« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »

2011年4月27日 (水)

甲州街道(駒木野宿→小仏宿→小原宿→与瀬宿→吉野宿)

2011年4月22日

高尾駅(JR中央線)・・・国道20号・・・両界橋(浅川)・・・(中央線ガード)・・・西浅川交差点・旧道・・駒木野宿・・駒木野橋碑・・小仏関跡・・念珠坂・・・蛇滝口バス停・旅籠「ふぢや新兵衛跡」・蛇滝道標・・湯の花トンネル慰霊碑・・・蛇滝水行道場入口・・・峰尾豆腐店・・・常林寺・・・浅川国際マス釣場・・・木下沢橋(こげさわばし)・・・道標・・・(中央線ガード)・・・小仏宿・・・宝珠寺・・・小仏一里塚跡あたり(小仏峠登り口)・・・小仏峠(548m)・・・中峠茶屋跡あたり・送電鉄塔・・・車道・・・(中央自動車道)・・・美女谷温泉分岐・・・美女谷橋・・(中央自動車道)・・・馬頭観音・甲州街道道跡・・・底沢一里塚跡あたり・・・長久保架道橋(中央線)・・・底沢バス停・国道20号・・小原宿・小原の郷・本陣跡・・旅籠小松屋跡・・南無阿弥陀仏碑・・・旧道・・・(中央線)・・・えんどう坂・・・(相模湖駅)・・国道20号・・与瀬宿・・本陣跡・旧道・・・慈眼寺・・与瀬神社・・・与瀬一里塚跡・・・秋葉神社・・・丸一産業・・・板金工場・・・天奈橋(中央自動車道)・・・赤坂・・・(中央線)・・・蚕影山碑・二十三夜塔・・・小舟橋・・・吉野宿・高札場跡・・国道20号・・郷土資料館(旅籠ふじや跡)・本陣跡・・吉野橋(沢井橋)・・・旧道・・・国道20号・・・藤野駅(JR中央線)

  【ル-ト地図】(19.0km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5456 駒木野宿 《地図

宿場の面影は残らず、本陣跡・脇本陣跡なども分からず。左は駒木野病院。小仏関跡手前左に駒木野橋碑がある。

Img_5460 小仏関跡

戦国時代には小仏峠にあった。江戸時代に甲州街道が整備されるに伴いここに移された。

Img_5462 説明板

Img_5463_2 旅人は手形石(奥)に手形を置き、手付石(手前)に手をついて通行の許しを待ったそうだ。

Img_5465 念珠坂を下る。 【ル-ト地図】の①

今は緩い坂だが、昔は大変な急坂で念仏を唱えながら上ったのでこの坂名とか。

Img_5470 甲州街道念珠坂

ほかに青面金剛塔・南無阿弥陀仏碑などが坂の途中左側に並んでいる。

Img_5475 旅籠ふぢや新兵衛跡(蛇滝口バス停の所)

右端に蛇滝への道標が立つ。

Img_5478 「蛇滝まで八丁」

「上行講」という講を組んで、蛇滝で水行を行った人達が記念として立てたのだろう。

Img_5482 いのはな(湯の花)慰霊碑 《地図

昭和20年年8月5日12時20分頃、新宿発長野行の中央本線下り列車が湯の花トンネル付近で、米軍の戦闘機に銃撃された。2日の八王子空襲で線路に被害を受け、運転が再開されたばかりで、列車は長野、山梨の疎開地に向かう人で満員だった。死者は52名以上となり、列車銃撃事件としては日本最大の被害者を出した。

Img_5485_2 碑文

Img_5486現在の湯の花トンネル

当時は単線だった。

Img_5489 「するさし(摺差)のとうふ」の峰尾豆腐店は客が並んでいた。相当うまいのだろう。食べてみたかったがこれから小仏峠への上りだし、先も長いので止めといた。

Img_5495 浅川国際ます釣場

何が国際なのか?

小仏バス停あたりが小仏宿だが、民家がわずかにあるだけだ。

Img_5507_2 宝珠寺の「小仏のカゴノキ」(都天然記念物) 《地図

幹が鹿の子模様になることから「鹿子の木」と書いてこの名が付いたという。

Img_5532 案内図

Img_5511 小仏峠登り口

小仏一里塚跡あたり。ここから峠までは大した距離ではない。

Img_5515整備された道を一気に登る。

Img_5516_2 可憐な花も出迎えてくれるか。

Img_5521 小仏峠 【ル-ト地図】の②

武蔵国と相模国との境。かつて峠に1寸8分の小さな仏が安置されていたともいう。峠は広い平坦地になっていて茶屋跡などいろんな物で雑然とした感じだ。

Img_5520 峠の地蔵・庚申塔

昔この地に小仏関があった頃、道行く人の安全を願って立てられたという地蔵 。

Img_5522_2 峠から眺めはいまいちか。

Img_5523 三条実美歌碑(左)

「来てみれば こかひはた織り いとまなし 甲斐の旅路の 野のべやまのべ」

高尾山薬王院に詣でた時に詠んだ歌。当時は生糸が高騰し、「蚕飼い機織り」で賑わう様子を歌っている。

Img_5528 高尾山道標(寛政7年(1795))

Img_5539 クッションのいい道を下って行く。

Img_5544 中峠茶屋跡あたりの送電鉄塔

Img_5551車道に出るとあちこちに猿の姿が。ハイカーやドライバーが餌を与えるのだろうか。

Img_5554 下に中央線・上に中央自動車道

Img_5558 美女谷温泉分岐 《地図

おじいちゃん、おばあちゃんに手をひかれ、美女谷温泉に向かうのは照手姫のように愛らしい子だった。(としておこう)

甲州街道は左折し、再び中央高速をくぐる。

Img_5555 美女谷伝説「照手姫物語」

照手姫を美女谷の生まれとしている。各地に残る『小栗判官照手姫伝説』の一つ。

Img_5562 モノレールのような中央自動車道が頭上を通る。無機質な自動車の通過音が不気味に響く。昔の旅人なら恐れおののき、腰を抜かすか一目散に駈け出したことだろう。

