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【ル-ト地図】
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周辺の農村は麻布の生産地で、高宮に集められた麻布は、高宮布(近江上布・高宮細美)として流通し、宿場には問屋や店だなが軒を連ねていたという。
落語『高宮川天狗酒盛』
高宮神社 《地図》
鎌倉時代の創建という、縁結び、夫婦和合、開運厄除けの神。
芭蕉句碑「をりをりに 伊吹を見てや 冬籠」がある。
高宮布の問屋跡
多賀大社一の鳥居
高宮宿は多賀大社の門前町でもあった。常夜灯は昔は対で立っていた。
******多賀大社(10月28日参拝)*******
白地に赤と青の筋の入った餅で、赤と青は元寇の時の蒙古軍の船印の色で、戦勝にあやかって食べたという。あんの甘さが控えめで美味く、みやげに買ってしまった。
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当家に泊まって古い紙子を着て寝たおっさんが芭蕉だと後で知り、新しい紙子を贈り、古い紙子を埋めて塚を築いたという。
2軒あった脇本陣の一つで問屋場を兼ねていた。門前が高札場だった。
円照寺の「止鑾松」(しらんしょう) 《地図》
明治天皇の目に止まった松。左の石の囲い中が大阪夏の陣の帰路に立ち寄って腰掛けたという、「家康の腰掛石」のようだ。
【ル-ト地図】の81表門だけが残る。
手前を左に入ると「黒仏」の高宮寺で、その先の高宮小学校が高宮城跡
高宮宿のパンフレットに載っていたものだが、この地蔵かどうか?
昭和53年高宮橋の改修工事の際に、橋脚下から発掘された2体の地蔵。
地福院地蔵堂(月通寺) 《地図》
別名を柏原地蔵で、行基の作と伝える。葛籠(つづら)一里塚(120)はこのあたりか。
足利義詮の側室がここで出産したという。
奥に若宮神社の小祠がある。
応神天皇の時代にこの地を開発した百済の渡来人阿自岐氏が祖神を祀った神社。犬上川の伏流水が湧き、「池泉多島式庭園」という美しい所だそうだ。
「四十九院」とは行基が天平3年(731)にこの地に49の寺院を建てたことに由来する。
【ル-ト地図】の83ヴォーリズの設計の旧校舎は建て替えか保存かで揉めてマスコミを賑わさせた小学校。今は複合施設になっている。
「一里塚の郷 石畑」碑(八幡神社前) 《地図》
石畑の一里塚(121)は、すぐ先の町役場交差点の所にあった。ここ石畑は高宮宿と愛知川宿の間で立場茶屋があった。
後方左に説明文の刻まれた石碑、右は無量光寺の六地蔵。
犬上氏は遣隋使、遣唐使の犬上君御田鍬(いぬかみのきみみたすき)で有名。近くに犬上神社がある。
手前には伊藤忠兵衛の功績を称えた公園の「くれない園」、その隣に伊藤長兵衛屋敷跡がある。忠さん長さんどっちがどっちかややこしい。
手前を入ると天稚彦神社
田の用水と街道を行く旅人の喉を潤した湧水だった。
近江商人の藤野家本宅跡
千樹寺 《地図》
「江州音頭発祥地」の石柱と説明碑
橋の名は平将門に由来する逸話がある。
歌詰橋の話からの続きで首塚と呼んでいるのだろうが山塚古墳(円墳)。
正面分岐点に道標「籏神豊満大社」が立つ。
渡来人の秦氏の氏神、あるいは神功皇后軍の軍旗を祀って「籏神」か。「お旗さん」の名で親しまれている。
もとは東山道の宿駅で、宿場町であると同時に近江商人の町でもあった。
田源の屋号で呉服、蚊帳、麻織物を扱っていた。今は料亭の「近江商人亭三角屋中宿店」
