年9月22日

船岡駅(JR東北本線)・・・さくら歩道橋(白石川)・・・(国道4号)・・・阿弥陀堂・・・薬師堂・・・国道4号・・・船迫内余川の一里塚跡・・・旧道・・・里程標・・・(東北本線)・・・大悲閣(東禅寺)・・・(国道4号)・・・槻木宿・逢隈旅館・・・国道4号・・・旧道・・・郡境界石・旧道・・・東街道分岐点・・・(JR常磐線)・・・西六角踏切・・・東武神社・・・西原橋(五間堀川)・・・聖徳太子堂・・・岩沼宿・岩城相馬街道(陸前浜街道)追分・竹駒神社・武隈の松・本陣跡(南町検断屋敷)・脇本陣跡(中町検断屋敷)・・・国道4号・・・志賀沢川・・・奥州街道本郷踏切(東北本線)・・・道祖神路碑・・・館腰神社・弘誓寺・・・明観寺・・・薬師堂古墳・・・(東北本線)・・・(仙台空港線)・国道4号・・・増田橋(増田川)・・・増田宿・衣笠の松・北方検断屋敷跡・増田神社・・・道標(田高交差点)・・・中田宿・・・南仙台駅(東北本線)

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4528 阿弥陀堂 《地図

堂はなく、露座の新しそうな阿弥陀さんが座っている。

Img_4529 薬師堂 《地図

ここは堂はあるが薬師さんの姿は見えず。

Img_4537 船迫内余川の一里塚跡(向う側は白石川) 《地図

説明板によると柴田町には一里塚が3か所あったそうだ。①の二本杉は昨日通った。③の四日市場は槻木宿の先で国道4号に合流する四日市場交差点あたりのようだ。

Img_4539 説明板

Img_4540 蛇行して流れる白石川。雨で煙っている。

Img_4547 里程標(リコー開発センターの少し手前)

仙台まで七里だ。

Img_4548 大悲閣 《地図

ここは東禅寺境内のようだ。

東北本線、国道4号をくぐり槻木宿に入る。

Img_4562 逢隈(おうくま)旅館 《地図

かつては大茶屋と呼ばれていたそうだ。

Img_4559 槻木宿の家並み 【ル-ト地図】の①

北条事務所

Img_4560 旧店

Img_4561 旧家菓子屋と居酒屋のようだ。

Img_4568 郡境界石 《地図

「西 柴田郡槻木村 東 名取郡千貫村」、今でも柴田町と岩沼市の境。

Img_4572 東街道分岐 【ル-ト地図】の②

東山道ともいう奥州街道以前の古道。仙台に着いた後に、ここから歩く予定。

Img_4579西六角踏切

引込み線の線路か。

Img_4581 東武(とうたけ)神社 《地図

このあたりに岩沼の一里塚があったらしい。

Img_4589 岩城相馬街道(江戸浜街道・陸前浜街道)分岐(右) 《地図

左折して岩沼宿に入る。

Img_4598 竹駒神社随身門

総ケヤキの素木造りで、文化9年(1812)の建造。日本三大稲荷の一つに数えられることもある。

Img_4600 向唐門

天保13年(1842)に創建千年を記念して建造。これも総ケヤキの素木造りだそうだ。

Img_4594_2芭蕉句碑

向うの建物は馬事博物館。岩沼は古くから馬市で知られ、境内で安土桃山時代から馬市が立っていたという。

Img_4593 説明板

Img_4607 武隈の松(七代目) 【ル-ト地図】の③

芭蕉が「桜より松は二木を三月越し」と詠んだ松は五代目だったという。

あの藤原実方も、「みちのくにほど遠ければたけくまの松まつ程ぞ久しかりける」と詠んだ。ここから東街道を西に向かい、道祖神社前で落馬して死んでしまったのか?そうだとすれば辞世の歌のようなものだが、ちゃんと辞世の一首はある。「みちのくの阿古耶の松をたずね得て身は朽ち人となるぞ悲しき」ここでは、実方は陸奥守の赴任中に歌枕の阿古耶の松を見に行った帰り道に道祖神社前で死んだことになっている。まあ虚実入り混じった話で真相はどんなものやら。詳しくは、『藤原実方の哀れ』が面白い。

Img_4604 説明板

Img_4622 岩沼宿本陣跡

南町検断屋敷の八島家

Img_4618 脇本陣跡

中町検断屋敷の相原家

Img_4617 小野酒造

清酒「武隈」の醸造元だが営業しているのか?

