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2010年10月19日 (火)

浜街道(絹の道)①

2010年10月11日

八王子駅(JR中央線)・・・甲州街道(国道20号)・八日町交差点・浜街道(国道16号)・・・(中央線)・・・黄金橋(山田川)・・・旧道・・八王子医療刑務所・・・国道16号・・子安町交差点・・(京王高尾線)・・・(北野街道)・・・住吉橋(湯殿川)・・・住吉神社・片倉城址公園・・・国道16号・・旧道・・・(JR横浜線)・・・釜貫橋(兵衛川)・・・旧家(富士家登)・・・慈眼寺・・・白山神社・・・片倉台小学校・・・白山通り・・・(八王子バイパス)・・・鑓水(やりみず)峠(205m)・・絹の道・・道了堂(大塚山公園)・・・絹の道資料館・・一里塚跡・・・道標・御殿橋(大栗川)・・・永泉寺・・・嫁入橋(大栗川)・・・小泉屋敷跡・・・稲荷社・・・板木の名水・・・鑓水中学校・・鑓水公園(東の坂・西の坂)・・・(穂成田歩道橋)・・・(浜街道歩道橋)・・・(浜見場)・・田端坂・・・田端環状積石遺構・・・(県道158号)・・・(京王相模原線)・・・町田街道(都道47号)・・・福生寺・・・御嶽堂バス停・・旧道・・・御嶽神社・・・(都道158号)・・・長泉寺・・・町田街道・・・中村地蔵尊・・・下馬場交差点・・旧道・・・町田街道・・桜美林学園・・・箭幹八幡宮・・・上宿交差点・旧道・・木曽宿・上の地蔵堂・秋葉地蔵・福昌寺・・・伝重寺・金毘羅社・・・木曽の一里塚跡・・覚園坊・・・下の地蔵堂・・・町田街道・・・森野交差点(鎌倉街道)・・・(小田急線)・・絹乃道碑・町田駅(小田急線)

 幕末の横浜開港から鉄道の開通までの約半世紀、八王子に集積された輸出用の生糸が運ばれた道で、鑓水村の生糸商人「鑓水商人」が活躍し、「江戸鑓水」とまで呼ばれ繁栄した名残りの一部は「絹の道」として保存されている。
 むろん横浜開港以前からあった道で、東海道神奈川宿から生活物資を運ぶ「八王子道」、八王子からは「神奈川道」、「神奈川往還」と呼ばれ複数のルートがあった。開港後は八王子から原町田を経て芝生村(東海道との合流地点の芝生(しぼう)の追分)への直線的な道が重要視され「浜街道・浜道」と呼ばれた。この道を甲州街道との分岐点から横浜港までを3回で歩く。 

  参考:『歴史の道調査報告書 浜街道』(東京都教育委員会)

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5729 八日町交差点 《地図

直進が甲州街道、左折が浜街道(国道16号)で、このあたりに高札場があったようだ。

Img_5735 八王子医療刑務所(左)に沿う旧道

松尾和子の♪『再会』♪を思い出した。古いね俺も。

Img_5741 北野街道を横切る。

右手後方が片倉城跡

Img_5748 住吉神社

片倉城の鎮守で、ここは城内の一画。

Img_5747 由緒

Img_5752 城跡公園案内図

Img_5754 片倉城の空堀跡 【ル-ト地図】の①

Img_5753 二の丸跡

Img_5749 説明板

Img_5758 喫茶店の前あたりから旧道に入る。

Img_5764屋号「富士家登」の旧家 《地図

「富士谷戸」だろう。今は晴れていても富士山は見えないようだ。

Img_5773 慈眼寺参道前の道標

「至ヤリミズ村」・「至子安村」などと刻まれてる。

Img_5766 慈眼寺山門

上の鐘楼の梵鐘には「鑓水商人」の名が刻まれているそうだ。

Img_5771 山門左脇の六地蔵(天保2年(1831))・百萬遍供養塔(左端・寛政11年(1799)) 

