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2010年11月14日 (日)

中山道(守山宿→草津宿)・朝鮮人街道①

2010年10月27日

守山駅(東海道線)・・・守山銀座西交差点・・土橋・・加宿今宿・・樹下神社・・・今宿の一里塚跡・・・住蓮坊の母の墓・・・十王寺・・・諏訪神社・・・大宝神社・・・仏眼寺・・・百々川橋・・・八幡宮・・・葉山川橋・・・(東海道線)・・・伊砂砂神社・伊佐々川・・・光明寺・・・(サンサン通)・・・覚善寺・・・(旧草津川)・・草津宿高札場跡・常夜灯・道標(東海道合流点)・・・草津駅(東海道線)→野洲駅

野洲駅・・・朝鮮人街道・中山道分岐点・・・野洲郡役所跡・・・銀織寺道標(野洲駅前交差点)・・・久野部跨線橋(東海道線)・・・中ノ池川・妓王井川・・・光円寺・・・生和神社・・・遍照寺・・・遊林寺・・・屋棟神社・・・菅原神社・・・永原御殿跡・・・土安神社・・・明覚寺・・・妓王寺・・・西遊寺・・・北村季吟の碑・・・浄専寺・・・新家棟川橋・・・仁保橋(日野川)・・・正林寺・・・西覚寺・・・大橋・・・妙見宮道標・・・西光寺・・・県道2号・・・小船木橋(白鳥川)・・・小船木橋交差点・旧道・・・願成就寺・・・本願寺八幡別院・・・近江八幡の家並み・八幡堀・日牟八幡宮・・・天津神社・・・旧ヴォ-リス邸・・・・鍵之手町・・・常夜灯・道標(県道2号音羽町南交差点)・・・黒橋川・・・黒橋町公民館・・・長命寺川・・・高木神社・県道199号・・・松原橋(山本川)・・・(東海道線)・・・浄厳院・・・(東海道線)・・・金川橋・・・安土駅(東海道線)

 中山道を東海道との合流点の草津宿まで歩き、朝鮮人街道に取り掛かった。朝鮮人街道は野洲で中山道から分かれ、近江八幡、安土、彦根城下を通り、鳥居本で中山道に合流する道で、江戸に向かう朝鮮通信使が通った道、それ以前は織田信長が往来した道、徳川家康が上洛の時に使った吉例の道でもある。

  参考:「朝鮮人街道(中近世古道調査報告書)」(滋賀県教育委員会)

  【ル-ト地図】(中山道)・【ル-ト地図】(朝鮮人街道)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8045 土橋(境川・吉川) 《地図

旧野洲郡の守山宿と旧栗田郡今宿村の境の橋。瀬田の唐橋の古材を使って架け替えられた公儀の御普請橋だった。今はコンクリート製
広重の守山宿』(街道沿いではなく川に沿って茶屋などが描かれていて実際の宿場風景とは違っている)

Img_8048 樹下神社

左の常夜灯は天保2年(1831)に伊勢屋佐七が建立したもの。もとは土橋の橋詰にあった。

Img_8053 守山宿の加宿、今宿の家並み

Img_8056 今宿の一里塚跡(128) 【ル-ト地図】(中山道)の①

Img_8058 旧家

Img_8059 住蓮房(坊)の母の墓がこの路地奥にある。

武佐宿の先には住蓮坊首洗い井戸、住蓮坊古墳があった。

Img_8062 説明板

Img_8067 十王寺 【ル-ト地図】(中山道)の②

右に「焔魔法王小野篁御作」の石柱。小野篁の作の閻魔像があるということか。小野篁(たかむら)は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという逸話があるそうだ。それで「焔魔法王」なのだろう。このあたりの焔魔堂町という地名にもなっている。

Img_8072 芭蕉句碑(大宝神社前の大宝公園内)

「へそむらの まだ麦青し 春のくれ」 芭蕉の句がどうかは疑義があるようだ。「へそむら」は「綣村」で、現在もここは守山市綣だ。

Img_8071 説明碑

Img_8078 大宝神社 【ル-ト地図】(中山道)の③

Img_8077 説明板

Img_8106 東海道線をくぐって線路沿いの細い道を通って草津宿へ。《地図

Img_8116 伊砂砂神社(左)の自然石の平積み石垣は鎌倉時代に築かれたものと伝えるそうだ。 【ル-ト地図】(中山道)の④

Img_8115 拝殿・本殿

Img_8112 説明板

Img_8123 卯田畳店

Img_8126 覚善寺 《地図

道標(明治19年) 「右東海道 左中山道」

ここの西側の交差点が現在の東海道との合流(分岐)地点ということか。

Img_8128 天井川の旧草津川をくぐる。

地元では隧道を「まんぽ」といい、「まんぽで抜ける草津川」

Img_8130 左から来る東海道との合流地点 【ル-ト地図】(中山道)の⑤

この先は『東海道石部宿→草津宿』に続く。

*****ここからは朝鮮人街道①*****

Img_7942 中山道(右)との追分 《地図

朝鮮通信使(江戸時代)は、釜山(海路)→対馬→赤間関(下関)→瀬戸内海→大坂(水路)・淀川→淀(陸路)→京都→東海道→中山道→朝鮮人街道→中山道→垂井宿→美濃路→大垣→名古屋・熱田・東海道→江戸のルートを進んだ。

Img_7953_2分岐に立っていた道標(現在は蓮照寺の境内にある)

「左 八まんみち」は朝鮮人街道のこと。彦根道、京街道、浜街道、唐人街道などとも呼ばれた。

Img_8137 野洲郡役所跡 【ル-ト地図】(朝鮮人街道)の①

正面は三上山

Img_8134 説明板

Img_8132 道標(野洲駅前交差点右) 《地図

「本山錦織寺一り」

野洲市役所の東側一帯は奈良・平安時代の野洲群衙跡。
直進し妓王井川沿いに進み、県道の久野部跨線橋で東海道線を越え、線路沿いを北東に向かう。

Img_8144 妓王井川を渡って冨波乙の集落に入る。《地図

平家物語に登場する妓王・妓女が故郷の水不足を憂い、平清盛に頼んで造らせたという用水路。

Img_8145 冨波乙の家並み

Img_8149 生和神社

Img_8150 説明板

Img_8157 静かな通りで立派な家並みが続く。

左は遍照寺

Img_8160 旧家

Img_8163 旧家

Img_8166 屋棟神社

天井川の旧家棟川の守り神。

Img_8172 薬師堂

寄木造りの薬師如来坐像は平安時代後期の作で、重文だそうだ。

この先で、街道から離れ「妓王ゆかりの地」などを巡る。

Img_8187 案内図

Img_8179 菅原神社 《地図

神門は室町時代後期の建立で重文。境内には白鳳時代後期の瓦が出土した永原廃寺跡があるという。

Img_8180 永原御殿跡 【ル-ト地図】(朝鮮人街道)の②

徳川家康から家光まで上洛時の宿泊所。寛永11年(1634)の家光上洛の際には大整備がなされ、本丸、二の丸、三の丸を持つ、実質上の城郭となった。その後は将軍の上洛は行われなくなり、貞享元年(1684)には廃止され解体された。今は石積みの一部が残るのみ。この先の浄専寺の門は御殿の遺構。

Img_8183 土安(てやす)神社

妓王ゆかりの神社。祭神は妓王井川開拓の神、童子命と工事奉行の瀬尾兼康。もとは菅原神社の御旅所として創建された。

Img_8184 説明板

Img_8193 妓王寺 《地図

境内の見学、参拝は予約・連絡が必要。

Img_8208 妓王屋敷跡 【ル-ト地図】(朝鮮人街道)の③

Img_8206 説明板

Img_8199 北村季吟句碑 《地図

野洲生まれで、芭蕉は門人の一人。

「妓王井にとけてや民もやすごおり」の句碑。

Img_8201 説明板

Img_8211 浄専寺の門

永原御殿から移築。

Img_8219 街道に戻りしばらく単調な道を行く。北西からの風が強い。《地図

Img_8227 日野川(仁保橋)から

Img_8233 正林寺 《地図

守川山と号し、宝暦13年(1763)の朝鮮通信使来朝の際の仁保川(日野川)仮土橋設置に携わる。

Img_8235 街道沿いの風情のある路地

Img_8236 十王町の家並み

Img_8241 朝鮮人街道石柱(右)

「朝鮮通信使の通った仁保のまち」とある。

Img_8243 むべ地蔵

右の碑の左前が「むべの木」ということか? 「むべなるかな」から由来する木の名とか。

Img_8250 旧家

Img_8255 街道沿いには火除け、火伏せの愛宕神社燈篭が多い。

Img_8261 妙見宮道標「妙見宮 八町」

この道は加茂神社、平安時代の阿弥陀如来(重文)の生蓮寺に通ずる。妙見宮とは加茂神社のことなのか?

