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2010年12月19日 (日)

人見街道

2010年12月9日

浜田山駅(井の頭線)・・・浜田山駅入口交差点(井ノ頭通り分岐点)・都道14号・・・横倉邸のケヤキ並木・・・松林寺・・・(環八通り)・・・庚申塔道標・・・(井の頭線)・・久我山駅・・・久我山橋(神田川)・・・元坊坂・久我山稲荷神社・・・宮下橋・・・稲荷社・・・牟礼橋・どんどん橋(旧牟礼橋・玉川上水)・都道110号・・・古峯神社・・・真福寺・・・牟礼神明社(牟礼城跡)・・・牟礼の里公園・・・道供養之塔(牟礼2交差点)・・・大盛寺・三木露風の墓・・・庚申塔・・・新川宿八幡神社・庚申塔・・・野川宿橋(仙川)・・・尾張家御鷹場標石(三鷹市役所)・・・(三鷹通り)・庚申塔・・・深大寺道交差地点(野崎交差点)・・野崎八幡神社・・・(天文台通り)・・・大沢八幡神社・・・(東八通り)・・・大坂・・旧道・・相曽浦橋(野川)・・・湿性花園・・峰岸家・・出山横穴墓・・・龍源寺・・・近藤勇生家跡・野川公園・・撥雲館跡・・・多磨駅(西武多摩川線)・・・(浅間山通り)・・・(新小金井街道)・人見街道終点・航空自衛隊基地・・・甲州街道(国道20号)・・・東府中3号踏切(京王線)・・・旧甲州街道・人見道入口・・・こみとみ道入口・・・府中本町駅(JR武蔵野線) 

 人見街道は府中の人見村へ至る道で、地名の由来は武蔵七党の猪俣党の人見氏一族が住んでいたとも、人見の北にある浅間山の別名「人見山」からともいわれる。浜田山駅北口の井ノ頭通りとの分岐から府中市八幡町の旧甲州街道との合流点までを歩く。

  【ル-ト地図

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Img_9995 人見街道説明板

Img_9981 井ノ頭通りから分かれる人見街道(左・都道14号)

浜田山駅入口交差点 《地図

Img_9982 標識

Img_9983 横倉邸のケヤキ並木

現在、横倉邸はなくマンションなどになっている。

Img_9987 松林寺 《地図

Img_9985 説明板

Img_9996_2 標識

Img_9997 庚申塔道標 【ル-ト地図】の①

井の頭弁財天への道(右)と府中道(左・人見街道)への道標を兼ねている。

Img_9998庚申塔道標(享保7年(1722)造立)

Img_9999説明板

Img_0006 元坊坂 《地図

ここは人見街道ではないが。右は久我山稲荷神社

Img_0012 牟礼橋・どんどん橋の手前の大木の根元に庚申塔の小祠がある。ちょうど杉並区と三鷹市の境。

Img_0013 庚申塔(元禄13年(1700))

正面には建立者の名前がぎっしりと刻まれているようだ。

都道には牟礼橋が架かり、少し右に古いどんどん橋が残っている。

Img_0021 どんどん橋(旧牟礼橋・玉川上水)【ル-ト地図】の② 

石橋建立供養之碑(左・宝暦7年(1757))・どんどん橋碑(右) 

「どんどん」とは水が勢いよく流れる様で、子ども達はこう呼んでいたという。どんどん橋碑も道標になっていて右側面に「右 ふちうみち」(府中)とある。

Img_0018 説明板

Img_0032 真福寺

Img_0041 牟礼神明社 《地図

牟礼城跡の地

Img_0039由緒

Img_0043 石燈籠(神明社石段下)

以前は牟礼2丁目の交差点にあった井の頭弁財天への道標を兼ねた常夜灯。

Img_0035 説明板

牟礼神明社(牟礼城跡)から牟礼二丁目交差点の道供養塔・地蔵までは、牟礼道の道筋。

Img_0047 道供養塔(文化9年(1812))・地蔵(牟礼2交差点)

地蔵尊は行き倒れになった僧を弔うために建てられたとも。神明社に移された石燈籠ももとはここにあった。

Img_0048 庚申塔(火の見の下)

Img_0051 三木露風の墓(大盛寺墓地) 《地図

近くには平成21年に開園した「赤とんぼ公園」もある。故郷の山陽道の龍野の揖保小学校校庭には、「赤とんぼ」を記念して桑の木が植樹されている。

Img_0050 説明板

Img_0060 尾張藩御鷹場標石 【ル-ト地図】の③

「従是東西北尾張殿鷹場」で、江戸の郊外はすべて幕府の鷹場に指定されていう。

Img_0058 説明板

Img_0063 庚申塔(元文2年(1737)) 《地図

ガソリンスタンド脇に、ひっそり、しっかり祀られている。

野崎交差点で深大寺道と交差する。

Img_0067 野崎八幡神社 《地図

右奥に薬師堂がある。毎年10月8日薬師の縁日の夜には、地元の人達によって「団子まき」の供養が行われ、賑わうそうだ。

Img_0068 説明板

Img_0076 野崎2交差点を渡った所から。

Img_0074昭和39年の写真

Img_0073 説明板

Img_0079 旧家

Img_0086 大坂を下る。都道を下れば御狩野橋に出る。《地図

このあたりは『三鷹市の坂』で歩いている。

Img_0089 左に旧道を下ると野川の相曽浦橋に出る。雨上がりの日などは、野菜を積んだ大八車が坂を上るのに難儀したという。

Img_0093 野川(相曽浦橋から下流方向)

Img_0101 峰岸家 《地図

江戸時代からの農家。文化5(1808)年頃に設置された武蔵野地域を代表する営業用水車を公開している。見学料100円。

Img_0098 説明板

Img_0095出山横穴墓 【ル-ト地図】の④

正面の崖に8号横穴墓が見学施設として公開されている。横穴墓内はガラス越しで光が反射して、写真はうまく撮れず。

Img_0112 説明板

Img_0117龍源寺

近藤勇の墓がある。少し先(野川公園入口交差点)に生家跡がある。

Img_0126 撥雲館跡 《地図

Img_0125 説明板

Img_0129 多磨駅を越えたあたり。

多磨霊園が近く石材店など墓所関連の店が並ぶ。左に地蔵の小祠。

Img_0132 若松町四交差点(浅間山通り) 《地図

渡った右側に「人見」の説明石碑が立つ。

Img_0134 説明板

Img_0136 人見街道の現在の終点 《地図

新小金井街道との交差点で「人見街道入口」バス停がある。新小金井街道を北に進めば、正平7年(1352)に浅間山周辺での足利尊氏と新田義興・義宗兄弟との「人見原合戦」の浅間山に出る。

この先は「人見道」、「こみとみ道」を通り旧甲州街道に通じていたが、今は航空自衛隊基地に阻まれる。

Img_0142 航空自衛隊基地を迂回する。

Img_0143 基地の前にはなぜか立派な松並木が。

Img_0147「人見道」は基地内を通り、このあたりへ出て旧甲州街道へ合流していた。《地図

正面は東府中3号踏切(京王線)

