京街道(東海道五十七次)③
2010年11月24日
枚方公園駅(京阪本線)・・・枚方宿西見付跡・・・水面廻廊・・・大橋南詰交差点(国道170号)・・・光善寺・・・蓮如腰掛石・・・淀川土手・・・木屋西交差点(国道1号)・・・本信寺・・・鞆呂岐神社・・・茨田堤碑・・・絶間橋・・・太間天満宮・・・西正寺・・・淀川土手・・・(淀川新橋)・・・茨田樋跡・・・(鳥飼仁和寺大橋)・・・佐太の渡し跡・・・(国道1号)・・佐太天神宮・・・来迎寺・佐太陣屋跡・・・淀川土手・・・(大阪モノレール)・(鳥飼大橋)・・・八坂瓊神社・・・正迎寺・・智眼地蔵・・・守口一里塚跡・守口宿上の見付跡・・・浜町交差点・・・盛泉寺・・・難宗寺・・・守口宿本陣跡・・旧白井氏宅・・高札場跡(八島交差点)・・札場坂・・(文禄堤)・・道標・来迎(寺)坂・守口街道分岐地点・・十三夜坂・中高野街道分岐地点・・本町橋・・守居橋・・義天寺・・下の見付跡・・・京阪商店街・・守居神社・・・国道1号・・・今市北1交差点・旧道・・・千林商店街・・・古市橋・・・関目5交差点・関目の七曲り・・西井茶屋跡・・・関目高殿駅(地下鉄谷町線)
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
このあたりに明治42年に枚方宿の旅籠が移転してきて、「桜新地」呼ばれた遊郭街となり、昭和33年まで続いたという。
京街道に戻り、大橋南詰交差点を渡る。
淀川の氾濫、洪水などの浸水に備えた蔵。
光善寺 《地図》
「私の家は出口村の真ん中にある」と洒落たことを言うおばさんの家の前でしばし立ち話。家は新しいが庭に伏見稲荷の祠もある立派な家だった。
この石に腰掛けて村人たちに法を説いたという。
竜女伝説:「毎日、蓮如の説法を熱心に聞く美女がいた。淀川の渕に棲む竜の娘で、説法のおかげで成仏し昇天することができたので、そのお礼に渕を埋め寺を建てるよう言い残し、大蛇に化身してさいかちの木から天に昇って行った」という、「出口御坊 渕埋山光善寺」の縁起話。
この風景は見慣れた江戸川土手、荒川土手などと似ていて、今はどこを歩いているのかと思ったりもした。
大信寺 《地図》
右奥に赤穂浪士の子孫が寄進した鳥居がある。
茨田堤(まんだつつみ)碑 【ル-ト地図】の13
仁徳天皇が淀川に築かせたとされる堤防。流れが速くどうしても決壊してしまう所(絶間)が2か所あり、『日本書紀』には人柱にされた武蔵の住人、強頸(こわくび)と、河内の茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)の絶間伝説が載る。衫子は機転をきかせ人柱から免れ、強頸は泣く泣く人柱の犠牲となったというもので、都から遠く離れた武蔵を知恵の足りない東夷として蔑視する思想が表れているか。
『守口街道』沿いの堤根神社には、茨田堤跡が残っている。
このあたりが茨田連衫子の絶間跡
太間=絶間
山号を「退魔山」といい、茨田連衫子の子孫、茨田宗左衛門の開基と伝える。
淀川から引き入れた農業用水路。
この先に「お鍋茶屋」があったようだ。
佐太の渡し跡 《地図》
正面が文禄堤で淀川。電柱の左に「淀川筋佐太渡船場」の石柱が立つ。佐太は枚方宿と守口宿の「間の宿」として栄えた。
菅原道真が左遷で太宰府へ流される途中、当地に滞在し、自作の木像や自画像を残したと伝えられている。道真の死後50年の天暦年間(947~56)に、道真自作の木像を神体としで創建されたという。隣には神宮寺の菅相寺がある。