Img_5563馬頭観音(右)の脇を上るのが本来の道だが、廃道となっている。 

Img_5567 説明板

ここを上った先に底沢一里塚があったようだ。

Img_5537 案内図

Img_5576 底沢バス停で国道20号に合流。《地図

Img_5585 小原の郷

資料館になっている。

Img_5597小原宿本陣地図

Img_5592 神奈川県下には東海道と甲州街道合わせて26軒の本陣があったが、建物が当時のまま残っているのはこの小原宿本陣だけだそうだ。

小原宿と次の与瀬宿は片道継立の宿で、甲州へは小原宿から吉野宿へ継ぎ、江戸方面には与瀬宿から小仏宿へと継いだそうだ。

Img_5591 説明板

Img_5598 旅籠小松屋跡

Img_5584 往時の小松屋(小原の郷に展示の写真)

ここに泊まれるのは裕福な者達だけだったか。

Img_5599 南無阿弥陀仏碑(右)

上部が欠けている。

Img_5601 「旅館ひらの」の看板前から右に旧道を上る。大きく北に迂回する感じの道になる。《地図

Img_5606 中央線を越えて下って行く。途中右にUターンするように「えんどう坂」を下る。

Img_5609 左のえんどう坂を下る。坂を拓いた「遠藤」さんの家が坂沿いにあるのか? 確認するのを忘れた。それとも「えんどう」には別な由来があるのか。

Img_5610下りはじめは石段 【ル-ト地図】の③

Img_5612 坂下方向

正面は中央線で相模湖駅の方へ下って行く。

国道20号に出ると与瀬宿となる。

Img_5618 与瀬宿本陣跡(右)を右折 《地図

建物は普通の民家になっている。木々に隠れて「明治天皇與瀬御小休所址碑」も立っている。鮎が名物の宿場だったそうだ。

Img_5620与瀬神社参道

Img_5621与瀬神社・慈眼寺

下は中央自動車道。

Img_5706地図の通りに「細い取り付け道をくぐり」、「砂利道」、「古道復活道」を行こうと思ったが、「細い取り付け道」が分からず進んでしまい、誰もが通る普通の道筋を行くことになった。この付近の道筋はちょっとややこしい。【ル-ト地図】の「与瀬一里塚跡」あたり参照のこと。 

Img_5639 復活した古道はここへ出てくる。ここを手前にちょっと上ると「与瀬一里塚跡」の標柱が立っている。《地図

Img_5638 与瀬一里塚跡 【ル-ト地図】の④

Img_5634_2 相模湖・勝瀬橋の眺めがいい。

Img_5640古道を進むと歩いてきた道(左)と合流する。合流点先に「甲州道中横道」の標柱が立っている。《地図

Img_5643秋葉神社は木の鳥居だけか? 道沿いには二十三夜塔・地蔵など。

Img_5652二十三夜塔・庚申塔・首の欠けた地蔵など。後ろに小祠もある。(「甲州古道 間宿橋沢」標柱の先)

Img_5661 板金店の先で左折し下って行く。《地図

Img_5663 天奈橋(中央自動車道)を渡る。

Img_5665 右に赤坂を下る。【ル-ト地図】の⑤

右に「甲州古道 赤坂」の標柱。

Img_5668 下に中央線が走る。

Img_5670すぐに車道に合流する。

Img_5673 甲州古道 椚戸(くぐと)」の標柱と自転車通行止めの標識。

古い街道の道筋は相模湖北岸を通って、ここを上って来たのだろうか。左が今下ってきた道。

Img_5676 蚕影山碑(右端)

このあたりは蚕影信仰が盛んだった。養蚕の神の蚕影神社が茨城県つくば市にある。

Img_5682 吉野宿高札場跡

Img_5683 急坂を下ると国道20号に出る。

Img_5690 郷土資料館

旅籠ふじ屋の後の養蚕のための建物で、組頭だった大房家から寄贈を受け資料館とした。

Img_5686_2 吉野宿本陣跡 《地図

吉野家は承久の乱(1221)で天皇方についたが、戦いに敗れて大和の吉野からこの地に移り住み、開拓したという。江戸末期は五階建てだった。(下の写真)

Img_5688 説明板

Img_5695 吉野橋から沢井川上流方向

昔は少し下流に架かっていて、大月の猿橋に似た造りで、「小猿橋」といった。

Img_5697 右に旧道に入る。 藤野中学校の先で国道20号に合流し、日連入口交差点を過ぎて藤野駅に出た。

 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2011年4月25日 (月)

甲州街道(八王子宿→高尾駅)

2011年4月18日

八王子駅(JR中央線)・・八王子宿・・大義寺・・八幡八雲神社・・浜街道(絹の道)分岐(八日町交差点)・・八日市宿跡碑・・禅東院(とうがらし地蔵)・・傳法院(水かけ地蔵)・・(中央線)・・念仏院(時の鐘)・天満宮・金剛院・・松姫通り・・信松院・・(中央線)・・産千代稲荷神社・大久保長安陣屋跡・・本郷横丁東交差点・国道20号・・笠間稲荷神社・・追分交差点(陣馬街道)・・八王子千人同心屋敷跡記念碑・・・了法寺・・・長房団地入口交差点・旧道・道標・・・国道20号・・長安寺・・・多摩御陵西交差点・旧道・・・国道20号・・熊野神社・・・高尾駅

  【ル-ト地図】(9.8km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5341 大義寺(だいぎじ) 《地図

鎌倉時代末期に「大元寺」として創建され、戦国時代に改称したと伝える。西側の通りは古くは「だいげんじ横町」と呼ばれていた古い川越道で、南は小田原に通じていた。南側の道は本郷村、横川村から八王子城下へ通じる街道だった。

Img_5344江戸時代の女流俳人、松原庵星布の墓(大義寺境内)

側面に句が刻まれている。竹の鼻一里塚跡の永福稲荷神社の芭蕉句碑はもと星布が立てたものという。

Img_5342 説明板

Img_5346 八幡八雲神社

両社で一社

Img_5348由緒略記

Img_5352八王子宿の家並み

茶舗

Img_5354 浜街道(絹の道)分岐(八日町交差点) 【ル-ト地図】の①

このあたりに高札場があったようだ。

Img_5356八日市宿跡碑 【ル-ト地図】の②

横山宿と並び八王子十五宿の中心だった。

Img_5357 説明板

Img_5358 とうがらし地蔵(禅東院)

目の前に沢山の辛そうな赤唐辛子をぶら下げられて、地蔵さんも血圧が上がってしまうか。由来は異なるが、日光御成道の文京区の正行寺、あきる野市にもある。 

Img_5359 縁起

Img_5365 水かけ地蔵(傳法院)