Img_0153旧甲州街道沿いの歴史を感じさせる工場。

Img_0156 こみとみ道入口 【ル-ト地図】の⑤

ここから北西方向に進み、人見道と合流し、人見街道へと通じていた。

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2010年12月12日 (日)

京街道(東海道五十七次)④

2010年11月25日

関目高殿駅(地下鉄谷町筋線)・・・関目の七曲り・・関目神社・・・都島通・・・旭国筋商店街・(大阪東線)・・・野江の七曲り・・野江水神社・・・(都島通)・・・榎並地蔵・・・(JR大阪環状線・国道1号)・・・京阪京橋駅・・・野田橋跡・・・(京阪本線)・・・片町交差点・府道168号・・・京橋川魚市場跡碑・京橋(寝屋川)・・・大阪城石垣跡・・・(天満橋駅)・・・八軒家船着場跡・・・熊野街道碑・・・高麗橋

 【ル-ト地図

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Img_9907 関目の七曲りの続き 《地図

Img_9909 関目神社

関目という地名は古くは榎並荘の時代からあり、このあたりに見張り所(目で見る関所)があったことから由来するという。

Img_9912 旭国道筋(あさひこくどうすじ)商店街

まだ早く開店前だが、懐かしさを感じさせる店並みが続いている。

Img_9913_3野江の七曲り 【ル-ト地図】の①

右に入る。

Img_9919 野江水神社

榎並城の城内に勧請された神社。このあたりは榎並能楽発祥の地でもある。

野江の七曲りが都島通りを越えたあたりに、豊臣方の残党が処刑された「野江刑場」があったようだ。

Img_9920 由緒

Img_9931 榎並地蔵 【ル-ト地図】の②

祠の向こう側に道標の台座とその上に地蔵(双体道祖神)

Img_9925 説明板

Img_9929 地蔵と道標

布で覆われ頭の先しか見えない。

Img_9928 説明板

Img_9937 大阪環状線の「京街道」ガードをくぐって、京阪本線沿いに進む。

Img_9939 野田橋跡 《地図

鯰江川に架かっていた橋。川は京阪本線の軌道となっている。

Img_9948 京橋川魚市場跡碑 《地図

石山本願寺の時期に、漁民が京橋の北詰に川魚を持ち寄って販売したのが起源という。

Img_9947 説明板

Img_9953 京橋から寝屋川

もとはここが京街道の起点だった。

Img_9961 大阪城石垣 《地図

Img_9962 説明板

Img_9966 八軒家船着場跡碑(永田屋昆布店前) 【ル-ト地図】の③

Img_9350 現在の八軒家船着場から天神橋、中之島公園方向 《地図

今は観光船が発着し、川沿いに遊歩道ができ、川の駅「はちけんや」もオープンしている。

Img_9347 説明板

Img_9967 熊野街道碑 【ル-ト地図】の④

いずれ熊野古道も歩くだろう。『野古道(紀伊路) 』で歩いた。

Img_9968 説明板

Img_9978高麗橋 【ル-ト地図】の⑤

日本橋と同様、上に高速道路が覆い被さり、重たく暗く味気ない風景になっている。

はじめて京街道を整備した秀吉は「京橋」を起点とした。江戸時代に東海道が五十七次となって以降はここが起点となった。紀州街道中国街道の起点でもある。橋の名の由来は高麗の使者を迎えたから、近くに高麗館があったからとも伝えられる。

Img_9971 説明板

Img_9975 擬宝珠(慶長9年(1604)の銘・複製品か?)、説明碑、里程元標跡石柱

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2010年12月 9日 (木)

京街道(東海道五十七次)③

2010年11月24日

枚方公園駅(京阪本線)・・・枚方宿西見付跡・・・水面廻廊・・・大橋南詰交差点(国道170号)・・・光善寺・・・蓮如腰掛石・・・淀川土手・・・木屋西交差点(国道1号)・・・本信寺・・・鞆呂岐神社・・・茨田堤碑・・・絶間橋・・・太間天満宮・・・西正寺・・・淀川土手・・・(淀川新橋)・・・茨田樋跡・・・(鳥飼仁和寺大橋)・・・佐太の渡し跡・・・(国道1号)・・佐太天神宮・・・来迎寺・佐太陣屋跡・・・淀川土手・・・(大阪モノレール)・(鳥飼大橋)・・・八坂瓊神社・・・正迎寺・・智眼地蔵・・・守口一里塚跡・守口宿上の見付跡・・・浜町交差点・・・盛泉寺・・・難宗寺・・・守口宿本陣跡・・旧白井氏宅・・高札場跡(八島交差点)・・札場坂・・(文禄堤)・・道標・来迎(寺)坂・守口街道分岐地点・・十三夜坂・中高野街道分岐地点・・本町橋・・守居橋・・義天寺・・下の見付跡・・・京阪商店街・・守居神社・・・国道1号・・・今市北1交差点・旧道・・・千林商店街・・・古市橋・・・関目5交差点・関目の七曲り・・西井茶屋跡・・・関目高殿駅(地下鉄谷町線)

  【ル-ト地図

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Img_9679 水面廻廊 【ル-ト地図】の①

このあたりに明治42年に枚方宿の旅籠が移転してきて、「桜新地」呼ばれた遊郭街となり、昭和33年まで続いたという。

京街道に戻り、大橋南詰交差点を渡る。

Img_9686 出口集落の石垣上の段蔵

淀川の氾濫、洪水などの浸水に備えた蔵。

Img_9689 光善寺 《地図

Img_9690 説明板

Img_9694 出口集落の家並み

「私の家は出口村の真ん中にある」と洒落たことを言うおばさんの家の前でしばし立ち話。家は新しいが庭に伏見稲荷の祠もある立派な家だった。

Img_9700 蓮如上人腰掛石

この石に腰掛けて村人たちに法を説いたという。

竜女伝説:「毎日、蓮如の説法を熱心に聞く美女がいた。淀川の渕に棲む竜の娘で、説法のおかげで成仏し昇天することができたので、そのお礼に渕を埋め寺を建てるよう言い残し、大蛇に化身してさいかちの木から天に昇って行った」という、「出口御坊 渕埋山光善寺」の縁起話。

Img_9701 旧家

Img_9708 淀川土手を行く。

この風景は見慣れた江戸川土手、荒川土手などと似ていて、今はどこを歩いているのかと思ったりもした。

Img_9714 大信寺 《地図

Img_9718 鞆呂岐(ともろぎ)神社

右奥に赤穂浪士の子孫が寄進した鳥居がある。

Img_9720 鳥居に刻まれた子孫の名前。

Img_9721 説明板

Img_9724 茨田堤(まんだつつみ)碑

仁徳天皇が淀川に築かせたとされる堤防。流れが速くどうしても決壊してしまう所(絶間)が2か所あり、『日本書紀』には人柱にされた武蔵の住人、強頸(こわくび)と、河内の茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)の絶間伝説が載る。衫子は機転をきかせ人柱から免れ、強頸は泣く泣く人柱の犠牲となったというもので、都から遠く離れた武蔵を知恵の足りない東夷として蔑視する思想が表れているか。
守口街道』沿いの堤根神社には、茨田堤跡が残っている。