「窓の灯の佐太はまだ寝ぬ時雨かな」 淀川を夜船で故郷毛馬村へ帰る途中での句。夜遅くまで賑わい明るい佐太の宿場の様子がうかがえる。境内にいた二人連れの女性からこの句を読んでくれとせがまれた。もちろん一部しか分からない。帰ってから調べると、参考にした『京街道』の本に載っていて詳しい説明も記されていた。来る前に何度か予習していたのに、すっかり忘れていたのだ。情けなく、恥ずかしい限り。
菊と桐の紋章が扉に浮き彫りされている。
「幽霊の足跡」なるもの見たかったが、決まった日しか公開されず、残念。
昨日訪れた御殿山にあった永井氏の陣屋がここに移された。永井氏は美濃国加納藩に移った後もこのあたりに1万2千石の領地を有していて、加納藩の蔵屋敷の役目も果たしていた。今は来迎寺の一部のような感じだ。
大阪モノレール・鳥飼大橋をくぐり、左へ堤から下りて行く。
八坂瓊(やさかに)神社 《地図》(八坂蟹となっていて笑える)
堤上あたりに「七番の渡し」があり、対岸の一津屋鳥飼と結んでいた。
智眼地蔵 《地図》
すぐ先の自治会館前に「時空の道」、「京街道」の新しい道標が立つ。
このあたりが守口宿の上の見付跡
明治天皇の行幸の際には内侍所となった寺で、「幻の大阪遷都」ゆかりの寺。「三種の神器」の一つ、「八咫の鏡」を一時、本堂前の賢所に奉安したという。神器は本当に存在するのか?
橋下知事の「大阪都構想」の実現の見込みは?
明治天皇の行幸の際には行在所となった寺。樹齢500年という大いちょうが見事。
守口宿本陣吉田八郎兵衛跡 《地図》
本陣は1軒、脇本陣はなく、旅籠が27軒(天保14年(18473))
ここで大塩平八郎が近郷の農民に陽明学を講義したという。
札場坂 《地図》
八島交差点(高札場跡)から緩やかに上る坂で、淀川の文禄堤上の道。今は淀川は北西800mを流れているが。
ここに佐太に移転した来迎寺があった。この坂は守口街道の起点で、守口街道→清滝街道→竜田越奈良街道から奈良に通じている。左に小さな道標が立つ。
「のざきみち」は野崎参りで知られる野崎観音の慈眼寺への道のこと。
十三夜坂 《地図》
文禄堤から下る坂で、この坂が中高野街道の起点。
本町橋から守口市駅 《地図》
駅の高さよりやや低いくらいで、この通りが堤上だということが分かる。
題目石は野江刑場から移されたものという。ここは茶店「丁字屋」跡で裏手には三十石船が着けられた。
下の見付跡 《地図》
賑わいのある繁盛している商店街だ。商店街の一画に守居神社がある。
延喜18年(918)の淀川の洪水の際に、土居を築いて治水祈念をしたのが始まりという。昔は土居神社だったが、明治時代には守口と土居から守居神社と改称された。
道路に埋め込まれた絵図 《地図》
千林商店街 《地図》
このあたりに茨田堤の築堤工事の際に、川の神に「生贄(いけにえ)」にされたという武蔵国の強頸(こわくび)の「強頸の絶間」の碑が立っている(民家内)というが分からず。買い物客に聞く雰囲気でもなく、聞いても分からないだろうと街道に戻る。今の淀川の流れからはかなり離れている。
秀吉が京街道を開く際に軍事防衛上意図的に蛇行させたといわれる。
西井茶屋跡 《地図》
右側面に「西井茶屋址」とある。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- My郷散歩(松戸市・柏市)(2023.12.06)
- My郷散歩(柏散歩⑧)(2023.12.09)
- My郷散歩(松戸市・鎌ヶ谷市)(2023.12.05)
- My郷散歩(松戸)(2023.12.03)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント