熊野古道(紀伊路① 八軒家浜→窪津王子→境王子)
2011年2月20日
天満橋駅(地下鉄谷町線)・・・八軒家浜・・・八軒家船着場跡・・・熊野街道入口・・・窪津王子跡(坐摩神社行宮)・・・日限地蔵院・・・釣鐘屋敷跡・・・御祓筋(熊野街道)・・・中大江公園・・・(中央大通り)・・・太閤下水跡・・・坂口王子伝承地(朝日神明社跡・南大江公園)・・・榎木大明神・・・(谷町筋)・・・暗越奈良街道分岐・・・(長堀通り)・・・郡戸王子跡(高津宮)・・・谷町九丁目駅(地下鉄千日前線)・・・上宮高校・・上野王子跡・・・四天王寺(熊野権現礼拝石)・・・庚申街道・・熊野街道交差地点・・・超願寺・・・庚申堂・・・清水地蔵・清水井戸・・・おはぐろ地蔵・・・法界地蔵・・・天王寺駅・・・あべの筋(府道30号)・・・松虫交差点・旧道・・・安倍晴明神社・・・阿倍王子神社・・・経塚跡・・・源正寺・・・姫松交差点・・旧道・・・大阪府公文書館・・・万代池・・・(南海高野線)・・・宝泉寺・・・池田屋味噌店・・・住吉大社・・・哀愍寺・・・龍の橋・・・津守王子跡(津守廃寺跡・墨江小学校)・・・(南海高野線)・・・止止呂支比売命神社・・・安楽寺・極楽寺・・・農神社・・・遠里小野橋(大和川)・・・浅香山駅(南海高野線)・・・大阪刑務所・・・境王子跡・・・方違神社・・・反正天皇陵・・・天王古墳・・・鈴山古墳・・・紅谷庵・・・堺東駅(南海高野線)
熊野三山の本宮大社、速玉大社、那智大社への信仰の道、熊野古道を歩く。まずは京から大阪、田辺への紀伊路をたどり、中辺路に入り熊野本宮をめざす。京と大阪の間は東海道、京街道(東海道五十七次)で歩いているので、大阪天満橋そばの八軒家浜を出発地点とした。中世の熊野詣の公式ルートの紀伊路、中辺路は熊野三山へのいわば表街道だ。
『梁塵秘抄』には、「熊野へ参るには、紀路(きじ)と伊勢路のどれ近し、どれ遠し、広大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず」の歌がある。まあ四国遍路道に比べれば、慈悲の道かはいざ知らずだが、遠からずだろう。九十九王子跡を道しるべ、チェックポイントにしてあちこちと寄り道しながら進もう。熊野本宮へたどり着くのは何時になることやら。
*参考:『歴史街道ウォーキングマップ(熊野街道)』(大阪府)・『和歌山県街道マップ』(和歌山県観光協会)・『その他の図書類』(熊野古道関連)
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
現在は観光船が発着し、川沿いに遊歩道ができ、川の駅「はちけんや」もオープンしている。
永田屋昆布店の右前に碑が立つ。江戸時代前は渡辺之津・窪津と呼ばれていた。
この御祓筋を南下するのだが、まずは一筋西側の窪津王子跡に寄らねばなるまい。横断歩道の左側に「熊野かいどう」碑が立っている。御祓筋とは熊野詣の人々が窪津王子でお祓いを受け出発したことによる名称というのが地元の伝承だそうだ。
窪津王子(別名を渡辺王子・大江王子)跡(坐摩神社行宮) 【ル-ト地図】の2
京から淀川を船で下り、最初に参詣した第一王子の旧鎮座地。(九十九)王子とは熊野権現の化身として、熊野詣の巡礼者を守護する御子神を祀った社で、各種の儀式を行った。また熊野権現を遥拝したともいい、参詣道中の道しるべ、休憩所としての役割も担っていた。現在、窪津王子は四天王寺の西南、茶臼山の堀越神社の摂社の「熊野第一王子之宮」に祀られている。
新羅遠征からの帰途、神功皇后が腰かけて休息したという、「鎮座石」が坐摩神社行宮社殿前にある。
明治3年まで時報を告げていた鐘。屋敷は間口7間、奥行き13間4尺の建物で鐘楼脇に12畳の座敷があったという。
「大坂天満八軒家から0.5km」とある。大阪市内の熊野街道沿いにはこの道標が数多く立っていて目安になる。
坂口王子伝承地(朝日神明社跡・南大江公園) 《地図》
今は公園の西側に狸坂大明神の小社が祀られている。
榎木大明神 《地図》
ここが坂口王子跡、一里塚跡ともいう。手前を左折する。
