奥州街道(白石城下→宮宿→金ケ瀬宿→大河原宿→船迫宿)
2010年9月21日
白石駅(JR東北本線)・・・延命寺・・・うーめん(温麺)発祥の地・・・県道12号・・・白石大橋(白石川)・・・国道4号・白鳥橋(児捨川)・・・県道12号・・宮宿・本陣跡・・刈田嶺神社・蓮蔵寺・三谷寺・・・宮大橋(松川)・・・国道4号・・・観音坂・観音堂・・・(東北新幹線)・・・篭石交差点・・・旧道・里程標・・赤坂・大高山神社・金ケ瀬宿・・・国道4号・・・県道110号・・一里塚跡あたり・如意輪観音堂・大河原宿・・・韮神橋(荒川)・韮神坂・・・国道4号・・旧道・・・二本杉(一里塚跡)・・船迫宿・・さくら歩道橋(白石川)・・・御館橋・みだれ坂・・船岡城址(要害跡)・・・恵林寺・・・麹屋・・・大光寺・・・船岡駅(JR東北本線)
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
延命寺山門 《地図》
白石城の厩口門を移築
やけにリアルな地蔵像だ。いくら大往生を遂げたいからといっても、足は舐めにくいのでは。舐めやすいように左足を前に出してはいるが。
奥州街道白河の先の根田宿では、安珍を根田の出身とし、安珍堂に祀っている。『奥州街道(白河宿→笠石宿』 ここでは白石の生まれとし、白河で修行したとしている。
資料館か展示館と思ったが、地元のコミュニティセンターで、街道歩きの他国人とは無縁の施設。
同じような建物の床屋が福島城下にもあった。
温麺番所 《地図》
結局、温麺は食べずじまいだった。
白石城下を後にし、白石大橋を渡り、国道4号に出る。
名前の由来は刈田嶺神社の「白鳥伝説」のところで。橋の手前は一里壇という地名。一里塚があったのだろう。
児捨川バス停は白鳥橋に名前が変わっていた。「児捨」のイメージを嫌ったか、苦情、投書でもあったか。白鳥橋も以前は児捨川橋だった。
「白鳥飛来地」の看板
ここを右折した東白石駅近くの白石川の河川敷の公園のようだ。
川で溺れた学童を救おうとして殉職した若い女教師の碑。「記念碑」ではなく「供養碑」、「慰霊碑」だろうよ。無念にも若い命を落としたのを「記念」されては、彼女はあまりにも哀れで、浮かばれないだろう。
本陣はこのあたりにあったようだ。《地図》
白鳥大明神とも称した、刈田郡の鎮守。
「白鳥伝説」に児捨川が出てくる。
【ル-ト地図】の74殉職した教師の墓がある。
【ル-ト地図】の75扉が開いている。
上部は欠けている。ここあたりが金ケ瀬の一里塚跡のようだ。
もとはこの上の大高山にあり、阿津賀志山の戦で敗れた奥州軍の大将、藤原国衡は同社の前で戦死したという。
寛政13年(1801)の建立
文治年中(1185~89)に平泉の藤原忠衡が寄進したと伝える。
古い家並みは残らず。 《地図》
国道4号に出て、県道10号に入る。
一里塚跡あたり(如意輪観音堂の手前の検察庁の敷地内) 《地図》
東塾看板が掛かっている。
韮神山は、奥州藤原氏の武将、照井太郎が源頼朝軍を迎え撃った古戦場で、兵を埋葬した千塚や照井太郎の墓、石碑などが残る。
芭蕉句碑・藤原実方の「憚りの関」の歌碑などが並んでいる。《地図》
芭蕉の句は伊賀上野で詠まれたもの、「憚りの関」は古来の歌枕の地で、『枕草子』にも登場する関。藤原実方は陸奥守として左遷され、東山道(東街道)を下る途中(赴任中に歌枕の「阿古耶の松」を訪れた帰途とも)、笠島の道祖神社前で馬から落ちて、落馬してあえなく死んじまった哀れな公達、源氏物語の光源氏のモデルの一人ともいうプレイボーイ。奥州街道二本松宿の手前の七夜坂でも、七夜桜の歌を詠んでいる。『奥州街道(郡山宿→二本松宿)』
芭蕉は『奥の細道』の旅で、笠島の道祖神社と実方の墓を訪れたかったが、梅雨のぬかり道で断念し、無念さを滲ませた一節と句も残している。そこ(東街道)は仙台に着いた後に歩く予定。
韮神橋の先で荒川は白石川に合流する。
船岡城址(舘山の中腹」と白石川土手の一目千本桜方向
舘山(136m)山頂には白衣観音が立つ。
国道4号から右へ旧道に入ると船迫(ふなばさま)宿(ずっと「ふなはざま」と思っていた。参考にした『奥州街道 歴史探訪 全宿場ガイド』にもそう振りがなが振ってある。「さくらこ」様からコメントをいただき間違いと知って訂正した。(2011年8月4日)
ここで地元の人と奥州街道の道筋について議論となる。彼は船岡城址の北側、船岡駅の南側を通る陸羽街道(県道50号)が旧奥州街道だという。確かにそっちの道の方が、昔風情、街道の面影のある家並み、寺院もあるのだが、韮神橋を渡ってきた国道4号沿いの道が正しい道筋だ。いろいろ話すうちに半分ほど納得したみたいだった。
【ル-ト地図】の79 船迫宿の家並み 《地図》
宿場の面影は皆無だ。
交差点を右折し、街道から離れ、白石川を渡り、船岡城址に向かう。
さくら歩道橋(白石川)を渡る。《地図》
御館橋から船岡城址(要害)へ上る坂。
野外ステージを建設中のようだ。『樅の木は残った』(山本周五郎)の主人公、原田甲斐が城主だったこともある。一帯は船岡城址公園になっていて、何代目かの「樅の木」も立っている。
恵林寺 《地図》
原田家の菩堤寺の東陽寺の末寺で、本堂の背戸には原田甲斐の供養塔があるそうだ。
門前の通りには旧家、旧店が並び奥州街道沿いの船迫宿の通りよりも宿場風情がある。
御用商人として原田家、柴田家に仕えた麹屋又左衛門の屋敷だそうだ。
麹屋コレクションとして開館している。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- My郷散歩(松戸市・柏市)(2023.12.06)
- My郷散歩(柏散歩⑧)(2023.12.09)
- My郷散歩(松戸市・鎌ヶ谷市)(2023.12.05)
- My郷散歩(松戸)(2023.12.03)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
間違いのご指摘ありがとうございます。早速訂正いたしました。
歴史好きでも、「検証」などできる能力はありませんが、また宮城県へ行った時や、都立図書館などで船迫宿、船岡城下などや昔の交通路などについて調べてみたいと思います。
坂道散歩
投稿: さくらこ様へ | 2011年8月 4日 (木) 08:26
“国道4号から右へ旧道に入ると船迫(ふなはざま)宿。ここで地元の人と奥州街道の道筋について議論となる。彼は船岡城址の北側、船岡駅の南側を通る陸羽街道(県道50号)が旧奥州街道だという。確かにそっちの道の方が、昔風情、街道の面影のある家並み、寺院もあるのだが、韮神橋を渡ってきた国道4号沿いの道が正しい道筋だ。いろいろ話すうちに半分ほど納得したみたいだった。
”
はじめまして、船岡住みの者です。
船迫の読みですが『ふなばさま』です。はざまではありません。
白石川は昔もっと蛇行していて、現在の地名船岡新生町・船岡若葉町(旧地名『入袋』)の辺りは、橋を渡らずに船岡へ入れました。
現在は橋を渡らないと船岡側へ行けません。
また、橋が出来る前は渡し舟があり、船迫宿から船岡宿へは、船で移動し旧国道4号線を通って入ったのではないでしょうか…。槻木宿で、旧国道4号線は、国道4号線に合流しますね。
歴史がお好きそうなので、是非検証をお願いします。
投稿: さくらこ | 2011年8月 3日 (水) 14:01