脇を流れる中の橋川は愛知川宿と中宿との境であると同時に神崎郡と愛知郡とを隔てる川でもあった。
愛知郡役所跡 《地図》
大正12年落成し大正15年に廃止された。
手前の日本生命のビル一帯だが遺構は残らず。
この先の八幡神社前が高札場跡
【ル-ト地図】の86昔は旅籠で、宝暦8年(1758)の創業という。提灯には「旅籠」とある。
不飲川(のまずかわ)橋 《地図》
水源の野間津川で将門の首を洗ったため水が赤く濁り、誰もこの水を飲まなくなったためだとか。この先で国道8号に出る。
【ル-ト地図】の87国道の北側に石柱のみ。
対岸の常夜灯と川の安全を見守る「睨み灯篭」だった。
ここも天保2年(1831)に架けられた「むちん橋」
『広重の愛知川』(絵の右に「むちんはし はし銭いらず」の木柱が立つ)
近江商人発祥の地、間の宿五個荘に入る。《地図》
右が「睨み灯篭」の中出町の常夜灯(文政8年(1825))。
「東嶺禅師御誕生地」(愛宕神社の先)
一輛の近江鉄道が通る。近江鉄道は近江の中山道歩きには欠かせない電車だ。乗客が減り経営も苦しいようだが頑張って欲しい。
「左いせ ひの 八日市みち」(御代参街道)、 「右 京みち」(中山道)
大同川沿いに進む。《地図》
ここで梵鐘を作っている?
国の登録有形文化財だが何の建物だったか?
大名、武家、公家などが休憩した立場本陣で金比羅大権現の常夜灯は天保8年(1837)の建立。
観音正寺道標
西国三十三観音霊場の第32番
五個荘の商人は天秤棒を担いで諸国を商って歩いた。この手前が石塚の一里塚跡(123)あたりのようだが表示はない。
今でも飲用しているようだ。
新幹線をくぐり歌枕の「老蘇の森」を目指す。
奥石神社の神体の山で、観音寺城跡や観音正寺がある。
【ル-ト地図】の88この陣屋小路を入った所に鉄砲の根来衆で有名な根来家の代官屋敷があったそうだ。
寺のおかみさんが扉を開けて拝ませてくれた。
地蔵は土で作った小幡人形の小さな千体仏。安産祈願の地蔵で、表情がみな違っている。もとは轟橋の橋詰にあったもの。
奥石神社の若宮社として勧請された。
もとは清水鼻(五個荘)にあった佐々木六角氏ゆかりの寺。豊臣秀吉の祐筆の建部伝内の寓居跡という。
泡子延命地蔵堂(西福寺) 《地図》
「昔、この地の茶屋に立ち寄った若い僧を、茶店の娘がたいそう気に入り、恋しく思った。娘は立ち去った僧の残りの茶を飲んだところ、妊娠して男の子を産んだ。3年が経ち、再び現れた僧にこの話をすると、僧は子に息を吹きかけた。とたんに子は泡となって消えてしまった。僧は「西方の「あら井」の池の中に尊き地蔵あり。この子のためにお堂を建て安置せよ」と言って立ち去って行った」という、醒井宿の西行水の泡子塚と同じような話だ。
武佐宿大門跡 《地図》
大門とは遊郭のようだが見付のこと。すく先の牟佐神社前が高札場跡
古来、近江から伊勢へ抜ける八風街道と東山道(中世東海道・中山道)が交わる湖東の交通の要衝地として栄えた。
【ル-ト地図】の90 享保13年(1728)に将軍吉宗に献上するため江戸に向かった象はここを通った。この先、東海道に出て姫街道に入り、再び東海道に出たようだ。姫街道には「象鳴き坂」がある。『姫街道③』に記載
『門司往還』にも船に乗るこの象が出てくる。
米、油の商家で、宿場の伝馬、人足の取り締まりの役人だった家。
【ル-ト地図】の91左角は「いせ ミな口 ひの 八日市 道」
斜め向かいの右角は「安土浄厳院道」
「・・・従是三丁」とあるが詳細不明
この先が武佐駅で街道は線路を渡って進む。
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