牛窓往来②
2011年1月26日
岡山駅(JR赤穂線)→西大寺駅 バス→宿毛バス停・・・大師堂・岡山県孤児院発祥の地・石井十次顕彰碑・・・大池・・・(瀬戸内市)・・・弘法寺仁王門・・・東寿院・・遍明院・・弘法寺・・・狩野千手坂・・・疫神社・・・御霊宮・・・海遊文化館・・・しおまち唐琴通り・本蓮寺・・旧牛窓郵便局・・牛窓天神社・・道路元標跡・・金刀比羅神社・・牛窓文化館・御茶屋跡・・御茶屋井戸・・五香宮・・牛窓燈籠堂・えびす宮・ともづな石・・番所跡・・瀬戸内きらり館・・・札場跡・牛窓バス停→西大寺駅→岡山駅
【ル-ト地図】
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大師堂・岡山県孤児院発祥の地 《地図》
隣の空き地に石井十次顕彰碑が立っている。
大池 《地図》
右に県道を進んで弘法寺へ寄る。
弘法寺山門 《地図》
県道を挟んだ東寿院、遍明院の上に弘法寺がある。
昭和42年の火災で本堂・普賢堂・鐘楼・多宝塔などが焼失し、今も再建されないまま荒れて寂れ、諸行無常の感が漂っている感じで気に入った。明治初年までは18もの塔頭があったという。正面奥に常行堂・御影堂、道を挟んだ左側に日吉神社・千次神社が残っている。
日吉神社は神仏混淆時代の弘法寺の鎮守社。石橋下の水は澱んで濁り、ここも荒廃の一途をたどっているか。
下って県道28号に出て、牛窓町の中心部へ入って行くのだが、この先で道を間違え、だいぶ北方向へ進んでしまった。人通りもなく困っていたら巡回中のパトカーが通りかかった。手を挙げて止めたら不審者を見るような目つきで面倒臭そうに応対された。道を聞いてもはっきりせず、ろくに道案内もできない警官2人だった。きっと巡回中でなくドライブ中だったのだろう。
江戸時代に疫病が流行した際に、牛窓神社の境内に牛頭天王の祠を祀り悪疫退散を祈願した。これが疫神社の起こりで、のちにまた疫病に襲われた紺浦では、牛窓神社境内から当地に移したそうだ。「オヤクジンサマ」と呼ばれている。
独特なメーキャップ、典雅な所作、奇妙な口上、囃し方など、その意味はまったく不明だそうだ。朝鮮通信使の影響を受けた踊りとの説もある。江戸時代の朝鮮通信使は、釜山(海路)→対馬→赤間関(下関)→瀬戸内海→大坂(水路)・淀川→淀(陸路)→京都→東海道→中山道→朝鮮人街道→中山道→垂井宿→美濃路→大垣→名古屋・熱田・東海道→江戸のルートを進んだ。
御霊宮(社) 《地図》
通称を「オゴリョウサマ」
背後に本蓮寺の三重塔
「唐琴の瀬戸」と呼ばれる海峡部に沿った、関町から東町(関町・西町・本町・東町)にかけての町並みで、港町として栄えた江戸時代から昭和30年頃の面影を残しているが、廃業した店舗や空き家が目立つ。『牛窓の憂愁』(リンク切れ)によると、「唐琴(からこと)」は神功皇后の遠征伝説からきているそうだ。
社殿の背後は全長約85mの前方後円墳の牛窓天神山古墳
菅原道真が詠んだ歌に「唐琴の瀬(迫)戸」が出てくる。
正面左が前島、正面が黒島、その間の奥に小豆島。大宰府へ配流される途中の菅原道真が、若きに日に国司として赴任したことのある讃岐国方向を眺め涙したという。
元禄8年(1695)津田永忠の指揮でわずか10ヶ月で築いた、陸から海へ細長く突き出して構築した堤。波よけや、船舶の積み荷の上げ下ろしなどに用いる。津田永忠には昨日の神崎水門の所でも出会った。
『日本の夕日百選』の眺めだが、夕刻までにはまだ時間がある。『牛窓の夕日』
残念ながらとっくに廃業してしまったようだ。
後方は高祖酒造
昔から城山と言われている高台で、島山左馬丞が山城を構えていたともいう。
牛窓文化館(左)は大正4年に牛窓銀行本店として建てられ、後に中国銀行牛窓支店として昭和55年まで使われていた。右は朝鮮通信使を接待した御茶屋跡(建物は現存せず)。
朝鮮通信使用に掘られた井戸で、今もなお水を湛える現役の井戸。
祭神は住吉大神、神功皇后など。
牛窓の地名由来伝説:「神功皇后の乗った船が大和へ帰還の途中、牛窓の瀬戸を通過する際、大きな牛鬼が行く手をはばんだ。そこへ住吉大神が現れて、牛鬼の角を持ち投げ倒した。牛が転んだところから、以来この地は「牛転(うしまろび)」と呼ばれ、それが訛って「牛窓」になったという」 随分と無理のありそうな話だが。その他、地名の由来には諸説あり。
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