Img_8267 県道2号に合流する。

小船木橋(白鳥川)を渡り、小船木橋交差点の先で左折し旧道に入り、八幡城下へ向かう。

Img_8274 小船木町に入る。《地図

左に説明板

Img_8276 説明板

Img_8281 道標 《地図

「左 京みち」・「右 長命寺」、

「京みち」は朝鮮人街道で、「長命寺」は琵琶湖湖畔上にある西国三十三ケ所霊場第31番の長命寺のこと。

Img_8284 願成就寺

聖徳太子が勅により近江国内に48ケ寺を建立した際、最後にこの寺を開基したので、この寺名になったといわれている。当初は八幡山南西の地にあったが、八幡城築城のため鷹飼に移し、天正14年(1586)現地に移転した。本尊の木造十一面観音立像は重文。地蔵堂の「木の中地蔵尊」も重文。

Img_8290 芭蕉句碑(願成就寺境内)

「比良三上 ゆきさしわたせ 鶯の橋」、境内には「五月雨に 鳩の浮巣を 見に行かん」、「一声の 江の横たふや ほととぎす」の句碑もある。

Img_8298 本願寺八幡別院裏門(天明2年(1782)建立)

家康が上洛する際に宿泊した寺で、朝鮮通信使の正使・副使・従事官の昼食所となった。

Img_8302近江八幡』の家並み

Img_8303 旧家

Img_8307中村四郎兵衛邸

享保5年(1720)開店の「扇四呉服店」

Img_8309 旧中村邸

Img_8318 郷土資料館

元八幡警察署で西村太郎右衛門の屋敷跡

Img_8316 旧伴家住宅

Img_8329 新町通り 《地図

森五郎兵衛宅(右)、旧西川家住宅などが並び通り。このあたりは団体の見学者が多く、写真が撮りにくい。直進して八幡堀に出る。

Img_8339 八幡堀 【ル-ト地図】(朝鮮人街道)の④

八幡城の濠でもあり、八幡町と琵琶湖を結ぶ運河でもある。

Img_8361 説明板

Img_8344 屋形船、散策者、絵を描いている人たちで賑わっている。

Img_8338 我関せず昼寝で熟睡中

Img_8354 日牟(ひむれ)八幡宮

Img_8360社殿

Img_8357 八幡城跡

標高272mの八幡山山頂に天正13年(1585)、豊臣秀次によって築城。八幡山ロープウエイで行ける。

Img_8366 白雲館

明治10年に八幡東学校として建築され、役場、郡役所、信用金庫などの建物に使用された。

Img_8375 永原町通り 《地図

伝統的建造物群保存地区

Img_8376 突当たりを左折し街道に戻る。

Img_8389ヴォ-リズ邸 《地図

建築家、プロテスタントの伝道者、メンタムでおなじみの「近江兄弟社」の創立者。後方に近江兄弟学園がある。

Img_8392 説明板

 高札場のあった鍵之手町で右折し南下する。

Img_8401 常夜灯・道標(文久3年(1863))・地蔵の小祠(県道2号の音羽町南交差点)《地図

道標は長命寺まで1里半と十丁(約6.9km)、観音寺まで2里であることを示している。観音寺は繖山(きぬがささん)の山頂近くにある、西国三十三観音霊場の第32番の観音正寺のこと。
常夜灯は万人講により元治元年(1864)に建てられたもの。

Img_8406 県道2号、県道26号を越え、右折左折を繰り返す。

Img_8409木の道標が立つ辻

「左 朝鮮人街道 右 八風街道 いせ 八日市 ひの」

八風(はっぷう)街道は中山道と東海道を結ぶ道で、中山道の武佐宿から八日市に出て、鈴鹿山脈を八風峠で越え、東海道の桑名宿と四日市宿の中間地点に出る。四日市からは伊勢神宮に通じている。

黒橋公民館の先で左折し東に向かう。

Img_8422 高木神社で左折し県道199号を安土駅に向かう。《地図

Img_8432 浄厳院 【ル-ト地図】(朝鮮人街道)の⑤

織田信長が開いた浄土宗の寺。天正7年(1579)には、浄土宗と日蓮宗の僧による仏教論争(安土宗論)が行われた寺。

Img_8433 説明板

Img_8443 安土駅

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2010年11月12日 (金)

中山道(武佐宿→守山宿)

2010年10月26日

武佐駅(近江鉄道)・・・若宮神社・伊庭邸跡・・・(国道8号)・・・瓶割山城跡・・・日吉神社・・・住蓮坊古墳・・・住蓮坊首洗い池・・・供養塚古墳・・・道祖神社・・・北浦橋(白鳥川)・・・国道8号・八幡神社・高札所跡・旧道・・・日野川渡し跡・・・国道8号・横関橋・・・旧道・・・浄泉寺・・・大洞川・・・西横関交差点(国道8号)・・・善光寺川橋・・・旧道・・・鏡交差点・国道8号・・・間の宿鏡・真照寺・義経宿泊の館跡・本陣跡・鏡神社・義経元服の池・旧道・・・平宗盛胴塚・首洗い池跡・・・国道8号・・・蛙不鳴池・・・(大篠原の一里塚跡)・・・浄勝寺前交差点・旧道・・・大笹原神社石柱・・・国道8号・・・西池・・・正蓮寺・旧道・・・上の市川・・・愛宕山常夜灯・家棟川新橋・・・篠原神社・・・子安地蔵堂・・・桜生史跡公園・・・中の池地蔵堂・・・小篠原村庄屋笹村邸跡・・・暁酒造・・・養専寺・・・(新幹線)・・・野洲小学校・・・朝鮮人街道分岐点・・・背くらべ地蔵(行合ふれあい広場)・・・唯心寺・・・蓮照寺・・・(東海道線)・・・十輪院・・・野洲川橋・・・馬路石邊神社・加宿吉身・伊勢戸川・慈眼寺・守山宿・天満宮・本陣跡・井戸跡・中山道街道文化交流館・道標(高札場跡)・東門院・守山西銀座交差点・・・守山駅(東海道線)

  【ル-ト地図

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Img_7715 ちょうど通学の時間、こちらも武佐駅から出勤だ。

Img_7720 伊庭貞剛邸跡・若宮神社 《地図

近江守護の佐々木氏の流れをくむ名家。今は建物はなく、「いば eco 広場」になっている。

Img_7721 説明板

Img_7724 旧家

この先、六枚橋交差点まで行かねばならないのに、西宿交差点に出る手前を左折してしまった。「まちなみ 水郷 中山道コース」の立看板の標識が出ているから間違いやすいのでは。

Img_7733 瓶割山城跡の下 《地図

瓶割山(長光寺山)の山頂にあり、古くは長光寺城と呼ばれていた。瓶割山の名は柴田勝家が、この城に籠って六角承禎と戦った際に、城内の水瓶を割って城兵を奮い立たせ、出陣して勝利したので、「瓶割り柴田」の異名をとったという伝えに由来する。麓には日吉神社、不二滝がある。

Img_7731 説明板

Img_7736案内図

Img_7747 住蓮坊古墳

千僧供古墳群の5世紀中頃の直径93mの円墳。

Img_7751 墳頂の石塔

住蓮坊と安楽坊の墓と伝え、地元では御僧塚と呼ぶ。

Img_7757 住蓮坊首洗い池 【ル-ト地図】の①

Img_7758 説明板

Img_7765 瓶割山(234m)

Img_7767 供養塚古墳

Img_7769 説明板

Img_7772 道祖神社の前を通り、国道8号に出て渡り八幡神社脇から旧道に入る。

Img_7777 八幡神社 《地図

源義家が奥州遠征の途中、武運長久を祈願し創建したという。

左下に「高札所跡」の石柱。

Img_7780 旧家が並ぶ馬淵町を日野川に向かう。

馬淵の一里塚(125)があったのはどのあたりか?

Img_7781 旧家

Img_7790 日野川の渡し跡あたり

Img_7795 今は左に迂回して国道8号の横関橋を渡る。

広重の武佐』(日野川を2隻の舟をつないでの「舟渡し」)

Img_7798横関橋を渡ってすぐ右に旧道入る。《地図

Img_7799 土手上を行き、次第に日野川から離れ南西方向へ進み国道8号の西横関交差点に出る。

Img_7810 間の宿鏡に入る。

Img_7813 真照寺

鏡神社の神官で万葉の女流歌人、鏡王女、額田王(ぬかたのおおきみ)を育て、壬申の乱で戦死したという鏡王が葬られている。

Img_7820 義経宿泊の館跡(鏡口交差点先の国道沿いの右側)

屋号「白木屋」の駅長の館跡で、義経に同行し道案内の金売吉次の常宿だったという。

隣が間の宿、鏡の本陣跡(林惣右衛門)、その道路向かいが脇本陣跡(白井弥惣兵衛)

Img_7818 説明板

Img_7824 間の宿鏡の家並み

古代から中世に栄えた篠原駅家が衰え、鎌倉時代頃より移った宿場で、近世でも武佐宿と守山宿の間の宿だった。

Img_7825 鏡神社 《地図

左は「義経烏帽子(えぼし)掛けの松」の切り株。

Img_7827 説明板

Img_7826謡曲烏帽子折

Img_7833 鏡神社本殿(重文)・拝殿

Img_7841 義経元服の池 【ル-ト地図】の②

承安4年(1174)、義経東下りの途中、この地で元服加冠した時に使った水の池。ここで牛若丸から義経になったということ。『義経元服ものがたり

Img_7837 説明板

Img_7842 左に旧道に入る。

Img_7847 平宗盛胴塚の案内標識(国道8号に出た所)

Img_7853平宗盛・清宗父子の胴塚 【ル-ト地図】の③

首洗い池は今はない。

Img_7850 説明板

Img_7849_2 説明板

Img_7855 蛙不鳴池 《地図

首洗い池とつながっていた池。
この先が大篠原の一里塚跡(126)のようだが何の表示もない。

Img_7869 篠原の家並み 《地図

古代から中世には東山道の篠原の駅家、篠原宿があった。

Img_7875 西池

「源平盛衰記」の篠原堤ともいう。「篠原堤、鳴橋、駒を早めて打程に、今日は鏡に著給」か?

