中山道(垂井宿→関ヶ原宿→今須宿→柏原宿)
2010年10月23日
垂井駅(JR東海道線)・・・春王丸・安王丸処刑の地(金蓮寺)・・・垂井宿・紙屋塚・旅籠亀丸屋・問屋場跡・本陣跡・南宮大社鳥居・垂井の泉(玉泉寺)・旅籠長浜屋跡・本竜寺(時雨庵)・西の見付跡・・・松島稲荷・・・出屋敷踏切(東海道線)・・(日守交差点・国道21号)・・・日守の茶屋跡・垂井の一里塚跡・・・(日守西交差点・国道21号)・・・(関ヶ原バイパス)・・・伊富岐神社鳥居・・・平木川橋・・・野上の七つ井戸・・・しゃもじ塚(平忠常の墓)・・・大海人皇子野上行宮跡・・・松並木・・山内一豊陣屋跡・・・六部地蔵・・・(桃配山・徳川家康最初陣地)・・・国道21号・・・旧道・・・国道21号・・・若宮八幡神社・関ヶ原宿・脇本陣跡(相川家)・八幡神社・・・関ヶ原古戦橋(東海道線)・・・東首塚・・・関ヶ原古戦橋・・・国道21号・・・西首塚・・・松尾交差点・旧道・・・不破関東城門跡・・・不破関関庁跡・大海人皇子兜掛石・沓脱石・・・不破関跡・・・大木戸坂・・不破関西城門跡・・戸佐々神社・・藤下橋(藤古川)・・・峠箭先堂・矢尻の池跡・・・黒血川・弘文天皇自害峯・三本杉・・・(国道21号)・・・黒血川・・・鶯の滝・・・(新幹線)・・・常盤御前の墓・・・常盤地蔵・・・山中踏切(東海道線)・・・今須峠・・・国道21号・・・今須の一里塚跡・・・雨谷道踏切(東海道線)・・・家康腰掛石・青坂神社・・・雨谷道踏切・・・旧道・・・門前橋・・・今須橋(中挟川)・・・今須宿・妙応寺・本陣跡・脇本陣跡・問屋場跡・・・車返しの坂・車返し地蔵・・・(今須交差点・国道21号)・・車返踏切(東海道線)・・・寝物語の里碑(美濃・近江境)・・・野瀬坂・・・神明社・・・旧東山道・・・白清水・・・野瀬踏切(東海道線)・・・照手姫地蔵堂・・・柏原宿東見付跡・八幡神社・・・柏原駅(東海道線)
*『中山道(加納宿→垂井宿)』の続きです。
【ル-ト地図】
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春王丸・安王丸処刑地(金蓮寺境内) 《地図》
永享の乱の後の結城合戦で敗れ、京へ護送される途中の足利持氏の遺児、春王丸と安王丸はこの地で処刑された。祠内には2基の五輪塔がある。2人の墓は500mほど西の金蓮寺の墓地にある。金蓮寺本堂には春王丸・安王丸の木像が安置されている。結城合戦は滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の発端でもある。
紙屋塚 《地図》
旅籠亀丸屋《地図》
ここは垂井宿入口の枡形の所で、今も現役の旅館。
立札のみで建物はない。
南宮大社鳥居
ここから1km以上もあるようで遥拝のみ。
向う側の樹齢800年という大ケヤキの根元から湧き出している。
今は休憩所になっている。
もとは油屋卯吉の家で、後には旅籠亀屋跡。
山門と玄関は脇本陣からの移築。ここに高札場があった。
西見付跡 《地図》
すぐ先に「八尺堂地蔵尊道」の石柱が立つ。
雨の中を大名行列が西から松並木を通り、見付へ入って行く様子。茶店の前では本陣からの出迎えが控えている。垂井は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点の要衝の地で、戦国時代までは美濃の中心であった。
ここの南、200mほどに地蔵堂があるようだ。垂井宿本陣の母が夢に見て、地下八尺から掘り出したという大日如来の石像で、八尺四方の堂を建て大切に祀られてきたという。
東海道線と国道21号を越えて行く。
日守の茶屋跡(左) 《地図》
もとは不破関の先の常盤御前の墓の所にあった秋風庵を明治になってここに移した。
すぐ隣が垂井の一里塚跡。
南側の塚が残る。このあたりは関ヶ原の戦での浅野幸長の陣跡。
伊富岐神社鳥居
社殿はここから1kmほど先。関ヶ原が近づき街道沿いには武家の幟旗がはためいている。これは石田光成の旗。
つるべ式井戸でまだ水は汲めるが飲めないようだ。
野上は垂井宿と関ヶ原宿の間の宿で、古くは東山道の宿駅だった。『更級日記』にも「美濃の国になる境に、墨俣といふ渡りして、野上といふ所に着きぬ。そこに遊女ども出で来て、夜ひとよ、うたうたふにも、足柄なりし思ひでられて、あはれに恋しきことかぎりなし」とあり、遊女もいる賑やかなところだったようだ。
