吉備路②
2011年1月24日
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【ル-ト地図】
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鯉山コミュニティハウスが本陣跡
なまこ壁・格子・うだつ(左端)・蔵造りの旧家
ここは古来の交通の要衝地。境内には大峯山三十三度供養塔(明和4年(1767))、大乗妙典供養塔(文化2年(1805))などがある。
明治43年に明治天皇が軍事訓練観閲で、この地を訪れたそうだ。
鯉喰神社 《地図》
「温羅(うら)伝説」の地
県道270号を上って行く。西国は馬より牛だ。
全長350~360mの日本で4番目の規模の前方後円墳。墳丘に上れる古墳としては最大。周囲に6基の陪塚を従えた吉備国の王の墓か。右が後円部。
神社の周辺に石棺の蓋の残片らしきものもある。
崩れかかっているようだ。
千足装飾古墳(陪塚5号墳) 《地図》
横穴式石室内に直弧文の刻まれた石障(玄室内部四方に加工した板石をめぐらした埋葬施設)があるそうだ。
すぐ先の左側に6号陪塚がある。
「従是南西新庄村上分」「従是東新庄村下分」
道標の立つ三叉路 《地図》
「左いなり道」「従是五十二丁」、どこの稲荷社のことなのか?
吉備風土記の丘案内図
礎石が残っている。
全長約100m、6世紀後半頃の築造の前方後円墳。仁徳天皇の妃の黒媛の墓という伝承もあるが、時代が合わない。
松井の井戸(手前) 《地図》
「むすびあぐる松井の水は底済み うつるは君が千代のかげかも」 藤原茂明
「常盤なる松井の水をむすぶ手の 雫ごとにぞ千代は見えける」 藤原資実
池の向うに旧山手村役場(移築復元)。
幕末から明治初頭の建築で、昭和43年まで山手村役場として使用されていた。
幕末頃の建築で、岡山市沼の山陽道沿いの茶屋だった建物。
備中国分寺 【ル-ト地図】の7
中門跡から吉備路のシンボルの五重塔(文政から弘化年中の再建)
吉備路自転車路(「日本の道100選」)から振り返る。
全長約285mの日本で9番目の規模の前方後円墳。右が後円部。
角力取山古墳 《地図》
戦前まで古墳の西側で御崎神社の奉納角力(相撲)が行われていた。昭和の初め頃までは墳頂に4本の大松があったが、今は1本だけが残る。
もとは総社市西郡山田上にあり、県道建設のため発掘された全長約30mの6世紀半ば築造の円墳で、横穴式石室が移築復元されている。天井石は失われている。
ここからは山陽道を行く。
江戸末期に建築という虫籠窓の商家、旧友野家住宅。現在も開館しているのだろうか?
1943年開館の古い歴史を持つ資料館。縄文、弥生土器、陶棺、石斧(せきふ)など吉備路を中心に出土した考古資料を展示しているそうだが、ここも開館している感じではない。
窪屋郡郡家(こおりや)跡で、中国道(山陽道)には津坂駅があった。仁徳天皇の妃の黒媛は窪屋郡司の娘という。
右が仁徳天皇で、左が黒媛(日売)を祀るそうだ。
このあたりは「一里松」という地名。
この先で県道270号に合流し、持坂を上る。
持坂上から左に山陽道は続くが、ここで折り返し総社市街へと向かう。左は「清音ふるさとふれあい広場」。
明治43年に建築された旧総社警察署の建物で、総社市内で現存する唯一の明治洋風建築。
塩屋跡 《地図》
国学者で歌人の平賀元義と親交のあった豪商の堀安道の「志保屋」(塩屋)跡。弟の和平は家業の傍ら県下洋画壇の先駆者となって活躍した。
総社宮 【ル-ト地図】の10
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