京街道(東海道五十七次)①
2010年11月22日
追分駅(京阪京津線)・・・髭茶屋の追分(東海道分岐)・県道35号・・・牛尾山道道標・・・(国道1号)・・・音羽橋(山科川)・・・(国道1号山科大塚交差点)・道標・(東海道新幹線)・・皇塚・・・妙見宮道標・・・宝迎寺・・・岩屋神社鳥居・・・岩屋神社御旅所・・・大宅一里塚跡・・・(名神高速)・・・随心院・・・(地下鉄小野駅)・・・勧修寺橋(山科川)・・・道標・・・勧修寺・・・宮道神社・・・吉利具八幡神社・・・大岩神社鳥居・・・旧道・・・谷口橋・・・道標(仁明天皇陵)・・・県道35号・・旧道・・・寺門人道橋(JR奈良線)・・・藤森神社・・・(京阪本線)・・・墨染橋(琵琶湖疏水)・・・伏見宿・(東海道五十四次)・墨染寺・劤浄寺・撞木町廓跡・(国道24号)・(近鉄京都線)・勝念寺・本成寺・玄忠寺・道標・大黒寺・金札宮・油掛通り・四ツ辻の四ツ当たり・伏見御堂・月桂冠大倉記念館・十石舟乗場・油掛地蔵 ・「電気鉄道事業発祥の地」碑・寺田屋・寺田浜・京橋・伏見長州藩邸跡・・・三栖(みす)神社・・・肥後橋・・・三栖踏切(京阪本線)・・・伏見港公園・・(京都外環状線)・・・宇治川土手・・・東高瀬川・・県道124号・・・(阪神高速8号線)・・・(国道1号)・・・千両松踏切(京阪本線)・・・戊辰の役碑・・・納所交差点・・・淀駅(京阪本線)
大坂と伏見の往来を円滑にするために、豊臣秀吉は淀川沿いに堤防と道路を兼ねた「文禄堤」を築かせた。徳川幕府は文禄堤を東海道の延長として、伏見、淀、枚方、守口の4宿を加え五十七次とした。起点を東海道五十三次目の大津宿の先の髭茶屋の追分とし、終点を大坂(大阪)の三十石船の八軒家船着場先の高麗橋として歩く。伏見からは昔は三十石船の舟運、今では京阪本線沿いに近い道筋となる。京都に向かう街道はすべて「京街道」で、伏見方面から大坂に向うので「大坂街道」と呼ぶのが正確だろう。
*参考:京街道(歴史の道調査報告書 第5集 大阪府教育委員会) / 京街道(上方史蹟散策の会編・向陽書房) / 東海道五十七次(中島三佳) / 東海道五十七次イラストマップ(枚方文化観光協会) / 歴史街道ウォーキングマップ(大阪府)
【ル-ト地図】
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東海道(三条大橋へ・右)、京街道(東海道五十七次・左)
「ひだりハふじミみち」が京街道、正面には「みきハ京ミち」とあり東海道のこと。右側面には「柳緑花紅」とある。なぜこの言葉は刻んだのか? 手前は枚方市出口の京街道沿いにある出口御坊光善寺の蓮如上人廟への道標。
道標 《地図》
「みぎうじみち」・「ひだりおゝつみち」
京街道は大津街道であり奈良街道でもある。
皇塚(新幹線をくぐった先の右側)
6世紀前半頃の円墳らしい。桓武天皇の墓という伝承もあるそうだ。
妙見宮道標 《地図》
実話の「おさん茂兵衛事件」を題材とした、西鶴の『好色五人女』巻三の主人公の、おさんと茂兵衛の墓がある。
説明板は東海道から分岐した奈良街道の一里塚としている。髭茶屋の追分からは近過ぎ、大谷一里塚からは遠過ぎる。
地下鉄小野駅の手前で奈良街道を直進し、小野小町ゆかりの寺、随心院に向かう。
深草少将らが、小町に送ったラブレターを埋めてあるとか。深草少将は百夜通いの満願の日に伏見の屋敷からここを目指すも、大雪であえなく凍死してしまい小町とは契れなかった哀れな公家。
生誕地、終焉地、墓所、井戸など「小野小町ゆかりの地」は全国各地にある。
落語『洒落小町』
愛宕常夜灯・道標などが集められている一画 《地図》
後方に門跡寺院の勧修寺がある。
今は傾斜はゆるいが長い。100日目の大雪の日に伏見からこの坂を上り下りして、小野小町のもとへ向う途中で凍死し、99日間の努力も雪の泡と消えた深草少将の無念さが偲ばれるか。小野小町は雪よりも冷たい女だったとも。このあたりには下ノ茶屋、中ノ茶屋という地名が残っている。旅人相手の茶屋があったのだろうか。
道標 《地図》
北に仁明天皇陵がある。
鳥居の額は近藤勇が取り外したという。
勝運と馬の神様で競馬関係者、競馬ファンの信仰が篤く、絵馬舎には競走馬の額が奉納されている。右端はナリタブライアン、隣はトウカイテイオー。
「いちのきさん」と親しまれ、腰痛にご利益あり。近藤勇も直ったとか。
墨染寺(ぼくせんじ)
関白藤原基経の死を悼んだ上野岑雄が「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」と詠んだところ、薄墨色の桜が咲いたという。墨染色は喪に服す時の色。
墨染井と小町塚、少将塚(劤浄寺境内) 《地図》
