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2010年10月 9日 (土)

東街道

2010年9月24日

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 東街道は国府多賀城に至る古代の官道「東山道」とほぼ一致するといわれ、中世には「奥大道」と呼ばれていた。(宮→大河原)→玉崎→千貫→北目→笠島→塩手→箕輪→熊野堂→名取川→鈎取→宮城野→多賀城へと進んだ。しかし東街道には幾つもの道筋があり、それも時代とともに幾度も変わったようだ。江戸時代に奥州街道が整備されるまでは基街道として利用され、陸奥守が赴任地へ向かい、西行が旅し、奥州合戦で源頼朝の大軍が北上したのもこの道とされる。

 奥州街道と分かれる玉崎から名取川の栗木橋までちょうど1日の坂道散歩としては手頃の距離を歩く。名取川までは県道39号の西側に旧道と多くの旧蹟・遺跡などが残っている。車の往来も少なく、静かな街道歩きが楽しめるだろう。名取川を渡った東街道は①鹿落坂を下って広瀬川を渡り、あるいは②七曲り坂を下り宮沢で広瀬川を渡り石名坂から陸奥国分寺、比丘尼坂(塩釜街道)を通って多賀城へと通じていたようだ。そのあたりは去年の坂道散歩と塩釜街道で歩いている。

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4572 奥州街道から分かれ東街道に入る。【ル-ト地図】の①

ここより西側の玉崎西バス停から北東に入る道もある。その道の方が古いかも。

 

Img_4800 国道4号を地下道でくぐる。

 

Img_4803 東北本線も地下道でくぐる。

この先、左に回りこんで千貫神社前に出る。

 

Img_4804_2 千貫神社

天平元年(729)の創建といい大山祗神を主祭神に五柱を祀る。かつては「千貫の松」の生い茂る千貫山の山頂にあり、漁船守護の神として航海の目標物となっていた。

 

Img_4807 社殿の脇の石段上には何があるのか。「立入禁止」の立札があるが、かまわず上って行く。

 

Img_4806 石段上には小祠がある。後ろはゴルフ練習場でゴルフボールが石祠の前に落ちている。球が飛んで来て危険なので「立入禁止」のようだ。神さんの後頭部に当たったらどうするんだ。神罰が当たること間違いなし。

 

Img_4809 東平王塚古墳 【ル-ト地図】の②

墳丘は破壊され崩れている。直径40mの前方後円墳だったようだ。東平王とは、多賀城を築いた大野東人だとする説があるが前方後円墳の時代とは合わない。

 

Img_4817県道39号から旧道に入り北上する。

左下に道標?

 

Img_4818_2 道標

「左 ○道祖神・・・・」?

 

Img_4820_2 車も通らない静かな道を行く。

 

Img_4821 常寿寺

 

大日如来の背中を拝んで。

 

Img_4830 庚申塔・湯殿山碑・念仏供養塔など

北長谷公会堂前

 

Img_4832 けやき沢不動尊

北長谷の山中に不動堂があり、その裏手で2体の不動明王像が滝に打たれているそうだ。

 

Img_4837 長谷寺

 

Img_4835 平等山(長谷寺)横穴墓群) 《地図

斜面を探しても横穴(跡)らしき物は見つからない。農作業中の人に聞くと、全部崩れて埋ってしまったという。

 

Img_4840 気分のいい道を上る。

 

Img_4841 「瀧之入不動尊入口」

 

竹倉部遺跡の南側、沢沿いに登ると不動堂があるようだ。その上部(西方)にはため池が2つある。 

 

Img_4844 竹倉部遺跡

標柱のみで説明はない。このあたりは「竹倉部」という地名。正面も立派な竹薮だ。竹に関係のある遺跡なのか?