Img_4610 高橋醤油店跡か?

Img_4619 蓬田海産物店

Img_4627相傳(あいでん)商店

文政4年(1821)創業の酒造の老舗。

Img_4631 旧家

Img_4632 喫茶四方山

Img_4636 奥州街道本郷踏切を渡り、線路の西側の道を北上する。

雨が本降りになってきた。この手前に本郷の一里塚があったようだ。

Img_4641道祖神路」碑(植松4丁目バス停そば)

『奥の細道』の旅で芭蕉はここの西方の東街道沿いの笠島の道祖神社、藤原実方の墓に行きたかったが、梅雨のぬかり道で断念し、「笠島はいづこ皐月のぬかり道」の句を残して通り過ぎた。安政3年(1856)に仙台城下河原町の小西利兵衛が建てた笠島塚、芭蕉塚ともいわれる笠島の道祖神社への道標碑。右にも小さな「笠嶋道」道標が立つ。

Img_4652 館腰神社

弘誓寺と参道は別で境内は一緒になっていて、弘誓寺観音堂、撫牛大黒天、日切地蔵堂が隣に並ぶ。

Img_4650 説明板

Img_4658 日切地蔵堂

Img_4657 説明板

Img_4648 弘誓寺(ぐせいじ)山門

東北一古い鐘があるそうだ。

Img_4646 親水公園沿いの遊歩道を進めば東北最大の前方後円墳の雷神山古墳に行けたのだが、街道に戻ったため左折する所が分からずそのまま進んでしまった。雨も強くなって来たので割愛した。

Img_4674 薬師堂古墳(後円部方向) 【ル-ト地図】の④

飯野坂古墳群の東端に位置する前方後方墳。

手前の明観寺付近に館腰の一里塚があったようだ。

Img_4669_4説明板

東北本線、JR仙台空港線、増田川を越え増田宿へ入る。

Img_4682 増田宿の家並み 《地図

鶴見屋の蔵

Img_4686 旧家

「明治天皇増田御膳水」の碑が立っているそうだ。

Img_4687 衣笠の松(増田公民館) 【ル-ト地図】の⑤

ここは北方検断屋敷跡

Img_4693 説明板

Img_4689 説明板

Img_4694 増田神社

Img_4696 由緒

Img_4699 道標(田高交差点) 《地図

「村田道」・「距 高舘村二十九丁」、高舘は安元元年(1175)、藤原秀衡が高舘山に築いた館で、奥州合戦の際には奥州方の防衛拠点の一つとなった。南北朝時代の観応の擾乱(じょうらん)では多賀城攻防線の一役を担った。戦国時代に入ると伊達氏の支配下となり家臣の福田氏を配した。

名取市と仙台市太白区の境の天満宮あたりに中田の一里塚があったようだ。

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2010年10月 6日 (水)

奥州街道(白石城下→宮宿→金ケ瀬宿→大河原宿→船迫宿)

2010年9月21日

白石駅(JR東北本線)・・・延命寺・・・うーめん(温麺)発祥の地・・・県道12号・・・白石大橋(白石川)・・・国道4号・白鳥橋(児捨川)・・・県道12号・・宮宿・本陣跡・・刈田嶺神社・蓮蔵寺・三谷寺・・・宮大橋(松川)・・・国道4号・・・観音坂・観音堂・・・(東北新幹線)・・・篭石交差点・・・旧道・里程標・・赤坂・大高山神社・金ケ瀬宿・・・国道4号・・・県道110号・・一里塚跡あたり・如意輪観音堂・大河原宿・・・韮神橋(荒川)・韮神坂・・・国道4号・・旧道・・・二本杉(一里塚跡)・・船迫宿・・さくら歩道橋(白石川)・・・御館橋・みだれ坂・・船岡城址(要害跡)・・・恵林寺・・・麹屋・・・大光寺・・・船岡駅(JR東北本線)

  【ル-ト地図

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Img_4314 延命寺山門 《地図

白石城の厩口門を移築

Img_4316 説明板

Img_4318 安珍地蔵(ころり地蔵・右)・喘息地蔵(左)