Img_5777 白山神社

小堂右に馬頭観音などの石造物がある。

Img_5778 馬頭観音道標(文化2年(1805))

「右当所片倉村 左□□ 多摩郡上柚木村鑓水村」とあるそうだが、風化、剥落がひどくどれか分からず。

Img_5779 住宅街の坂を片倉台小学校へ上って行く。《地図

白山通りへ出て、八王子バイパスを越え、鑓水峠へ石段下に出る。

Img_5789 鑓水峠(205m)への151段の石段

Img_5792鑓水峠から八王子市街地と奥多摩、奥武蔵の山並み眺め 【ル-ト地図】の②

Img_5797「絹の道」へ入る。

Img_5817 説明板

Img_5812 道了堂跡(大塚山公園)

鑓水村の生糸流通の仲買商人の「鑓水商人」たちが建てた堂跡。左に「絹の道」(昭和32年)の石柱が立つ。

Img_5799 説明板

Img_5807 堂の礎石が残る。

Img_5837 当時の道了堂の銅版画(複製)

御殿橋の欄干にはめ込まれているもの。

Img_5809延命児育地蔵(明治14年)

生糸商人が建てたもの。

Img_5810築礎碑(明治13年)

Img_5813 絹の道は御殿橋の方へ下りとなる。《地図

Img_5822 鑓水峠(右)、御殿峠(左)の分岐点 《地図

庚申塔(左・寛政10年(1798))、秋葉大権現塔(中・文化11年(1814))、供養塔(右)

Img_5830絹の道資料館

鑓水商人の一人で「石垣大尽」と呼ばれた、八木下要右衛門家の屋敷跡。

Img_5831_2 一里塚跡(右の榎の所)

下ると御殿橋で、そこまでが史跡「絹の道」

Img_5834 道標(御殿橋の脇・慶応元年(1865))

正面に「八王子道」、東面に「此方はら町田 神奈川 ふぢさわ」、西面に「此方 はしもと 大山 津久井」

Img_5843 永泉寺本堂

八木下要右衛門の屋敷を移築

Img_5842 説明板

Img_5844嫁入橋(大栗川)を渡る。江戸の豪商から嫁を迎えたのでこの名だとか。このあたりを嫁入谷戸というそうだ。 《地図

Img_5845 小泉屋敷

Img_5847 説明板

Img_5849 現在も居住しているようで、ここまで。

Img_5854 板木の名水 《地図

「この水は飲めません」の貼紙がしてある。

Img_5852 説明板

この地にアイヌ民族が住んでいたとある。「鑓水」の地名由来も書かれている。

Img_5856 湧き水が流れているようだ。

Img_5853 案内図

ちょうど「板木の名水」の崖上を鎌倉街道が通っていたようだ。

Img_5859 鑓水公園案内図 

東の坂、西の坂がある。折角つけてくれた坂名なので、公園内でも歩かねばなるまい。

Img_5861 東の坂を上る。

Img_5862 西の坂を下って街道に戻る。

Img_5865 浜街道歩道橋をくぐる。《地図

Img_5866 見場(跡)あたりか

ここから横が見えたのだろう。給水塔に上れば見えるかも。

Img_5870 田端坂を下ると町田市に入り、町田街道に出る手前で左折し旧道に入る。《地図

Img_5874 田端環状積石遺構 【ル-ト地図】の③

縄文中期から晩期までの集落、祭祀、墓地遺構。富士山は見えない。雲の向うなのか?