Img_9728 絶間橋 【ル-ト地図】の②

このあたりが茨田連衫子の絶間跡

Img_9732 太間神社

太間=絶間

Img_9734絶間跡説明板

Img_9736 西正寺

山号を「退魔山」といい、茨田連衫子の子孫、茨田宗左衛門の開基と伝える。

Img_9746 茨田樋跡

淀川から引き入れた農業用水路。

この先に「お鍋茶屋」があったようだ。

Img_9743 説明板

Img_9745 復元整備された茨田樋

Img_9749 烏飼仁和寺大橋へと向かう。

Img_9756 佐太の渡し跡 《地図

正面が文禄堤で淀川。電柱の左に「淀川筋佐太渡船場」の石柱が立つ。佐太は枚方宿と守口宿の「間の宿」として栄えた。

Img_9757 佐太天神宮

菅原道真が左遷で太宰府へ流される途中、当地に滞在し、自作の木像や自画像を残したと伝えられている。道真の死後50年の天暦年間(947~56)に、道真自作の木像を神体としで創建されたという。隣には神宮寺の菅相寺がある。

Img_9760 与謝蕪村句碑(境内)

「窓の灯の佐太はまだ寝ぬ時雨かな」 淀川を夜船で故郷毛馬村へ帰る途中での句。夜遅くまで賑わい明るい佐太の宿場の様子がうかがえる。境内にいた二人連れの女性からこの句を読んでくれとせがまれた。もちろん一部しか分からない。帰ってから調べると、参考にした『京街道』の本に載っていて詳しい説明も記されていた。来る前に何度か予習していたのに、すっかり忘れていたのだ。情けなく、恥ずかしい限り。

Img_9769来迎寺勅使門

菊と桐の紋章が扉に浮き彫りされている。

Img_9762 説明板

Img_9766 ?松

Img_9774 十三重石塔(嘉元2年(1304)建立)

幽霊の足跡」なるもの見たかったが、決まった日しか公開されず、残念。

Img_9773 佐太陣屋跡の石垣(来迎寺の隣)

昨日訪れた御殿山にあった永井氏の陣屋がここに移された。永井氏は美濃国加納藩に移った後もこのあたりに1万2千石の領地を有していて、加納藩の蔵屋敷の役目も果たしていた。今は来迎寺の一部のような感じだ。

Img_9783 大阪モノレール・鳥飼大橋をくぐり、左へ堤から下りて行く。

Img_9787 八坂瓊(やさかに)神社 《地図》(八坂となっていて笑える)

堤上あたりに「七番の渡し」があり、対岸の一津屋鳥飼と結んでいた。

Img_9797 智眼地蔵 《地図

すぐ先の自治会館前に「時空の道」、「京街道」の新しい道標が立つ。

Img_9793 道標

Img_9806 守口一里塚跡 【ル-ト地図】の③

このあたりが守口宿の上の見付跡

Img_9813 盛泉寺(東御坊)

明治天皇の行幸の際には内侍所となった寺で、「幻の大阪遷都」ゆかりの寺。「三種の神器」の一つ、「八咫の鏡」を一時、本堂前の賢所に奉安したという。神器は本当に存在するのか?

橋下知事の「大阪都構想」の実現の見込みは?

Img_9811 説明板

Img_9816 難宗寺(西御坊)

明治天皇の行幸の際には行在所となった寺。樹齢500年という大いちょうが見事。

Img_9821 説明板

Img_9817 道標(難宗寺角)

Img_9822 守口宿本陣吉田八郎兵衛跡 《地図

本陣は1軒、脇本陣はなく、旅籠が27軒(天保14年(18473))

Img_9823説明板

Img_9825 旧白井氏宅

ここで大塩平八郎が近郷の農民に陽明学を講義したという。

Img_9830 札場坂 《地図

八島交差点(高札場跡)から緩やかに上る坂で、淀川の文禄堤上の道。今は淀川は北西800mを流れているが。

Img_9848 説明板

Img_9838 文禄堤沿いの家並み

Img_9841 来迎(寺)坂 【ル-ト地図】の④

ここに佐太に移転した来迎寺があった。この坂は守口街道の起点で、守口街道→清滝街道→竜田越奈良街道から奈良に通じている。左に小さな道標が立つ。

Img_9842 道標

「のざきみち」は野崎参りで知られる野崎観音の慈眼寺への道のこと。

Img_9846 十三夜坂 《地図

文禄堤から下る坂で、この坂が中高野街道の起点。

Img_9853 本町橋から守口市駅 《地図

駅の高さよりやや低いくらいで、この通りが堤上だということが分かる。

Img_9855 文禄堤上の道を進む。

Img_9863 義天寺

題目石は野江刑場から移されたものという。ここは茶店「丁字屋」跡で裏手には三十石船が着けられた。

Img_9866 下の見付跡 《地図

Img_9871 京阪商店街

賑わいのある繁盛している商店街だ。商店街の一画に守居神社がある。

Img_9875 守居神社 《地図

延喜18年(918)の淀川の洪水の際に、土居を築いて治水祈念をしたのが始まりという。昔は土居神社だったが、明治時代には口と土から守居神社と改称された。

Img_9880 道路に埋め込まれた絵図 《地図

Img_9883 千林商店街 《地図

このあたりに茨田堤の築堤工事の際に、川の神に「生贄(いけにえ)」にされたという武蔵国の強頸(こわくび)の「強頸の絶間」の碑が立っている(民家内)というが分からず。買い物客に聞く雰囲気でもなく、聞いても分からないだろうと街道に戻る。今の淀川の流れからはかなり離れている。

Img_9882 京街道

Img_9893 関目の七曲り 【ル-ト地図】の⑤

秀吉が京街道を開く際に軍事防衛上意図的に蛇行させたといわれる。

Img_9894 西井茶屋跡 《地図

右側面に「西井茶屋址」とある。

Img_9905 七曲り(右)は続くが今日はここ関目高殿駅まで。

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2010年12月 6日 (月)

京街道(東海道五十七次)②

2010年11月23日

淀駅(京阪本線)・・・納所交差点・唐人雁木旧址・・・納所村道路元標・・・五番橋・・・妙経寺(淀古城跡)・・・與杼神社・淀城跡・・・(京阪本線)・・・県道126号・・・大尊寺・・・天満宮・・・淀町道路元標・・・(県道15号)・・・西岸寺・・・円通寺・・・(京阪本線)・・・御幸橋(宇治川・木津川)・・・大クスノキ・・・八幡宮常夜灯・・・大谷川・・・道標(橋本の渡し跡)・・・橋本中ノ町(遊郭跡)・・・小金川踏切(京阪本線)・・・久修園院・・・久親恩寺・・・道標・・・長福寺・・・(京阪本線)・・・県道13号・・・樋之上交差点・旧道・・・一里塚跡・・・楠葉橋(船橋川)・・・(牧野駅)・・・(穂谷川)・・・阪今池公園・・・片埜神社常夜灯・・・(穂谷川)・・・片埜神社・・・(穂谷川)・・・前川踏切(京阪本線)・・・清伝寺・・・県道13号(三栗(めぐり)交差点)・・・渚橋踏切(京阪本線)・渚橋・・・渚の院跡・・・御殿山神社・・・御殿山アート坂・・・(御殿山駅)・・・県道13号・・・磯島交差点・旧道・・・日野橋・・・一里塚跡・鵲橋(天野川)・・・枚方宿東見付跡・・小野邸・・浄行寺・・宗左の辻・・脇本陣跡・・本陣跡・・蔵谷踏切(京阪本線)・・臺鏡寺・・願生坊・・意賀見神社・・ムクの木・・御茶屋御殿跡・・蔵谷踏切・・枡形・浄念寺・・田葉粉屋跡・・鍵屋資料館・・西見付跡・・誓願寺・・・枚方公園駅(京阪本線)