暗越奈良街道分岐 《地図》
熊野街道はこの先で右折し南下する。暗越奈良街道は直進。去年の12月にここを歩いた時はちょうどクリスマス寒波の到来で寒かったが、今日は歩くのには快適な陽気だ。
空堀ど~り商店街を右折し、細い道に入る。《地図》
郡戸(こうづ)王子が合祀されているという高津宮(こうづぐう)
このあたりが郡戸王子跡とも、街道の東の仁徳天皇の高津宮(高津高校あたり)との伝承もある。
上之宮神社跡地で、上之宮台ハイツ入口下に古い「上宮之址碑」が立っている。現在は大江神社に合祀されている。左側には生田花朝の石碑と句碑が並んでいる。街道からは少し離れ過ぎているような気もするが。
南大門をくぐり、庚申街道を南下し、竜田越奈良街道と交差して行く。
竹本義太夫の墓(超願寺)
ちなみに近松門左衛門の墓は熊野街道の西側の谷町8丁目にあるようだが見逃した。《地図》
庚申街道・庚申堂(右)
庚申堂
本尊の青面金剛童子像は秘仏。
庚申の縁日の日に北を向いて食べるという、「北向きこんにゃく」を食べてみたいものだ。
清水地蔵堂・清水井戸(右) 《地図》
ここを左折する。
いつ頃の作かは不明という。
もとは崖上からの墳井で、四天王寺名水の一つだったという。
左がおはぐろ地蔵 だろう。どんな由来があるのか? 下部は道標になっているようだ。
法界地蔵(安政4年(1857))(左) 《地図》
諸願を成就させてくれる地蔵さんということか。
右折し「あべの筋」に出て南下する。
阪堺電軌上町線が行き交うあべの筋
地名・駅名由来の「松虫塚」が、松虫停留場の西南約300mにあるそうだ。
安倍晴明産湯の井跡(左)・安倍晴明誕生地碑(中・文政年間の建立)・鎮め(孕み)石(右・古代の船の錨(いかり)で、「鎮める」から安産祈願の石として信仰されてきた)
陰陽師安倍晴明の母親、白狐の葛之葉姫
この先の葛葉稲荷神社でも葛之葉姫に出会うことになる。
パロディ落語の『天神山』
大阪市内に残る唯一の王子社。鳥居の下に①「阿倍王子旧跡」碑・左に②「もと熊野街道」碑
聖徳太子が一字一石経を埋めたとか、空海が写経を埋めたともいう経塚は消滅し、石柱のみがここ清明丘公園に移された。
経塚の説明板にもある北畠顕家の墓という大名塚があったことによる地名。現在、顕家の墓は北畠公園(阿倍野区王子町3丁目)にある。
姫松交差点の先で左に入る。
明治時代までは灌漑用池で、今は公園として整備されている。
「おかず味噌」を買いたかったが日曜は定休日でがっかり。
住吉大社反橋(太鼓橋)
建仁元年(1201)の後鳥羽上皇の4回目の熊野御幸に随行した藤原定家の『熊野御幸記』には、里神楽、相撲の奉納のあとで、和歌を披講したとある。
鴨による無農薬栽培の約600坪の田んぼ。誰が食べるのか?
ちぎり(十徳)地蔵尊(哀愍寺) 《地図》
地元では「ちぎりさん」と呼ぶそうだ。
津守王子跡・津守廃寺跡(墨江小学校あたり(左)) 【ル-ト地図】の5
津守王子の記載はない。
止止呂支比売命(とどろきひめみこと)神社 《地図》
津守王子が合祀されているというが、それを記すものは見当たらない。承久3年(1221)の後鳥羽上皇の熊野詣ではここに行宮をおき、若松御所と称した。境内に「後鳥羽上皇行宮址」碑が立っている。承久3年といえば後鳥羽上皇が承久の乱を起して敗れた年だ。
安楽寺 《地図》
正面の塀の前に道標。「右八尾街道 左阿倍野街道」とある。東方向から来た八尾街道が、ここで阿倍野街道(熊野街道)と合流し南下する。
向いは木造毘沙門天を安置する極楽寺。
雲上地蔵・白龍大神(右・大和川の土手上) 《地図》
明治2年の大和川洪水の犠牲者を供養。
左は南海高野線、右へ上流の遠里小野橋を渡って堺市へ入る。
位置については諸説あるようだ。
反正天皇陵(田出井山古墳) 《地図》
陪塚の天王古墳、鈴山古墳沿いを進む。
行基の開基という向泉寺が別当の向井神社の境内中央にあった巨木。向井神社は明治末年に方違神社に合祀された。
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