Img_5875 説明板

Img_5887 御嶽神社

このあたり御嶽堂谷戸の鎮守 

Img_5889新しい道路ができるようだ。

Img_5891 石燈篭など(右側)

左側は普門品供養塔(右)(文政10年(1827))と太子塔(弘化2年(1845))

Img_5898 石燈篭(慶応元年(1865))・石灯籠改修記念碑(中)・地蔵?(左・寛政9年(1797))

Img_5903 長泉寺前

左の石造物は何か分からず。

Img_5911 中村地蔵尊 【ル-ト地図】の④

宝暦から天明までの13体の地蔵だが、新しい地蔵も追加されているようだ。後ろに「菊水延命経」石塔(慶応2年(1866))がある。

Img_5910 隣には道祖神(右・安永9年(1780))、庚申塔などが並ぶ。

Img_5927箭幹(やがら)八幡宮随身門

推古24年(616)に勅令によって勧請されたとか。康平5年(1062)には源義家が戦勝を祈願したという。

Img_5931 説明板

上宿交差点から右へ旧道に入ると木曽宿

Img_5937 木曽宿の家並み 《地図

木曽の中宿には江戸の吉原を買い切って豪遊したという、飯田勘右衛門の通称「店」(たな)と呼ばれた大屋敷があった。当時の勘右衛門は質屋で、豪農でもあり、名主、村役なども勤める土地の代表的顔役だった。『町田の民話と伝承 第一集』

Img_5939 上の地蔵(秋葉神社の隣)

もとは木曽宿の入口にあった。

Img_5946 秋葉神社の欅(ケヤキ)

縁結び、子宝の神木。嘉永3年(1850)の火災で焼かれ、幹が空洞になってしまった。その形が・・・。あとは由来書を読めば分かるよ。

このあたりに江戸時代の刑場の「百叩き場」があり、明治の初め頃までは「百叩きの刑」は行われていたという。『町田の民話と伝承 第一集』

Img_5944 由来

Img_5949 福昌寺

元和元年(1615)3月、家康の遺骸が久能山から日光へ移送された時の休息所になった寺。山門後ろに樹齢400年以上というイチョウがそびえる。

Img_5953 変則四辻 《地図

ここを左折する道はかつての矢倉沢往還(旧大山道)で、奥州古道(古東海道)ともいい、小野路一里塚、向坂、小野路宿を通り奥州方面へと通じていた。家康の遺骸もこの道を通った。『町田市の坂-3』に記載

今は左折すると伝重寺に突当たる。正面奥が覚園坊、右折するとすぐに木曽一里塚跡がある。

Img_5959伝重寺

左隣の金毘羅社はもとは境内にあった。

Img_5954 木曽一里塚跡 【ル-ト地図】の⑤

久能山に埋葬された徳川家康の遺骸を日光に移す際にここを通った。この時に木曾や小野路に一里塚を築いたものと思われる。『町田の歴史をたどる』

Img_5962 覚園坊(木曽観音堂・武相観音第33番札所)

木曽観音で知られ、「矢拾観音・矢受観音」の名がある。源義賢と義平の戦の中に白髪の老翁と童子が現れ、飛来する矢を拾い集めて和平をすすめ、鎮守(箭幹)八幡の方へ忽然と姿を消した。両軍は老翁は鎮守八幡の化身で、童子は木曽観音の化身と信じ、互いに軍を引き和睦したという。行基の作と伝える本尊の聖観世音菩薩は義仲寺からここに移ったものという。昔の境内は5000坪もあり、鉄砲馬場と呼ばれた馬場道では流鏑馬が行われていた。「矢受観音」の別名はこの流鏑馬行事に由来する。『町田の民話と伝承 第一集』 源義賢(木曽義仲の父)は義平により、大蔵合戦で殺されている。この話はそれ以前の逸話か。

鍵が掛っていて境内には入れず。今は無住の寺ようだ。

Img_5964 木曽宿の「下の地蔵」だろう。

Img_5970 鎌倉街道(現在)との森野交差点

旧鎌倉街道「上の道」

Img_5972 小田急線町田駅の「開かずの踏切」

Img_5975 絹乃道碑 《地図

右側面に「此方はちおゝじ」・左側面に「此方よこはま」、裏面に「原町田誕生四百年記念」で昭和58年に建てられた。

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