  【ル-ト地図

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Img_9366 唐人雁木旧址 【ル-ト地図】の①

大坂から淀川を遡ってきた朝鮮通信使一行はここで船を下り、京都から江戸に向かった。左に新しい碑が立つ。

Img_9364 説明板

淀駅前に移設された古い碑の脇に設置のもの。

Img_9373 妙経寺 《地図

秀吉が淀君を住まわせた淀古城はこのあたりにあった。城郭というより邸宅御殿風な建物だったようだ。

Img_9379 與杼(よど)神社 《地図

慶長12年(1607)に建てられた拝殿(正面)は国の重文。

Img_9365 道標などが集められた一画(與杼神社前)

唐人雁木旧址碑(左)・淀小橋旧跡碑・永代常夜燈碑・淀城の故址碑・京都街道道標など。昔は納所で宇治川を淀小橋で渡り淀城下に入った。明治時代の桂川・宇治川・木津川の三川改修工事で消滅した。

Img_9355淀城跡

石垣上が天守台だが、なぜか立入禁止になっている。

Img_9384天守台

Img_9380 説明板

Img_9393 淀宿(東海道五十五次)の家並み

伏見宿から1里14町と近く、人馬の継立業務に限られた宿で、本陣、脇本陣はなく旅籠は16軒だった。この通りを東に入った所に武家屋敷が並んでいた。

淀競馬場が近く、競走馬輸送の「馬匹輸送」の看板を掲げている。

Img_9413 御幸(ごこう)橋(木津川)を渡る。 《地図

今はこの橋の下流で桂・宇治・木津の三川が合流する。右は取り壊し作業中の古い御幸橋。正面は日本三大八幡宮の一つ、石清水八幡宮の男山。昔は御幸橋の手前から堤が真っ直ぐ、大クスノキの所まで延びていた。

Img_9422 大クスノキ 《地図

Img_9426石清水八幡宮常夜灯(文政5年(1822)) 《地図

Img_9430 石清水八幡宮道標

Img_9439 道標 《地図

「八まん いせ京伏見」

奥は京阪本線の橋本駅

Img_9447 「橋本の渡し」道標

正面「柳谷わたし場」、左側面「山さき あたご わたし場」 対岸は西国街道の山崎宿で、文禄年間(1592~95)までは山崎橋が架かっていたが、たびたびの流失で、船渡しとなった。「柳谷」は山崎の柳谷観音(楊谷寺)のことか。

手前を左折して遊郭街だった橋本中之町に入る。

Img_9455 橋本中ノ町の家並み 《地図

派手さはないが家々の造りに遊郭っぽい風情が残っている。石清水八幡宮参詣者で賑わう「間の宿」だった。

Img_9452 旧家

Img_9458 旧家

Img_9459 旧家

Img_9462 旧家

座敷の欄間のような透かし彫り。

Img_9464 ここは「橋本湯」

Img_9471久修園院(くしゅうおんいん) 《地図

元禄時代製作の天球儀・地球儀がある。

Img_9470 説明板

この先の久親恩寺の北側が楠葉砲台跡で、対岸が高浜砲台跡。鳥羽伏見の戦では高浜砲台を守っていた津藩藤堂家が官軍に寝返り、幕府軍同士の打ち合いになってしまった。

Img_9480 新しい「旧京街道」道標(長福寺近く)

Img_9482 京阪本線をくぐり県道13号を進む。 《地図

左は樟葉駅、地名は楠葉。樟葉は『日本書紀』、『古事記』の「糞褌(くそばかま)」から由来する地名という。

樋之上交差点で左に旧道に入り、船橋川に突き当たり楠葉橋を渡る。川の手前に一里塚があった。

Img_9491 土手を下ると左下に道標、地蔵などが並ぶ。

Img_9493 八幡宮道標・戊辰戦争戦没者供養碑・地蔵の小祠 《地図

ここを右折し、線路沿いを進み牧野駅で京阪本線を渡る。牧野は楠葉牧に由来する地名。

Img_9505 片埜神社常夜灯(享和元年(1801)) 《地図

右の台座には「大」の文字。ここから神社まではけっこうある。昔はこのあたり一帯が境内地だったのだろう。

Img_9501 片埜神社 《地図

七五三で参詣の子ども連れが目立った。

Img_9503 説明板

県道13号に出て、渚橋踏切を渡り「渚の院」跡に向かう。

Img_9515渚の院跡 《地図

『伊勢物語』の在原業平と親交があった惟喬親王の別荘地で、業平の「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(古今和歌集)はここで詠まれた歌。

紀貫之の『土佐日記』にも記述がある。「かくて船ひきのぼるに渚の院といふ所を見つゝ行く。その院むかしを思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。しりへなる岡には松の木どもあり。中の庭には梅の花さけり」

渚の院跡の観音寺(廃寺)の梵鐘がフェンス内の左奥にある。

Img_9516 説明板

Img_9522 御殿山神社

淀藩主永井家の家系の永井伊賀守の陣屋跡。「御殿」とは渚の院のことか、陣屋のことか。

Img_9527 説明板

Img_9526 御殿山アート坂を下る。 【ル-ト地図】の②

御殿山から下る坂で、途中に御殿山美術センターがある。

Img_9538鵲(かささぎ)橋から天野川、京阪本線

昔は鵲橋はなく、土橋を渡って枚方宿東見付に入った。川の手前に一里塚があった。天野川は「天の川」で七夕伝説に由来する。は織姫と彦星の橋渡しをした鳥。渡り賃を取ったことがあり、情緒なき「銭取り橋」の異名を取ったという。

Img_9544枚方宿東見付跡 《地図

ここを右折すると左側に屋号「八幡屋」の小野邸。

Img_9547 小野邸

枚方宿の村年寄、問屋役人を兼ねていた家。斜め向かいが紀州家家老専用本陣中島九右衛門家跡。

Img_9548 説明板

Img_9553 宗左の辻 【ル-ト地図】の③

京街道と磐船街道の分岐点で、製油業角野宗左の屋敷があった。文政9年(1826)の道標が立つ。「右 大坂ミち」・「右 くらじたき 是(これ)より四十三丁」・「左 京下り やわた二り」と刻まれ、大坂方面、京・八幡方面、倉治の滝(源氏の滝)方面(交野市)と、三方の行先と道程を示している。この辻まで遊女達は客を見送り、「送りましょうか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも」と謡われた。

ここを右折する。このあたりは枚方市駅前の雑踏で賑やかだ。

Img_9557 枚方宿説明板

Img_9566 中瀬邸

Img_9568 脇本陣河内屋跡

本陣1軒・専用本陣1軒・脇本陣2軒・旅籠69軒だった。すぐ先が札の辻で高札場跡。

Img_9569 くらわんかギャラリー(塩商人だった塩熊商店)