身代わり、子守の地蔵

Img_5371_2 時の鐘(念仏院) 《地図

鐘楼堂は昭和20年の八王子大空襲で焼失し、昭和29年に再建した。

Img_5368 説明板

Img_5389 松姫像(信松院門前) 《地図

武田氏の滅亡後、八王子に落ち延びて行く松姫。松姫は武田信玄の四女(五女・六女とも?)で、信松院の開基。母に似て美人の誉れが高かったという。

Img_5378 説明板

Img_5384 信松院

Img_5398 産千代稲荷神社・大久保長安陣屋跡 【ル-ト地図】の③

八王子城落城後の新八王子宿建設に関わり、八王子に陣屋をおいて、関東十八代官の頭として関東の統治を行った大久保石見守長安の屋敷地跡。

Img_5399 加島屋(本郷横丁東交差点北側)

Img_5403軒下の看板

Img_5406_2 なかの屋こんにゃく店

創業120年の蒟蒻(こんにゃく)、寒天の製造・販売店で、ところてん、あんみつ、味噌こんにゃくなどは店内で食べられる。

Img_5412 追分交差点 《地図

右が陣馬街道(案下道・甲州裏街道)・左が甲州街道(国道20号)

Img_5415八王子千人同心屋敷跡記念碑 【ル-ト地図】の④

このあたり一帯が屋敷跡で千人町にその名が残る。

Img_5416 説明板①

Img_5417 説明板②

千人同心が日光東照宮の火の番に往来した『千人同心日光道

長房団地入口交差点から右に旧道に入る。

Img_5431 道標 「右 高尾山 左 真覚寺 道」 《地図

ここから1kmほど南西の真覚寺の心字池は、江戸時代には春先に関八州から数万匹のヒキガエルが集まって鳴き声を競い、その様子は「蛙合戦」と呼ばれたと伝え、「芭蕉蛙塚」があるそうだ。《地図

Img_5433 道標の脇の石碑(昭和56年建立)

ここの枡形の道筋や「昭和二年新道建設時の甲州街道」・「至真覚寺」・「至高尾山」・俳句?・砂川屋・地蔵堂・まんじゅ屋・新角屋・道標(台座が今よりか高く立派)などが文字と絵図で刻まれている。

Img_5437 長安寺

大久保長安に縁がある寺か。屋根の上には葵の紋が2つついているそうだ。死後は罪人扱いとなったのに何故か?

Img_5440多摩御陵西交差点から右に旧道に入る。《地図

Img_5445 少しは旧道っぽい家並みが残る。

Img_5448 熊野神社 【ル-ト地図】の⑤

樹木の剪定作業で雑然とし騒音が激しく、参拝できる雰囲気ではなかった。樫の木と欅の木が合体(密着?)した巨木があるそうだ(正面の作業車の後ろか?) 「恋が成就する木」と呼ばれているとか。今更、恋でも鰯の頭でもあるまし、どうでもいいこったが。

まだ1時を過ぎたばかりで10kmも歩いていないが、小仏峠越えは次回とし、高尾駅から平日で空いている中央線で帰路に着いた。
 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2011年4月23日 (土)

甲州街道(府中宿→日野宿→八王子宿)

2011年4月16日

武蔵野台駅(京王線)・・・品川街道・・・(西武多摩川線)・・・庚申塔道標・・・不動尊交差点(甲州街道)・染屋不動尊・・・品川街道・・・常久一里塚跡・・・甲州街道・・・(京王線)・・・国府八幡宮参道・・・府中宿・・大国魂神社・・札の辻・高札場跡・問屋場跡・・番場公園・・鹿島坂上・下河原緑道・・高安寺・・弁慶坂・・弁慶橋跡・・棒屋の坂・・(京王線)・・・内藤家冠木門・・・本宿町交差点・国道20号合流・・・熊野神社・武蔵府中熊野神社古墳・・・(JR南武線)・・・獅子宿碑・・・常夜燈・・・関家かなどこ跡・・・谷保天満宮・天神坂・・・潤澤学舎跡・・・永福寺・・南養寺・・・矢川・五智如来祠・・・青柳福祉センター前交差点・・青柳稲荷神社・・・甲州古街道・・貝殻坂・・貝殻坂橋・・万願寺の渡し跡あたり・・・国道20号・・・日野橋交差点・奥多摩街道・・下和田坂・・・(根川緑道)・・・(新奥多摩街道)・・・錦町下水処理場・日野の渡し碑・馬頭観音・・・立日橋(多摩川)・・・市民の森・・高幡不動道標(川崎街道入口交差点)・・日野宿本陣跡・・問屋場・高札場跡・・八坂神社・・宝泉寺・・大坂・・飯綱大権現・坂下地蔵堂・・駅東交差点(JR中央線)・・大坂・・(中央自動車道)・・大坂西公園・・・国道20号合流・・・日野自動車工場・・・コニカミノルタ工場・・・高倉稲荷神社・・・(JR八高線)・大和田坂・・・大和田4丁目交差点・・旧道・・富士見橋・・・国道20号・大和田橋(浅川)・・北大通り・・・市立五中交差点・・・竹の鼻一里塚跡・永福稲荷神社・・・国道20号・・八王子宿・・市守神社・・八王子駅(JR中央線)

 【ル-ト地図】(21.4km)

 *『府中市の坂③』・『国立市の坂』・『立川市の坂』にも記事あり。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5089 庚申塔道標 《地図

Img_5091 左側面に「東 品川道 西 府中道 上車坂村」・右側面に「嘉永六丑年四月吉日 昭和三年三月改造」・正面は「庚申塔」

Img_5095 不動尊交差点

旧家の塀の右端に小祠

Img_5096 薬師如来?

