西国街道③
2010年12月25日
豊川駅(大阪モノレール彩都線)・・・春日神社御旅所・・・楠水竜王堂・・・小野原地区・・・(府道120号)・・・勝尾神社鳥居・・・(県道119号)・柳谷観音道標・・・北向地蔵・・・国道171号・・・(国道423号)・・・萱野4交差点・旧道・・・萱野三平旧宅・墓所道標・・高札場跡・・・鍋田川橋・・・稲地区・・・国道171号・・・(府道43号)・・・旧道・・・牧落の高札場跡・・・牧落八幡宮・・・牧落踏切(阪急箕面線)・・・浄円寺・瀬川宿本陣跡あたり・・・瀬川宮橋(箕面川)・・・瀬川神社・・・瀬川宮橋・・・野踏切(阪急箕面線)・・・春日弁財天社・・・阪大下交差点・旧道・・・辻の地蔵堂・・・高札場跡・西国街道踏切(阪急宝塚線)・・・正光寺・・・亀之森住吉神社・・・順正寺・高札場跡・・・十二社神社・・・(中国自動車道)・・・弁慶の泉・・・西宝寺・受楽寺・・・国道171号・・・新開橋(箕面川)・(兵庫県伊丹市)・・・浄源寺・・・軍行橋(猪名川)・・・旧道・・・宝剣堂踏切(JR福知山線)・・・坂口橋(駄六川)・・・辻の碑・・北園1交差点(県道13号)・・・伊丹坂・・・和泉式部の墓・・・西皇太神社・・・妙宣寺・・・大鹿地区・・稲野村道路元標・・長勢橋碑・昆陽宿本陣跡あたり・・・国道171号・・・西天神社・・・昆陽寺・・・昆陽里交差点(県道42号)・師直塚・・・西昆陽交差点・旧道・・・髭の渡し跡(武庫川)・・・甲武橋(武庫川)・・・一里山町・・・(山陽新幹線)・・・下大市の道標・・・門戸厄神駅(阪急今津線)
今日も寒く、大阪の最高気温は5度だった。手袋で鼻水をすすりながら西からの風に向かって大阪府から兵庫県へと進んだ。
【ル-ト地図】
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楠木正成が延元元年(1336)、湊川に馳せ参ずる途中、ここにあった小庵の井戸で水を汲み飲んだという伝承がある。後に茶店ができて旅人が名水として愛飲したという。井戸は民家の庭にあるそうだ。堂の前の道標(享和2年(1802))には「左京 ふしみ道」と刻む。その右後ろは伊勢神宮常夜灯(寛政8年(1796)建立)
左右の端に町石が立つ。
祠の手前左側には青面金剛庚申塔が立つ。
赤穂浪士の一員になれず自害した武士。少し先の左側に三平の墓への小さな道標が立つ。墓はそこから南へ600mほどの墓地に移転されているという。
付近に一里塚があったようだ。
右は地蔵の小祠
牧落の高札場跡 《地図》
正面右に説明板と2基の道標
浄円寺 《地図》
右に「蓮如上人御由緒地」の石柱。この100mほど先の箕面自動車教習所あたりが瀬川本陣跡だが遺構などは残らず。説明板では半町(はんじょ)本陣で、建物の一部は現存すると書いてあるが。瀬川本陣と半町本陣は並んでいたとも。
街道から離れ、瀬川2丁目交差点の手前の路地を入り瀬川神社に向かう。途中を右折すると「弁慶の鏡水」の窪地があるようだが保存状態はよくないらしい。
左は木の根に覆われた小祠。龍が水を飲んで天に昇ったという「龍の井」があるというが見当たらず。
北方200m地点に一里塚があったようだ。
高札場跡(西国街道踏切の所) 《地図》
能勢街道(大坂道・池田道)との交差点。『能勢街道②』踏切を渡った所に地名の起こりとなった石橋が架かっていた。
正光(しょうこう)寺 《地図》
麻田藩の陣屋門という。境内に「夜泣き石」がある。
「中納言の休憩岩」で、江戸時代に麻田藩主がこの岩を陣屋に持ち帰ったところ、毎晩石が「帰りたい」と泣いたため、正光寺の近くの辻に放置した。その後この正光寺内に移されたという。
豊島郡(豊中市・池田市)の総鎮守
順正寺 《地図》
門前が高札場跡
この先で中国自動車道の地下歩道を2つくぐる。
長年にわたり農業用水として利用されてきた湧水で、しっかりと丁寧に保存されている。
初代春団治が得意としていた『池田の猪買い』
この先の新開橋交差点へ出る道筋が分かりにくい。
浄源寺 《地図》
境内の大銀杏(桐とムクの木が寄生)は一里塚的存在だったという。この先に伊丹市指定の入江家・中村家・増田家住宅が並ぶ。
猪名川の川幅は120間(216m)もあったが、渡し船はなく、松尾芭蕉も歩いて渡った。下流の東側は大阪空港で航空機が頭上を飛んで行った。
多田街道との交差点 《地図》
右に「多田道道標」(従是多田御社江一里半)、トラックの後ろに「辻の碑」が立つ。多田神社への参詣道でもあった。東京中野区の鎌倉街道沿いにも源満仲を祀る多田神社がある。
建てられた年代は不明。
和泉式部の墓 《地図》
鎌倉時代後期の造立というから墓というより供養塔だろう。京都府木津川市の山背古道、中山道御嵩宿の手前にも墓がある。
茶碗樋(西皇太神社境内) 《地図》
水争いを防ぐための茶碗大の樋口。
右の大鹿交流センターに旧西国街道の看板が架かっている。坂上田村麻呂が大鹿を射止めたのが地名の由来という。村の中程に一里塚があったそうだ。
「すぐ 中山 ありま」で、有馬道との交差点。
稲野小学校前 《地図》
西国街道の石碑・説明板・能因法師の歌碑『芦のやのこやのわたりに日は暮れぬいづちにいくらむ駒にまかせて』、「こやのわたり」はこの先、武庫川の「髭の渡し」のことだろう。すぐ先に稲野村道路元標がある。
長勢橋碑(長勢児童遊園)
元治元年(1864)、蛤御門の変で敗走した長州勢がここで踏みとどまって戦ったという。公園北西側の四辻の右側が昆陽宿の川端本陣跡というが遺構は残っていないようだ。
昆陽寺 【ル-ト地図】の15
天平3年(731)に行基が建立した畿内49院の一つ。
師直塚 《地図》
この地で討たれた高師直の供養塚。
髭の老人が営む茶屋があったのでこう呼ばれた。明治の終わりに下流に甲武橋が架けられるまでこの渡しは続いた。
下大市の道標 《地図》
厄神明王は駅名にもなっている門戸厄神東光寺のこと。左は「すぐか婦と山観音 是より 十五丁」で、甲山大師神呪寺(かんのうじ)への道標。
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