Img_7876 説明板

Img_7881 常夜灯(家棟川手前) 《地図

Img_7884 家棟川(やのむねがわ)新橋

平成19年度の河川切下げ工事竣工までは天井川で「家棟隧道」でくぐっていた。今は川の水は少ない。

Img_7891 ありし日の家棟隧道

上を家棟川が流れる。

Img_7892 篠原神社

辻町の鎮守

Img_7896辻町の家並み

Img_7899 子安地蔵堂 《地図

平安末期の等身大極彩色の木造の地蔵で、1月、8月に開帳されるそうだ。

Dsc05234 子安地蔵   

Img_7898 説明板

Img_7902桜生史跡公園

Img_7901 説明板

Img_7917 甲山古墳

横穴式石室が開口。石室に入ると自動で女性の説明のアナウンスが流れる。以前、古墳巡りをやっていた頃、雪の積もった時に来て、いきなり石室内から声が聞こえてきてびっくら仰天した。

Img_7913 家形石棺

Img_7909 説明板

Img_7921池地蔵尊

」の字が「央」のように見えるが、近くの「中の池川」のことだろう。

Img_7924 稲荷神社鳥居

境内は広く古宮神社本殿は重文。一度訪れているので遥拝のみ。

Img_7926 境内図

Img_7927小篠原村庄屋苗村邸跡

このあたりが野洲の一里塚跡(127)のようだが、見落としたか?

Img_7932暁酒造 《地図

清酒「暁」

Img_7938 野洲小学校前

Img_7940 朝鮮人街道分岐点 【ル-ト地図】の④

Img_7942 中山道(右・武佐宿方向)・朝鮮人街道(左・野洲駅方向)

朝鮮人街道は草津宿に着いた後に歩く予定。

Img_7953分岐点にあった道標(享保四年(1719)・現在は蓮照寺に移されている)

「左 八まんみち」が朝鮮人街道のこと。「右中山道」

Img_7946 背くらべ地蔵(行畑石仏・行合ふれあい広場) 《地図

右の背の低い方が地蔵で、左は阿弥陀如来像(鎌倉時代)だが、両方を「背くらべ地蔵」と呼んでいるのか? 

Img_7945 説明板

Img_7951 蓮照寺

淀領境界石(右)・錦織寺道標(中)、先ほどの朝鮮人街道道標(左)

Img_7960 宇野勝酒造 《地図

清酒「玉の春」

Img_7964 東海道線をくぐった向こうに十輪院

夜、野洲川を渡る旅人のため毎夜灯籠に灯をともしていたという。

Img_7966 芭蕉句碑 《地図

十輪院の境内だが入れない。

「野洲川や 身ハ安からぬ さらしうす」

野洲川の河川敷は江戸時代から近江麻布の野洲晒の地だった。

Img_7965 説明板

Img_7973 三上山(432m・野洲川橋から)

近江富士とも呼ばれ、和歌にも詠まれ、俵藤太(藤原秀郷)のムカデ退治の話で有名。麓にはこの山を神体とする御上神社がある。野洲川は荒川で、恒常的な橋は架けられず徒歩渡りで、大雨の時などは旅人は苦労したという。

Img_7976 馬路石辺(うまじいそべ)神社 【ル-ト地図】の⑤

どっしりと重厚感のある隋身門、頭でっかちに見えるが重さはそれほどでもないか? 隣接して益須寺があったようだ。

Img_7986 この吉身小学校南交差点あたりは吉身村で、守山宿の加宿の東端で松並木があり、水田が広がっていたという。100mほど東が日本書紀にも記事がある白鳳時代の益須寺(やすでら)跡

Img_7983 説明板

Img_7988 伊勢戸(伊勢殿)川 《地図

加宿吉身の高札が立っていた所。

Img_7987 吉身(郷)説明板

「醴泉」(れいせん・こさけいずみ」が日本書紀に出てくる。

説明文を読んでいると、後ろに人の気配が。地元のおばさんが感心そうに読んでいる。近くに住んでいても、説明板は気にも留めず読んだことはなかったという。しばし談笑し一休み。

Img_7989 守山宿の家並み

京からの東下りの旅人は、最初の宿泊地で「京発ち守山泊まり」といわれ、旅籠が軒を連ねる賑わいのある宿場だった。後に東の吉身と西の今宿が加宿となり、さらに発展した宿場。

Img_7996 慈眼寺(帆柱観音)

昔は馬路石邊神社の神宮寺だった寺で、倒壊寸前の本堂を吉身の住民がこんな立派に再建した。最澄に由来する帆柱観音を安置している。

Img_7991 帆柱観音由来

Img_7997 旧家

Img_8000 旧家

Img_8002南井金物店

Img_8007 宇野本家

女性スキャンダル問題でたった69日で退陣した宇野元首相の実家(造り酒屋酒長(あらちょう))。

Img_8008 「稲妻型屋敷割りの道」説明板

今は段違いの家並みは確認できずか。

Img_8010 天満宮

平治の乱で敗れ、この地に落ち延びて来た源義朝を討とうとして逆に討たれた源内兵衛真弘の「源内塚」があるそうだ。

Img_8015 本陣跡

謡曲「望月」の守山宿の宿「甲屋」の跡ともいわれるが、説明板では甲屋は架空の宿としている。

Img_8013 説明板

Img_8024中山道街道文化交流館(10時~18時 (月)休)

Img_8027 三叉路の右側に道標 《地図

高札場跡で、向かいに市神の小祠がある。

Img_8028 道標

「左 錦織寺 四十五町 こ乃者満ミち」・「右 中山道 并 美濃路」 (京方面から見ている)

「こ乃者満ミち」は琵琶湖の木浜(このはま)港に通じる道のこと。

Img_8034 説明板

Img_8036東門院(守山観音)

最澄が比叡山寺(後の延暦寺)を建立した時、四境に構えた門の一つ、比叡山の東門として創建された。江戸時代には朝鮮通信使の宿舎にもなった寺。境内には「お葉付き銀杏」がある。(醒井宿の了徳寺にもあった)

Img_8041 「かたたや」(東門院前)

「京発ち 守山泊まり」といわれた守山宿の茶屋「堅田屋」で、旅籠の機能もあったという。今は門前茶屋として営業。

少し早いが彦根図書館で「朝鮮人街道」について調べるため、守山銀座西交差点から守山駅に向かった。

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2010年11月 8日 (月)

中山道(高宮宿→愛知川宿→武佐宿)

2010年10月25日

高宮駅(近江鉄道)・・・高宮宿・高宮神社・布惣跡・多賀大社一の鳥居・紙子塚・脇本陣跡・本陣跡・円照寺・むちん橋地蔵・高宮橋(犬上川)・・・松並木・・・地福寺地蔵堂・・・産の宮井戸・若宮八幡神社・・・還相寺・・・了法寺・・・出町交差点・・・日枝神社・・・阿自岐神社鳥居・四十九院交差点・・・春日神社・・・豊郷小学校・やりこの郷碑・・・石畑の一里塚跡碑(八幡神社)・・・犬上の君屋敷跡(豊郷駅前公園)・・・くれない園・伊藤長兵衛宅跡・・伊藤忠兵衛生家・・・金田池・・・又十屋敷・・・千樹寺・・・歌詰橋(宇曽川)・・・将門首塚・・普門寺・・・正光寺・・・石部神社・・・沓掛三叉路・・・河脇神社・・・愛知川宿・郡分延命地蔵堂・・(近江鉄道)・・(新幹線)・・愛知郡役所跡・・・宝満寺・本陣跡・八幡神社・問屋跡・竹平楼・不飲川橋・・・国道8号・愛知川の一里塚跡・・祇園神社・御幸橋(無賃橋・愛知川)・・・旧道・・・愛知川南踏切(近江鉄道)・・間の宿五個荘・・愛宕神社・・小幡踏切(近江鉄道)・・長宝寺・・御代参街道道標・・正眼寺・・西沢梵鐘店・・市田邸跡・・観音正寺道標・・てんびんの里碑・国道8号・・・旧道・・・清水鼻の名水・・・国道8号・・・(新幹線)・・・旧道・・・奥石神社・老蘇の森・・・根来陣屋跡・・・福生寺(轟地蔵)・・・轟橋(轟川)・・・鎌若宮神社・・・東光寺・・・西福寺(泡子延命地蔵)・・・武佐宿・大門跡・牟佐神社・高札場跡・広済寺・脇本陣跡・本陣跡・大橋家・旅籠中村屋・松平陣屋跡・高札場跡・・武佐駅(近江鉄道)