やけにリアルな地蔵像だ。いくら大往生を遂げたいからといっても、足は舐めにくいのでは。舐めやすいように左足を前に出してはいるが。

奥州街道白河の先の根田宿では、安珍を根田の出身とし、安珍堂に祀っている。『奥州街道(白河宿→笠石宿』 ここでは白石の生まれとし、白河で修行したとしている。

Img_4317 説明板

Img_4323 石津屋酒店

Img_4326 旅館岡崎

Img_4328 鈴藤商店

Img_4332 奥州街道ふれあい館

資料館か展示館と思ったが、地元のコミュニティセンターで、街道歩きの他国人とは無縁の施設。

Img_4333 「うーめん(温麺)発祥の地」の標柱 《地図

Img_4334 今井理容所

同じような建物の床屋が福島城下にもあった。

Img_4335 温麺番所 《地図

結局、温麺は食べずじまいだった。

白石城下を後にし、白石大橋を渡り、国道4号に出る。

Img_4342 児捨川(白鳥橋から) 【ル-ト地図】の①

名前の由来は刈田嶺神社の「白鳥伝説」のところで。橋の手前は一里壇という地名。一里塚があったのだろう。

Img_4343 児捨川バス停は白鳥橋に名前が変わっていた。「児捨」のイメージを嫌ったか、苦情、投書でもあったか。白鳥橋も以前は児捨川橋だった。

Img_4348白鳥飛来地」の看板

ここを右折した東白石駅近くの白石川の河川敷の公園のようだ。

Img_4356 小野訓導殉職記念碑(宮小学校前)

川で溺れた学童を救おうとして殉職した若い女教師の碑。「記念碑」ではなく「供養碑」、「慰霊碑」だろうよ。無念にも若い命を落としたのを「記念」されては、彼女はあまりにも哀れで、浮かばれないだろう。

Img_4355 説明板

Img_4358 宮宿の旧家

Img_4360 旧家

Img_4361 本陣はこのあたりにあったようだ。《地図

Img_4369 刈田嶺神社

白鳥大明神とも称した、刈田郡の鎮守。

Img_4367 由緒

Img_4373 白鳥古碑群(社殿の裏)

Img_4371 説明板

「白鳥伝説」に児捨川が出てくる。

Img_4378 三谷寺

殉職した教師の墓がある。

Img_4385 観音坂を上る。【ル-ト地図】の②

Img_4388 観音堂(坂の途中の右の崖上)

扉が開いている。

Img_4389 首なしの石仏、これが観音?

Img_4392 旧道へ入る。

Img_4394 里程標

上部は欠けている。ここあたりが金ケ瀬の一里塚跡のようだ。

Img_4395 赤坂を上る。【ル-ト地図】の③

Img_4396 大高山神社

もとはこの上の大高山にあり、阿津賀志山の戦で敗れた奥州軍の大将、藤原国衡は同社の前で戦死したという。

Img_4400 南蛮鉄鳥居

寛政13年(1801)の建立

Img_4401 鉄九輪塔

文治年中(1185~89)に平泉の藤原忠衡が寄進したと伝える。

Img_4403 金ケ瀬宿に入る。

Img_4405 古い家並みは残らず。 《地図

Img_4408 旧家

国道4号に出て、県道10号に入る。

Img_4421 一里塚跡あたり(如意輪観音堂の手前の検察庁の敷地内) 《地図

Img_4423 如意輪観音堂前で左折し、大河原宿に入る。

Img_4425 説明板

Img_4429 大河原宿の家並み 【ル-ト地図】の④

Img_4430 旧家

Img_4432 柴田印刷所

Img_4435 旧家

東塾看板が掛かっている。

Img_4445 韮神橋から韮神山(94m) 

