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2011年1月 4日 (火)

西国街道①

2010年12月23日

京都駅・・・東寺通り・・・(近鉄京都線)・・・東寺・・・九条通り・・・矢取地蔵堂・・羅城門跡・・・西寺跡・・・国道171号・・・九条橋(西高瀬川)・・・久世橋(桂川)・・・厳島神社・・・中久世交差点・府道207号・・・福田寺・・・(東海道新幹線)・(JR京都線)・・・(阪急京都線東向日駅)・・・常夜燈・・・旧道・・・梅ノ木道標・・・六万地蔵・・・府道67号・須田家住宅・・・向日神社・・・長岡京跡・・・南真経寺・・・五辻交差点・旧道・・・石塔寺・島坂・・・鈴吉大明神・・・府道67号・(阪急京都線)・旧道・・・小井川・・下川原地区・・・一文橋(小畑川)・・・馬場1交差点・旧道・神足地区・石田家住宅・・・淀・山崎分岐道標・府道211号・・・(JR京都線)・・・勝竜寺城跡公園・・・(JR京都線)・・・片泓(かたふけ)交差点(府道67号)・・・犬川橋・旧道・・・与市兵衛の墓・・・調子八角交差点・・・府道10号・・・小泉橋(小泉川)・三浦芳次郎碑・・・(JR京都線)・・・(名神高速)・・・聞法寺・・・(JR京都線)・(阪急京都線)・・観音寺(山崎聖天)・・・稲荷社・・大山崎瓦窯跡・・・蛇姫池・・・(阪急京都線)・(JR京都線)・・・府道67号・・・大山崎駅(阪急京都線)

 東寺前から西宮神社手前の中国街道との合流点、山陽道の起点までの西国街道を行く。山崎通、唐道、唐海道とも呼ばれ、宿駅は山崎、芥川、郡山、瀬川、昆陽(こや)、西宮の6ヶ所に設けられた。京から大阪を経由せずに西国へ抜ける最短の脇街道として、西国大名の参勤交代、庶民の寺社参拝の道として利用され繁栄した道筋だった。 

 参考:『歴史の道調査報告書 第六集』(大阪府教育委員会)・『歴史街道ウォーキングマップ』(大阪府)

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0175東寺(世界文化遺産)

南大門と五重塔。ここが「京の七口」の一つ、東寺口で西国街道の起点。

 

Img_0182 矢取地蔵堂 《地図

弘法大師の身代わりになったという矢取地蔵を安置。

 

Img_0181 矢取(矢負)地蔵

 

Img_0178由来

 

Img_0176 羅城門跡 【ル-ト地図】の①

『今昔物語集』や芥川龍之介の小説『羅生門』にも描かれた、平安遷都の際に建造された丹塗りの楼門があった所。

 

Img_0177 説明板

 

Img_0183 西寺跡 《地図

東寺の繁栄とは大きな落差。

 

Img_0184 説明板

 

Img_0192 久世橋(桂川)から愛宕山、北山方向 《地図

 

Img_0194 福田寺

養老2年(718)に行基が開基と伝う寺だが、今は現代的な建物で歴史の重みは全くない。

小倉百人一首の「よもすがら もの思ふころは 明けやらぬ 閨(ねや)のひまさへ つれなかりけり」は歴代住職の一人の俊恵法師の作。

 

Img_0199 常夜燈(阪急京都線東向日駅の踏切を渡った所)

天保13年(1842)に伊勢講の人たちが建立。

 

Img_0200 阪急京都線を渡り、左に旧道入る。《地図

分岐の正面に、「 右 さんご寺 西山上人御廟道」の道標が立つ。昔、このあたりは梅林で、「梅ノ木」の地名がついた。 

 

Img_0203 梅ノ木の道標

右に大原野神社・灰方伺地蔵・淳和天皇御陵などへの4基の道標が並ぶ。

 

Img_0218 六万地蔵尊

 

Img_0229 須田家住宅 《地図

屋号を松葉屋という、醤油の製造販売を営んでいた旧家。左に新しい道標が立つ。

 

