中山道(守山宿→草津宿)・朝鮮人街道①
2010年10月27日
守山駅(東海道線)・・・守山銀座西交差点・・土橋・・加宿今宿・・樹下神社・・・今宿の一里塚跡・・・住蓮坊の母の墓・・・十王寺・・・諏訪神社・・・大宝神社・・・仏眼寺・・・百々川橋・・・八幡宮・・・葉山川橋・・・(東海道線)・・・伊砂砂神社・伊佐々川・・・光明寺・・・(サンサン通)・・・覚善寺・・・(旧草津川)・・草津宿高札場跡・常夜灯・道標(東海道合流点)・・・草津駅(東海道線)→野洲駅
野洲駅・・・朝鮮人街道・中山道分岐点・・・野洲郡役所跡・・・銀織寺道標(野洲駅前交差点)・・・久野部跨線橋(東海道線)・・・中ノ池川・妓王井川・・・光円寺・・・生和神社・・・遍照寺・・・遊林寺・・・屋棟神社・・・菅原神社・・・永原御殿跡・・・土安神社・・・明覚寺・・・妓王寺・・・西遊寺・・・北村季吟の碑・・・浄専寺・・・新家棟川橋・・・仁保橋(日野川)・・・正林寺・・・西覚寺・・・大橋・・・妙見宮道標・・・西光寺・・・県道2号・・・小船木橋(白鳥川)・・・小船木橋交差点・旧道・・・願成就寺・・・本願寺八幡別院・・・近江八幡の家並み・八幡堀・日牟八幡宮・・・天津神社・・・旧ヴォ-リス邸・・・・鍵之手町・・・常夜灯・道標(県道2号音羽町南交差点)・・・黒橋川・・・黒橋町公民館・・・長命寺川・・・高木神社・県道199号・・・松原橋(山本川)・・・(東海道線)・・・浄厳院・・・(東海道線)・・・金川橋・・・安土駅(東海道線)
中山道を東海道との合流点の草津宿まで歩き、朝鮮人街道に取り掛かった。朝鮮人街道は野洲で中山道から分かれ、近江八幡、安土、彦根城下を通り、鳥居本で中山道に合流する道で、江戸に向かう朝鮮通信使が通った道、それ以前は織田信長が往来した道、徳川家康が上洛の時に使った吉例の道でもある。
*参考:「朝鮮人街道(中近世古道調査報告書)」(滋賀県教育委員会)
写真をクリックすると拡大します。
土橋(境川・吉川) 《地図》
旧野洲郡の守山宿と旧栗田郡今宿村の境の橋。瀬田の唐橋の古材を使って架け替えられた公儀の御普請橋だった。今はコンクリート製
『広重の守山宿』(街道沿いではなく川に沿って茶屋などが描かれていて実際の宿場風景とは違っている)
【ル-ト地図】の102
左の常夜灯は天保2年(1831)に伊勢屋佐七が建立したもの。もとは土橋の橋詰にあった。
武佐宿の先には住蓮坊首洗い井戸、住蓮坊古墳があった。
右に「焔魔法王小野篁御作」の石柱。小野篁の作の閻魔像があるということか。小野篁(たかむら)は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという逸話があるそうだ。それで「焔魔法王」なのだろう。このあたりの焔魔堂町という地名にもなっている。
「へそむらの まだ麦青し 春のくれ」 芭蕉の句がどうかは疑義があるようだ。「へそむら」は「綣村」で、現在もここは守山市綣だ。
東海道線をくぐって線路沿いの細い道を通って草津宿へ。《地図》
伊砂砂神社(左)の自然石の平積み石垣は鎌倉時代に築かれたものと伝えるそうだ。 【ル-ト地図】の106
覚善寺 《地図》
道標(明治19年) 「右東海道 左中山道」
ここの西側の交差点が現在の東海道との合流(分岐)地点ということか。
地元では隧道を「まんぽ」といい、「まんぽで抜ける草津川」
この先は『東海道石部宿→草津宿』に続く。
*****ここからは朝鮮人街道①*****
朝鮮通信使(江戸時代)は、釜山(海路)→対馬→赤間関(下関)→瀬戸内海→大坂(水路)・淀川→淀(陸路)→京都→東海道→中山道→朝鮮人街道→中山道→垂井宿→美濃路→大垣→名古屋・熱田・東海道→江戸のルートを進んだ。
「左 八まんみち」は朝鮮人街道のこと。彦根道、京街道、浜街道、唐人街道などとも呼ばれた。
正面は三上山
道標(野洲駅前交差点右) 《地図》
「本山錦織寺一り」
野洲市役所の東側一帯は奈良・平安時代の野洲群衙跡。
直進し妓王井川沿いに進み、県道の久野部跨線橋で東海道線を越え、線路沿いを北東に向かう。
平家物語に登場する妓王・妓女が故郷の水不足を憂い、平清盛に頼んで造らせたという用水路。
