京街道(東海道五十七次)②
2010年11月23日
淀駅(京阪本線)・・・納所交差点・唐人雁木旧址・・・納所村道路元標・・・五番橋・・・妙経寺(淀古城跡)・・・與杼神社・淀城跡・・・(京阪本線)・・・県道126号・・・大尊寺・・・天満宮・・・淀町道路元標・・・(県道15号)・・・西岸寺・・・円通寺・・・(京阪本線)・・・御幸橋(宇治川・木津川)・・東高野街道分岐地点・・・大クスノキ・・・八幡宮常夜灯・・・大谷川・・・道標(橋本の渡し跡)・・・橋本中ノ町(遊郭跡)・・・小金川踏切(京阪本線)・・・久修園院・・・久親恩寺・・・道標・・・長福寺・・・(京阪本線)・・・県道13号・・・樋之上交差点・旧道・・・一里塚跡・・・楠葉橋(船橋川)・・・(牧野駅)・・・(穂谷川)・・・阪今池公園・・・片埜神社常夜灯・・・(穂谷川)・・・片埜神社・・・(穂谷川)・・・前川踏切(京阪本線)・・・清伝寺・・・県道13号(三栗(めぐり)交差点)・・・渚橋踏切(京阪本線)・渚橋・・・渚の院跡・・・御殿山神社・・・御殿山アート坂・・・(御殿山駅)・・・県道13号・・・磯島交差点・旧道・・・日野橋・・・一里塚跡・鵲橋(天野川)・・・枚方宿東見付跡・・小野邸・・浄行寺・・宗左の辻・・脇本陣跡・・本陣跡・・蔵谷踏切(京阪本線)・・臺鏡寺・・願生坊・・意賀見神社・・ムクの木・・御茶屋御殿跡・・蔵谷踏切・・枡形・浄念寺・・田葉粉屋跡・・鍵屋資料館・・西見付跡・・誓願寺・・・枚方公園駅(京阪本線)
【ル-ト地図】
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大坂から淀川を遡ってきた朝鮮通信使一行はここで船を下り、京都から江戸に向かった。左に新しい碑が立つ。
淀駅前に移設された古い碑の脇に設置のもの。
妙経寺 《地図》
秀吉が淀君を住まわせた淀古城はこのあたりにあった。城郭というより邸宅御殿風な建物だったようだ。
慶長12年(1607)に建てられた拝殿(正面)は国の重文。
唐人雁木旧址碑(左)・淀小橋旧跡碑・永代常夜燈碑・淀城の故址碑・京都街道道標など。昔は納所で宇治川を淀小橋で渡り淀城下に入った。明治時代の桂川・宇治川・木津川の三川改修工事で消滅した。
石垣上が天守台だが、なぜか立入禁止になっている。
伏見宿から1里14町と近く、人馬の継立業務に限られた宿で、本陣、脇本陣はなく旅籠は16軒だった。この通りを東に入った所に武家屋敷が並んでいた。
淀競馬場が近く、競走馬輸送の「馬匹輸送」の看板を掲げている。
御幸(ごこう)橋(木津川)を渡る。 《地図》
今はこの橋の下流で桂・宇治・木津の三川が合流する。右は取り壊し作業中の古い御幸橋。正面は日本三大八幡宮の一つ、石清水八幡宮の男山。昔は御幸橋の手前から堤が真っ直ぐ、大クスノキの所まで延びていた。橋を渡ると東高野街道が南に分岐する。 【ル-ト地図】の7
大クスノキ 《地図》
石清水八幡宮常夜灯(文政5年(1822)) 《地図》
道標 《地図》
「八まん いせ京伏見」
奥は京阪本線の橋本駅
正面「柳谷わたし場」、左側面「山さき あたご わたし場」 対岸は西国街道の山崎宿で、文禄年間(1592~95)までは山崎橋が架かっていたが、たびたびの流失で、船渡しとなった。「柳谷」は山崎の柳谷観音(楊谷寺)のことか。
手前を左折して遊郭街だった橋本中之町に入る。
橋本中ノ町の家並み 《地図》
派手さはないが家々の造りに遊郭っぽい風情が残っている。石清水八幡宮参詣者で賑わう「間の宿」だった。
座敷の欄間のような透かし彫り。
元禄時代製作の天球儀・地球儀がある。
この先の久親恩寺の北側が楠葉砲台跡で、対岸が高浜砲台跡。鳥羽伏見の戦では高浜砲台を守っていた津藩藤堂家が官軍に寝返り、幕府軍同士の打ち合いになってしまった。
京阪本線をくぐり県道13号を進む。 《地図》
左は樟葉駅、地名は楠葉。樟葉は『日本書紀』、『古事記』の「糞褌(くそばかま)」から由来する地名という。
樋之上交差点で左に旧道に入り、船橋川に突き当たり楠葉橋を渡る。川の手前に一里塚があった。
