塩釜街道②
2010年9月25日
岩切駅(JR東北本線)・・・県道35号・(東北新幹線)・(東北本線)・・・(東北本線)・・・庚申供養塔・・・慈雲寺・・・(三陸自動車道)・・・市川橋(砂押川)・・・分岐道標・新道・・・多賀城南門跡・多賀城碑(壷碑)・・・分岐点・旧道・・・伏石・・・貴船神社・・・多賀城神社・多賀城政庁跡・・・六月坂・・・多賀神社・・・多賀城東門跡・・・睦奥総社宮・男坂・女坂・・・母子石・・・赤坂・・・(東北本線)・・・(県道35号)・・・(東北本線)・・・・浪切不動尊・・・赤坂橋跡・・・塩竃神社・表坂・裏坂・七曲坂・・・芭蕉船出の地・・・塩釜港(千賀の浦)・・・本塩釜駅(JR仙石線)
*『塩釜街道①』の続きです。
台風が近づいているようだ。今にも降り出しそうで相変わらず寒い。芭蕉も杖を引き壷碑では涙した道だが、こっちは風を引きそうだ。ちょうど塩釜港に着く頃に雨が落ちてきた。荒れた海を見れるかと思ったが風波ともそれほどのことはなかった。そして、ここを今回の街道歩きの終点とした。前半の暑さと膝痛、後半の雨と寒さの8日間だったが、結局当初予定していた所を全部歩けたので、まあ満足とすべきだろう。
【ル-ト地図】
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鳥居の奥に庚申供養塔 《地図》
塩釜新道(右)と塩釜旧道(左)の分岐点 《地図》
「右 塩釜新道 左 塩釜旧道」とある。
多賀城碑(壷碑(つぼのいしぶみ))を見に新道を行く。
これが芭蕉が感動し、『奥の細道』に「羇旅の労をわすれて泪も落つるばかり也」と記した「壷碑」(つぼのいしぶみ)。
芭蕉が訪れた時は露天に放置されたままの石碑だったが、水戸光圀が伊達綱村に保存措置を依頼し、覆堂が造られたという。「多胡碑」、「那須国造碑」とともに日本三古碑の一つ。
道標の分岐点に戻り、旧道に入る。
起こしたら疫病が流行り、また伏せたんだと。弘安10年(1287)の銘のある供養碑。
貴船神社 《地図》
左は樹齢450年以上という樫(ウラジロガシ)
馬歴神は馬の守護神
石敷広場から正殿方向
六月坂を上る。《地図》
右の木に男坂、左の木に女坂と札が貼ってある。正面の石段が男坂で、左の木の左に回り込むのを女坂としているのだろう。この下に石段は続いていないから坂とは呼ぶのには苦しいが、神社が決めたのだから従うべきで、坂道散歩としては何の不満、文句があるはずもない。
塩釜の市街地へと下って行く。《地図》
この先で道に迷って、母子石を見つけた。
伝説の母娘の足跡が残る??
江戸時代に都の僧の夢枕に不動が立った。僧は泉沢堤のほとりで不動を見つけ出し、当地の清水湧く崖下の窪みに祀ったと伝える。鉄道敷設工事で現在地に遷座した。もとは塩釜トンネルの所にあったのか?近くに泉沢町もある。
ここを流れていた祓川に架かっていたのだろう。「平成3年の交差点改良で橋の形態は消えた」とある。
表参道の202段の石段。その上に楼門まで25段の石段が続く。男坂のこと。
この細い木に咲くのだろうか?
芭蕉もこの桜を見ることを奥州行脚の旅の目的の一つとしていたようだが、塩竃神社を訪れたのは花の見頃からは1ヶ月以上も遅かった。
裏坂 《地図》
女坂のこと。
裏坂の途中から右に下る未舗装の坂で、創建時からといわれる神社最古の参道。塩土老翁神(シオツチノオジ)が通ったと伝えられている坂道。
途中に金花水という湧き水があり、かつては参拝者の喉を潤したという。
「北 なヽまがり坂」とある。享保16年(1731)に塩竃の菓子商の越後屋喜三郎が建立。
裏坂を下りて来るとここに出る。《地図》
清酒「浦霞」
このあたりは入江になっていた。芭蕉はここから船で松島に渡った。
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