ここは深草少将の屋敷跡
生きているうちに枕を交わせなかったからといって、死んでから並べられてもねえ。
撞木(しゅもく)町廓入口 《地図》
大石良雄(内蔵助)が仇討の計画をカモフラージュするために遊んだ遊郭跡。豊臣秀吉が伏見城を築いた頃に開かれ伏見城落城後に一時廃絶したが、江戸時代に盛り返し繁盛した。中書島(ちゅうしょじま)にも遊郭があり、ここと張り合っていた。中書島駅近くの弁財天を本尊とする長建寺は遊女たちの信仰が篤かった。
通りの奥には「撞木町廓之碑」が立っている。
勝念寺(左)には天明義民柴屋伊兵衛の墓、身代わり釜敷地蔵の「かましきさん」、織田信長から賜ったという閻魔像(閻魔法王の自作というから笑える)がある。(勝念寺のHPに写真あり)
本成寺(右)には小野篁(おののたかむら)作と伝えられる木造地蔵菩薩像の「痰(たん)切り地蔵」がある。小野篁は夜は地獄に降り、閻魔大王の裁判を補佐していたという伝説の持ち主で、中山道守山宿の先の焔魔堂町の十王寺には小野篁作と伝える閻魔像がある。多芸多才の貴人、「野狂」とも評された奇人だったようだ。《地図》
この先の玄忠寺にも「伏見義民小林勘次之碑」がある。義民が多いということは圧政者、悪徳商人が多かったということ。
道標 《地図》
「東 左りふねのり場」は三十石船の乗り場のことだろう。伏見中学校、伏見板橋小学校一帯は尾張屋敷跡。
ここを左折する。左角の松林寺には「寺田屋お登勢」の墓がある。
文久2年(1862)の寺田屋事件(騒動)の「九烈士の墓碑」、木曽川治水工事の総奉行で、自害した薩摩藩家老平田靱負の墓などがある。
天平勝宝2年(750)の創建という古社
油掛通り 《地図》
正面で「四ツ辻の四ツ当たり」に突き当たる。
ここも正面が「四ツ辻の四ツ当たり」。門前に会津藩駐屯地の石柱が立つ。
鳥羽伏見の戦で焼失し再建の建物。伏見宿には本陣が4軒、脇本陣が2軒、旅籠が39軒あった。寺田屋の西隣が脇本陣、その隣が本陣大津屋小兵衛、京街道を挟んで脇本陣丹波屋仁兵衛で、このあたりが宿の中心部だった。
濠川(宇治川派流)を行く十石舟(寺田屋の前の寺田浜から)
油掛地蔵堂・芭蕉塚(西岸寺) 《地図》
随分と油を掛けられたようで黒光りしている。 鎌倉時代の作という。
「我衣に ふしみの桃の 雫せよ」
伏見の名産の桃を西岸寺の任口上人の高徳になぞって詠んだ句。
ここを抜けると寺田屋の脇に出る。
駿河屋(2014年5月に倒産して閉店したようだ。→2015年2月営業再開))
寛正2年(1461)創業という羊羹の老舗。初代岡本善右衛門が、船戸庄村(現在の伏見郊外)に「鶴屋」の屋号で饅頭処の商いを始めたという。
左脇に「電気鉄道事業発祥の地」碑が立っている。
伏見と大坂の八軒家を結ぶ三十石船の発着場で、旅人たちで賑わった。現在は復活された三十石船と十石舟が定期運航されている。
落語『三十石』
宇治川土手に出て小さな東高瀬川の橋を渡る。《地図》
角倉了以が資材運搬用の水路として開削した高瀬川の下流部分。
対岸には巨椋池(おぐらいけ)の大干拓地が広がる。
国道1号宇治川大橋 《地図》
信号はなく、車がぶんぶんと絶え間なく通る。覚悟を決めてわずかな合い間を縫って強行突破するが、一度では渡れず中央分離帯で立ち止まり、車の爆風で傘を飛ばされそうになりながらなんとか無事に渡った。橋の下は工事中だが、そっちを通った方が無難だろう。
本降りの雨の中、単調な車道歩きはきつい。車の往来が少ないのが救いだ。ここは秀吉が築いた堤道で松並木があったのだが、今はこの先の千両松踏切にその名が残るのみ。
右の石囲いの中に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」碑が立つ。鳥羽・伏見の戦で敗れて退却した幕府軍は淀城に入ろうとしたが、藩主の寝返りで城門は閉ざされ入城できず、ここでも敗退した。上は淀競馬場への跨道、跨線橋。その昔、騎手福永洋一が全盛の頃、「ヴィクトリアカップ」(エリザベス女王杯の前身)の日にこの競馬場を訪れた。最終レースで福永洋一から連勝複式(当時は馬単も馬複もない時代)の3点買い大勝負に出た。なんとゾロ目がきて起死回生の大儲け。まさに「神様、仏様、洋一様」。この地で敗れた東軍の仇討ができた?? 一緒に来て鼻毛、ケツの毛まで抜かれスッカラカンにされた友達に大枚?を融通してやったほどの余裕だった。
納所(のうそ)交差点 《地図》
船荷を納める倉庫が軒を連ねていた所。
時間は早いが雨の中を歩き続けいい加減に疲れてきた。淀宿廻りは明日にして淀駅に向かった。
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