韮神山は、奥州藤原氏の武将、照井太郎が源頼朝軍を迎え撃った古戦場で、兵を埋葬した千塚や照井太郎の墓、石碑などが残る。

Img_4457 芭蕉句碑・藤原実方の「憚りの関」の歌碑などが並んでいる。《地図

芭蕉の句は伊賀上野で詠まれたもの、「憚りの関」は古来の歌枕の地で、『枕草子』にも登場する関。藤原実方は陸奥守として左遷され、東山道(東街道)を下る途中(赴任中に歌枕の「阿古耶の松」を訪れた帰途とも)、笠島の道祖神社前で馬から落ちて、落馬してあえなく死んじまった哀れな公達、源氏物語の光源氏のモデルの一人ともいうプレイボーイ。奥州街道二本松宿の手前の七夜坂でも、七夜桜の歌を詠んでいる。『奥州街道(郡山宿→二本松宿)』 
芭蕉は『奥の細道』の旅で、笠島の道祖神社と実方の墓を訪れたかったが、梅雨のぬかり道で断念し、無念さを滲ませた一節と句も残している。そこ(東街道)は仙台に着いた後に歩く予定。

Img_4448 説明板

Img_4459 説明板の韮神坂だろう。

韮神橋の先で荒川は白石川に合流する。

Img_4463 船岡城址(舘山の中腹」と白石川土手の一目千本桜方向

舘山(136m)山頂には白衣観音が立つ。

国道4号から右へ旧道に入ると船迫(ふなばさま)宿(ずっと「ふなはざま」と思っていた。参考にした『奥州街道 歴史探訪 全宿場ガイド』にもそう振りがなが振ってある。「さくらこ」様からコメントをいただき間違いと知って訂正した。(2011年8月4日)

ここで地元の人と奥州街道の道筋について議論となる。彼は船岡城址の北側、船岡駅の南側を通る陸羽街道(県道50号)が旧奥州街道だという。確かにそっちの道の方が、昔風情、街道の面影のある家並み、寺院もあるのだが、韮神橋を渡ってきた国道4号沿いの道が正しい道筋だ。いろいろ話すうちに半分ほど納得したみたいだった。

Img_4473 二本杉の一里塚跡あたり

Img_4475 船迫宿の家並み 《地図

宿場の面影は皆無だ。

交差点を右折し、街道から離れ、白石川を渡り、船岡城址に向かう。

Img_4478 さくら歩道橋(白石川)を渡る。《地図

Img_4480 舘山山頂に白衣観音(平和観音)が見える。

Img_4485 船岡の旧家

Img_4497 みだれ坂 【ル-ト地図】の⑤

御館橋から船岡城址(要害)へ上る坂。

Img_4494 坂上方向

Img_4488船岡城址

野外ステージを建設中のようだ。『樅の木は残った』(山本周五郎)の主人公、原田甲斐が城主だったこともある。一帯は船岡城址公園になっていて、何代目かの「樅の木」も立っている。

Img_4487 説明板

Img_4503 恵林寺 《地図

原田家の菩堤寺の東陽寺の末寺で、本堂の背戸には原田甲斐の供養塔があるそうだ。

門前の通りには旧家、旧店が並び奥州街道沿いの船迫宿の通りよりも宿場風情がある。

Img_4504 旧家

Img_4505 麹屋

御用商人として原田家、柴田家に仕えた麹屋又左衛門の屋敷だそうだ。

Img_4511 正面

麹屋コレクションとして開館している。

Img_4514 蕎麦屋陣屋

Img_4517 旧家

Img_4522 船岡駅

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2010年10月 5日 (火)

奥州街道(藤田宿→貝田宿→越河宿→斎川宿→白石城下)

2010年9月20日

藤田駅(JR東北本線)・・・鹿島神社・・・滝川・・・国道4号・・・弁慶の硯石・・・県北中学校・旧道・・・国見神社・・義経腰掛松・・・阿津賀志山防塁跡・古戦場跡・・・大木戸小学校・(国道4号)・・・国見峠長坂跡・芭蕉翁碑・筆塚・・・(国道4号)・・・旧道・・・(国道4号)・・・貝田宿・三つ石・検断屋敷跡・制札場跡・口留番所跡・・・国道4号・・・境界石(福島・宮城)・・下紐の石・・越河番所跡・・・(東北自動車道)・・・深山神社・旧道・・・越河宿・・(東北本線)・・・国道4号・・・馬牛沼・・斉川孫太郎食堂・・・旧道・・・鐙摺坂・孫太郎虫供養碑・・田村神社・甲冑堂・・・(鬼ずるす石)・・・斉川大橋(斉川)・・・斎川宿・検断屋敷跡・・・奥州街道斉川踏切(東北本線)・鳥居坂・・・国道4号・・・里程標・・・(東北新幹線)・・・道祖神社・・・(東北自動車道)・・・旧道・・・白石城下・・米沢街道分岐・・東京街道道標(白石中学校前)・・・当信寺・・・すまiる広場(壽丸屋敷)・・・白石城・・・八幡宮・・・沢端川・・・片倉家中武家屋敷・・・白石駅(JR東北本線)

  【ル-ト地図

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Img_4101 観月台文化センター(正面の塔・観月台公園内)

藤田宿(国見町)は代官所のある桑折宿と違って、気楽な宿場だったといわれる。近隣の村人、半田銀山の労働者たちが遊び続け、農作業に支障が出たり、代金を払えない者が続出したともいう。北側には阿津賀志山の合戦の時に源頼朝が本営を置いた藤田城跡がある。

国道4号に出て、左に入り硯石山に向かう。山といっても小高い丘。

Img_4112 弁慶の硯石 【ル-ト地図】の①

平家打倒のため平泉から頼朝のもとへ向かう義経に同行しようと、多くの兵たちが駆けつけて来た。弁慶がこの石で墨を摺り、兵たちの名を記したと伝える。確かに水を湛えている。

Img_4110 説明板

Img_4109 厚樫山(弁慶の硯石から)

源頼朝と奥州藤原氏の決戦場の阿津賀志山古戦場

Img_4129 国見神社

Img_4127 説明板

Img_4125 義経腰掛松(2代目) (国見神社の先)

金売り吉次の手引きで平泉に向かう義経が、この松に腰掛けて休んだという。3本の太幹の内、2本は松喰虫にやられてしまった。覆屋(義経神社)内に初代の松株が祀られている。ここから西に600mほどに石母田城跡がある。

Img_4122 説明板

Img_4133「阿津賀志山防塁横断地点」の表示板と「阿津賀志山の古戦場」説明板が立っている。

防塁横断地点とは、畠山重忠が防塁を掘り切崩した地点ということか。福岡市の元寇防塁、大宰府の水城防塁とともに「日本三大防塁」の一つ。

Img_4132 阿津賀志山古戦場説明板

大木戸小学校で左折し、国道4号を横切り国見峠の長坂跡に向かう。

Img_4145 長坂跡(坂上方向) 【ル-ト地図】の②

付近には茶屋があったという。

Img_4143 説明板

Img_4147 坂下方向(藤田方向)

道跡のようにも見えるが。

Img_4144 西方向

ここもけっこう高さがあるようだ。

Img_4148 坂上方向

200mも残っていないか。

Img_4149 芭蕉翁碑・筆塚などが立つ。

ここで行き止まり。

Img_4151 説明板

芭蕉翁碑に刻まれた『奥の細道』の一節、「路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す」 大木戸小学校にその名を残す。

旧道へ戻って、さらに上る。

Img_4167 国道4号を横切り貝田宿へ入る。

左に庚申塔(享保?年か)が立つ。

Img_4173 貝田宿説明板

Img_4171貝田宿の家並み 《地図

看板下に右下に「三つ石」、ここは水準点で標高151.8m。

Img_4176 検断屋敷跡?

取り込み中のようで近づかなかった。

Img_4174 案内図

Img_4177 「おくのほそ道自然歩道終点」とある。

Img_4181 貝田口留番所跡(岡田家)

Img_4182 福島と宮城の県境 《地図

栃木と福島のように大きな境明神が張り合っていない、殺風景な所だ。峠の頂上より少し低い所に境界がある。仙台藩が福島盆地を見張りやすいように南に押し出した結果だという説もある。

Img_4183 境界石がポツンと。

道の反対側の下紐の石を見に行く。横断歩道なんかないから危ないよ。

Img_4187 下紐の石

ここは歌枕の「下紐の関」の地。しかし、用命天皇の皇妃がこんな辺鄙な、路上沿いでお産をしたのだろうか?まだ関所の建物もなかったろうに。まあ伝説といえばそれまでだが。でも聖徳太子のおやじの用命天皇の名まで出てくるのでやはり気になる。乳神伝説や近くの安産ダルマなどとも関連がある話なのか?