Img_0226 道標

「中・あたごみち」は物集女街道のこと。

 

Img_0235 向日(むこう)神社

鳥居をくぐった参道に「日像上人の説法石」があるというが見逃した。

 

Img_0232 説明板

 

Img_0242長岡京跡(大極殿跡方向) 【ル-ト地図】の②

延暦3年(784)から平安京遷都の延暦13年(794)までの都跡。

 

Img_0250 南真経寺

日像によって改宗された関西における日蓮宗最初の寺。二層造りの本堂は珍しいか。

 

Img_0246 説明板

 

Img_0251自転車店

 

Img_0255 島坂を下る。 【ル-ト地図】の③

紀貫之が京へ帰る時に休息したあたりで、『土佐日記』に「かくて京へ行くに島坂にて人あるじしたり」とある。「あるじ」とは饗応のこと。左は石塔寺

 

Img_0256 説明板

 

Img_0263 下川原地区に入る。《地図

秀吉が小畑川の流路を西に移し、道路拡張し堤防を築いた。この時できた広い河川敷が後世に農地化、宅地化され下川原の地名として残ったとか。

 

Img_0267 下川原の家並み

 

Img_0269 中小路家

 

Img_0279 一文橋(小畑川)を渡る。《地図

銭「一文」を取った有料橋だった。

 

Img_0276 由来碑

 

Img_0284 神足(こうたり)地区に入る。《地図

右に「西国街道」の石柱、左に説明板がある。

 

Img_0286 「西国街道」説明板

 

Img_0290 神足商店街を抜けて行く。

一里塚があったあたりで、「一里塚」という地名が残る。

 

Img_0295 神足の家並み

 

Img_0301 石田家住宅

「神足ふれあい町家」として休憩所、資料館となっている。

 

Img_0298 説明板

 

Img_0339 正面に淀・山崎分岐の道標が立つ辻。《地図

西国街道は右へ山崎へと向かう。

手前右には愛宕山常夜灯2基(元禄13年(1700)・1基は再建)、手前左に「式内神足神社」の石柱道標が立つ。

 

Img_0336 道標(享和元年(1802))

「右 山ざき 左 よど」

左に淀方向に向かい勝竜寺城跡公園に寄り道する。

 

Img_0324 勝竜寺城跡公園 【ル-ト地図】の④

細川ガラシャ、細川忠興ゆかりの城。「山崎の合戦」では明智光秀が本陣を構えた地でもある。

 

Img_0319 細川ガラシャ

明智光秀の三女

 

Img_0333 隅櫓と堀(復元)

 

Img_0321説明板

 

Img_0346 与市兵衛の墓 《地図

仮名手本忠臣蔵』(五段目・山崎街道の場)での創作上の人物ではないのか?このあたりは「横山峠」と呼ばれていたそうだ。それほどの高さもなく、今は明るい賊など出そうもない住宅街だが。

 

Img_0347 説明板

 

Img_0358 柳谷観音道標 《地図

「右 やなぎ谷」・「左 よど」

この先の調子八角交差点から府道10号を行く。

 

Img_0372観音寺(山崎聖天) 《地図

仏教の守護神、商売繁盛の神で、観音寺の鎮守社の歓喜天を祀る聖天堂の鳥居。「聖天宮」の扁額が架かる。 鳥居をくぐり急な石段を上る。

 

Img_0374 仁王門

 

Img_0378 観音寺本堂

本尊の十一面千手観音菩薩よりも歓喜天の信仰で賑わい、「山崎の聖天さん」と親しまれている。

左手前の燈籠は元禄10年(1697)に住友吉左衛門が寄進したもの。ここは「山崎の合戦」のあった天王山(270m)の中腹。

 

Img_0376 説明板

 

Img_0377 歓喜天を祀る聖天堂(本堂の左側)

 

Img_0379 西側の急な石段を下る。

 

Img_0389 大山崎瓦窯跡 《地図

 

Img_0388 説明板

 

Img_0390蛇姫池 【ル-ト地図】の⑤

この池で死んで蛇となって祟ったという「蛇姫池伝説」の地。

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