左は遍照寺
天井川の旧家棟川の守り神。
寄木造りの薬師如来坐像は平安時代後期の作で、重文だそうだ。
この先で、街道から離れ「妓王ゆかりの地」などを巡る。
菅原神社 《地図》
神門は室町時代後期の建立で重文。境内には白鳳時代後期の瓦が出土した永原廃寺跡があるという。
永原御殿跡 【ル-ト地図】(朝鮮人街道)の2
徳川家康から家光まで上洛時の宿泊所。寛永11年(1634)の家光上洛の際には大整備がなされ、本丸、二の丸、三の丸を持つ、実質上の城郭となった。その後は将軍の上洛は行われなくなり、貞享元年(1684)には廃止され解体された。今は石積みの一部が残るのみ。この先の浄専寺の門は御殿の遺構。
妓王ゆかりの神社。祭神は妓王井川開拓の神、童子命と工事奉行の瀬尾兼康。もとは菅原神社の御旅所として創建された。
境内の見学、参拝は予約・連絡が必要。
野洲生まれで、芭蕉は門人の一人。
「妓王井にとけてや民もやすごおり」の句碑。
永原御殿から移築。
街道に戻りしばらく単調な道を行く。北西からの風が強い。《地図》
正林寺 《地図》
守川山と号し、宝暦13年(1763)の朝鮮通信使来朝の際の仁保川(日野川)仮土橋設置に携わる。
「朝鮮通信使の通った仁保のまち」とある。
の左前が「むべの木」ということか? 「むべなるかな」から由来する木の名とか。
この道は加茂神社、平安時代の阿弥陀如来(重文)の生蓮寺に通ずる。妙見宮とは加茂神社のことなのか?
小船木橋(白鳥川)を渡り、小船木橋交差点の先で左折し旧道に入り、八幡城下へ向かう。
小船木町に入る。《地図》
左に説明板
道標 《地図》
「左 京みち」・「右 長命寺」、
「京みち」は朝鮮人街道で、「長命寺」は琵琶湖湖畔上にある西国三十三ケ所霊場第31番の長命寺のこと。
聖徳太子が勅により近江国内に48ケ寺を建立した際、最後にこの寺を開基したので、この寺名になったといわれている。当初は八幡山南西の地にあったが、八幡城築城のため鷹飼に移し、天正14年(1586)現地に移転した。本尊の木造十一面観音立像は重文。地蔵堂の「木の中地蔵尊」も重文。
「比良三上 ゆきさしわたせ 鶯の橋」、境内には「五月雨に 鳩の浮巣を 見に行かん」、「一声の 江の横たふや ほととぎす」の句碑もある。
家康が上洛する際に宿泊した寺で、朝鮮通信使の正使・副使・従事官の昼食所となった。
『近江八幡』の家並み
享保5年(1720)開店の「扇四呉服店」
元八幡警察署で西村太郎右衛門の屋敷跡
新町通り 《地図》
森五郎兵衛宅(右)、旧西川家住宅などが並び通り。このあたりは団体の見学者が多く、写真が撮りにくい。直進して八幡堀に出る。
八幡城の濠でもあり、八幡町と琵琶湖を結ぶ運河でもある。
標高272mの八幡山山頂に天正13年(1585)、豊臣秀次によって築城。八幡山ロープウエイで行ける。
明治10年に八幡東学校として建築され、役場、郡役所、信用金庫などの建物に使用された。
永原町通り 《地図》
伝統的建造物群保存地区
建築家、プロテスタントの伝道者、メンタムでおなじみの「近江兄弟社」の創立者。後方に近江兄弟学園がある。
高札場のあった鍵之手町で右折し南下する。
常夜灯・道標(文久3年(1863))・地蔵の小祠(県道2号の音羽町南交差点)《地図》
道標は長命寺まで1里半と十丁(約6.9km)、観音寺まで2里であることを示している。観音寺は繖山(きぬがささん)の山頂近くにある、西国三十三観音霊場の第32番の観音正寺のこと。
常夜灯は万人講により元治元年(1864)に建てられたもの。
「左 朝鮮人街道 右 八風街道 いせ 八日市 ひの」
八風(はっぷう)街道は中山道と東海道を結ぶ道で、中山道の武佐宿から八日市に出て、鈴鹿山脈を八風峠で越え、東海道の桑名宿と四日市宿の中間地点に出る。四日市からは伊勢神宮に通じている。
黒橋公民館の先で左折し東に向かう。
高木神社で左折し県道199号を安土駅に向かう。《地図》
織田信長が開いた浄土宗の寺。天正7年(1579)には、浄土宗と日蓮宗の僧による仏教論争(安土宗論)が行われた寺。
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