暗越奈良街道②
2010年12月27日
河内小阪駅(近鉄奈良線)・・・小阪北口交差点・・・天神社・・・辻の地蔵・・・新御厨大橋(第二寝屋川)・・・(府道2号)・(近畿自動車道)・・・道標・(河内街道)・・八剣神社・・・道開地蔵・・・(府道21号)・・・おかげ燈籠・もちのき地蔵・・水走橋(恩智川)・・・東高野街道交差地点(箱殿東交差点)・・・地蔵の辻・宝憧寺・・・(近鉄奈良線)・・・枚岡神社・・・国道308号・・・勧成院・・・芭蕉句碑・・・禊行場・・・観音寺・・・額田橋・・・慈光寺分岐・・・弘法水・・・迎地蔵・・・暗峠(455m)・暗峠地蔵・・(信貴・生駒スカイライン)・・・西地蔵・・・万葉歌碑・・・阿弥陀堂・・・石仏寺・・・(国道168号)・・竜田川・・南生駒駅(近鉄生駒線)
暗峠まではだらだらとした上り坂が続くと思っていたが、地蔵の辻を左折し近鉄奈良線を越えたあたりから国道308号の急坂となった。国道といってもカーブの続く細い道で、車の往来は少なく歩きやすい。上るにつれ空気は冷たくなり、道沿いには雪が少し残る風景となった。暗峠には少しだげ石畳の道が残っているが、急坂を上ってきたわりには、ちょっと物足りなさを感じる風景だった。暗峠からの下りは早く、南生駒駅には1時前に着いてしまった。この先、奈良まで歩ける距離、時間ではあるが急ぐ旅でもなし、今日はここまでとし大阪に戻った。
【ル-ト地図】
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天神社(あまつかむやしろ・通称てんじんしゃ) 《地図》
御厨(みくりや)神社とも呼ばれ、文武天皇が吉野に行幸の時に当地から供膳したことからこの名を賜った、あるいは称徳天皇が由義宮を造った際に御厨を設けた所といわれている。大クス(向う側)は東大阪市の天然記念物。このあたりの地名は御厨。
天神社からの道と暗越奈良街道がここで出会う。
本陣の役目も担った旧家
交差点の手前右は「すぐ 八尾 右 大阪 左 奈良」・交差点を渡った左側は「すぐ 石切 瓢箪山 奈良 左 住道 四条畷 」。ここを南北に走る道は河内街道。
左は右側面に「おかげ」と刻む天保2年(1831)の奈良、伊勢への道標で、前年(文政13年・天保元年)は「おかげ参り」が大流行した。中央の瓢箪の絵があるのは、「右 瓢箪山」で、右の「右 鳴川山千光寺 役行者道」は奈良県平群町の役行者像を安置する千光寺のことだろう。3基とも街道沿いから移されたもの。
もちの木地蔵・「おかげ燈籠」(天保2年) 《地図》
東高野街道交差地点(箱殿東交差点) 《地図》
暗越奈良街道は右から左へ。東高野街道は直進。
「東江 すぐなら いせ道」が暗越奈良街道で、「南江 すぐ かうや道」が東高野街道。
地蔵堂には行基ゆかりの子安地蔵が安置されている。
暗越奈良街道の国道308号は、細い道となって暗峠へと急坂を上って行く。《地図》
若者が自転車で上って行くが、この急坂はきついようで、何度も自転車から降りて、押したり休んだりしていた。そのうちに遅れだし見えなくなった。たぶん途中でリタイアして引き返したのだろう。
「菊の香にくらがり上る節句かな」 元禄7年(1694)9月9日の重陽の菊の節句に、芭蕉が伊賀上野から大坂に向かう途中で詠んだ句。芭蕉は10月12日に大阪で没している。もとは街道沿いにあったという。
白く雪化粧した観音寺の屋根 《地図》
右端の笠塔婆の阿弥陀如来像は弘安7年(1284)の造立。
奈良から暗峠を越えて来た人たちには「送地蔵」か。
手前右は「矢田山二里」、「矢田 奈良」の道標
樹木が鬱蒼と生い茂り、昼なお暗いことが峠名の由来という。今はこの一部分だけが風情ある石畳の「日本の道百選」の道。
肩幅の広い、がっしりとした地蔵さん。
後ろには石灯籠、南無阿弥陀仏石塔、薬師如来石像?、地蔵、道標などが並ぶ。
右側面に文永7年(1270)の銘があるというがよく見えず。
石仏寺(正面奥の右側) 【ル-ト地図】の9
鎌倉時代の創建とされ、古くから暗越奈良街道を通行する旅人が訪れたという寺。
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