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2011年2月13日 (日)

牛窓往来②

2011年1月26日

岡山駅(JR赤穂線)→西大寺駅 バス→宿毛バス停・・・大師堂・岡山県孤児院発祥の地・石井十次顕彰碑・・・大池・・・(瀬戸内市)・・・弘法寺仁王門・・・東寿院・・遍明院・・弘法寺・・・狩野千手坂・・・疫神社・・・御霊宮・・・海遊文化館・・・しおまち唐琴通り・本蓮寺・・旧牛窓郵便局・・牛窓天神社・・道路元標跡・・金刀比羅神社・・牛窓文化館・御茶屋跡・・御茶屋井戸・・五香宮・・牛窓燈籠堂・えびす宮・ともづな石・・番所跡・・瀬戸内きらり館・・・札場跡・牛窓バス停→西大寺駅→岡山駅 

  【ル-ト地図】(13.0km)

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Img_2187 大師堂・岡山県孤児院発祥の地 《地図

隣の空き地に石井十次顕彰碑が立っている。

Img_2189 説明板

Img_2199 大池 《地図

Img_2203 左が旧道の狩野千手坂

右に県道を進んで弘法寺へ寄る。

Img_2205 分岐の「日本のエーゲ海牛窓」のヨットの帆をかたどった案内板

Img_2206 弘法寺山門 《地図

県道を挟んだ東寿院、遍明院の上に弘法寺がある。

Img_2208 説明板

Img_2219古い石段上に弘法寺がある。

Img_2241弘法寺 《地図

昭和42年の火災で本堂・普賢堂・鐘楼・多宝塔などが焼失し、今も再建されないまま荒れて寂れ、諸行無常の感が漂っている感じで気に入った。明治初年までは18もの塔頭があったという。正面奥に常行堂・御影堂、道を挟んだ左側に日吉神社・千次神社が残っている。

Img_2229常行堂

Img_2225_2 説明板

Img_2230御影堂

Img_2232 千次神社・日吉神社

日吉神社は神仏混淆時代の弘法寺の鎮守社。石橋下の水は澱んで濁り、ここも荒廃の一途をたどっているか。

Img_2234 説明板①

Img_2236 説明板②

Img_2245 狩野千手坂を上る。【ル-ト地図】の①

下って県道28号に出て、牛窓町の中心部へ入って行くのだが、この先で道を間違え、だいぶ北方向へ進んでしまった。人通りもなく困っていたら巡回中のパトカーが通りかかった。手を挙げて止めたら不審者を見るような目つきで面倒臭そうに応対された。道を聞いてもはっきりせず、ろくに道案内もできない警官2人だった。きっと巡回中でなくドライブ中だったのだろう。

Img_2258 疫神社 【ル-ト地図】の②

戸時代に疫病が流行した際に、牛窓神社の境内に牛頭天王の祠を祀り悪疫退散を祈願した。これが疫神社の起こりで、のちにまた疫病に襲われた紺浦では、牛窓神社境内から当地に移したそうだ。「オヤクジンサマ」と呼ばれている。

Img_2261 説明板

独特なメーキャップ、典雅な所作、奇妙な口上、囃し方など、その意味はまったく不明だそうだ。朝鮮通信使の影響を受けた踊りとの説もある。江戸時代の朝鮮通信使は、釜山(海路)→対馬→赤間関(下関)→瀬戸内海→大坂(水路)・淀川→淀(陸路)→京都→東海道→中山道→朝鮮人街道→中山道→垂井宿→美濃路→大垣→名古屋・熱田・東海道→江戸のルートを進んだ。

Img_2264 御霊宮(社) 《地図

通称を「オゴリョウサマ」

Img_2265 説明板

Img_2267 服部酒造

Img_2284 海遊文化館(旧牛窓警察署) 《地図

背後に本蓮寺の三重塔

Img_2285 説明板

Img_2286旧牛窓郵便局(左)

Img_2288 「しおまち唐琴通り」の家並み

「唐琴の瀬戸」と呼ばれる海峡部に沿った、関町から東町(関町・西町・本町・東町)にかけての町並みで、港町として栄えた江戸時代から昭和30年頃の面影を残しているが、廃業した店舗や空き家が目立つ。『牛窓の憂愁』によると、「唐琴(からこと)」は神功皇后の遠征伝説からきているそうだ。

Img_2290 昔風の商店

Img_2291 長屋門(松屋分家)

Img_2295牛窓天神社 【ル-ト地図】の③

社殿の背後は全長約85mの前方後円墳の牛窓天神山古墳

Img_2297 説明板①

菅原道真が詠んだ歌に「唐琴の瀬(迫)戸」が出てくる。

Img_2296 説明板②

Img_2300境内から 

正面左が前島、正面が黒島、その間の奥に小豆島。大宰府へ配流される途中の菅原道真が、若きに日に国司として赴任したことのある讃岐国方向を眺め涙したという。

Img_2309 牛窓港の一文字波戸

元禄8年(1695)津田永忠の指揮でわずか10ヶ月で築いた、陸から海へ細長く突き出して構築した堤。波よけや、船舶の積み荷の上げ下ろしなどに用いる。津田永忠には昨日の神崎水門の所でも出会った。
日本の夕日百選』の眺めだが、夕刻までにはまだ時間がある。『牛窓の夕日』 

Img_2314 潮風志るこ店

残念ながらとっくに廃業してしまったようだ。

Img_2315 右書きの看板が郷愁をそそるか。

Img_2320 牛窓往来の起点の道路元標があった所(関町ミニ公園)

後方は高祖酒造

Img_2319 説明板

Img_2323 風情ある家並みが続いている。

Img_2328 金刀比羅神社

昔から城山と言われている高台で、島山左馬丞が山城を構えていたともいう。

Img_2334 牛窓文化館(左)は大正4年に牛窓銀行本店として建てられ、後に中国銀行牛窓支店として昭和55年まで使われていた。右は朝鮮通信使を接待した御茶屋跡(建物は現存せず)。

Img_2335 手前の路地を入る。

Img_2336 御茶屋井戸 【ル-ト地図】の④

朝鮮通信使用に掘られた井戸で、今もなお水を湛える現役の井戸。

Img_2337_2 説明板

Img_2340 井戸枠に「往昔朝鮮人来朝・・・」と刻まれている。

Img_2341 古い家並みを抜けて行く。

Img_2343 五香宮

祭神は住吉大神、神功皇后など。

牛窓の地名由来伝説:「神功皇后の乗った船が大和へ帰還の途中、牛窓の瀬戸を通過する際、大きな牛鬼が行く手をはばんだ。そこへ住吉大神が現れて、牛鬼の角を持ち投げ倒した。牛が転んだところから、以来この地は「牛転(うしまろび)」と呼ばれ、それが訛って「牛窓」になったという」 随分と無理のありそうな話だが。その他、地名の由来には諸説あり。

Img_2348 燈籠堂(復元)・えびす宮(手前左) 【ル-ト地図】の⑤

Img_2347 説明板

Img_2351 牛窓瀬戸と前島の城ケ鼻の灯台

燈籠堂・牛窓瀬戸・灯台の眺め

 

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2011年2月 6日 (日)

牛窓往来①

2011年1月25日

岡山駅・・・岩田町交差点・山陽道(後楽園通り)・・・法随稲荷・・・青柳橋(西川緑道公園)・・・金刀比羅神社・・・桃太郎大通り・・・上之町通り・・・橋姫稲荷神社・岡山県里程元標・道路元標・京橋・中橋・小橋(旭川)・・・山陽道分岐点・・・国清寺・・・稲荷社・・・三友寺・・・玉井宮・・・権現坂・・・幣立山公園・・・東山峠交差点(県道28号)・・・(池の内大池湖畔公園)・・・嶽交差点(県道28号)・・・(倉安川)・・・堀替橋(百間川)・・・題目塔・・・地神塔・牛神塔・・・甚兵衛橋(砂川)・・・君津JCT(国道2号)・・・道標・・・(岡山ブルーライン)・・・(県道177号)・・・宝琳寺・裳掛天満宮・・・常夜灯・新村渡し跡・・・(西大寺大橋)・・・祇園神社・・・地蔵堂・・・荒鍬宮・・・永安橋(吉井川)・・・千田河口水門・新村渡し跡・常夜灯・渡場橋(千田川)・・・永江川・・・乙子城跡・乙子神社・・・乙子橋(千町西川)・・・道標・・・大師堂・・・神前神社・・・神崎分水樋門・神崎水門(千町川)・・・松江伊津岐神社・・・大師堂・・・宿毛交差点・道標・宿毛バス停→西大寺駅(JR赤穂線)→岡山駅

 岡山城下から牛窓港に至る、6里28町の道程を「牛窓往来」といった。牛窓は古来の瀬戸内海交通の要衝で、中世には内海の主要港として、備後の尾道・鞆、播磨の室津などと共に栄え、近世になると朝鮮通信使の接待港として港の整備なども進められた。現在は「東洋のエーゲ海」として観光に力を入れているが、それよりも古くからの港町風情の残る町並みを期待しているがどうだろうか。

 岡山駅から東へ山陽道を行き旭川を渡り、岡電の中納言駅で山陽道から分かれ、倉安川・百間川・砂川・吉井川を渡り牛窓港を目指す。吉井川の西大寺大橋は渡れず、北の永安橋まで迂回せねばならず、工事中の所や道路の敷設などで道筋が不分明の箇所などもあり、2日掛けの行程となった。

 参考:『岡山県歴史の道調査報告書 第7集 牛窓往来』(岡山県教育委員会)

  【ル-ト地図】(25.5km)

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Img_1603 金刀比羅神社 《地図

宇喜多直家が創建し、秀家が国家安泰の祈願所とした。

Img_1605 説明板

Img_1608 桃太郎大通りを走る岡電

さまざまな企業の宣伝カーになっていて、カラフルで見飽きない。山陽道は城下駅の手前で右折し上之町の商店街へと入って行く。桃太郎大通りを直進すると岡山城のある烏城公園、後楽園へと通ずる。

Img_1610 山陽道岡山宿の本陣があったというアムスメール上之町通り 《地図

Img_1612 古い店も少し残っているか。

Img_1619 大手まんじゅうの伊部屋

天保8年(1837)創業の老舗。ここのまんじゅうはうまいよ。

Img_1625 迷子しるべ(京橋のたもと)

「たつぬる方」・「志らする方」で、明治25年に岡山市役所が建てたもの。
甲州街道の起点の日本橋に近い一石橋の南詰にもある。

Img_1628 橋姫稲荷神社(後ろの小祠)・岡山県元標(右端) 《地図

Img_1630 説明板

Img_1633 道路元標

Img_1624 京橋から旭川上流方向

Img_1636 京橋、中橋、小橋を渡る岡電

牛窓往来には小橋を渡って、①岡電に沿って直進する道筋と、②右折し国清寺の西側を南下し、東に向かう道筋もある。①②の道は嶽交差点で合流する。①の道筋を行く。

Img_1641 山陽道分岐点 【ル-ト地図】の①

吉備団子の広栄堂武田(左)・廣榮堂本店(右)が仲良く?並んでいる。どちらも安政3年(1856)の創業で、「元祖」を名乗っている。山陽道はここを左折して行く。牛窓往来は岡電と一緒に進む。

Img_1652 国清寺

岡山池田藩の祖、池田輝政、利隆の菩提寺。朝鮮鐘の様式を持つ梵鐘は岡山市の重文。

Img_1647 説明板

Img_1661 三友寺山門

左に「ピンポン伝来の地岡山」の石碑がある。

碑文:「旧制第六高等学校の言語学教授として明治32年に来岡した英国人エドワード・ガントレットはここ三友寺に寄宿していた。彼の義弟にあたる山田耕筰 明治19年-昭和40年 はその自叙伝『若き日の狂詩曲』の中で「義兄より作曲・エスペラント語と共にピンポンの指導を受けた」と記述している。これは坪井玄道教授が日本に卓球を伝えたといわれる明治35年よりも3年早いことである。ここに耕筰生誕120年を記念してこの碑を建立し、後世に伝えるものである。平成18年9月9日 岡山県卓球協会」

Img_1658 説明板

Img_1669玉井宮東照宮 《地図

Img_1668 由緒

Img_1672 干支の兎が出迎えてくれる。

Img_1960 石灯籠・馬頭明王・稲荷の小祠などが集められた一画。

Img_1963 権現坂 《地図

玉井宮東照宮に通ずる坂でこう呼ぶのか。左に古い石の坂標がある。

Img_1982 「峠坂・・・・」碑の前の坂を上って東山峠交差点へ下る。

Img_1994 東山峠交差点から先は県道28号の北側の一段高い旧道を進む。

Img_1997 北側にいい感じの石段坂が何本も上っている。

Img_2003 嶽交差点で県道28号を横切る。国清寺の西側を南下したもう一つの道筋はここで合流する。《地図

Img_2012 百間川の土手へ出る。

Img_2015 堀替橋から百間川 《地図

Img_2024 堀替橋を渡ると細い道となる。南側には砂川が流れている。

左に題目塔、この先の左側に地神塔、牛神塔がある。

Img_2042 甚兵衛橋 【ル-ト地図】の②

車は通れずこの先、直進する道はなく迷った。土手を下って東進し、君津JCTをくぐる。

Img_2064 「うしまどみち」(明治13年)道標 《地図

「左 うしまど かなおかみち」

Img_2067 「左 うしまどみち」

Img_2071 田畑の中を通って行く。

この先で岡山ブルーラインをくぐる。

Img_2081 宝琳寺・裳掛天満宮(左)

菅原道真が裳裾を掛けたという松があって「天神坊」とも呼ばれた。明治の神仏分離で分けられた。

Img_2083 説明板

Img_2080 金岡の常夜燈(文化2年(1805)) 《地図

ここから「新村渡し」で吉井川を対岸の新村へ渡っていた。当時の石段が残っている。常夜燈はもっと川岸近くにあったようだ。

Img_2079 新村渡し跡 【ル-ト地図】の③

左に西大寺大橋が見えるが、自動車専用道路の岡山ブルーラインの橋で人は歩けず、さらに上流の永安橋まで行き、対岸の新村渡し跡まで迂回せねばならない。その間4kmほどあるか。下流は児島湾、瀬戸内海で橋はなし。昔は河口から西大寺大橋までの間に、「幸西渡し」「乙子渡し」「新村渡し」があったというのに。

Img_2084 祇園神社 《地図

Img_2085 地蔵堂

Img_2088 西大寺南の家並み

Img_2090 荒鍬宮

Img_2094 永安橋から吉井川下流方向 《地図

うっすらと見える西大寺大橋の先まで戻らねばならないのだ。

Img_2098千田河口水門 《地図

新村渡し跡で、土手下に常夜灯が立つ。水門下の千田川の橋は「渡場橋」

Img_2099 常夜燈

「金毘羅大権現」の銘がある。上流の船着場跡から150mほど南に移動されたものらしい。

Img_2105 石鉄山大権現塔(左)・供養塔

この前を左に進む。

Img_2109 乙子(おとご)城跡(正面の小高い所) 【ル-ト地図】の④

Img_2115 説明板

Img_2117乙子神社

Img_2123 乙子橋から千町西川

明治時代の倍近くの川幅になっているそうだ。

Img_2126 道標(電柱の下) 《地図

Img_2127 「右 幸西 左 うしまど」

手前を千町西川に沿って少し北に進む。

Img_2128 大師堂 《地図

Img_2129 右端が花崗岩の大師像で台座に明和5年(1768)と刻まれている。

Img_2142 神前神社の鳥居(天保3年(1832))・石橋(寛政12年(1800)・石灯籠(寛政11年)

Img_2135神前神社 《地図

急な石段を上った小高い所にある。

Img_2134 由緒

Img_2141 吉井川・児島湾(境内から)

Img_2147神崎分水樋門

貞享4年(1687)に岡山藩郡代津田永忠が木造樋門から改築した県下に残る唯一の石造樋門。

Img_2148 神崎水門 【ル-ト地図】の⑤

水門の左脇に石碑が立つ。

Img_2150 道標(神崎バス停の所) 《地図

「左大宮鹿忍牛窓」、牛窓往来の旧道は一本南側の道を行く。

Img_2154 ほんぶしん

天理教の分流の新宗教団体。

Img_2158紅岸寺城跡案内板

宇喜多五郎左衛門を城主とした城跡と伝えられているが、城郭の痕跡はなく、宇喜多氏の寝小屋あるいは館などの日常生活拠点として利用された寺がそのように伝えられた可能性があるという。

Img_2161 松江伊津岐神社 《地図

安仁神社の末社で、吉備穴海の波打ち際に船を留めた五瀬命は、地元住民たちの手厚い饗応を受けた。五瀬命は去る際に自身が用いた松材の箸を砂浜に刺した。それが根付いた松が後に信仰の対象になったという伝承があるそうだ。

Img_2162 大師堂

寛延2年(1749)銘の大師像があるそうだ。

Img_2170 宿毛交差点 《地図

旧道は県道28号から左に入って行く。右側に「牛窓道」の道標(大正7年建立)。

Img_2172 一宮道は備前国旧一宮の安仁神社のこと。

宿毛バス停から西大寺駅に出て、岡山駅に戻る。

***岡山城下(2011年1月27日)***

岡山駅・・・桃太郎大通り・・・岡山県藩藩学跡・・・岡山神社・・・岡山城・・・月見橋・・・後楽園・・・鶴見橋・・・出石町・・・岡山駅

Img_2357 岡山藩藩学跡 《地図

昭和20年6月29日の空襲で焼失し、残る遺構はこの頖池(はんち・中国古代の諸候の学校の頖宮(はんきゅう)の制に擬してつくられた半円形の池)のみ。

Img_2355 説明板

Img_2359 岡山神社 《地図

Img_2361 説明板

Img_2363 旭川から岡山城

Img_2389 月見櫓

Img_2388 説明板

Img_2387 不明門(あかずのもん)

Img_2393 説明板

Img_2403 岡山城

別名を烏城(うじょう)・金烏城(きんうじょう)

Img_2422 後楽園

Img_2423 花交の池 地図

Img_2433 沢の池

Img_2472_2コゲラ(キツツキ科)だろうか? カタカタとさかんに木をつついているような音がする。

Img_2480 出石町の家並み 《地図

戦災を免れた地区で、和洋混在のさまざまな建物が並んでいる。

Img_2475 説明板

Img_2487

Img_2482 福岡商店

「酢醤油」の古い立て看板が掛かっている。

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2011年2月 3日 (木)

吉備路②

2011年1月24日

吉備津駅(JR吉備線)・・・山陽道・・・稲荷社・板倉大橋(西川)・板倉宿・・・地蔵堂・真金十字路(国道180号)・・・題目塔・・・地蔵尊・・・御埜立所碑・・・新黒住橋(足守川)・・・鯉喰神社・宝泉寺・・・県道270号・・・地神・牛神塔・・・(山陽自動車道)・・・造山古墳・・・脚気地蔵・・・千足装飾古墳・・・備中国分尼寺跡・・・こうもり塚古墳・・・松井の井戸・・・備中国分寺・・吉備路自転車道・・・(国道429号)・・・作山古墳・・・角力取山古墳・ギリギリ山古墳・・・山陽道・・・金毘羅石灯籠・・・山手郷土館・・・御崎神社(窪屋郡郡家跡)・吉備考古館・・・一里塚跡・・・山田池・・・県道270号・持坂・・・清音ふるさとふれあい広場・・・持坂・・・県道270号・・・まちかど郷土館・塩屋跡・・・総社宮・・・東総社駅(JR吉備線)

  【ル-ト地図】(20.1km)

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Img_1688 板倉宿(山陽道) 【ル-ト地図】の①

鯉山コミュニティハウスが本陣跡

Img_1693 平松家

なまこ壁・格子・うだつ(左端)・蔵造りの旧家

Img_1694 地蔵堂(真金十字路・板倉交差点)

ここは古来の交通の要衝地。境内には大峯山三十三度供養塔(明和4年(1767))、大乗妙典供養塔(文化2年(1805))などがある。

Img_1706 御立埜所碑

明治43年に明治天皇が軍事訓練観閲で、この地を訪れたそうだ。

Img_1718 鯉喰神社 《地図

温羅(うら)伝説」の地

Img_1717 説明板

Img_1714 宝泉寺の赤門、赤屋根

Img_1724 石灯籠・地神塔・牛神

県道270号を上って行く。西国は馬より牛だ。

Img_1730山陽自動車道をくぐって下りとなる。

Img_1741 造山古墳へ向かう。《地図

全長350~360mの日本で4番目の規模の前方後円墳。墳丘に上れる古墳としては最大。周囲に6基の陪塚を従えた吉備国の王の墓か。右が後円部。

Img_1746 説明板

Img_1752前方部から後円部

Img_1749 船形石棺(前方部の荒神社前)

神社の周辺に石棺の蓋の残片らしきものもある。

Img_1756脚気地蔵の小祠 

Img_1759 脚気地蔵は右か?

崩れかかっているようだ。

Img_1761 千足の家並み

Img_1762 千足装飾古墳(陪塚5号墳) 《地図

横穴式石室内に直弧文の刻まれた石障(玄室内部四方に加工した板石をめぐらした埋葬施設)があるそうだ。

すぐ先の左側に6号陪塚がある。

Img_1773 造山古墳周辺の6基の陪塚

Img_1774 陪塚説明板

Img_1775 境界石(右)

「従是南西新庄村上分」「従是東新庄村下分」

Img_1781 道標の立つ三叉路 《地図

「左いなり道」「従是五十二丁」、どこの稲荷社のことなのか?

Img_1786_2 吉備風土記の丘案内図

Img_1792 備中国分尼寺の金堂跡から講堂方向

礎石が残っている。

Img_1801_2 伽藍配置

Img_1813 こうもり塚古墳の両袖式横穴式石室

全長約100m、6世紀後半頃の築造の前方後円墳。仁徳天皇の妃の黒媛の墓という伝承もあるが、時代が合わない。

Img_1809 説明板

Img_1814 家形石棺

Img_1816_2 石室内から

Img_1835 松井の井戸(手前) 《地図

「むすびあぐる松井の水は底済み うつるは君が千代のかげかも」 藤原茂明

「常盤なる松井の水をむすぶ手の 雫ごとにぞ千代は見えける」  藤原資実             

池の向うに旧山手村役場(移築復元)。

Img_1833 説明板

Img_1822 旧山手村役場(移築)

幕末から明治初頭の建築で、昭和43年まで山手村役場として使用されていた。

Img_1824 旧松井家住宅(移築)

幕末頃の建築で、岡山市沼の山陽道沿いの茶屋だった建物。

Img_1838備中国分寺 【ル-ト地図】の②

中門跡から吉備路のシンボルの五重塔(文政から弘化年中の再建)

Img_1839 説明板

Img_1849吉備路自転車路(「日本の道100選」)から振り返る。

Img_1853 作山古墳

全長約285mの日本で9番目の規模の前方後円墳。右が後円部。

Img_1863 説明板

Img_1857前方部から後円部

Img_1869 角力取山古墳 《地図

戦前まで古墳の西側で御崎神社の奉納角力(相撲)が行われていた。昭和の初め頃までは墳頂に4本の大松があったが、今は1本だけが残る。

Img_1870説明板

Img_1874 ギリギリ山古墳(角力取山古墳の前)

もとは総社市西郡山田上にあり、県道建設のため発掘された全長約30mの6世紀半ば築造の円墳で、横穴式石室が移築復元されている。天井石は失われている。

Img_1877 金毘羅石灯籠

ここからは山陽道を行く。

Img_1882 山手郷土館 《地図

江戸末期に建築という虫籠窓の商家、旧友野家住宅。現在も開館しているのだろうか?

Img_1887 吉備考古館(御崎神社境内)

1943年開館の古い歴史を持つ資料館。縄文、弥生土器、陶棺、石斧(せきふ)など吉備路を中心に出土した考古資料を展示しているそうだが、ここも開館している感じではない。

Img_1893 御崎(おんざき)神社

窪屋郡郡家(こおりや)跡で、中国道(山陽道)には津坂駅があった。仁徳天皇の妃の黒媛は窪屋郡司の娘という。

Img_1886 説明板

Img_1890 石殿

右が仁徳天皇で、左が黒媛(日売)を祀るそうだ。

Img_1896 (山陽道)一里塚跡 【ル-ト地図】の③

このあたりは「一里松」という地名。

Img_1897 説明板

Img_1898 旧家

Img_1903 家並み

Img_1906 旧家

Img_1907 金毘羅石灯籠・小石仏

Img_1913 山田池

この先で県道270号に合流し、持坂を上る。

Img_1919_2 持坂上から左に山陽道は続くが、ここで折り返し総社市街へと向かう。左は「清音ふるさとふれあい広場」。

Img_1926 持坂を下って総社市街地へ 【ル-ト地図】の④

Img_1935まちかど郷土館

明治43年に建築された旧総社警察署の建物で、総社市内で現存する唯一の明治洋風建築。

Img_1942 塩屋跡 《地図

国学者で歌人の平賀元義と親交のあった豪商の堀安道の「志保屋」(塩屋)跡。弟の和平は家業の傍ら県下洋画壇の先駆者となって活躍した。

Img_1951総社宮 【ル-ト地図】の⑤

Img_1952 説明板

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