Img_5094 染屋不動尊

左の堂に阿弥陀如来像(国重文)を安置するようだ。(所有者は上染屋八幡神社)
里見城主の里見義胤が新田義貞の挙兵に、この阿弥陀如来像を陣中の守護として捧げ、その霊験により分倍河原の合戦で鎌倉の北条軍を破り、建武の中興を成し遂げたという。

Img_5098 由来碑

Img_5097 「上染屋」地名由来碑

Img_5100 常久一里塚跡(7里) 【ル-ト地図】の①

ここは品川道で、江戸初期に整備された甲州古街道の道筋。次の本宿一里塚跡(8里)も旧甲州街道の南の日本電気工場の敷地内(日新町1丁目)にある。

Img_5101 説明板

Img_5108 国府八幡宮参道 《地図

鳥居と社殿の間を京王競馬場線が横切っている。

この先で府中宿(新宿(しんしゅく)・番場・本宿)に入るが、『府中市の坂③』で歩いているのでさぁ-と通り過ぎる。

Img_5118大国魂神社参道

Img_5120 札の辻 【ル-ト地図】の②

鎌倉街道と交差する交通の要衝で、「鍵屋の辻」とも呼ばれた。左が高札場跡、右が中久米店

Img_5121 説明板

Img_5124 高札場跡(復元)

Img_5123 説明板

Img_5122 中久米店

Img_5125荒物店

Img_5126 番場公園

番場宿はもとは南方のハケ沿いの甲州古街道にあった。

Img_5128 番場宿説明板

Img_5130 番場屋(料亭)

Img_5134 弁慶坂を下る。《地図

高安寺(左)に伝わる弁慶伝説に由来する坂名。

Img_5138 石橋供養塔(明治4年)と説明碑

ここに弁慶橋が架かっていたというが、川跡の痕跡は全くない。

Img_5145旧家

Img_5148 内藤家冠木門

府中宿の矢島本陣から移設したものという。

Img_5160 熊野神社・武蔵府中熊野神社古墳(本殿の後ろ) 《地図

Img_5154説明板

Img_5159武蔵府中熊野神社古墳(国史跡)

国内最大・最古の上円下方墳。前回訪れた時はブルーシートに覆われたままだったが、やっと復元整備された。

Img_5157 説明板

Img_5163 獅子宿碑

ここの佐藤家が、村上天皇から賜ったという獅子三基で谷保天満宮に獅子舞を奉納する際の稽古場になっていたことを記念する碑。

Img_5164_2 碑文

Img_5166 旧家(谷保交差点)

Img_5170 常夜灯(街道の北側)

Img_5172 関家かなどこ跡(左のドリーミーホール国立の所)

Img_5171 説明板

Img_5174 天神坂を下る。《地図

左は「野暮天」の谷保天満宮。坂下が「清水の立場茶屋跡」

Img_5177潤澤学舎跡(街道の北側)

Img_5185 矢川・五智如来の祠 《地図

Img_5189「五智如来」の左右にも文字が刻まれている。道標を兼ねていたのか?

Img_5186 説明板

Img_5195 この交差点を左に入って甲州古街道の道筋に出る。

左は浅間堂?

Img_5199 青柳稲荷神社 《地図

Img_5198 説明板

Img_5212 貝殻坂・貝殻坂橋 《地図

江戸時代初期の甲州古街道の道筋で、この坂を下って多摩川に出て、万願寺の渡し(慶安年間(1648~51)から貞享元年(1684))で渡り、万願寺一里塚を経て日野宿へ入っていた。

Img_5205 説明板

Img_5210 貝殻坂橋説明板

国道20号に戻り、日野橋交差点から奥多摩街道に入り、すぐ左折し下和田坂を下る。

Img_5217 下和田坂を下る。《地図

Img_5221 説明板

鏡のようで反射し、自分の姿が写り込んで読みにくい。無駄に税金を使って変な物を作るなよ。

Img_5223 根川緑道を横切る。

Img_5224 日野の渡し碑(左)・馬頭観音(右) 【ル-ト地図】の③

馬頭観音は大正と昭和のもの。

Img_5225 碑文

Img_5233 日野の渡し跡あたり

甲州街道は下流の青柳(国立市)付近から万願寺の渡しで多摩川を渡り、万願寺一里塚を経て日野宿に入っていた。貞享元年(1684)、青柳より上流の柴崎から日野の渡しで多摩川を渡り、日野宿に至る道筋に改変された。大正15年に日野橋が完成し渡し船は廃止された。

向うが日野橋で、その下流が万願寺の渡し跡あたりだろう。

Img_5235 多摩都市モノレールの下の立日橋を渡る。《地図

Img_5237 立日橋から多摩川下流方向

Img_5239 市民の森スポーツ公園で小休止

よく見ると登っているのは女の子の方が多い。

Img_5242 高幡不動道標(明治17年) 《地図

Img_5246 日野宿本陣佐藤家

Img_5251都内に残る唯一の本陣建築

Img_5247 説明板

Img_5256 問屋場・高札場跡(日野図書館)

Img_5262 八坂神社(右)

Img_5265 宝泉寺

持ち上げた時に感じる重さによって吉凶を占う、約36cmの馬頭観音の「持ち上げ観音」がある。

Img_5266 大坂を上る。 【ル-ト地図】の④

Img_5270 坂下地蔵堂 《地図

大坂の途中だが坂下とは? 坂は中央線で分断された。

Img_5273 坂下地蔵堂

旅人の休憩、宿泊所にもなっていた堂内は、なぜか子供たちで満杯だった。 堂内に銅造地蔵像を安置する。

Img_5272 説明板

Img_5277 大坂の続きを上る。《地図

線路に分断される前は、坂下地蔵堂前から左の駐輪場あたりへつながっていた。

Img_5285 日野自動車・コニカミノルタの工場などを見ながら、殺風景な道を行く。

Img_5295少しは疲れを癒してくれるか。まだそれほど疲れてもないが。

Img_5305 大和田坂を下って行く。《地図

大和田4丁目交差点の先で左に旧道に入る。

Img_5307 旧道 《地図

Img_5309 富士見橋を渡って、再び国道20号に合流すれば大和田橋に出る。

Img_5316大和田橋から浅川

かつては「大和田の渡し」で渡った。近藤勇も勝沼の戦いで威風堂々とここを渡った。だが「行きはよいよい帰りは恐い」となってしまった。

Img_5313 焼夷弾・弾痕説明板

Img_5314弾痕に設置したプレートだが、説明板を読んでないと何だか分からない。どうせなら弾の絵でも書いたらどうか。

Img_5315これも弾痕の色タイル。

大和田橋を渡り、街道は北大通りに入る。

Img_5319 五中交差点から左に入る。

Img_5321 竹の鼻一里塚跡・永福稲荷神社(右) 【ル-ト地図】の⑤

Img_5322 一里塚跡碑

Img_5323 説明板

Img_5328 芭蕉句碑(永福稲荷神社境内)

「蝶の飛ぶばかり野中の日影かな」 松原庵星布が建立した句碑を、松原庵九世が再建したもので、「日影塚の碑」と呼ばれている

永福稲荷神社は八王子市新町の鎮守。宝暦6年(1756)、八王子出身の力士八光山権五郎が再建し落慶の日に相撲を奉納したという。社殿の前には、八光山権五郎の大きな石像が立っている。

