熊野古道(紀伊路⑤ 川端王子→藤白王子)
2011年2月24日
布施屋駅(JR阪和線)・・・川端王子跡・・・小栗踏切・・・小栗橋・・・宮井橋・・・旧中筋家住宅・・・和佐王子跡・・和佐大八郎の墓・・・役行者祠・・・矢田峠・・・(県道9号)・・・平緒王子跡・・・(小栗橋・県道13号)・・・(和歌山電鉄貴志川線)・・・伊太祁曽神社・・・六地蔵・・・須佐神社・・・奈久智王子跡①・・・地蔵祠・・(阪和自動車道)・・・武内神社・・・新池・・・奈久智王子跡②・・・地蔵祠・・・四つ石地蔵・・・六ケ橋(亀ノ川)・・・光明寺・・・県道136号・松坂王子跡・・・県道136号・・石畳道・・県道136号・クモ池・・徳本名号塔・・・汐見峠・・呼上地蔵・・・(県道18号)・・・松代王子跡・・・蓮花寺・・・菩提房王子跡・・・小中地蔵堂・・・浄土寺(日限地蔵尊)・・如来寺・・・熊野一の鳥居跡・・・祓戸王子跡・・・鈴木屋敷・・・藤白王子(藤白神社)・・・(JR紀勢線)・・・西法寺・・・海南駅(紀勢線)
今回の熊野古道の紀伊路歩きの最終日だ。時々雨がぱらつく下を矢田峠、汐見峠を越え(いずれも峠というほどの高さはないが)、五体王子の藤白神社まで歩く。この先は藤白坂の長い上りとなるが、それは次回の楽しみとしよう。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
藤原定家の『熊野御幸記』に記述はない。布施屋の渡し場ができた後に設けられた王子のようだ。高積神社に合祀されている。
案内に従って小栗踏切を渡り小栗橋へ行ってみたが、小さな流れの上のガードレールの橋だった。小栗判官の由来話でもあるのだろうか?
江戸末期の庄屋屋敷
土・日・祝日のみの公開で母家へは入れず。
和佐王子跡 《地図》
ここも高積神社に合祀されている。すぐ先に和佐大八郎の墓がある。
1日で矢を8000本以上も射通しすれば肩はいかれてしまったろうに。今ならギネスブックものだが。
矢田峠 《地図》
右上に石仏2体と石塔?がある。
ガードレールに(熊野古道→)の標識と、路面にも導き石があるが、ここは左の道を進む。徳本上人名号碑(左手のフェンス内?)があるようだが気づかなかった。
平尾の都麻津比売(つまつひめ)神社に合祀。NHKTVの『街道てくてく旅 熊野古道』を見ていたという近所のおばさんとしばし談笑して小休憩した。
和歌山電鉄貴志川線を越える。《地図》
終点の貴志駅には三毛猫のたま駅長が勤務しているが、11歳の高齢で日中も居眠りをしている時が多いそうだ。わざわざ見に行って安眠を妨げることもあるまい。
太鼓橋から工事中の拝殿。
今は亡き「おミズ」こと水原弘と、水戸黄門を卒業した由美かおるの40年以上前の懐かしい看板の脇を少し上る。
伊太祁曽神社に合祀されている。武内神社の先(説明板②の薬勝寺村付近)に王子跡②がある。
武内神社 《地図》
5代の天皇に仕え、300年以上も生きたという武内宿禰(たけうちのすくね)を祀る。
武内宿禰にも赤ん坊の時があったのだ。300歳以上まで生きたというから、どうも老人の姿しか浮かんでこない。紀州徳川家で子女が生まれた時は、長寿にあやかりこの井戸の水が産湯に使われたそうだ。
「向い山」の竹藪の丘陵地は重機で崩されている。ここを左に入った竹藪の中に奈久智王子跡②の小祠がある。街道はこの手前を右にカーブして行く。
倒れた地蔵が4体が痛ましい。もともと寝ているのかも。新しい花が供えられている。この細道を少し上る。
奈久智王子跡の小祠② 《地図》
地元では王子権現と呼んでいたという、小祠は石囲いの中だが今や崩壊寸前、いずれ重機で破壊され跡方もなくなってしまうのか。
旧道を右に進むと古墳の石室のような中に地蔵が立っている。ここにも花が供えられている。
しばらく進むと多田集落の手前に、ちゃんと道標・案内標識があった。
手前の金網フェンス内に礎石らしき石が2つ置いてある。
説明板には千光寺の礎石を集めて祀ったとある。礎石から造ったということではないようだ。
【ル-ト地図】はここで右折しているが間違いで直進する。
矢印従い右に行くと県道に突き当たる。その向い側が松坂王子跡。
且来(あっそ)八幡神社に合祀。説明板の左は地蔵の小祠。
県道の改修工事でわずかだけ残された。
クモ(蜘蛛)池 《地図》
日本書紀の神武天皇即位前紀に「六月乙未朔丁巳軍至名草邑則誅名草戸畔者【戸畔此云妬鼙】」とある。この池あたりで、神武天皇軍が先住民の首長の名草戸畔(なぐさとべ・土地の豪族の土蜘蛛)の軍勢と戦い討ち取ったという伝承がある。土蜘蛛とは天皇に恭順をしめさなかった土豪の蔑称で、中央に従わない先住民たちを鬼とか化け物と呼んで侵略して行く、汚い常套手段だ。また、「戸畔」は「戸のあたりにいる女」で、シャーマンの女性首長を指すともいう。さらに名草戸畔は「古代紀国の女王」だったという伝承もあるそうだ。
クモ池の畔にも大きな徳本上人名号塔が立っている。
汐見峠から下る。峠というほどの高さもなく、汐見の由来となった紀伊水道の眺望も開けず、いつの間にか通り越してしまう。
安政の大地震の時、人々を峠へ呼び上げて救ったという地蔵 さん。台座は道標になっている。 もとはもっと峠近くにあったが、県道工事の際にここに移された。
ここを左に上る。本来の王子社は街道沿いにあったらしい。現在は春日神社に合祀。藤原定家はここで、子供を抱いた盲目の女性に出会っていて、『御幸記』に「盲女懐子あり」とのメモ書きを記している。熊野権現は「信・不信を選ばず、浄・不浄を嫌わず」で、女性、障害者などあらゆる人を分け隔てなく受け入れていた証しだろう。
ここは春日神社の境内地。
蓮花寺に沿って進む。《地図》
藤原定家の『熊野御幸記』にも見える王子だが、古い時期に廃されたようだ。
信仰を集めているようで参拝者が多い。
鼻筋の通ったイケメン風地蔵さんだ。
「ひぎりさん」で親しまれている寺。本尊は阿弥陀如来。
左に「大鳥居遺蹟」の石柱が立つ。
「祓戸神社之趾」碑が立つ。(大)鳥居神社とも呼ばれ、熊野の聖域の入口として、垢離を搔いて(取って)心身を清めた場所だった。今は藤白神社に合祀されている。
右は鈴木屋敷跡
ここが全国の鈴木姓のルーツ・元祖・本家・元締め。
正面は義経弓掛松の何代目か。
復元・整備計画が進められているそうだ。
藤白神社・藤白王子跡
九十九王子の中でも別格の五体王子の一つ。楠の大木が何本もそびえている。
右から阿弥陀如来・薬師如来・千手観音
有間皇子神社
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