Img_4186 説明板

Img_4188 越河(こすごう)番所跡

東北本線の線路の向こう側の崖に看板が立っている。

Img_4189 ここからはかなり離れていそうでパス。

深山神社参道前から旧道に入ると越河宿。

Img_4195 越河宿の家並み 《地図

Img_4191 案内図

Img_4198 諏訪神社の参道は東北線の線路で分断されている。

越河駅の北側に越河の一里塚があったとも。越河駅の先で東北本線を横切り、国道4号に出る。

Img_4205 馬牛沼 《地図

向う側の山が馬牛館跡だろう。「沼乾し」の時の沼を見たいものだ。

Img_4203 説明板

Img_4206 孫太郎食堂

孫太郎虫はヘビトンボの幼虫で、これを乾燥させ「疳の薬」、「強壮剤」として商われた。立て看板の「萬行楯城址」は馬牛館跡の背後の430mの「万牛山(まんぎやま)」(楯山)にある城址のことか。馬牛館跡=萬行楯城址なのかも。食堂で聞くのを忘れた。

この先で右に旧道に入る。

Img_4210 旧道

Img_4218 鐙摺坂 【ル-ト地図】の③

右の崖に「孫太郎虫供養碑」、聖徳太子碑、大小の庚申塔、「あぶみずり坂」の標柱などが立っている。その上を義経が鐙を摺りながら通ったという鐙摺坂の古道が通っていたようだ。下った右側が田村神社、甲冑堂。

Img_4217 甲冑堂

義経の家来の佐藤継信、忠信兄弟の妻、楓と初音は、息子2人を失って嘆き悲しむ老義母のため、夫の甲冑を身に着け、その雄姿を装って見せたという。この話は滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』の中で使っている。(と思う)

Img_4216 略記

Img_4221 「鬼ずるす石」説明板

土着の先住民を鬼として扱い征服して行く、中央からの侵略者の作り話、悪どい手口の一つ。

Img_4222 木に覆われて岩が露出しているのは見えないが。

斎川を渡り斎川宿に入る。

Img_4226 斎川宿入口

Img_4223 案内図

Img_4229 検断屋敷跡(島貫家) 【ル-ト地図】の④

伝馬・人足業務のほか、大名の宿泊、休憩所も兼ねていた。瀬上宿の島貫家と関係はある家柄なのだろうか?

Img_4233 門は開いたまま。

「明治天皇斎川御小休所」の石柱が立つ。

Img_4232門内を覗いて見る。ずっと以前からこんな状態のようだ。

Img_4237 斎川宿の家並み

ブルーノ・タウトが昭和9年に訪れた時の古い家並みなどは残らず。

Img_4239 宿を抜け、奥州街道斉川踏切を渡ると鳥居坂の上りとなる。《地図

このあたりに鳥居坂の一里塚があったようだ。

Img_4241 坂上方向

坂上で国道4号に出る。

Img_4243 里程標(左端・明治21年設置)

「距仙臺元標十四里」、仙台まであと約56kmか、寄り道しないで行った場合の距離だが参考にはなる。

Img_4247 道祖神社

堂内に神体の多数の陽石(男根石)が立っているようだ。堂の外にもあるようだが気づかなかった。惜しいことをした。

Img_4250 分岐点 《地図

ここを直進して白石市街地へ入って行く。途中左に入ると白石城主片倉家の菩提寺傑山寺がある。

田町の交差点あたりに白石の一里塚があったとも。

Img_4255 道標(白石中学校正門前に移設) 《地図

上部に指差し、その下に英語、その下に「一等道路東京街道」

もとは東側の米沢街道との分岐にあったもの。

Img_4258 英語の部分

「Main Road To(For?) Tokyo」

Img_4263 当信寺山門 《地図

白石城の東口門を移設。

Img_4262 説明板

Img_4267 案内図

Img_4266 枡形 《地図

正面は「すまiる広場」、その後ろが壽丸屋敷。街道は直進だが左折して白石城に向かう。

Img_4312 壽丸屋敷

明治時代からの豪商の渡辺家。現在は寄贈され、白石まちづくり株式会社が管理し、イベント会場などまちづくりの拠点の1つになっている。

アーケードの屋根が目障りだ。

Img_4276 白石城

一国一城の例外として認められた仙台城の支城で、伊達家家臣の片倉家の居城。

Img_4305 沢端川

白石城の外堀の一部。

Img_4293片倉家中武家屋敷(旧小関家) 【ル-ト地図】の⑤

Img_4297母屋

Img_4301内部

質素、素朴で農家の住まいのようだ。

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2010年10月 3日 (日)

奥州街道(福島城下→瀬上宿→桑折宿→藤田宿)

2010年9月19日

福島駅・・・駅前通・・・レンガ通(福島宿本陣跡・脇本陣跡)・・・福島市道路元標・高札場跡(ふれあい歴史館)・・・テルサ通・・・(国道4号)・・・旧電車通・・・(国道114号)・・・(福島競馬場)・・・広布寺・・・岩谷観音・・・竜洞神社・・・国道4号・松川橋(松川)・・・旧道・大日堂・・・鎌田村道路元標・・・鎌秀禅院(鎌田城跡)・・・橋本橋(八反田川)・・・(県道387号)・・・(阿武隈急行)・・・瀬上宿・島貫家住宅・青柳神社・雷神社・瀬上陣屋跡(宮代の大カヤ)・・・県道353号・・・幸橋(摺上川)・・・諏訪神社(西念塚)・・・田町薬師堂・・・長岡村道路元標・・・瀬戸場橋・・・桑折の一里塚跡・・・産ケ沢橋(産ケ沢川)・寛延三義民顕彰碑・・・伊達朝宗の墓・・・宝積寺・・・桑折宿・桑折寺・旧伊達郡役所・桑折町道路元標・本陣跡・大安寺・桑折御蔵・法円寺・無能寺・・・羽州街道追分・・・谷地の一里塚跡・・・西根堰・・・第二高津川(佐久間川)・・・普蔵川・・・堰下古墳・藤田宿・・・藤田駅(JR東北本線)

 幸か不幸か、吉か凶か今にでも降りだしそうな曇天だ。膝も歩いてみなければ分からない。とにかく行ける所まで行こう。とぼとぼ、よちよち出発した。

  【ル-ト地図

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Img_3870 高札場跡 《地図

「ふれあい歴史館」前に福島市道路元標が立つ。

Img_3873 古い家並みも残るテルサ通り。

Img_3880 旧電車通 《地図

明治41年に開業した私鉄の軽便鉄道の電車道。福島駅から長岡村を経て飯坂の湯野に至る電車で、福島市街と長岡の間の大半が、旧奥州街道上に線路が敷かれていたという。その後、福島電鉄となり昭和45年まで続いていた。

この道を岩谷下交差点まで一直線に行く。途中に右手に福島競馬場がある。

Img_3882 宍戸理容所

レトロな建物の床屋に最近よく出会う。いつかは頭を刈ってもらいたい。

Img_3885 福島競馬場

8時を過ぎたばかりで、非開催で場外発売だけだが、人参代を納めにくる奇特な善男善女がぼちぼちと集まって来る。膝を気にしながら横目で通り過ぎる。そういう自分も後で来るはめになるかも。

Img_3900 岩谷観音 【ル-ト地図】の①

Img_3890 案内図

Img_3891 説明板

Img_3902 磨崖仏

Img_3892 長命成願地蔵(岩谷観音の石段途中)

Img_3911 松川橋から信夫山 《地図

橋を渡って国道4号の左手の道に入る。

Img_3913 大日堂

大日如来像 2体、毘沙門天像、不動明王像を安置するようだ。

Img_3912 説明板

Img_3917 鎌秀禅院 《地図

ここは弘長2年(1262)に大和国より移封された宇野信次が築城した鎌田城跡。戦国時代には鎌田氏は伊達氏の家臣となり、天正18年(1590)に廃城となった。

Img_3929 瀬上(せのうえ)宿 

島貫家住宅(大国屋) 《地図

Img_3941 裏側も立派

こっちが街道沿い。染色アート着物展を開催中。瀬上宿は「瀬上花街」と呼ばれる歓楽の町としても知られていた。

Img_3935 青柳神社 《地図

Img_3936 男根石(左)・女陰石(右)の道祖神

本堂の後ろに鎮座。

Img_3947 雷(いかづち)神社 《地図

ここから瀬上陣屋までが分からず、かなりの時間を費やした。

Img_3961 瀬上陣屋跡・宮代の大カヤ 【ル-ト地図】の②

秀吉の係累の備中足守藩領の陣屋跡

Img_3956 説明板①

Img_3957 説明板②

Img_3971 西念塚(大ケヤキの根元・諏訪神社境内) 