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7275 高宮宿の家並み

周辺の農村は麻布の生産地で、高宮に集められた麻布は、高宮布(近江上布・高宮細美)として流通し、宿場には問屋や店だなが軒を連ねていたという。
落語『高宮川天狗酒盛

Img_7279 高宮神社 《地図

鎌倉時代の創建という、縁結び、夫婦和合、開運厄除けの神。

芭蕉句碑「をりをりに  伊吹を見てや 冬籠」がある。

Img_7281 布惣跡

高宮布の問屋跡

Img_7282 説明板

Img_7284 提灯屋

Img_7289 多賀大社一の鳥居

高宮宿は多賀大社の門前町でもあった。常夜灯は昔は対で立っていた。

Img_7291 説明板

******多賀大社(10月28日参拝)*******

Img_8460 多賀大社(太閤橋)

Img_8483 拝殿

Img_8456 門前の糸切餅の莚寿堂

Img_8488 糸切餅

白地に赤と青の筋の入った餅で、赤と青は元寇の時の蒙古軍の船印の色で、戦勝にあやかって食べたという。あんの甘さが控えめで美味く、みやげに買ってしまった。

Img_8498 桜町延命地蔵堂(多賀大社参道沿い)

Img_8499 説明板

Img_8500 延命地蔵 

*********************

Img_7293 紙子塚のある小林家

当家に泊まって古い紙子を着て寝たおっさんが芭蕉だと後で知り、新しい紙子を贈り、古い紙子を埋めて塚を築いたという。

Img_7294 説明板

Img_7299 脇本陣跡

2軒あった脇本陣の一つで問屋場を兼ねていた。門前が高札場だった。

Img_7303 円照寺の「止鑾松」(しらんしょう) 《地図

明治天皇の目に止まった松。左の石の囲い中が大阪夏の陣の帰路に立ち寄って腰掛けたという、「家康の腰掛石」のようだ。

Img_7305 本陣跡

表門だけが残る。

手前を左に入ると「黒仏」の高宮寺で、その先の高宮小学校が高宮城跡

Img_7317 さいかち地蔵?

高宮宿のパンフレットに載っていたものだが、この地蔵かどうか?

Img_7322 むちん橋地蔵  【ル-ト地図】の①

昭和53年高宮橋の改修工事の際に、橋脚下から発掘された2体の地蔵。

Img_7321 由来

Img_7320 むちん橋(高宮橋)を渡る。

Img_7330 松並木が残っている。

Img_7332 地福院地蔵堂(月通寺) 《地図

別名を柏原地蔵で、行基の作と伝える。葛籠(つづら)一里塚(120)はこのあたりか。

Img_7333 説明板

Img_7334 産の宮井戸

足利義詮の側室がここで出産したという。

奥に若宮神社の小祠がある。

Img_7335由緒

Img_7347 旧家の前を緩やかにカーブし、松並木の残る道を進む。

Img_7353 中山道モニュメント(高宮宿方向)

Img_7363

阿自岐神社鳥居(四十九院交差点) 《地図

応神天皇の時代にこの地を開発した百済の渡来人阿自岐氏が祖神を祀った神社。犬上川の伏流水が湧き、「池泉多島式庭園」という美しい所だそうだ。

Img_7368 四十九院公民館

「四十九院」とは行基が天平3年(731)にこの地に49の寺院を建てたことに由来する。

Img_7377 豊郷小学校

ヴォーリズの設計の旧校舎は建て替えか保存かで揉めてマスコミを賑わさせた小学校。今は複合施設になっている。

Img_7375 やりこの郷碑

Img_7376 説明板

Img_7380 「一里塚の郷 石畑」碑(八幡神社前) 《地図

石畑の一里塚(121)は、すぐ先の町役場交差点の所にあった。ここ石畑は高宮宿と愛知川宿の間で立場茶屋があった。

Img_7379 説明板

Img_7393 犬上の君屋敷跡(豊郷駅前公園) 《地図

後方左に説明文の刻まれた石碑、右は無量光寺の六地蔵。
犬上氏は遣隋使、遣唐使の犬上君御田鍬(いぬかみのきみみたすき)で有名。近くに犬上神社がある。

Img_7400 伊藤忠兵衛生家

手前には伊藤忠兵衛の功績を称えた公園の「くれない園」、その隣に伊藤長兵衛屋敷跡がある。忠さん長さんどっちがどっちかややこしい。

Img_7401 説明板

Img_7408 酒造の西澤商店は廃業か?

手前を入ると天稚彦神社

Img_7413 金田池(復元)

田の用水と街道を行く旅人の喉を潤した湧水だった。

Img_7412 説明板

Img_7416 又十屋敷

近江商人の藤野家本宅跡

Img_7422 説明板

Img_7425 千樹寺 《地図

「江州音頭発祥地」の石柱と説明碑

Img_7426 説明碑

Img_7388 歌詞

Img_7427 歌詰橋(宇曽川) 【ル-ト地図】の②

橋の名は平将門に由来する逸話がある。

Img_7430 説明板

Img_7435 将門首塚(普門寺裏)

歌詰橋の話からの続きで首塚と呼んでいるのだろうが山塚古墳(円墳)。

Img_7438 旧家(正光寺の隣)

Img_7446 沓掛の三叉路

正面分岐点に道標「籏神豊満大社」が立つ。
渡来人の氏の氏神、あるいは神功皇后軍の軍を祀って「籏神」か。「お旗さん」の名で親しまれている。

Img_7454 愛知川宿に入る。

もとは東山道の宿駅で、宿場町であると同時に近江商人の町でもあった。

Img_7456 田中新左衛門旧本宅

田源の屋号で呉服、蚊帳、麻織物を扱っていた。今は料亭の「近江商人亭三角屋中宿店」

Img_7459 郡分延命地蔵堂 【ル-ト地図】の③

脇を流れる中の橋川は愛知川宿と中宿との境であると同時に神崎と愛知とを隔てる川でもあった。

Img_7467「しろ平」菓子店

Img_7482 愛知郡役所跡 《地図

大正12年落成し大正15年に廃止された。

Img_7494 本陣跡

手前の日本生命のビル一帯だが遺構は残らず。

この先の八幡神社前が高札場跡

Img_7506 料亭竹平楼

昔は旅籠で、宝暦8年(1758)の創業という。提灯には「旅籠」とある。

Img_7510 不飲川(のまずかわ)橋 《地図

水源の野間津川で将門の首を洗ったため水が赤く濁り、誰もこの水を飲まなくなったためだとか。この先で国道8号に出る。

Img_7515 愛知川の一里塚跡(122)

国道の北側に石柱のみ。

Img_7518 常夜灯・祇園神社(御幸橋手前) 

対岸の常夜灯と川の安全を見守る「睨み灯篭」だった。

Img_7521 御幸橋

ここも天保2年(1831)に架けられた「むちん橋」

広重の愛知川』(絵の右に「むちんはし はし銭いらず」の木柱が立つ)

Img_7488 説明板

Img_7528 近江商人発祥の地、間の宿五個荘に入る。《地図

右が「睨み灯篭」の中出町の常夜灯(文政8年(1825))。

Img_7530東嶺禅師御誕生地」(愛宕神社の先)

Img_7532 小幡踏切

一輛の近江鉄道が通る。近江鉄道は近江の中山道歩きには欠かせない電車だ。乗客が減り経営も苦しいようだが頑張って欲しい。

Img_7537 なかざわ酒店

Img_7540 道標(享保3年(1718)・左の民家前)

「左いせ ひの 八日市みち」(御代参街道)、 「右 京みち」(中山道)

Img_7547 大同川沿いに進む。《地図

Img_7552 旧家

Img_7564 西沢梵鐘店

ここで梵鐘を作っている?

Img_7560 西沢梵鐘店の前

国の登録有形文化財だが何の建物だったか?