Img_5330 街道は永福稲荷神社の先で鉤型に右に曲がって行く。強い逆光でぼやけてしまった。

Img_5340 市守神社 《地図

Img_5331 説明板

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月19日 (火)

甲州街道(新宿追分→下・上高井戸宿→布田五宿→武蔵野台駅)

2011年4月14日

新宿駅・・・新宿追分・・・明治通り・・・甲州街道(国道20号)・・・(JR山手線)・・・(山手通り)・・・旗洗池跡・・・子育地蔵・・・牛窪地蔵・道供養碑・笹塚交差点(中野通り)・・・大原交差点(環七通り)・・・(玉川上水)・・・北向子育地蔵 ・大原稲荷神社・・・(井の頭線)・・・明治大学・塩硝蔵跡あたり・・築地本願寺和田堀廟所・・・真教寺・託法寺・善照寺・法照寺・栖岸院・永昌寺・龍泉寺・永泉寺坂上・下高井戸橋(玉川上水永泉寺緑地)・・(荒玉水道道路)・・・覚蔵寺・・・宗源寺・下高井戸宿本陣跡あたり・・鎌倉街道入口交差点・下高井戸一里塚跡・・上高井戸宿本陣跡あたり(高井戸陸橋(環八通り))・旧道・・・下山地蔵・大橋場の跡碑・・給田坂・・仙川(大川橋)・・仙川坂・・・国道20号・・・昌翁寺・・仙川一里塚跡・・・滝坂道合流地点・馬宿川口屋跡・旧道・旧滝坂・・・国道20号・・・金子のイチョウ・・・佐須街道合流地点・・・馬橋(野川)・・・旧甲州街道入口交差点・・・布田五宿・・常性寺・・蓮慶寺・・小島一里塚跡・・・常演寺・・・源正寺・・・西光寺・・・(中央自動車道)・・・飛田給薬師尊・・品川街道(品川道)・・・武蔵野台駅(京王線)

  【ル-ト地図】(21.5km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4908首都高速の下を行く甲州街道

往時の街道風情はまったくないが、松や杉並木の日よけ、風雨よけの代わりにはなるか。この屋根とは世田谷区との境の鎌倉街道入口交差点の下高井戸一里塚跡まで付き合うことになる。

Img_4912洗旗池碑 【ル-ト地図】の①

後三年の役の後、八幡太郎義家が白旗を洗ったという池跡。今は高知新聞社宅の洗旗荘の敷地内

Img_4910旗洗池跡説明板

Img_4918 子育地蔵(左) 《地図

うっかり通り過ぎそうになって気づいた。 ここには大ケヤキがあったそうだ。

Img_4917右が子育地蔵(貞享3年(1686)造立)か、 中央は「南無妙法蓮華経」の題目塔、左にも地蔵さん。 

Img_4914 説明板

Img_4920 牛窪地蔵・道供養碑 《地図

説明板には「道供養碑は中野通りの延長の鎌倉道に面して立てられていた」とあるが、鎌倉街道(中の道)は中野通りの西側を通り、延長を通っていないのでは? (十貫坂上交差点で交差するが)

Img_4921 説明板

Img_4922 牛窪地蔵(正徳元年(1711)造立)

この窪地に刑場があり、牛を使って股裂きの刑が行われ、牛窪の地名となったという。日本でも股裂きの刑があったのだろうか? 

Img_4926 由来碑

Img_4933玉川上水

四谷大木戸手前の水番所まで流れ、そこから先は木樋や石樋を用いた地下水道で、江戸市中へ分配されていた。

Img_4938 北向子育地蔵

右が大原稲荷神社 

Img_4937 大原稲荷神社 《地図

Img_4941 塩硝蔵跡あたり(右・明治大学)

甲州街道沿いの明治大学和泉校舎と築地本願寺和田堀廟所の敷地は江戸時代、幕府の鉄砲弾薬等の貯蔵地だった。説明板があるはずだが見当たらず。

築地本願寺和田堀廟所の先で、寺院が並ぶ通りに入る。

Img_4946 真教寺 《地図

民家っぽい感じの寺だ。麻布→浜町→(明暦の大火(振袖火事)で焼失)→築地→(関東大震災で焼失)→現地→(大空襲(昭和20年)で焼失)→再建という艱難辛苦の流転の寺。

Img_4948託法寺善照寺法照寺栖岸院永昌寺龍泉寺と並んでいる。

いずれも江戸市中から移転してきた寺。

Img_4951栖岸(せいがん)院

江戸時代には、住職が将軍に単独で拝謁のできる”独礼の寺格”を許されていた。

Img_4958 北向地蔵・六地蔵(龍泉寺)

北向地蔵は熱さましにご利益があるという。北を向いているので冷えるということか?

Img_4959 永泉寺坂 《地図

昔、永泉寺がここにあり、後に永昌寺と合併した。そこで永昌寺と龍泉寺の間の坂をこの名で呼ぶ。

Img_4961坂上の玉川上水永泉寺緑地

Img_4969 覚蔵寺

日蓮上人の作という鬼子母神像を安置する。

Img_4977 宗源寺 《地図

境内の不動堂はかつて高台にあったため、「高井堂」と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源となったとする説がある。右は樹齢350年というラカンマキ。

寺の左隣が下高井戸宿の本陣「富吉屋」跡、高札場跡で、道路の向い側が問屋場跡ともいうが、何の表示・説明板もない。宿業務は上・下高井戸両村が半月交替で分担していた。上高井戸宿本陣並木家「武蔵屋」は、この先環八通りとの交差点の北東角にあったというが、これも何の痕跡もない。

Img_4984 下高井戸一里塚跡(4里) 【ル-ト地図】の②

高速道路下に塚があったそうだ。ちなみに1里目は半蔵門前あたり、2里目は新宿追分あたり、3里目は渋谷区笹塚2-12付近のようだ。ここは鎌倉街道入口交差点で北に進めば鎌倉橋(神田川)から五日市街道の鎌倉橋バス停付近へと通じている。