八幡宮道標・戊辰戦争戦没者供養碑・地蔵の小祠 《地図》
ここを右折し、線路沿いを進み牧野駅で京阪本線を渡る。牧野は楠葉牧に由来する地名。
片埜神社常夜灯(享和元年(1801)) 《地図》
右の台座には「大阪」の文字。ここから神社まではけっこうある。昔はこのあたり一帯が境内地だったのだろう。
七五三で参詣の子ども連れが目立った。
県道13号に出て、渚橋踏切を渡り「渚の院」跡に向かう。
『伊勢物語』の在原業平と親交があった惟喬親王の別荘地で、業平の「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(古今和歌集)はここで詠まれた歌。
紀貫之の『土佐日記』にも記述がある。「かくて船ひきのぼるに渚の院といふ所を見つゝ行く。その院むかしを思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。しりへなる岡には松の木どもあり。中の庭には梅の花さけり」
渚の院跡の観音寺(廃寺)の梵鐘がフェンス内の左奥にある。
淀藩主永井家の家系の永井伊賀守の陣屋跡。「御殿」とは渚の院のことか、陣屋のことか。
御殿山から下る坂で、途中に御殿山美術センターがある。
昔は鵲橋はなく、土橋を渡って枚方宿東見付に入った。川の手前に一里塚があった。天野川は「天の川」で七夕伝説に由来する。鵲は織姫と彦星の橋渡しをした鳥。渡り賃を取ったことがあり、情緒なき「銭取り橋」の異名を取ったという。
枚方宿東見付跡 《地図》
ここを右折すると左側に屋号「八幡屋」の小野邸。
枚方宿の村年寄、問屋役人を兼ねていた家。斜め向かいが紀州家家老専用本陣中島九右衛門家跡。
京街道と磐船街道の分岐点で、製油業角野宗左の屋敷があった。文政9年(1826)の道標が立つ。「右 大坂ミち」・「右 くらじたき 是(これ)より四十三丁」・「左 京下り やわた二り」と刻まれ、大坂方面、京・八幡方面、倉治の滝(源氏の滝)方面(交野市)と、三方の行先と道程を示している。この辻まで遊女達は客を見送り、「送りましょうか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも」と謡われた。
ここを右折する。このあたりは枚方市駅前の雑踏で賑やかだ。
本陣1軒・専用本陣1軒・脇本陣2軒・旅籠69軒だった。すぐ先が札の辻で高札場跡。
この先の右側が脇本陣鍵屋跡、本陣跡(池尻善兵衛家)だが遺構は残らず。
三十石船に漕ぎつけ、「餅くらわんか、酒くらわんか・・・・」などと乱暴な口調で酒や食べ物を売りつける煮売茶船の「くらわんか船」(広重画)
臺鏡寺 《地図》
山門をくぐった右側に「夜歩き地蔵堂」がある。
枚方宿の遊女や奉公人の娘たちの悩み事を聞き、相談相手となって夜な夜な宿場を歩き廻ったという地蔵さん。いつでも出て行き、帰れるように堂の扉は開いたまま。中山道桶川宿の大雲寺には夜ごと女郎買いに通い、背中に鎹(かすがい)を打ち込まれてしまった可哀そうな「女郎買い地蔵」がある。ここの地蔵さんの方が地蔵らしいか。
万年寺山への蔵の谷の上り坂となる。
雨水を司る龍神の高龗(たかおかみ)神が主祭神。淀川の鎮守として創建されたのだろうか。
どっしりとした石垣が坂沿いに続いている。
田中邸のムクの木 《地図》
田中家は河内鋳物師で、表面がザラザラした椋の葉は、鋳物の研磨に利用されたそうだ。
豊臣秀吉が寵愛した枚方城主本多内膳正の娘「乙御前(おとごぜん)」を住まわせたという3棟からなる御殿跡
万年寺(廃寺)の寺宝と鐘楼が移されている。
裏手が番所浦で船番所、船高札場があった。
淀川三十石船の船待ち宿としても繁盛した旅籠
肥前波佐見(長崎県波佐見町)で焼かれた厚手の茶碗。「くらわんか船」ではけっこういい器を使っていたようだ。料理はいざ知らずだが。
京街道沿いに左折し、枚方公園駅に向かった。
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