Img_7568 旧家

Img_7580 北町屋の郷

Img_7584 旧片山家住宅

大名、武家、公家などが休憩した立場本陣で金比羅大権現の常夜灯は天保8年(1837)の建立。

Img_7588観音正寺道標

西国三十三観音霊場の第32番

Img_7592 モニュメント「てんびんの里」 《地図

五個荘の商人は天秤棒を担いで諸国を商って歩いた。この手前が石塚の一里塚跡(123)あたりのようだが表示はない。

Img_7597 清水鼻の名水

今でも飲用しているようだ。

Img_7608 新幹線をくぐり歌枕の「老蘇の森」を目指す。【ル-ト地図】の④

Img_7614 繖山(きぬがさやま)

奥石神社の神体の山で、観音寺城跡や観音正寺がある。

Img_7615 説明板

Img_7621 奥石(おいそ)神社

Img_7622 参道

Img_7624根来陣屋跡

この陣屋小路を入った所に鉄砲の根来衆で有名な根来家の代官屋敷があったそうだ。

Img_7632 轟地蔵(福生寺境内) 【ル-ト地図】の⑤

寺のおかみさんが扉を開けて拝ませてくれた。 

Img_7631 地蔵は土で作った小幡人形の小さな千体仏。安産祈願の地蔵で、表情がみな違っている。もとは轟橋の橋詰にあったもの。 

Img_7636 由来(轟橋に設置)

Img_7637 轟橋(轟川)

Img_7650鎌若宮神社

奥石神社の若宮社として勧請された。

Img_7651 東光寺

もとは清水鼻(五個荘)にあった佐々木六角氏ゆかりの寺。豊臣秀吉の祐筆の建部伝内の寓居跡という。

Img_7664_2 泡子延命地蔵堂(西福寺) 《地図

「昔、この地の茶屋に立ち寄った若い僧を、茶店の娘がたいそう気に入り、恋しく思った。娘は立ち去った僧の残りの茶を飲んだところ、妊娠して男の子を産んだ。3年が経ち、再び現れた僧にこの話をすると、僧は子に息を吹きかけた。とたんに子は泡となって消えてしまった。僧は「西方の「あら井」の池の中に尊き地蔵あり。この子のためにお堂を建て安置せよ」と言って立ち去って行った」という、醒井宿の西行水の泡子塚と同じような話だ。

Img_7658 泡子延命地蔵

Img_7665 武佐宿大門跡 《地図

大門とは遊郭のようだが見付のこと。すく先の牟佐神社前が高札場跡

Img_7671 武佐宿の家並み

古来、近江から伊勢へ抜ける八風街道と東山道(中世東海道・中山道)が交わる湖東の交通の要衝地として栄えた。

Img_7675 宿役人平尾家屋敷跡

Img_7677 武佐宿脇本陣跡(奥村家)

Img_7679 旧八幡警察所武佐分署跡

Img_7685 享保13年(1728)に将軍吉宗に献上するため江戸に向かった象はここを通った。この先、東海道に出て姫街道に入り、再び東海道に出たようだ。姫街道には「象鳴き坂」がある。『姫街道③』に記載
門司往還』にも船に乗るこの象が出てくる。

Img_7691 大橋家

米、油の商家で、宿場の伝馬、人足の取り締まりの役人だった家。

Img_7695 本陣跡下川家

Img_7697 旅籠中村屋

Img_7703 道標

左角は「いせ ミな口 ひの 八日市 道」

斜め向かいの右角は「安土浄厳院道」

Img_7704 松平周防守陣屋跡

Img_7706 道標

「・・・従是三丁」とあるが詳細不明

Img_7708 高札場跡

この先が武佐駅で街道は線路を渡って進む。

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2010年11月 6日 (土)

中山道(柏原宿→醒井宿→番場宿→鳥居本宿→高宮宿)

2010年10月24日

柏原駅(JR東海道線)・・・柏原宿・問屋場跡・東の荷蔵跡・脇本陣跡・本陣跡・高札場跡・市場橋・亀屋左京商店・日枝神社・西の荷蔵跡・薬師道標・御茶屋御殿跡・郷宿跡・・・柏原一里塚跡・・・西見付跡・・・鶯ケ原・・・掃除丁場・並び松(松並木)・・・白山神社・薬師道標・・・小川の関跡(菖蒲ケ池跡)・古道・小黒谷遺跡(館跡)・・・番の面遺跡・・・梓川橋・・慈円寺・・・国道21号・・・旧道・・・一色八幡神社・・・一色の一里塚跡・・・仏心水・・・鶯の端・・・醒井宿東の見付跡・居醒の清水・加茂神社・地蔵堂(尻冷やし地蔵  )・問屋場跡・本陣跡・法善寺・江龍氏宅表門・了徳寺・十王水・松尾寺・西行水・泡子塚・・・六軒茶屋跡・・・国道21号・・・一類孤魂等衆の碑・・横河の古戦場跡・丹生川橋・・・旧道・・(国道21号)・・茶屋道館跡・・・樋口交差点(国道21号)・・・浄信寺・・・敬永寺・・・八幡神社・・・(北陸自動車道)・・・久礼の一里塚跡・・・番場宿・米原道道標・問屋場跡・脇本陣跡・蓮華寺・法雲寺・直孝神社・・北野神社・・・小磨針峠・・・峠下の集落・称名寺・・・磨針峠・神明社・望湖堂跡・・・国道8号・・旧道・・・鳥居本宿・赤玉神教丸商店・上品寺・合羽所(木綿屋)・本陣跡・脇本陣問屋跡・合羽所(松屋)・長池地蔵尊・・専宗寺・・朝鮮人街道(彦根道)追分・・・小町塚(小町地蔵) ・・・(新幹線)・・・原八幡宮(昼寝塚・白髪塚)・・・(名阪神高速道路)・・・常夜灯・多賀神社道標・正法寺町交差点・・・春日神社・・・大堀橋(芹川)・・床の山碑・多賀神社道標・井戸跡・岩清水八幡神社・・・唯称寺・・・常夜灯・(近江鉄道)・・高宮町大北交差点・木之本分身地蔵堂・・・高宮駅(近江鉄道)

  【ル-ト地図

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Img_6799 柏原宿の家並み

問屋場跡・東の荷蔵跡・脇本陣跡などが続く。

Img_6809 宿場図

Img_6811 説明板①

Img_6813 説明板②

Img_6806 造り酒屋跡

Img_6816 映画監督吉村公三郎の実家

祖父は柏原宿最後の庄屋。

Img_6821 本陣跡説明板

和宮が泊まった時の建物はない。

Img_6824 高札場跡

この市場橋は、吉村公三郎監督のの若き日の思い出の「初恋橋」で、映画「地上」には、監督の初恋の思い出が織り込まれているそうだ。 出演者は川口浩、野添ひとみ、田中絹代、香川京子、佐分利信など懐かしの面々。

Img_6837 亀屋左京商店

「伊吹艾」(いぶきもぐさ)の看板が掛る。開店前で店先の福助人形とは対面できず。

Photo 広重の柏原宿

亀屋の店先で右端に福助人形。

Img_6841 福助人形(柏原歴史館)

Img_6844 日用雑貨の「さわや」

Img_6847 西の荷蔵跡(左)

Img_6848 説明板

Img_6852 艾屋亀屋○○○○跡 《地図

艾屋はみな亀屋がついたようだ。今はデイサービスセンター「はびろ」

柏原宿には多い時には10数軒の艾屋があったという。

Img_6854 薬師道標

最澄が創立したという明星山明星輪寺泉明院への道しるべ。泉明院は廃寺になってしまったか?

Img_6855 説明板

Img_6864 艾屋亀屋○○○跡

今は「ふれあい館」

Img_6859 御茶屋御殿跡

野洲の永原御殿(朝鮮人街道近く)、水口の水口御殿(東海道)と並ぶ「近江三御殿」の一つ。

Img_6856 説明板

Img_6866 郷宿跡

脇本陣と旅籠の中間で、武士や公用で旅をする庄屋などの休泊所。

Img_6872 柏原の一里塚跡(115・復元)

Img_6874 説明板

Img_6877 西見付跡

東見付からは1.4kmも離れている。ここは海抜174mで、磨針峠(154m)よりも高い。

この先を右に入ると400mほどで北畠具行の墓がある。

Img_6885 鶯が原あたり

今はさほど風情のある所ではない。少し先が掃除丁場(街道の掃除の持場、受持ち区域)で並び松(松並木)があった。今は若い松が植えられている。

Img_6884 説明板

Img_6890 ここにも薬師道標 《地図

ここは白山神社前

Img_6895 小川(こかわ)の関跡・菖蒲(あやめ)ヶ池跡 【ル-ト地図】の①

東山道の関跡で、池は江戸後期には消滅していたようだ。

右に旧道に入る。

Img_6897 説明板①

Img_6896 説明板②

Img_6900 右に「館跡 小黒谷遺跡」の標柱が立つ。小川の関の建物跡か? この先には車が捨てられていて気分を害する。

舗装道路に出た所が縄文中期末の竪穴住居跡の番の面遺跡で、国道21号に平行して梓川を渡り梓集落へ入る。

Img_6912 慈円寺 《地図

Img_6916 梓の集落を抜ける。

Img_6921 街道っぽいが、大きなラブホも建っていて興醒め?

国道21号に出て、少し進み左に旧道に入る。

Img_6925 一色八幡神社(右)《地図

Img_6928 狛犬の脇に三猿が、犬猿の仲ではないのか?

Img_6931 一色の一里塚跡(116)

碑のみで塚跡は残らず。

Img_6935 仏心水

旅人の喉を潤した井戸だろう。

Img_6941  鶯の端

その昔、狩野派の絵師がここで休み、扇に鶯の絵を描いたて、「生あらば鳴いてみよ」と言った。すると扇の鶯は飛び立ち梅の枝に止まり清らかに鳴いたとか。

ここからは西方の眺めがよく、京の空が望めるので有名で、能因法師の「旅やどり ゆめ醒ヶ井の かたほとり 初音もたかし 鶯ケ端」の歌もある。昔はもっと急な坂で馬頭観音が祀られていたそうだ。まあ今はこんなもんか。

ここを下ると醒井宿の東の見付跡で、枡形を通り宿へ入って行く。

Img_6942 東の見付け跡・枡形

Img_6944 醒井宿の家並み

Img_6953居醒の清水 【ル-ト地図】の②

東征からの帰りに日本武尊(ヤマトタケル)は、伊吹山の荒ぶる神(大蛇・白猪とも)を退治したが、大蛇の猛毒で発熱し気を失うほどであった。やっとのことで山を降り、この泉まで来て清水で体を冷したところ熱も下がり、気力も回復したと伝える。清水の中には日本武尊の腰掛石、鞍掛石と蟹に似た蟹石がある。

清水の向い側あたりがお茶壷本陣跡

Img_6952 由来

Img_6965梅花藻(バイカモ・地蔵川)

清流にしか育たないキンポウゲ科の水生多年草で、梅の花に似た白い小花を咲かせる。

Img_6957 地蔵堂 《地図

昔は魚の供養のために川の中に置かれ、「尻冷やし地蔵」と呼ばれた。鎌倉時代後期の作で、一石一尊の地蔵としては県下最大という。延命地蔵として親しまれている。

地蔵堂の先の「料亭本陣樋口山」が本陣跡だが建物は新しい。

Img_6958 説明板

Img_6970 問屋場跡(川口家住宅)

醒井宿資料館になっている。

Img_6976 法善寺

山門は彦根城の城門を移築したものというが、それほどの物とも見えないが?

Img_6979 江龍家表門

庄屋を務めた屋敷は本陣並の規模で、明治天皇の休息所にもなった。

Img_6982 お葉付イチョウ(了徳寺)

葉の上に銀杏の実が付くというが、確認できず。

Img_6986 十王水

「醒井七湧水」(①居醒の清水 ②十王水 ③西行水 ④天神水 ⑤いぼとり水 ⑥役の行者の斧割水 ⑦鍾乳水)の一つ。このあたりが高札場跡

Img_6985 説明板

Img_6988 旧醒井郵便局(醒井宿資料館) 《地図

大正4年にヴォーリズの設計により建てられた擬洋風建物。

Img_6991 松尾寺

本尊は雲の中から飛来したという空中飛行観音(木造聖観音菩薩立造)で、石造九重塔は国の重文。

Img_6992空中飛行観音

Img_7001 西行水・泡子塚

Img_6999 由来

西行はもとはイケメンの北面の武士、「据え膳食わぬは・・・」ということか。あちこちに末裔がいるかも。

Img_7005 六軒茶屋跡

広重の浮世絵に描かれた往時の面影はない。

Img_7010一類孤魂等衆の碑(丹生川橋の手前右側)

生々しい?由来話がある。

Img_7008 由来

Img_7014 壬申の乱の息長横河の古戦場跡(丹生川橋から) 《地図

大海人皇子軍の村国男依(むらくにのおより)らの軍が大友皇子軍を破る。

息長横河は梓川の流れる東山道横河駅のあった梓河内だともいう。(今日通って来た梓川のあたりか?)

Img_7022 茶屋道館

街道の立場茶屋跡。

Img_7046 久礼の一里塚跡(117) 【ル-ト地図】の③

塚上には榎と「とねり木」が植えられていた。「くたびれた やつが見つける 一里塚」で、この前のベンチで小休止。

番場宿へ右正面の道を行く。

Img_7053 番場宿の家並み

右に問屋場跡の標柱があるが、建物などは残っていない。江戸時代には番場宿から米原までの切通しと米原港が開設され、中山道から湖上の水運に乗り換えて大津、京方面へと結ぶ近道の分岐点にもなった。
広重の番場宿

Img_7058 米原道道標

「米原 汽車汽船 道」とある。

この先が脇本陣跡、本陣跡だが標柱のみ。

Img_7088 蓮華寺勅使門 《地図

ここを本堂前で自刃した北条仲時ら430余名の血が流れ「血の川」と呼ばれたとか。

Img_7074 説明板

Img_7075 北条仲時の墓

Img_7080 忠太郎地蔵

番場宿は長谷川伸の「瞼の母」の主人公、「番場の忠太郎」の生国である。「ところは江州坂田の郡、醒ヶ井から南へ一里、磨針峠の山の宿場で番場という処がござんす。おきなが屋忠兵衛という旅籠屋をご存じでござんすか あっしはおきなが屋の倅、忠太郎でござんす、おっかさん!」 だが、母は冷たかった。再び股旅の道に踏み出す忠太郎だった・・・・。

Img_7083_2 一向杉

弘安10年(1287)、蓮華寺開山の一向俊聖上人の遺骸を茶毘に付した地に、杉を植樹したものと伝える。地域の人たちからは、一向杉と呼ばれ親しまれている。推定樹齢は700年で、滋賀県指定自然記念物。

かなり枯れてきているようだ。千年までは持つまい。 

Img_7094 直孝神社(溝尾神社)

彦根藩2代目藩主の井伊直孝は、中山道の宿場の機能を整備した。村人たちが彼の功績を称えるために寛永20年(1643)に祭神として祀ったという。

Img_7111 小磨針峠への上りとなる。《地図

途中、ボランティアで清掃しているおばさんに出会った。猿の群れがガサガサやっていた所に多くのゴミが捨てられていたという。草の中にもポイ捨てが多く、とても一人で運べる量ではない。猿と鹿は出るようだ。熊はどうだか?

小磨針峠から少し下って、道標の立つ分岐を右に進み、上り返し峠下の集落から磨針峠へ出る。

Img_7119_2 峠下の集落

Img_7127 磨針峠の望湖堂跡・神明社

峠の手前に磨針の一里塚(118)があったようだが場所は不明。

Img_7123 琵琶湖の眺め(神明社の境内から) 【ル-ト地図】の④

標高は154m、曇りで霞んでいる。磨針峠の由来話:「その昔、修行で諸国行脚中の青年僧が、行き詰まり挫折しそうになってこの峠を通りかかった。そこで斧を石で摺っている老婆に出会った。大切な針を折ってしまったので、斧を磨いて針にするという。その時、青年僧は「この老婆の苦労に比べたら自分の修行はまだまだ甘かったと悟り、未熟を恥じ、心を入れ替えて修行に励んだ。それが後の弘法大師という」
広重の鳥居本』(望湖堂からの琵琶湖の眺め)

Img_7131 旧道に入り下って国道8号に出て鳥居本宿に入る。

Img_7147_2 鳥居本宿の家並み

Img_7146 説明板

Img_7151赤玉神教丸有川家 《地図

店の前には大勢がウロウロして感心した様子で眺めている。

Img_7153 店内

手前は神教丸に使われる薬草だろう。

Img_7158 上品寺(じょうぼんじ)梵鐘

法海坊が江戸吉原の花魁などからの喜捨で造ったものという。鐘には明和6年(1769)の年号や遊女たちの名が刻まれているそうだ。法海(界)坊は歌舞伎の「隅田川続俤」では破戒僧として描かれている。

Img_7161 旧家

Img_7163 旧家

Img_7165 旅籠米屋跡

Img_7164 説明板

Img_7168 合羽所木綿屋

Img_7169 説明板

Img_7173 本陣跡(寺村家)

これが説明板にあるヴォーリズの洋館か?

隣の脇本陣高橋家も普通の民家になっている。

Img_7172 説明板

Img_7177 旧家

Img_7183 合羽所松屋

Img_7198 専宗寺 《地図

聖徳太子が開祖という。山門の隣の太鼓門の天井は佐和山城の遺構というが、どこのことか?

Img_7197 説明板

Img_7199 古い家並みが続く。

Img_7202 朝鮮人街道(彦根道・右)追分 【ル-ト地図】の⑤

正面右に道標が立つ。朝鮮人街道は草津に着いた後に野洲の追分からここまで歩く。

Img_7204 道標

「右 彦根道」、「左 中山道 京いせ道」

Img_7205 説明板

Img_7209 廃家か

Img_7215 小町塚(左) 《地図

この地(小野町)は小野小町の出生地というが、生誕地、墓所は全国各地にある。『全国小野小町マップ

Img_7216 説明板

Img_7217 小町地蔵

三面に「阿弥陀如来坐像」が刻まれている、15世紀後半頃の石仏。

Img_7224 昼寝塚(原八幡神社境内)

Img_7222説明板

Img_7223 説明板

Img_7234 多賀神社常夜灯・道標(正法寺町交差点手前) 《地図

原村の一里塚跡(119)はこのあたりか?

Img_7242

鞍掛山(大堀山・芹川の大堀橋から) 《地図

万葉集に歌われ、壬申の乱の戦場の鳥籠(とこ)山とも伝える。

「淡海路の 鳥籠の山なる 不知哉川 日(け)のこのごろは 恋ひつつもあらむ」  不知哉川(いさやがわ)は芹川のこと。 

Img_7243 床の山碑(大堀橋を渡った右側の公園前)

側面に芭蕉の句 「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」

Img_7254 扇塚(岩清水八幡神社境内)

Img_7253 説明板

Img_7248 井戸跡(岩清水八幡神社前)

Img_7249 説明板

Img_7266 木之本分身地蔵堂(高宮町大北交差点向う側右)《地図

木彫り彩色の地蔵だそうだが拝めず。 

Img_7267 説明板

Img_7270 高宮宿の家並みに入る。

雨が本降りになってきた。ここまでとして高宮駅に向かう。

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2010年11月 5日 (金)

中山道(垂井宿→関ヶ原宿→今須宿→柏原宿)

2010年10月23日

垂井駅(JR東海道線)・・・春王丸・安王丸処刑の地(金蓮寺)・・・垂井宿・紙屋塚・旅籠亀丸屋・問屋場跡・本陣跡・南宮大社鳥居・垂井の泉(玉泉寺)・旅籠長浜屋跡・本竜寺(時雨庵)・西の見付跡・・・松島稲荷・・・出屋敷踏切(東海道線)・・(日守交差点・国道21号)・・・日守の茶屋跡・垂井の一里塚跡・・・(日守西交差点・国道21号)・・・(関ヶ原バイパス)・・・伊富岐神社鳥居・・・平木川橋・・・野上の七つ井戸・・・しゃもじ塚(平忠常の墓)・・・大海人皇子野上行宮跡・・・松並木・・山内一豊陣屋跡・・・六部地蔵・・・(桃配山・徳川家康最初陣地)・・・国道21号・・・旧道・・・国道21号・・・若宮八幡神社・関ヶ原宿・脇本陣跡(相川家)・八幡神社・・・関ヶ原古戦橋(東海道線)・・・東首塚・・・関ヶ原古戦橋・・・国道21号・・・西首塚・・・松尾交差点・旧道・・・不破関東城門跡・・・不破関関庁跡・大海人皇子兜掛石・沓脱石・・・不破関跡・・・大木戸坂・・不破関西城門跡・・戸佐々神社・・藤下橋(藤古川)・・・峠箭先堂・矢尻の池跡・・・黒血川・弘文天皇自害峯・三本杉・・・(国道21号)・・・黒血川・・・鶯の滝・・・(新幹線)・・・常盤御前の墓・・・常盤地蔵・・・山中踏切(東海道線)・・・今須峠・・・国道21号・・・今須の一里塚跡・・・雨谷道踏切(東海道線)・・・家康腰掛石・青坂神社・・・雨谷道踏切・・・旧道・・・門前橋・・・今須橋(中挟川)・・・今須宿・妙応寺・本陣跡・脇本陣跡・問屋場跡・・・車返しの坂・車返し地蔵・・・(今須交差点・国道21号)・・車返踏切(東海道線)・・・寝物語の里碑(美濃・近江境)・・・野瀬坂・・・神明社・・・旧東山道・・・白清水・・・野瀬踏切(東海道線)・・・照手姫地蔵堂・・・柏原宿東見付跡・八幡神社・・・柏原駅(東海道線)

 中山道(加納宿→垂井宿)』の続きです。

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6445 春王丸・安王丸処刑地(金蓮寺境内) 《地図

永享の乱の後の結城合戦で敗れ、京へ護送される途中の足利持氏の遺児、春王丸と安王丸はこの地で処刑された。祠内には2基の五輪塔がある。2人の墓は500mほど西の金蓮寺の墓地にある。金蓮寺本堂には春王丸・安王丸の木像が安置されている。結城合戦は滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の発端でもある。

Img_6450 紙屋塚 《地図

Img_6449 説明板

Img_6451 旅籠亀丸屋《地図

ここは垂井宿入口の枡形の所で、今も現役の旅館。

Img_6452 説明板

Img_6456 問屋場跡

Img_6457 説明板

Img_6459 本陣跡

立札のみで建物はない。

Img_6460 説明板

Img_6464 南宮大社鳥居

ここから1km以上もあるようで遥拝のみ。

Img_6461 説明板

Img_6468 垂井の泉(玉泉寺境内) 【ル-ト地図】の①

向う側の樹齢800年という大ケヤキの根元から湧き出している。

Img_6467 説明板

Img_6479 旅籠長浜屋

今は休憩所になっている。

Img_6480 商家

もとは油屋卯吉の家で、後には旅籠亀屋跡。

Img_6481 説明板

Img_6482 本竜寺

山門と玄関は脇本陣からの移築。ここに高札場があった。

Img_6492 時雨庵と「作り木塚」(右奥・本竜寺境内)

Img_6488 説明板

Img_6497 油屋伊蔵

Img_6501 西見付跡 《地図

すぐ先に「八尺堂地蔵尊道」の石柱が立つ。

Photo_4 垂井(歌川広重)

雨の中を大名行列が西から松並木を通り、見付へ入って行く様子。茶店の前では本陣からの出迎えが控えている。垂井は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点の要衝の地で、戦国時代までは美濃の中心であった。

Img_6505 八尺堂地蔵尊道

ここの南、200mほどに地蔵堂があるようだ。垂井宿本陣の母が夢に見て、地下八尺から掘り出したという大日如来の石像で、八尺四方の堂を建て大切に祀られてきたという。

 東海道線と国道21号を越えて行く。

Img_6515 日守の茶屋跡(左) 《地図

もとは不破関の先の常盤御前の墓の所にあった秋風庵を明治になってここに移した。

すぐ隣が垂井の一里塚跡。

Img_6518 説明板

Img_6520 垂井の一里塚跡(112)

南側の塚が残る。このあたりは関ヶ原の戦での浅野幸長の陣跡。

Img_6528 伊富岐神社鳥居

社殿はここから1kmほど先。関ヶ原が近づき街道沿いには武家の幟旗がはためいている。これは石田光成の旗。

Img_6539 野上の七つ井戸 【ル-ト地図】の②

つるべ式井戸でまだ水は汲めるが飲めないようだ。

野上は垂井宿と関ヶ原宿の間の宿で、古くは東山道の宿駅だった。『更級日記』にも「美濃の国になる境に、墨俣といふ渡りして、野上といふ所に着きぬ。そこに遊女ども出で来て、夜ひとよ、うたうたふにも、足柄なりし思ひでられて、あはれに恋しきことかぎりなし」とあり、遊女もいる賑やかなところだったようだ。

Img_6534 説明板

Img_6537 しゃもじ塚 《地図

平忠常の墓という。「平忠常の乱」の後、長元4年(1031)に京へ護送される途中、この地で病没し、首をはねられたという。病気の忠常を哀れんで村人が食物を「しゃもじ」に乗せて差し出したところ、しゃもじごと口に入れ、そのまま死んじまったとか。

Img_6548 大海人皇子野上行宮(あんぐう)跡 《地図

Img_6547 説明板

Img_6556 松並木

このあたりに山内一豊が布陣した。

Img_6557 説明板

Img_6560 六部地蔵

宝暦11年(1761)頃、この地で死んだ諸国行脚の六部を供養するために里人が建てたもの。痛みのひどい病にご利益があり、「六部地蔵  歯痛なおりて 礼参り」といわれている。 

Img_6563 桃配山 《地図

壬申の乱で大海人皇子が野上行宮からここへ出陣し、名産の桃を兵士に配って快勝したという。関ヶ原の戦で、徳川家康が最初に陣を張った地でもある。

Img_6581 関ヶ原醸造 《地図

醤油「関ヶ原たまり

Img_6583 レトロな床屋は廃業してしまったようだ。

Img_6585 旅館枡屋

創業永長元年(1096)とあるが、建物は新しい。

Img_6584 脇本陣跡説明板

建物(門)の写真を撮るのを忘れた。

Img_6588 八幡神社

前の道は昔の北国街道で中山道の曲がり角に本陣があったようだ。今は境内に本陣のスダジイの大木が聳える

Img_6598 東首塚 【ル-ト地図】の③

やけにご立派でびっくりした。

このあたりは井伊直政、松平忠吉の陣跡。門前の道を北西に進めば家康最後の陣跡で、陣場野公園となっている。

Img_6595 説明板

Img_6602 首塚の前には首洗い井戸

Img_6610 西首塚(国道21号沿いの右側)