Img_4983 説明板

Img_4987 環八通りの高井戸陸橋をくぐり、左に旧道に入る。

Img_4999 ①下山地蔵・②大橋場の跡碑(左) 《地図

①下山家にゆかりの地蔵のようだ。②碑の後ろを流れていた烏山川に架かる大橋があった。碑の前の道は下道と呼ばれた古道で、南へ延びていて烏山神社へ続いている。

Img_4991_2下山地蔵由来碑

細かくて読みづらい。

Img_5005 給田坂を下り大川橋(仙川)を渡り、仙川坂を上り調布市に入り国道20号に合流する。《地図

Img_5007昌翁寺

調布七福神の寿老人。

Img_5011 仙川一里塚跡碑(5里) 【ル-ト地図】の③

Img_5012 碑文

Img_5014 新旧滝坂

信号の先で旧滝坂が右へ分岐

Img_5017瀧坂旧道碑(左)

ここが「馬宿 川口屋」跡で、渋谷の道玄坂上から来た滝坂道の終点でもある。

Img_5019 滝坂を下る。 【ル-ト地図】の④

甲州街道が武蔵野段丘崖を上下する坂で、東上する通行の人々や物資の輸送に当たる馬方らに難所の一つとして数えられたという。この坂の名は、大雨の時、雨水が路上を滝のように流れ下ったことから付いたと言われる。八王子以東で甲州街道の旧観をとどめる唯一の貴重な場所『調布の古道・坂道・水路・橋』

わずかに往時の面影が残る所か。左に薬師如来と地蔵。

Img_5020 薬師如来と首の欠けた地蔵。

Img_5025 金子のイチョウ 《地図

ここはもと金子村で、鹿島屋の山岡家の敷地内。竹藪の向うにイチョウと稲荷の祠がある。

Img_5024 説明板

柴崎駅入口交差点で佐須街道が右から合流する。

Img_5029 馬橋から野川

Img_5030 旧甲州街道入口交差点から左に入る。《地図

Img_5033布田五宿(国領、下布田、上布田、下石原、上石原)の国領の家並み

電柱の右に庚申堂

Img_5032 庚申塔

Img_5041 一願地蔵堂(正面)・小橋の馬頭観音堂(右)(常性寺境内) 《地図

Img_5036 小橋の馬頭観音(文政7年(1824)造立)

現在の馬橋から西50mにあった小橋の「捨て場」にあったもの。

Img_5035 説明板

Img_5038 一願地蔵尊

Img_5045天神通り商店街を北に行けば布多天神社があるが、「調布市の坂③」で寄っているので遥拝のみ。《地図

Img_5047 小島一里塚跡(6里) 【ル-ト地図】の⑤

「えの木」駐車場は昭和40年頃まで塚上にあった「榎」からつけた名だろうか?

Img_5048 小島一里塚跡碑

Img_5050 説明板

Img_5051 旧家

今は無住のようだが?

Img_5054 「火の見下」バス停近くに確かに「火の見」がある。

Img_5058常演寺門前の地蔵 《地図

今日の暑さには打ってつけな、涼しげな格好の好々爺という風だ。

Img_5062 源正寺前の地蔵・庚申塔

開基の太田対馬守盛久は120歳まで生きたとか。

Img_5070 西光寺山門・奥に鐘楼付き仁王門 《地図

Img_5073 説明板

Img_5067 近藤勇像

山門の左側にいかめしく、深刻そうな顔をして座っている。近藤勇は上石原村の生まれで、野川公園(野水1)の南側に生家跡がある。『三鷹市の坂』に記載。

Img_5069 説明板

Img_5079 飛田給薬師尊 《地図

元仙台藩士の松前意仙は諸国遍歴の末、ここを生涯の地と定めて庵を結んだ。医業のかたわら仏道に志し、人々を救済するため石の薬師尊を刻んだ。薬師尊像完成の後の元禄15年(1702)、傍らに穴を掘り、その中に入って鉦を叩き経を唱えながら、そのまま入定(死去)したという。

Img_5082 説明板

Img_5081 行人塚

村人によって築かれた松前意仙の墓。昭和47年の塚の改修の際に遺骨が確認され、もとどおりに埋葬されたそうだ。

Img_5080 説明板

Img_5085 飛田給薬師尊の西側から品川街道(品川道・いかだ道)を進む。この道筋は江戸時代初期以前の甲州古街道で、次の常久一里塚(7里)は品川街道沿いにある。《地図

甲州街道が整備される江戸時代以前から武蔵の国府の府中と江戸の品川を結んでいて、大國魂神社の大祭に用いる清め水を品川沖から汲む禊祓式(みそぎはらえしき)に向かう神主たちや、奥多摩の材木を筏に組んで品川へ運んだ筏師たちが帰りに歩いた道でもあったという。

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月15日 (金)

甲州街道(日本橋→新宿追分)

2011年4月12日

東京駅・・・日本橋・・・呉服橋交差点・・・一石橋(日本橋川)・・・常盤橋(日本橋川)・常盤橋門跡・・・北町奉行所跡あたり・・・(JR山手線)・・・評定所・伝奏屋敷跡・・・大手町交差点・・・将門首塚・・・内堀通り・・・大手門・・・二重橋・・・祝田橋交差点・・・桜田門・・・三宅坂・・・半蔵門交差点・・・四谷見附跡・JR四ツ谷駅・・・津の守坂上・・・円通寺坂上・・・女夫坂上・・・大木戸坂上・四谷大木戸跡(四谷4丁目交差点)・水番所跡・内藤新宿記念碑・・・三遊亭円朝旧居跡(花園公園)・・・太宗寺・・・成覚寺・・正受院・・・花園神社・・・新宿追分(青梅街道分岐)・・・新宿駅

 甲州街道は江戸日本橋を起点に内藤新宿、府中、八王子から小仏峠を越え、甲府を経て下諏訪宿で中山道に合流する全長約208mの江戸五街道の一つ。
 はじめは日本橋から内藤新宿の新宿追分までの短い区間だが、人、車、交差点での信号待ちが多く大いに疲れた。早く多摩川を渡りたいものだ。

  【ル-ト地図】(12.6km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4758 一石(いちこく)橋 《地図

南北の橋詰に両後藤家があり、「五斗+五斗=一石」だとか。

Img_4762 説明板

Img_4774_2 「まよひ子のしるべ石」(安政4年(1857))(一石橋の南詰)