 

Img_4849 くねった坂を上り突当たりを左折すれば金蛇水神社

 

Img_4851金蛇水(かなへびすい)神社 《地図

刀鍛冶にまつわる由来話がある。参道には休憩所(左端)があり、境内の接与所には巫女さんがいて、意外と明るい大きな神社だ。

 

Img_4853 拝殿

 

ハナトピア岩沼の北側を通り県道に出て、すぐに北西に東街道に入る。

Img_4860 北原遺跡あたりなのだが、何の標示、案内板もない。《地図

台地上に営まれた古墳時代前期の集落跡で、多くの竪穴住居跡が発見されたそうだ。手前にある大窪地蔵尊も分からず通り過ぎた。

 

Img_4871 貴船神社 《地図

 

鬼の顔のような狛犬、石がごろごろ転がる暗い参道で金蛇水神社より気に入った。

 

Img_4875 馬頭観音

左は志賀沢川

 

Img_4879 薬師神社 《地図

神社だから狛犬だが堂内は薬師如来を安置するのだろう。まさに神仏一体だ。

 

Img_4881 諏訪神社参道 《地図

 

Img_4886 福寿院

 

Img_4891 樹木のトンネルの坂を上る。

 

Img_4893 木の根がむき出し、今にも崩れてきそうだ。

この先で道に迷う。東街道からははずれているかも知れない。

 

Img_4894 松尾観世音・金毘羅・馬頭観音・西国三十三観世音など 《地図

愛島(めでしま)小学校前

 

Img_4906 蟹王山智福院 

 

Img_4901 御詠歌に「東(あずま)の道」(東街道)、「蟹の報恩」と歌われている。

 

Img_4903 弁財天

「蟹の恩返し」の話は京都木津川市の蟹満寺、『山背古道②』、東京福生市の「かに坂」にもある。『福生市の坂

 

Img_4909 ここを上って県道39号に合流する。《地図

 

Img_4922 大塚山古墳後円部 【ル-ト地図】の③

全長90mの県内で4番目に大きい前方後円墳。賽ノ窪古墳群の一つ。

 

Img_4915 説明板

 

Img_4923 後円部上から前方部

かなり低い。私有地で立入禁止。

 

Img_4928 御上古墳 《地図

賽ノ窪古墳群の一つの、直径18mの円墳

 

Img_4935 笠島道祖神社(佐倍乃(さえの)神社) 【ル-ト地図】の④

 

長徳4年(998)、陸奥守に左遷された藤原実方は多賀城に赴く途中、(赴任中に歌枕の「阿古耶の松」を訪れた帰途ともいう)ここを下馬せずに通り過ぎようとして落馬して落命した。「佐倍乃」は道祖神とおなじ「塞(さえ)の神」のこと。

 

Img_4931 由緒

 

Img_4937 鳥居下の石段を下ると東街道の古道が残っている。《地図

 

Img_4938 竹藪の間の暗い道

ここを下って行くと一般道に出る。国見峠の廃道の長坂跡よりもずっと長く残っている。

 

Img_4941 笠島廃寺跡(右)

道祖神社の方向。

 

Img_4940 説明板

 

Img_4945_2 十石上古墳 《地図

全長約32mの前方後円墳。賽ノ窪古墳群の一つ。

 

Img_4953 塩薬師如来

昔は仮宿囲の東の堂に祀られていた。万延2年(文久元年・1861)に堂は火災に遭い、薬師像は空中高く飛んで、南方の木の枝に避難した。村人はここに堂を再建し薬師像を祀ったという。名前の由来は昔、塩手村で製塩が行われていたことがあり、塩薬師と名づけた。塩手村の由来は往古、老僧が湖水を汲んで塩を煮て、村人に与え病を治した。それで塩釜のある所を釜の前、村を塩手村と称した。二百十日の前夜には、五穀豊穣の作祭りという夜祭りが行われている。『西多賀探訪記』より 

夜祭りは今でも行われているのだろうか? 今でもここは愛島塩手という地名。 

 

Img_4952 小さな薬師如来像

これなら空中高く飛べるかも。

 

Img_4955 永禅寺

 

Img_4958 「藤原実方の墓」への大きな案内板

これなら墓もさぞかし大きいと思いきや。

 

Img_4973 実方橋を渡るとコスモスが出迎えてくれる。【ル-ト地図】の④

 

Img_4961 芭蕉紀行碑・芭蕉句碑

ここを訪れることができなかった無念の一句。「笠嶋はいづこ皐月のぬかり道」

 

Img_4962 かたみのすすき(草鞋塚)

まるで俺の頭のようだ。この中にも仙台藩の俳人、松洞馬年の句碑が立つ。「笠嶋はあすの草鞋のぬき処」

 