こっちの方が質素だ。

Img_6617 不破関東城門跡 《地図

正面は壬申の乱で勝利した天武天皇を祀る井上神社への道標石柱。

Img_6614 説明板

Img_6620 不破関関庁跡

正面に大海人皇子兜掛石、左に沓脱石がある。珍しくもないただの石だが。

Img_6621 説明板

Img_6625 不破関跡 【ル-ト地図】の④

Img_6626 説明板

Img_6630 関守の屋敷跡は庭園になっている。

三輪家が代々関守を務めていたそうだ。

秋風や 藪も畠も 不破の関」の芭蕉句碑がある。

Img_6634 大木戸坂を下る。

ここに西城門があった。

Img_6636 説明板

Img_6640 藤古川(藤下橋から) 《地図

古来の軍事上の要害、歌枕の地。

Img_6641 説明板

Img_6642 ここを左折すれば大友皇子を祀る藤下の若宮八幡神社への道。

Img_6644 峠箭先堂(正面左) 《地図

その隣が矢尻の池跡、右に曲がって1kmほどで大谷吉継の墓がある。

Img_6650 矢尻の池(井)

壬申の乱で大友皇子軍が矢尻で掘ったという井戸跡。

Img_6662 弘文天皇自害峯の三本杉 《地図

大友皇子が自害したのはここではないが。

Img_6660 説明板

Img_6670 黒血川 《地図

正面は東海道線をくぐるトンネル

Img_6669 説明板

Img_6677 鶯の滝

Img_6675 説明板

Img_6681 常盤御前の墓

後ろは芭蕉句碑 「義ともの 心に似たり 秋の風」

ここにあった秋風庵は日守の茶屋に移った。

 

Img_6679 説明板

Img_6680 芭蕉句碑説明板

Img_6684 常盤地蔵

道端にあった地蔵にこの名をつけたのだろう。 

Img_6689 今須峠へ上る。《地図

峠といっても高くはないが、積雪が多く難所の一つだった。熊か猿が出るかも。

Img_6695 今須の一里塚跡(114)

113番目は関ヶ原一里塚だが場所は不明。

Img_6705 青坂神社参道

Img_6699 家康腰掛石

Img_6698 説明板

Img_6704 青坂(せいばん)神社 《地図

東海道線の青坂トンネルの上にある社殿。桓武天皇の孫の高望王を祖とする鎌倉権五郎景政を祀る。

Img_6712 妙応寺(国道と東海道線をくぐった所)

今須の城主で美濃の守護代も務めた、長江重景が正平15年(1360)に道元の弟子の莪山(がざん)和尚を開山として建立。薬草の枸杞(クコ)を用いた精進料理でも知られ枸杞寺ともいう。今須は門前町として賑わった。

Img_6713 今須宿説明板

Img_6717 問屋場跡(山崎家)

美濃16宿のうちで、当時のまま現存する問屋場の建物。今須宿には問屋場が一時7軒もあったそうだ。今須宿は妙応寺の門前町として発展し、江戸時代には美濃国と近江国の境の宿場として栄えた。今須小学校が本陣・脇本陣だが遺構は残らず。

Img_6722 常夜灯

Img_6721 説明板

Img_6729 車返しの坂 《地図

車がひっくり返るほどの急坂という意ではない。公家の二条良基のおかしな、アホらしい由来話がある。

Img_6734 説明板

Img_6731 車返地蔵

国道21号、東海道線を渡り美濃と近江の境、「寝物語の里」を目指す。 

Img_6740 芭蕉句碑・奥の細道碑(寝物語の里碑の手前)

「野ざらし紀行」で詠んだ句 「正月も 美濃と近江や 閏月」と「年暮れぬ 笠着て草鞋 はきながら」  

Img_6746 寝物語の里 【ル-ト地図】の⑤

小さな流れの溝が美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)の境

Img_6749 由来碑

Photo_5 「江濃両国境」の木柱が立つ。(広重の今須)

Img_6753 野瀬坂を下って神明社の鳥居前に出る。《地図

「楓並木を大切にしよう」の立札が立つが並木は片側だけで、いろんな木が混ざっているようだ。もとは松並木だった。

Img_6758 神明神社の鳥居前から旧東山道が一部残っているが荒れた道だ。

Img_6761 鳥居の右の道は姉川の戦いの緒戦の地、長比(たけくらべ)城跡への登り道。

Img_6767 白清水 《地図

ヤマトタケル、照手姫も使ったという伝承の泉。姫の白粉で白く濁ったとか。

Img_6766 説明板

野瀬踏切を渡って柏原宿へ入る。

Img_6773右に照手姫地蔵堂

Img_6774 照手姫(笠掛)地蔵

右の小さな方。左は昭和になってから奉納された安産地蔵。

Img_6780 説明板①

Img_6778 説明板②

Img_6784 柏原宿東の見付跡

すぐ先が説明板②の最後の方に載る竜宝院跡

Img_6793 芭蕉句碑(八幡神社境内) 《地図

芭蕉は伊吹山を左に見ながら北国脇往還を「奥の細道」の結びの地、大垣に向かっている。

Img_6791 説明板

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2010年11月 3日 (水)

清戸道②

2010年11月3日

大泉学園駅(西武池袋線)・・・都道24号・・・中島橋(白子川)・・・本照寺・・・諏訪神社・・・牟礼道交差地点・・・堤(四面塔)稲荷神社・・・庚申塔(片山2交差点)・・中沢坂・・・馬頭観音(清戸道道標)・・・道橋バス停・地蔵 ・・・庚申塔道標・・・馬喰橋(黒目川)・馬喰橋通り・・・庚申塔・・・堂坂・・・氷川神社・・・御成橋通・地蔵・・御成橋交差点・御成橋跡(野火止用水)・・・志木街道・下清戸バス停・・・長命寺・・・地蔵道標・・・清瀬駅(西武池袋線)

 清戸道は四面塔稲荷の先はいくつかの道筋があったようだが、清戸道と刻まれた馬頭観音の前を通り馬喰橋を渡り、堂坂を上り、氷川神社の前を通り、御成橋通りから志木街道に突当たるルートをたどる。片山2交差点の庚申塔から満行寺(野寺)、武野神社、栗原観音から神宝大橋を渡り、地蔵道標の立つ新堀から中清戸に出る道筋もある。どちらの道も部分的には『新座市の坂』で歩いている。

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8555 本照寺

Img_8559 諏訪神社

Img_8558 説明板

大泉西中入口交差点で、牟礼道と交差する。

Img_8563 堤稲荷神社 【ル-ト地図】の①

付近にあった四面の題目塔から「四面塔稲荷」とも呼ばれる。

Img_8562 説明板

Img_8565 庚申塔の立つ片山2交差点 《地図

直進し中沢坂を下る。

Img_8566 庚申塔(右・元文4年(1739))と阿夫利神社など三社の石塔(左)?

Img_8570 中沢坂を下り坂下を左折する。《地図

Img_8581 馬頭観音道標(左・明治16年) 【ル-ト地図】の②

これは参考にした『練馬の道』にも載っていない。ほとんどもとの位置の置かれ、向きも同じようだ。

Dsc02246 右側面に「右ハ 清戸道」

Dsc02247 左側面に「北ハ志木道 南ハ東京」

正面は「馬頭観世音」

Img_8583 地蔵 

道橋バス停そば 

Img_8585 庚申塔道標 《地図

ここを右に曲がって馬喰橋(黒目川)を渡る。

Img_8587 「新座郡片山 貝沼村」などがうっすらと読める。片山はすぐ近くで、新座郡片山里貝沼村もあったようだ。

Img_8593 黒目川(馬喰橋から)

Img_8594 庚申塔(右)・左の剥落しているのも庚申塔のようだ。

右は天明元年(1781)の造立

Img_8600 地蔵などの石仏が集められている一画。

堂坂の坂下。 

Img_8602 堂坂を上る。【ル-ト地図】の③

Img_8608 氷川神社 《地図

Img_8610 地蔵 《地図

御成橋通りに突き当たった左側。

Img_8614 御成橋(跡) 【ル-ト地図】の④

橋跡の石柱と、右側に野火止用水が流れる。

清戸道は尾張藩の鷹場御殿への御成りの道でもある。

Img_8618 野火止用水

Img_8622 御成橋交差点の先は細い道となる。《地図

Img_8623 道があるのかないのかの所へ出る。かまわず直進し住宅街を抜けると下清戸の志木街道に突き当たる。

Img_8627 志木街道の下清戸バス停そば 《地図

ここを清戸道歩きの終点とした。

Img_8632 志木街道を南に清瀬駅に向かう。

Img_8635 長命寺

Img_8641気象衛星センター(清瀬市中清戸)

Img_8643_2 ここを左折して地蔵道標の立つ新堀の辻に向かう。《地図

Img_8645 地蔵道標の立つ辻(写真は志木街道方向) 【ル-ト地図】の⑤

Img_8646 地蔵(宝暦5年(1755))

台座に 「右 きよと かわこえ道」、「南江戸道」、「左ところ沢 ちヽ婦」とあるそうだが磨り減っていてはっきり読めず。満行寺(野寺)から栗原観音、神宝大橋を経て来る清戸道はここへ通じている。

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