岡山城下の京橋(旭川)のたもとにもあった。それは明治時代に立てられたものだった。『牛窓往来

Img_4760 説明板

Img_4772 一石橋から常盤橋

これが明治10年に架け替えられた旧常盤橋とてっきり思っていたが、常盤橋門跡の間を抜けた所の橋が旧常盤橋だった。

Img_4765 日本銀行

1896年の竣工

Img_4771 常盤橋門跡

ここを抜けると今は歩行者専用の旧常盤橋常磐橋)があるのだ。

Img_4766 説明板

Img_4757 北町奉行所跡あたり 《地図

石碑があるというが見当たらず。ホテルシャングリラ内に移されているというが未確認。

Img_4799 周辺地図(下が北)

左上方に評定所・伝奏屋敷跡、右下方に平将門塚がある。

Img_4779評定所・伝奏屋敷跡 【ル-ト地図】の①

現在は「丸の内1-4計画工事」中。

甲州街道は大手町交差点で左折し、外堀通りを南下するが将門首塚へ寄り、内堀通りから皇居の堀沿いを進み、祝田橋交差点へ出た。ジョガーと観光客、花見客で皇居の周りはけっこうな人出だった。

Img_4786 将門首塚 【ル-ト地図】の②

将門の首級は都まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んで行き、数か所に落ちたとされる。その伝承地の一つ。この地は寛文年間(1661~72)には酒井雅楽頭の上屋敷の中庭で、歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末、伊達安芸、原田甲斐が殺害された所。

Img_4789 由来

Img_4793 説明板

Img_4797石塔婆と将門の墓ともいう石灯籠

Img_4796 石塔婆説明板

Img_4794 石灯籠説明板

Img_4802 大手門

Img_4807 二重橋と思っていたが、これは「正門石橋」で、この奥にある「正門鉄橋」が二重橋だった。《地図

Img_4810 桜田門

Img_4824 三宅坂 《地図

坂上近くの国立劇場あたりに三宅備前守の上屋敷があった。

Img_4827 半蔵門

天皇や各皇族の皇居への日常の出入り口で、一般人は通行不可。服部半蔵の子孫?の警備が厳重で近づけず。

Img_4836 四谷見附跡 【ル-ト地図】の③

左の石垣と右の石垣跡の間に高麗門があった。

Img_4831 説明板

Img_4832 復元図

Img_4833 明治4年の写真

Img_4838四谷大木戸跡あたり案内図

Img_4840四谷大木戸跡 【ル-ト地図】の④

木戸は寛政4年(1792)以降は撤去された。

Img_4847四谷大木戸跡碑(正面左)・水道碑記(右) 《地図

ここに水番所があった。

Photo「玉川堤の花」(歌川広重の『名所江戸百景』)

玉川上水の右は甲州街道の最初の宿場、内藤新宿の岡場所(遊女屋・女郎屋)。この当時には堤沿いにこれほどの桜並木はなかったそうだ。桜並木の左は高遠藩主内藤家下屋敷で、今の新宿御苑。この手前に水番所があり、木樋や石樋を用いた地下水道で江戸市中に配水された。

『名所江戸百景』は、安政2年(1855)の安政の大地震で被害を受けた江戸の街の復興を祈念した、世直しの意図もあったという。

Img_4846 説明板

Img_4843 内藤新宿開設三百年記念碑

新宿御苑(高遠藩主内藤家下屋敷跡)の入口そば

Photo_2「四ツ谷内藤新宿」(広重の『名所江戸百景』)

上の絵の甲州街道沿いの表から見た内藤新宿の家並みで、馬のケツからの大胆な構図が面白く痛快なケツ作だ。

Img_4851三遊亭円朝旧居跡(花園公園) 《地図

Img_4852 旧居跡碑と説明板

Img_4853 説明板

Img_4855江戸六地蔵の二番(太宗寺) 《地図

Img_4856 説明板

Img_4857 説明板

Img_4859三日月不動堂(右)・塩地蔵尊・稲荷社(太宗寺境内)

Img_4866 三日月不動尊

額の三日月がくっきりと浮かぶ。不動の前に新宿山の手七福神の布袋尊が座っているのか?

Img_4863説明板

Img_4860 塩地蔵

いぼ、おできにご利益があり、この塩をもらって帰り患部に塩を擦り込むと治るという。そして治ったお礼に塩を倍にして奉納するそうだ。 

Img_4867 閻魔堂

金網が張ってあり、大きいがちょっと可笑しみのある閻魔像、それに引き替え迫力満点の奪衣婆像の写真はうまく撮れず。『閻魔堂開扉の写真

Img_4874 閻魔像説明板

Img_4875 奪衣婆説明板

「亡者の着物をはぐ」=「客の着物、金品を剥ぐ」で、内藤新宿の岡場所の商売神として「しょうづか(正塚)の婆さん」と呼ばれ信仰されていたという。

Img_4876 成覚寺

内藤新宿の飯盛女の投げ込み寺だった。

Img_4881 子供合埋(ごうまい)碑

子供とは内藤新宿の岡場所の飯盛女(遊女・女郎)のこと。

Img_4880 説明板

Img_4879 旭地蔵(夜泣地蔵)・恋川春町の墓(右)

心中した男女(内藤新宿の遊女と客)らを供養するための旭地蔵と、江戸時代中期の戯作恋川春町の墓

Img_4877 説明板

Img_4886 奪衣婆(正受院

咳止めに霊験があり、治ると綿が奉納され、綿がかぶせられたことから「綿のおばば」とも呼ばれた。

Img_4885 説明板

 

Img_4890 花園神社 《地図

新宿の総鎮守社

Img_4892 浅間芸能神社

囲いには芸能人の名が並ぶ。願いが叶わず芸能界から消え去った面々もいるようだ。

Img_4895藤圭子歌碑

2013年8月22日に逝ってしまった。悲しいねえ。

Img_4896追分だんご」の先の新宿三丁目交差点が青梅街道との新宿追分 【ル-ト地図】の⑤

目当ての豆餅は残り1個、あとはばらばら適当にみやげに買って新宿駅から帰路につく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月12日 (火)