この先の右側が脇本陣鍵屋跡、本陣跡(池尻善兵衛家)だが遺構は残らず。

Kurawankabune三十石船に漕ぎつけ、「餅くらわんか、酒くらわんか・・・・」などと乱暴な口調で酒や食べ物を売りつける煮売茶船の「くらわんか船」(広重画)

 

Img_9623 郷蔵跡

Img_9669 臺鏡寺 《地図

山門をくぐった右側に「夜歩き地蔵堂」がある。

Img_9671 夜歩き地蔵

枚方宿の遊女や奉公人の娘たちの悩み事を聞き、相談相手となって夜な夜な宿場を歩き廻ったという地蔵さん。いつでも出て行き、帰れるように堂の扉は開いたまま。中山道桶川宿の大雲寺には夜ごと女郎買いに通い、背中に鎹(かすがい)を打ち込まれてしまった可哀そうな「女郎買い地蔵」がある。ここの地蔵さんの方が地蔵らしいか。 

Img_9585 願生坊(東御堂)

万年寺山への蔵の谷の上り坂となる。

Img_9598 意賀美(おかみ)神社

雨水を司る龍神の高龗(たかおかみ)神が主祭神。淀川の鎮守として創建されたのだろうか。

Img_9600 旧森繁邸(森繁久弥生家)

どっしりとした石垣が坂沿いに続いている。

Img_9606_2 田中邸のムクの木 《地図

田中家は河内鋳物師で、表面がザラザラした椋の葉は、鋳物の研磨に利用されたそうだ。

Img_9602 説明板

Img_9619 御茶屋御殿跡 【ル-ト地図】の④

豊臣秀吉が寵愛した枚方城主本多内膳正の娘「乙御前(おとごぜん)」を住まわせたという3棟からなる御殿跡

Img_9617 説明板

Img_9613淀川の眺め

Img_9580 浄念寺(西御坊)の前の枡形道

万年寺(廃寺)の寺宝と鐘楼が移されている。

Img_9630 田葉粉屋(問屋役人の木南家)

裏手が番所浦で船番所、船高札場があった。

Img_9629説明板

Img_9638鍵屋資料館 《地図

淀川三十石船の船待ち宿としても繁盛した旅籠

Img_9640 説明板

Img_9641 台所

Img_9642 客間

Img_9644 くらわんか茶碗

肥前波佐見(長崎県波佐見町)で焼かれた厚手の茶碗。「くらわんか船」ではけっこういい器を使っていたようだ。料理はいざ知らずだが。

Img_9664 西見付跡 【ル-ト地図】の⑤

京街道沿いに左折し、枚方公園駅に向かった。

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2010年12月 4日 (土)

京街道(東海道五十七次)①

2010年11月22日

追分駅(京阪京津線)・・・髭茶屋の追分(東海道分岐)・県道35号・・・牛尾山道道標・・・(国道1号)・・・音羽橋(山科川)・・・(国道1号山科大塚交差点)・道標・(東海道新幹線)・・皇塚・・・妙見宮道標・・・宝迎寺・・・岩屋神社鳥居・・・岩屋神社御旅所・・・大宅一里塚跡・・・(名神高速)・・・随心院・・・(地下鉄小野駅)・・・勧修寺橋(山科川)・・・道標・・・勧修寺・・・宮道神社・・・吉利具八幡神社・・・大岩神社鳥居・・・旧道・・・谷口橋・・・道標(仁明天皇陵)・・・県道35号・・旧道・・・寺門人道橋(JR奈良線)・・・藤森神社・・・(京阪本線)・・・墨染橋(琵琶湖疏水)・・・伏見宿・(東海道五十四次)・墨染寺・劤浄寺・撞木町廓跡・(国道24号)・(近鉄京都線)・勝念寺・本成寺・玄忠寺・道標・大黒寺・金札宮・油掛通り・四ツ辻の四ツ当たり・伏見御堂・月桂冠大倉記念館・十石舟乗場・油掛地蔵 ・「電気鉄道事業発祥の地」碑・寺田屋・寺田浜・京橋・伏見長州藩邸跡・・・三栖(みす)神社・・・肥後橋・・・三栖踏切(京阪本線)・・・伏見港公園・・(京都外環状線)・・・宇治川土手・・・東高瀬川・・県道124号・・・(阪神高速8号線)・・・(国道1号)・・・千両松踏切(京阪本線)・・・戊辰の役碑・・・納所交差点・・・淀駅(京阪本線)

 大坂と伏見の往来を円滑にするために、豊臣秀吉は淀川沿いに堤防と道路を兼ねた「文禄堤」を築かせた。徳川幕府は文禄堤を東海道の延長として、伏見、淀、枚方、守口の4宿を加え五十七次とした。起点を東海道五十三次目の大津宿の先の髭茶屋の追分とし、終点を大坂(大阪)の三十石船の八軒家船着場先の高麗橋として歩く。伏見からは昔は三十石船の舟運、今では京阪本線沿いに近い道筋となる。京都に向かう街道はすべて「京街道」で、伏見方面から大坂に向うので「大坂街道」と呼ぶのが正確だろう。

 参考:京街道(歴史の道調査報告書 第5集 大阪府教育委員会) / 京街道(上方史蹟散策の会編・向陽書房) / 東海道五十七次(中島三佳) / 東海道五十七次イラストマップ(枚方文化観光協会) / 歴史街道ウォーキングマップ(大阪府)

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9098 髭茶屋の追分 【ル-ト地図】の①

東海道(三条大橋へ・右)、京街道(東海道五十七次・左)

Img_9100 追分道標

「ひだりハふじミみち」が京街道、正面には「みきハ京ミち」とあり東海道のこと。右側面には「柳緑花紅」とある。なぜこの言葉は刻んだのか? 手前は枚方市出口の京街道沿いにある出口御坊光善寺の蓮如上人廟への道標。

Img_9111 道標 《地図

Img_9113 道標

「みぎうじみち」・「ひだりおゝつみち」

京街道は大津街道であり奈良街道でもある。

Img_9114 皇塚(新幹線をくぐった先の右側)

6世紀前半頃の円墳らしい。桓武天皇の墓という伝承もあるそうだ。

Img_9116 妙見宮道標 《地図

Img_9118 宝迎寺

実話の「おさん茂兵衛事件」を題材とした、西鶴の『好色五人女』巻三の主人公の、おさんと茂兵衛の墓がある。

Img_9122 岩屋神社鳥居

Img_9123 旧家

Img_9127 大宅一里塚跡 【ル-ト地図】の②

説明板は東海道から分岐した奈良街道の一里塚としている。髭茶屋の追分からは近過ぎ、大谷一里塚からは遠過ぎる。

Img_9130 標識は奈良街道(名神高速をくぐる手前)