摺上川の洪水、氾濫から村人を救うために寛文8年(1668)、自ら入水した西念上人の供養塚。

Img_3976 薬師堂 《地図

手前の福源寺には寛延三義民の一人、斉藤彦内の墓がある。ここにも義民碑がある。

Img_3980 長岡村道路元標

Img_3983 旧家

Img_3986 旧家

Img_3991 桑折(こおり)の一里塚跡 【ル-ト地図】の③

このあたりは一里壇という地名。

Img_3996 寛延三義民碑(産ケ沢(うぶがさわ)橋)を渡った左側) 

寛延2年(1749)の大凶作時に、桑折代官神山三郎左衛門の苛政に抵抗して起こした寛延の大一揆の首謀者として、斎藤彦内、猪狩源七、蓬田半左衛門が、ここ産ケ沢の刑場で処刑された。この一揆の顛末は、明治40年の朝日新聞連載小説、半井桃水作「天狗廻状」で一躍有名になったそうだ。

Img_4001 伊達朝宗の墓 《地図

ここは菩提寺の満勝寺跡と比定されるという。伊達政宗と源頼朝は血がつながっているとは知らなんだ。

Img_4003 説明板

Img_4006 墓石

「○○の腰掛石」みたいなただの石、前の献花も枯れているのがいいねえ。

Img_4010 宝積寺(ほうしゃくじ)

火伏不動尊、後ろは諏訪神社

Img_4011 銅造阿弥陀如来像(県重文)か?

Img_4019桑折寺(こうりんじ)山門

西山城の城門を移築。右に伊達観音霊場第12番の桑折観音堂がある。

Img_4014 説明板

Img_4016 説明板

日限地蔵も観音堂にあるのか?

Img_4020 旧家

Img_4021 桑折(こおり)宿の家並み

近くに半田銀山があり、羽州街道が分岐し、阿武隈川舟運の桑折河岸もあり、宿駅としても町としても繁栄した。今はあまりぱっとしない、ありふれた地方の町並み。

Img_4024旧伊達郡役所 【ル-ト地図】の④

Img_4025 説明板

Img_4030 桑折宿本陣跡 《地図

Img_4035 大安寺山門

梵鐘は延享5年(1748)に寄進された物を文政元年(1818)に再々鋳した物。

Img_4036 桑折宿の家並み

こっちの通りには蔵造りの家なども残っている。

Img_4039桑折御蔵「おもてなし屋」

明治17年築造

Img_4040 旧家

Img_4043 法円寺

右に田植塚がある。

Img_4045 田植塚

芭蕉が須賀川宿の等躬宅で詠んだ句を、当地の俳人馬耳(ばみ)がここに埋め塚を築いた。当時の桑折地方は東北の中でも俳諧が盛んだった所だったそうだ。

Img_4044 説明板

Img_4047 清酒「銀山の郷」醸造元

もう廃業してしまたのか?

Img_4051無能寺 《地図

冠木門をくぐって山門に向かう。

Img_4053 無能寺山門

己をよく知っている寺名が気に入った。中興した「無能上人」による寺名だそうだ。

この寺あたりまでが桑折宿。

Img_4055 御蔭廼松(みかげのまつ)

Img_4054 説明板

Img_4057 道標

日本一の大カヤ(万正寺の大カヤ)は、宮代の大カヤより見事のようだ。観音寺は東北自動車道を越えた所にある。

Img_4061奥州街道(右)・羽州街道(左)追分 《地図

道標、柳の句碑、東屋などが設置されている。今は左に行っても線路に突当たってしまうが。
分かれて進んだ両街道は津軽の油川で出会う。奥州街道『野内駅→奥内駅』に記載。

Img_4066 柳の句碑由来

Img_4068 谷地の一里塚跡

右に木柱が立つ。追分から400m位の所。

Img_4073 西根堰

江戸時代に開削され、現在も使用されている農業用水路。

Img_4077 半田山方向

Img_4087 堰下古墳 【ル-ト地図】の⑤

復原されて小公園になっている。堰は西根堰のことか。

Img_4082 説明板

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