Img_4965 墓は板囲いの中 【ル-ト地図】の⑤

周りは西行の歌碑(右前)、その後ろが「実方朝臣之墳碑」、左奥が実方の「桜狩り」の歌碑。

文治2年(1186)にここを訪れた西行の歌、「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野の薄かたみにぞ見る」、実方の「桜狩り」の歌は「桜かり 雨は降りきぬ 同じくは ぬるとも 花の蔭にかくれむ」で、この歌をめぐって一条天皇の前で藤原行成と口論、喧嘩となり陸奥守へ左遷された。

 

Img_4967 ただの土くれだけ。もとは五輪塔もあったというが。

これが中古三十六歌仙の一人で光源氏のモデルの一人、清少納言にも言い寄ったというプレイボーイ、都の貴公子、鄙を馬鹿にして死んじまった藤原実方の成れの果てだ。伊達朝宗の墓は石ころだけだったが、質素、素朴さを感じた。ここはなぜか哀れを誘う。藤原実方は嫌いだが。実方の墓は山形県の千歳山萬松寺にもある。右に阿古耶姫、左に中将姫と並んでいてそちらの方がましだ。女好きな実方も2人の姫に囲まれ満足だろう。ただし中将姫は実方の娘だが。詳しくは『藤原実方の哀れ』が面白い。

 

Img_4968 説明板

 

県道39号に戻り北上する。

Img_4976 庚申塔・馬頭観音・石神など左側の崖上に集められている

 

Img_4982 今熊野遺跡(県農業園芸総合研究所)

縄文から平安時代までの複合遺跡。

 

Img_4983 説明板

 

Img_4991 今熊野神社 《地図

100段近くある石段がこたえてきて、膝が心配になってきた。

 

Img_4993 桑島館跡方向

浄水場の西側の逢形山にある。館主の桑島長者の娘が「幾世と小佐治の物語」の幾世。

 

Img_4995幾世・小佐治の墓 《地図

墓は道路を挟んで別れ別れだ。もとは一緒に並んでいたのではないだろうか?せめて死後は一緒に暮らせるように並べてあげたらどうか。

 

Img_4996 幾世の墓

左の小さな石。永和2年(1376)と刻まれているというが見えず。

 

Img_4997 小佐治の墓

 

観音橋(増田川)の先に川上十一面観音堂があるはずだが、見当たらず。

 

Img_5003 五方の辻 《地図

左に熊野那智神社仮宮の鳥居。

 

Img_5004 熊野那智神社の仮宮

左は川上大館、右は熊野那智神社方向。鳥居の下に道標がある。

 

Img_5006五方の道標(享保2年(1717)の造立)

東街道は北面の「くまのしんくう ほんくう」道を行く。

 

Img_5009 秀麓斎 《地図

奥州三十三観音霊場の第二番

 

Img_5018 四つ脚門 《地図

伊達政宗は参勤交代で東街道を通った? 奥州街道はまだ整備されてなかったのだろう。

 

Img_5016 説明板

 

Img_5020 地蔵などの石造物が並ぶ。

 

Img_5026 新宮寺 《地図

もとは熊野新宮内にあった寺だろう。

 

Img_5033 熊野新宮

保安4年(1123)に名取老女により勧請されたと伝える名取熊野三社の一社。

 

Img_5035 説明板

 

Img_5034 鐘楼と文殊堂は移されず境内に残っている。

 

Img_5043 熊野堂温泉

今でも営業しているのか?

 

Img_5046 熊野本宮

 

ここあたりにに大門山遺跡熊野堂横穴墓群があるのだが案内板などはなくどこか分からず。

 

Img_5047 車道を2本くぐり栗木橋へ。

 

Img_5049 栗木橋(名取川) 【ル-ト地図】の⑥

狭い橋で歩道は分離していない。県道に出て「竹の内前」バス停から仙台駅行きの宮城交通バスに乗る。30分くらいかかるから一眠りできると思っていたが、乗った途端その車中のうるさいのにビックリ。まるで鶏小屋、猿の檻にでも入ったよう、蜂の巣を突いたような騒ぎだ。某(短)大の学生(特に女子)の下校時だったのだ。何とか座れたがとても居眠りできる状態ではない。すると若い運転手もさすがこのうるささには呆れたか、「少し静かにしなさい。このバスは貸切ではないんだから」と。いや拍手喝采だ。でもそれぐらいのことでへこたれる連中ではないが、少しは静かになった。(短)大学生といっても、おつむの程度は、幼稚園児か小学生並みだから致し方なしか。毎日こんな輩と付き合わされる運転手、乗客が可哀想になった。

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