地下鉄小野駅の手前で奈良街道を直進し、小野小町ゆかりの寺、随心院に向かう。

Img_9141 随心院 【ル-ト地図】の③

Img_9148 小町庭苑の奥に文塚がある。

Img_9144 文塚

深草少将らが、小町に送ったラブレターを埋めてあるとか。深草少将は百夜通いの満願の日に伏見の屋敷からここを目指すも、大雪であえなく凍死してしまい小町とは契れなかった哀れな公家。

Img_9158 説明板

Img_9154 小町化粧井戸

生誕地、終焉地、墓所、井戸など「小野小町ゆかりの地」は全国各地にある。

Img_9163 愛宕常夜灯・道標などが集められている一画 《地図

後方に門跡寺院の勧修寺がある。

Img_9182 名神高速沿いを上って下る。

今は傾斜はゆるいが長い。100日目の大雪の日に伏見からこの坂を上り下りして、小野小町のもとへ向う途中で凍死し、99日間の努力も雪の泡と消えた深草少将の無念さが偲ばれるか。小野小町は雪よりも冷たい女だったとも。このあたりには下ノ茶屋、中ノ茶屋という地名が残っている。旅人相手の茶屋があったのだろうか。

Img_9189 下って右に旧道に入る。

Img_9195 道標 《地図

北に仁明天皇陵がある。

Img_9201 藤森神社

鳥居の額は近藤勇が取り外したという。

Img_9202 説明板

Img_9204 拝殿

Img_9211 勝運と馬の神様で競馬関係者、競馬ファンの信仰が篤く、絵馬舎には競走馬の額が奉納されている。右端はナリタブライアン、隣はトウカイテイオー。

Img_9207 説明板

Img_9209 御旗塚

「いちのきさん」と親しまれ、腰痛にご利益あり。近藤勇も直ったとか。

Img_9217 墨染橋から琵琶湖疏水 《地図

Img_9220 墨染寺(ぼくせんじ)

関白藤原基経の死を悼んだ上野岑雄が「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」と詠んだところ、薄墨色の桜が咲いたという。墨染色は喪に服す時の色。

Img_9226 墨染井と小町塚、少将塚(劤浄寺境内) 《地図

ここは深草少将の屋敷跡

Img_9221 説明板

Img_9225 小町塚と少将塚

生きているうちに枕を交わせなかったからといって、死んでから並べられてもねえ。

Img_9231 撞木(しゅもく)町廓入口 《地図

大石良雄(内蔵助)が仇討の計画をカモフラージュするために遊んだ遊郭跡。豊臣秀吉が伏見城を築いた頃に開かれ伏見城落城後に一時廃絶したが、江戸時代に盛り返し繁盛した。中書島(ちゅうしょじま)にも遊郭があり、ここと張り合っていた。中書島駅近くの弁財天を本尊とする長建寺は遊女たちの信仰が篤かった。

Img_9232「よろつや」で大石良雄は遊興に耽った振りをした。

通りの奥には「撞木町廓之碑」が立っている。

Img_9238勝念寺(左)には天明義民柴屋伊兵衛の墓、身代わり釜敷地蔵の「かましきさん」、織田信長から賜ったという閻魔像(閻魔法王の自作というから笑える)がある。

本成寺(右)には小野篁(おののたかむら)作と伝えられる木造地蔵菩薩像の「痰(たん)切り地蔵」がある。小野篁は夜は地獄に降り、閻魔大王の裁判を補佐していたという伝説の持ち主で、中山道守山宿の先の焔魔堂町の十王寺には小野篁作と伝える閻魔像がある。多芸多才の貴人、「野狂」とも評された奇人だったようだ。《地図

この先の玄忠寺にも「伏見義民小林勘次之碑」がある。義民が多いということは圧政者、悪徳商人が多かったということ。

Img_9251 道標 《地図

「東 左りふねのり場」は三十石船の乗り場のことだろう。伏見中学校、伏見板橋小学校一帯は尾張屋敷跡。

ここを左折する。左角の松林寺には「寺田屋お登勢」の墓がある。

Img_9252 大黒寺 

文久2年(1862)の寺田屋事件(騒動)の「九烈士の墓碑」、木曽川治水工事の総奉行で、自害した薩摩藩家老平田靱負の墓などがある。

Img_9255 金運清水(大黒寺)

Img_9253 説明板

Img_9257 金札宮

天平勝宝2年(750)の創建という古社

Img_9260 説明板

Img_9267 油掛通り 《地図

正面で「四ツ辻の四ツ当たり」に突き当たる。

Img_9271 伏見御堂(蓮池御坊東本願寺)

ここも正面が「四ツ辻の四ツ当たり」。門前に会津藩駐屯地の石柱が立つ。

Img_9270 「四ツ辻の四ツ当たり」説明板

Img_9281 月桂冠大倉記念館

Img_9291 寺田屋 【ル-ト地図】の④

鳥羽伏見の戦で焼失し再建の建物。伏見宿には本陣が4軒、脇本陣が2軒、旅籠が39軒あった。寺田屋の西隣が脇本陣、その隣が本陣大津屋小兵衛、京街道を挟んで脇本陣丹波屋仁兵衛で、このあたりが宿の中心部だった。

Img_9288 濠川(宇治川派流)を行く十石舟(寺田屋の前の寺田浜から)

Img_9299 油掛地蔵堂・芭蕉塚(西岸寺) 《地図

Img_9300 説明板

Img_9302 油掛地蔵

随分と油を掛けられたようで黒光りしている。 鎌倉時代の作という。

Img_9296 芭蕉塚説明板

「我衣に ふしみの桃の 雫せよ」

伏見の名産の桃を西岸寺の任口上人の高徳になぞって詠んだ句。

Img_9303 竜馬通り

ここを抜けると寺田屋の脇に出る。

Img_9306駿河屋(2014年5月に倒産して閉店したようだ。→2015年2月営業再開)

寛正2年(1461)創業という羊羹の老舗。初代岡本善右衛門が、船戸庄村(現在の伏見郊外)に「鶴屋」の屋号で饅頭処の商いを始めたという。

左脇に「電気鉄道事業発祥の地」碑が立っている。

Img_9311 京橋から宇治川派流(濠川)

伏見と大坂の八軒家を結ぶ三十石船の発着場で、旅人たちで賑わった。現在は復活された三十石船と十石舟が定期運航されている。

Img_9319 伏見港公園の三十石船の復元 《地図

落語『三十石

Img_9324 宇治川土手に出て小さな東高瀬川の橋を渡る。《地図

角倉了以が資材運搬用の水路として開削した高瀬川の下流部分。

Img_9327 雨の宇治川土手を進む。

対岸には巨椋池(おぐらいけ)の大干拓地が広がる。

Img_9330 国道1号宇治川大橋 《地図

信号はなく、車がぶんぶんと絶え間なく通る。覚悟を決めてわずかな合い間を縫って強行突破するが、一度では渡れず中央分離帯で立ち止まり、車の爆風で傘を飛ばされそうになりながらなんとか無事に渡った。橋の下は工事中だが、そっちを通った方が無難だろう。