しゃもじ塚 《地図》
平忠常の墓という。「平忠常の乱」の後、長元4年(1031)に京へ護送される途中、この地で病没し、首をはねられたという。病気の忠常を哀れんで村人が食物を「しゃもじ」に乗せて差し出したところ、しゃもじごと口に入れ、そのまま死んじまったとか。
大海人皇子野上行宮(あんぐう)跡 《地図》
このあたりに山内一豊が布陣した。
宝暦11年(1761)頃、この地で死んだ諸国行脚の六部を供養するために里人が建てたもの。痛みのひどい病にご利益があり、「六部地蔵 歯痛なおりて 礼参り」といわれている。
壬申の乱で大海人皇子が野上行宮からここへ出陣し、名産の桃を兵士に配って快勝したという。関ヶ原の戦で、徳川家康が最初に陣を張った地でもある。
関ヶ原醸造 《地図》
醤油「関ヶ原たまり」
創業永長元年(1096)とあるが、建物は新しい。
建物(門)の写真を撮るのを忘れた。
前の道は昔の北国街道で中山道の曲がり角に本陣があったようだ。今は境内に本陣のスダジイの大木が聳える
やけにご立派でびっくりした。
このあたりは井伊直政、松平忠吉の陣跡。門前の道を北西に進めば家康最後の陣跡で、陣場野公園となっている。
こっちの方が質素だ。
不破関東城門跡 《地図》
正面は壬申の乱で勝利した天武天皇を祀る井上神社への道標石柱。
正面に大海人皇子兜掛石、左に沓脱石がある。珍しくもないただの石だが。
三輪家が代々関守を務めていたそうだ。
「秋風や 藪も畠も 不破の関」の芭蕉句碑がある。
ここに西城門があった。
藤古川(藤下橋から) 《地図》
古来の軍事上の要害、歌枕の地。
峠箭先堂(正面左) 《地図》
その隣が矢尻の池跡、右に曲がって1kmほどで大谷吉継の墓がある。
壬申の乱で大友皇子軍が矢尻で掘ったという井戸跡。
弘文天皇自害峯の三本杉 《地図》
大友皇子が自害したのはここではないが。
黒血川 《地図》
正面は東海道線をくぐるトンネル
後ろは芭蕉句碑 「義ともの 心に似たり 秋の風」
ここにあった秋風庵は日守の茶屋に移った。
道端にあった地蔵にこの名をつけたのだろう。
今須峠へ上る。《地図》
峠といっても高くはないが、積雪が多く難所の一つだった。熊か猿が出るかも。
113番目は関ヶ原一里塚だが場所は不明。
青坂(せいばん)神社 《地図》
東海道線の青坂トンネルの上にある社殿。桓武天皇の孫の高望王を祖とする鎌倉権五郎景政を祀る。
今須の城主で美濃の守護代も務めた、長江重景が正平15年(1360)に道元の弟子の莪山(がざん)和尚を開山として建立。薬草の枸杞(クコ)を用いた精進料理でも知られ枸杞寺ともいう。今須は門前町として賑わった。
美濃16宿のうちで、当時のまま現存する問屋場の建物。今須宿には問屋場が一時7軒もあったそうだ。今須宿は妙応寺の門前町として発展し、江戸時代には美濃国と近江国の境の宿場として栄えた。今須小学校が本陣・脇本陣だが遺構は残らず。
車返しの坂 《地図》
車がひっくり返るほどの急坂という意ではない。公家の二条良基のおかしな、アホらしい由来話がある。
国道21号、東海道線を渡り美濃と近江の境、「寝物語の里」を目指す。
「野ざらし紀行」で詠んだ句 「正月も 美濃と近江や 閏月」と「年暮れぬ 笠着て草鞋 はきながら」
小さな流れの溝が美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)の境
野瀬坂を下って神明社の鳥居前に出る。《地図》
「楓並木を大切にしよう」の立札が立つが並木は片側だけで、いろんな木が混ざっているようだ。もとは松並木だった。
鳥居の右の道は姉川の戦いの緒戦の地、長比(たけくらべ)城跡への登り道。
白清水 《地図》
ヤマトタケル、照手姫も使ったという伝承の泉。姫の白粉で白く濁ったとか。
野瀬踏切を渡って柏原宿へ入る。
右の小さな方。左は昭和になってから奉納された安産地蔵。
すぐ先が説明板②の最後の方に載る竜宝院跡
芭蕉句碑(八幡神社境内) 《地図》
芭蕉は伊吹山を左に見ながら北国脇往還を「奥の細道」の結びの地、大垣に向かっている。
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