五日市街道③
2010年10月7日
牛浜駅(JR青梅線)・・・都道7号・・・(新奥多摩街道)・・・牛浜橋(玉川上水)・・・(奥多摩街道)・大坂(牛浜坂)・・・多摩川中央公園・石濱渡津跡碑・・・多摩橋(多摩川)・・・多西橋(平井川)・・・突抜坂跡あたり・・二宮宿・本宿坂(大坂・寺の坂)・・・玉泉寺・・・大塚古墳・・・(JR五日市線)・・・旧道・・・都道7号・・・天満宮・・・能満寺・・・旧道・・・(都道185号)・・・塩地蔵・・・都道7号・・・旧道・・伊奈宿・・宮沢坂(伊奈坂)・・岩走神社・・・(JR五日市線)・・・大悲願寺・・・五輪坂・・(JR五日市線)・・・三内橋(三内川)・・薬師坂跡・・・(都道7号)・・・正光寺・・・都道7号・・・檜原街道・権田坂下・・武蔵五日市駅(JR五日市線)
【ル-ト地図】
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昔は坂上に、立場の藤屋、木賃宿を兼ねた角屋、茶店の油屋などがあったという。
坂下で多摩川中央公園に突当たる。
左に「石濱渡津跡碑」、このあたりは足利尊氏と新田義興・義宗の武蔵野合戦での石浜古戦場跡ともいわれる。
今は正面の多摩橋で渡る。
碑の裏面には大沼枕山の「石浜の戦い」の漢詩が刻まれている。大沼枕山といえば『なま道(鮮魚街道)』の金比羅宮にも撰碑があった。
右は「うしはまの渡し碑」で大正14年に多摩橋ができて廃されたことの記念碑 《地図》
街道は平井川の土手の急坂の突抜坂(月の木坂)を上って二宮宿へ入った。
突抜坂はこのあたりに上っていたようだ。《地図》
二宮宿は本宿と北宿に分かれ、北宿には下、中、上宿があった。交差点を左折すれば宿の名の由来となった二宮神社がある。『あきるの市の坂⑩』に記載。
天台宗延暦寺派の寺。創建は不詳。明治6年から24年まで二宮小学校として使用されていた。境内の醤油の大樽の中には「大樽平和観音」が祀られている。『あきるの市の坂⑪』に記載。
「雨間の大塚」と呼ばれた方墳。
JR五日市線をくぐり、坂を下り途中から右に旧道に入る。
旧道 《地図》
原店バス停あたりで都道7号と合流する。
天満宮 《地図》
足利尊氏の母、瑞雲尼の創建と伝える。「山田の天神さま」と呼ばれている。
山田交差点の手前で、右に旧道に入る。《地図》
八王子、拝島などが読める。すぐ前の都道185号は鎌倉街道の上道の支道の一つで、「山の道」ともいわれる古道の道筋。
伊奈宿の家並み 《地図》
中世には伊奈郷と呼ばれた伊奈宿は近世になっても市が立ち賑わっていたが、五日市との市をめぐる争いが起こり、地の利を占めた五日市が伊奈にとって変わった。戦後まで「こぶなし」と呼ばれた美しい梨の並木があったそうだ。
塩地蔵堂 《地図》
ここから都道に出て新秋川橋の手前まで西進する。
正面奥に岩走神社の鳥居。
元の伊奈村の鎮守で、信州伊奈から移り住んだ人々が戸隠大明神を勧請したと伝える。
また、『五日市町の古道と地名』では、「伊那は昔から伊那石といわれた石材の埋もれていたところで、石材処理に秀でた技術を持っていた信州伊那谷高遠付近の石切職人(石工)が、この伊那石に目を付けて移住し、石造物の製作に従事していた。これらのことから「伊那」という地名は、移住職人が生地「伊那」の名を取って名付けたのだ、などと書かれたものもあり(例えば新篇武蔵風土記稿)、これを定説のように思う者もあるが、これには異論がある。「イナ」という地名は各地にあり、何れも岩・石に関係あるところで、「イナ」は岩石に関係ある地形の呼び名であることが分かる。五日市町の伊那も古くから石材の産地だったので、それに因んだ地名と思う」と言っている。
岩走神社前の南側下に 旧道が一部残り、集落もある。その下を秋川が流れている。《地図》
木造阿弥陀三尊像(国重文)を安置。
観音堂の欄間
五日市線の踏切を渡ると急坂となる。
右に馬頭観音(寛政?年)と石造物
坂下で交差点を渡った所の庚申塔、馬頭観音、地蔵など。ここは岩走神社前から下った旧道が今の街道と合流する地点。《地図》
三内橋 《地図》
昔ははるか下に架かっていた木橋で、渡って薬師坂の急坂を上って正光寺の門前へ出たそうだ。
この先で都道7号に出て、五日市駅前で五日市街道は終わる。 《地図》
ここから檜原街道(都道33号)となり、五日市宿に入る。宿は大下宿、下宿、中宿、上宿、番場と続いていた。そのあたりは『あきるの市の坂』で歩いている。
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