Img_9334 京阪本線と宇治川の間の県道124号を行く。

本降りの雨の中、単調な車道歩きはきつい。車の往来が少ないのが救いだ。ここは秀吉が築いた堤道で松並木があったのだが、今はこの先の千両松踏切にその名が残るのみ。

Img_9340 戊辰役東軍西軍激戦址 【ル-ト地図】の⑤

右の石囲いの中に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」碑が立つ。鳥羽・伏見の戦で敗れて退却した幕府軍は淀城に入ろうとしたが、藩主の寝返りで城門は閉ざされ入城できず、ここでも敗退した。上は淀競馬場への跨道、跨線橋。その昔、騎手福永洋一が全盛の頃、「ヴィクトリアカップ」(エリザベス女王杯の前身)の日にこの競馬場を訪れた。最終レースで福永洋一から連勝複式(当時は馬単も馬複もない時代)の3点買い大勝負に出た。なんとゾロ目がきて起死回生の大儲け。まさに「神様、仏様、洋一様」。この地で敗れた東軍の仇討ができた?? 一緒に来て鼻毛、ケツの毛まで抜かれスッカラカンにされた友達に大枚?を融通してやったほどの余裕だった。

Img_9342 納所(のうそ)交差点 《地図

船荷を納める倉庫が軒を連ねていた所。

時間は早いが雨の中を歩き続けいい加減に疲れてきた。淀宿廻りは明日にして淀駅に向かった。

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2010年12月 2日 (木)

朝鮮人街道③

2010年11月21日

稲枝駅(東海道線)・・・彦富町交差点・県道2号・・・文禄川・・・額戸川・・・旧道・・・国昌寺・・仏性寺・・・奥山寺道標・・・浄宗寺・・・荒神山神社・・本坂・・・天満天神宮・・・道標・・・天満橋(宇曽川)・・横川橋(安食川)・・・県道2号・・・日夏町中沢交差点・・・旧道・・・湧水・・・甘呂東交差点・・巡礼街道分岐・・・堀町交差点・県道206号・・・犬上橋(犬上川)・・・白山神社・・・十王村の水・母乳地蔵・・・西今町交差点・旧道・・福満遺跡(城南小学校)・・・県道206号・・・明照寺・・・雨壺山交差点・・鳴宮神社・・・彦根神社・・・長久寺・・・蛭子神社・・・芹橋(芹川)・・・橋本通り・・・銀座町交差点・久左の辻・・・高宮口御門跡碑・・・彦根藩善利組組屋敷跡・・・夢京橋キャッスルロード・・宗安寺・・・長松院・・・蓮華寺・・・立花町・・・船着場跡・・・絹屋・・・(東海道線)・・古沢踏切(近江鉄道)・・(県道518号)・・・切通坂・・・坂下地蔵・・・佐和山遊園・・・国道8号・・佐和山トンネル・・・県道239号・・・(東海道新幹線)・・・追分(中山道合流地点)・・・鳥居本駅

  【ル-ト地図

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Img_8851 県道2号を山崎山に向かって進む。

旧条里に乗った真っ直ぐな道で、以前は道の両側に松並木が続き松街道とも呼ばれていた。

Img_8855国昌寺 【ル-ト地図】の①

朝鮮通信使一行の休憩所の山崎御茶屋があったのはこのあたりか?

Img_8860 奥山寺道標

行基が建立した四十九院の奥の院で、荒神山の山頂にあったが明治の神仏分離で廃され荒神山神社に引き継がれた。

Img_8875 荒神山神社

山頂の荒神山神社の下社か。

Img_8878 本坂 《地図

山頂の荒神山神社へ上る坂だが、この先はフェンスで閉じられていて通行不能。

Img_8885 天満橋手前の道標(正面)

「右千手寺 左八まん」 千手寺は荒神山山中の寺院、八まんは朝鮮人街道のこと。

Img_8898 天然水(甘呂町東交差点手前)

鈴鹿連山の地下水脈から湧き出たミネラルなどの栄養分豊かな水というが水は流れ出ていない。使用料を1回100円取る。溜まった水を飲めというのか。とても飲める代物には見えないが。

Img_8902 甘呂町東交差点の先で右折する。直進する道は巡礼街道で、彦根城が築かれる以前にあった観音霊場の彦根寺への道。白河上皇らが寛治3年(1089)に参詣したことで、御幸道とも呼ばれた。

Img_8908 犬上川を渡って宇尾町に入る。

Img_8914 宇尾町の家並み

Img_8920 十王村の水・母乳地蔵尊 【ル-ト地図】の②

湖東三名水の一つ。今はポンプで汲み上げているようだ。ここの水は飲める。数本の大きなペットボトルに水を詰めているおばさんとしばし立話で小休止。

Img_8919 説明板

Img_8925 福満遺跡(城南小学校) 《地図

縄文時代末から平安時代に及ぶ複合遺跡。

Img_8947 明照寺 《地図

織田信長に激しく抵抗した浄土真宗本願寺派の寺。

Img_8943 笠塚

住職の李由は芭蕉一門と親交し、芭蕉が生前に使用した渋笠をもらい、ここに塚を築いた。

Img_8950 鳴宮神社(天満宮) 《地図

延文年間(1356~60)の創建という平田の産土神

Img_8959彦根神社 《地図

もとは彦根山(彦根城の地)に鎮座していた彦根の総社。彦根の地名由来になったとも。

Img_8970 長久寺観音堂

彦根城鎮護の祈願寺で、本尊は千手観音立像。

Img_8968 擬宝珠には「寛永六年」(1629)の銘がある。

Img_8972 旧家

Img_8974 蛭子(えびす)神社 《地図

今日は「えびす講」で、熱い甘酒を頂いた。

Img_8978 芹川沿いのケヤキ並木(芹橋から)

芹川の堤防強化のために植えられた樹齢300年前後のケヤキ。

芹橋を渡ると旧橋本町で彦根城下だ。

Img_8982 久左の辻(銀座町交差点) 【ル-ト地図】の③

江戸時代にこのあたりに住んでいた豪商近藤久左衛門の名に由来する。

Img_8983 左側に「久左の辻」碑が立つ。

Img_8985 日曜日で車輛は通行止めで屋台が並ぶ。地元の子ども達と観光客が交って賑やかだ。

Img_8989 高宮口御門跡 【ル-ト地図】の④

枡形になっていて番所があった。逆コの字形に進み中央一番街商店街へと入って行く。りそな銀行前に碑が立つ。

Img_9022御門跡碑

Img_8990 彦根藩善利組組屋敷跡 《地図

Img_8991 説明板

Img_8996 関西アーバン銀行

両替商の看板を掲げている。

Img_9000 宗安寺黒門

朝鮮通信使高官の宿泊所になった寺で、この門から御馳走が搬入された。キムチや肉なんかも運ばれたのだろうか。

Img_9016 赤門(境内から)

佐和山城の表門を移築。馬に乗って駆け込めるように敷居がない。

Img_9012 地蔵堂と血染めのすすき

Img_9010 右が眼病平癒の木之本地蔵の分身の地蔵で、左は地廻り地蔵 

Img_9011 「血染めのすすき」由来

Img_9014 木村重成の首塚とその横の安藤長三郎代々の墓

夢京橋キャッスルロードを進めば彦根城(2010年10月28日撮影)

Img_8550 多聞櫓と中堀

Img_8529 石垣

Img_8531 天守下から琵琶湖を望む。

Img_8530 天守(国宝)

Img_8514 馬屋(国重文)

元禄時代に建てられた藩主用の馬屋。城内に馬屋が残るのは彦根城だけ。

Img_8518 旧西郷屋敷長屋門

Img_8548 埋木舎(うもれぎのや)

側室の子で、14男の井伊直弼が若き日を過ごした館。

*************************

Img_9023 長松院

井伊直政が荼毘に付された寺

Img_9029 旧家

Img_9031 立花町の家並み 《地図

Img_9040 船着場跡 《地図

松原内湖につながる鉤形の舟入があった。ここから松原内湖を横切り、彦根三湊(米原湊・長浜湊・松原湊)の一つの松原湊に通じていた。

右折して古い家並みが少し残る船町を東に進む。

Img_9043 絹屋

「幻の焼き物」といわれる湖東焼を創始した絹屋半兵衛の屋敷跡

Img_9044 旧家

Img_9050佐和山城があった佐和山(233m)を望む 《地図

Img_9052 切通坂を上る。

Img_9054 坂下地蔵堂 《地図

民家の敷地内のようだ。

Img_9061 佐和山遊園(未開園で廃園同様)の建物 《地図

遊園内には城、金閣寺、五重塔、歴史館、美術館など様々な建物があり入場は無料。しかし日曜でも一人の見学者もいない不気味な空間が青空の下に広がっている。

Img_9066 城門か

Img_9069 佐和山歩道トンネル(左)をくぐる。

街道はトンネルの上を通っていたのだが、今は道は途切れる。

右が佐和山遊園の佐和山城復元建物。廃墟同様でいずれ幽霊館になるか。広島県尾道市の尾道城を思い出した。

Img_9078ラブホに沿って下って新幹線をくぐると中山道との追分はすぐそこだ。 《地図

Img_9081 追分 【ル-ト地図】の⑤

突き当り右に道標が立つ。

Img_9083 道標

「彦根道」が朝鮮人街道のこと。

Img_9084説明板

Img_9088 鳥居本駅

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2010年12月 1日 (水)

朝鮮人街道②

2010年11月20日

安土駅(東海道線)・・・道標・安土教会・・・東南寺・・・活津彦根神社御旅所・・・活津彦根神社鳥居・・・方ケ辻地蔵堂・・・(県道2号)・・・活津彦根神社・・・ぼうや地蔵堂・・・セミナリヨ跡・・・武家屋敷跡・・・県道2号・・・(安土城址)・・・(近江風土記の丘)・・・(弘法寺)・・北腰越峠・旧道・・・法華塔・・・地獄越分岐・・・超光寺・・・領界碑・・・須田橋(須田川)・道標(不動山みち・須田不動の滝)・・・六社神社・十応寺(ぽっくりてら焔魔堂)・愛宕神社・安楽寺・・・繖峰三神社鳥居・柳谷観世音・・望湖神社・柳瀬観世音・・・伊庭御殿跡・・・能登川踏切(東海道線)・・・大徳寺・・・(県道2号)・・・伊庭集落・大浜神社・文殊堂・栄橋・薬師堂・妙金剛寺・・・能登川の家並み・・瓜生川・・・県道2号・・・林交差点・・・林踏切(東海道線)・・・元町通り・・・能登川神社・・・本町垣見橋(躰光寺川)・・・垣見天神社・・・垣見踏切(東海道線)・・・県道2号・・・堂尻橋(大同川)・・・八幡橋(愛知川)・・・彦富町交差点・県道20号・・・柳川街道踏切・・・稲枝駅(東海道線)

  【ル-ト地図

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Img_8661 織田信長像と織田桜(安土駅前)

東近江市川合寺町から移植した桜で、信長の姫君がよく絵に描いていた大和桜だとか。姫は15人もいるようだ。

Img_8664 道標 《地図

3面に「常の浜」・「安土城跡」・「朝鮮人街道」と刻む。常の浜は常楽寺城のあった常楽寺港のことで、今は常浜水辺公園になっている。朝鮮人街道はここを左折する。

Img_8670 東南寺

Img_8668 説明板

Img_8676 活津彦根(いくつひこね)神社鳥居

街道はここを右折するが、直進して活津彦根神社に向かう。

Img_8677 方ケ辻地蔵尊

Img_8681 活津彦根神社

祭神の活津彦根命は誓約によって生まれた天照大神の五柱の男神の4番目の御子神。

Img_8687鳥居前の街道に戻り、この常夜灯(文久元年(1861))前で左折する。

Img_8695 ぼうや地蔵堂(右)

左の石垣が武家屋敷跡

Img_8688セミナリヨ跡 【ル-ト地図】の①

天正8年(1580)にイタリア人宣教師オルガンチ-ノにより創設された日本最初のキリスト教神学校跡。付近の小字名が大臼(だいうす)は「ゼウス」に通じているか。

Img_8696 武家屋敷跡

「伝承 豊浦冠者行實」の表札が掛かる。

Img_8700 県道2号を東進する。

電柱脇に上部が折れた観音正寺への道標が立つ。「従是 右くいんおん寺」

Img_8707 安土城跡

以前訪れたことがあるので割愛。

Img_8710 近江風土記の丘

Img_8713 北腰越峠から下り東近江市に入る。 《地図

Img_8722 法華塔 《地図

この先を右に曲がると地獄越への道筋。

Img_8723 説明板

Img_8724 地獄越

繖山(きぬがさやま)の鞍部を通り、中山道に通じる道で、観音寺城落城の折、逃げ惑う人々の有様がさながら地獄のようであったからという言い伝えによる。

Img_8726 南須田の集落へ入って行く。

左に東海道線が通る。

Img_8733 超光寺山門 【ル-ト地図】の②

安土城内にあった摠見寺(そうけんじ)の裏門。

Img_8737 説明板

Img_8738 領界碑

「従是南摠見寺領」

かつて南須田は摠見寺領だった。

Img_8741 「不動山みち」の道標と「須田不動の滝」の標識。(須田橋の所)

Img_8757 安楽寺の苔むした参道 【ル-ト地図】の③

聖徳太子の創建と伝え、織田信長の焼き討ちにもあったという寺。

Img_8768 繖峰三神社鳥居 《地図

「伊庭の坂下し祭り」で神輿が山頂からここへ下りて来る。

Img_8791 説明板

Img_8773 望湖神社

Img_8782 伊庭御殿跡 【ル-ト地図】の④

徳川将軍の上洛の際の休憩所跡。

Img_8780 説明板

Img_8805 大浜神社(右)・文殊堂(左)

道路の上の勧請吊りが集落の安全を守っている。

この先には伊庭城址がある。

Img_8790 大浜神社仁王堂 【ル-ト地図】の⑤

Img_8794 説明板

Img_8800 薬師堂

前の団子っ鼻の地蔵の顔が何ともおかしく、親しみが湧く。

Img_8802 薬師瑠璃光如来か。

向い側の妙金剛寺には安土宗論に召し出された貞安上人の墓がある。

Img_8812 能登川の家並み 《地図

かつては土蔵造りの旧家が軒を連ねていたそうだ。

Img_8821 旧家

Img_8822 旧家

Img_8844 八幡橋から愛知川 《地図

橋を渡って彦根市に入る。

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