青梅街道⑤

2011年4月8日

箱根ヶ崎駅(JR八高線)・・・都道5号・・・宗安塚跡(岩蔵街道分岐点)・・・瑞穂松原交差点(新青梅街道合流点)・・・箱根ヶ崎西交差点(国道16号)・・・東善院・・・青梅新町境交差点・・新伝馬道・・・新田山公園(伝馬公園)・・・六道の辻跡あたり・・・庚申塔道標・馬頭観音道標(新町桜株交差点)・・・・東禅寺・・・原江戸道合流点あたり(御嶽神社入口交差点)・・・大井戸公園・・・御嶽神社・・・旧吉野家住宅・・・鈴法寺跡(鈴法寺跡前交差点)・・・大曲り跡あたり(野上交差点)・・・(都道63号)・・・道間公園・・・馬頭観音堂(師岡会館)・・・師岡の追分道標・・・六万部薬師堂・・・成木街道入口交差点・・・勝沼第一踏切(青梅線)・・・青梅宿・・宗徳寺・・宗建寺・・住吉神社・・薬師堂・・常保寺(猫地蔵)・・旧稲葉家住宅・・中武馬車鉄道森下駅跡・・金剛寺・・森下陣屋跡(熊野神社)・・裏宿町・七兵衛公園・・七兵衛通り・・青梅坂(小曽木街道)・・七兵衛通り・・・(青梅線)・・・七兵衛地蔵尊・・・英稲荷神社・・・青梅駅(JR青梅線)

  【ル-ト地図】(16.3km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4528 宗安塚跡 《地図

中世武士団の流れの村山家の先祖の名で、江戸時代には道標が2本立っていたそうだ。右に岩蔵街道(旧成木街道)が分岐する。上空で大きな音がした。見上げると横田基地へ帰る米軍機が低空を横切って行った。

Img_4539 新伝馬道分岐(右) 【ル-ト地図】の①

成木から八王子、小田原城下への古伝馬道を近世の初頭に吉野織部之助らが江戸へ向かう道に付け替え、ここで青梅街道に合流させた。新伝馬道を進む。

Img_4543 新田山公園(伝馬公園) 《地図

公園内で伝馬道は二股に分岐している(下の写真)。南へ分岐する伝馬道は古伝馬道で、真っすぐ進む道は新伝馬道古伝馬道は拝島→八王子の滝山城→小田原城下への道だった。江戸時代に入り吉野織部之助は、この古伝馬道をこの南にある原江戸道(旧江戸街道)に接続して、江戸城修築のため白壁の漆喰材料の成木の御用白土(石灰)を馬で運んだ。そのため「堊附(あくつけ)街道」とも呼ばれた。真っすぐ進む道が新伝馬道で、青梅街道に接続させ、ここでも成木石灰を運んだ。

Img_4552 新田公園内に残る伝馬道跡(江戸方向を見ている)

新伝馬道は直進し青梅街道に合流する。古伝馬道は右折して原江戸道と合流していた。

Img_4548_2 説明板

Img_4553 六道の辻跡? 《地図

青梅街道、古伝馬道、伊奈道が交わっていた辻で、一里塚があったというが、今はただの十字路で何の痕跡もない。また上の地図では古伝馬道はここでは交差せず、少し東側で交差している。一つ東側の交差点あたりかも。

Img_4557 井戸跡の小石柱が街道沿いにいくつも見られる。

慶長16年(1611)吉野氏の努力により、ここ新町地区に新田を開拓することになった。武蔵野で新田開拓をするには井戸を掘り水を確保することが必要で、井戸があちこちに掘られたのだろう。

Img_4561 庚申塔(文化14年(1817))・馬頭観音(新町桜株交差点) 《地図

庚申塔には「右ハ江戸道」、馬頭観音には「左ハ川越道」とあるそうだがすり減っていて確認できず。

Img_4567 東禅寺

吉野織部之助が開基。「鈴法寺」の扁額と観音堂は、明治の廃宗の際に東禅寺に移された。

Img_4570 原江戸道合流点あたり 《地図

交差点の向うに御嶽神社の御神燈。

Img_4574 新町の大井戸 《地図

東西約22m、南北約33m、深さ7mのすり鉢状で、掘られた時期は不明。地表から筒型井戸を掘る技術が一般化する以前の様式で、江戸時代以前から道行く人馬への水の供給場だったと推定される。羽村の「まいまいず井戸」を思い出した。

Img_4571 説明板

Img_4578御嶽神社

吉野織部之助が新町村開拓完成に伴い、大和国金峯山権現を勧請し御嶽大権現と称して村内鎮守として祀ったのが始まり。

Img_4585 旧名主吉野家住宅

Img_4586 奥座敷の祝い膳

江戸末期から明治中頃にかけて、個人の家ごとに行われる冠婚葬祭で使われる食器類を地域で共同使用するため、資産家の家や専用の建物(膳椀倉)で保管していたそうだ。

Img_4597 鈴法寺(れいほうじ)跡 【ル-ト地図】の②

正式には廓嶺山虚空院鈴法寺と称する、全国120ヶ寺の末寺を持つ虚無僧の普化宗の総本山の一つだった。もう一つは水戸街道の小金宿の一月寺。
下田街道沿いの龍源寺跡には虚無僧の墓がある。

Img_4593 説明板

Img_4594 歴代住職の墓が残るのみ。

ここ先の「大曲り」(野上交差点あたり)から北西に入って行くのが旧道だが道筋は消滅している。

Img_4611 馬頭観音堂(師岡会館) 《地図

この前の道が二日市場と呼ばれた市が立っていた所という。

Img_4621 師岡の追分道標(天明6年(1786)) 【ル-ト地図】の③

右が青梅街道の江戸方向、左は川越道。

Img_4620 「右 江戸道」「左 はんのふ 加王こゑ ミち」で、中央に「南無阿彌陀佛」

飯能・川越のこと。

Img_4628 つるべ井戸の先の交差点左に六万部薬師堂

Img_4623 六万部薬師堂 《地図

天正18年(1590)、師岡城(勝沼城)落城後、近隣で疫病がはやり、防除の祈祷と戦死者追福を祈願して、天寧寺8世正翁長達和尚が法華経六万部を読誦書写して創立したものと伝える。

Img_4624 説明板

青梅線の勝沼第一踏切を渡り青梅宿に入る。『ぶらり青梅宿』の「青梅宿さんぽ絵地図」・「青梅宿町屋めぐり」を参考にレトロな町並みをぶらつく。

Img_4633 はきもの店「ダイコクヤ」

Img_4637 織物工業組合旧試験場 《地図

Img_4639 旧家

Img_4643 宗徳寺の枝垂桜

青梅線の線路上に覆い被さるほどだ。

Img_4645 境内の桜の下では花見の宴で盛り上がっていた。

Img_4650中桝屋菓子舗

Img_4654青梅宿の商店街の町おこしの一環として作られた、昭和の古い映画の看板。市内には日本で最後の現役映画看板師が在住していて、平成5年頃からこの看板を描いた。平成20年、明星大学青梅校の学生たちが、青梅・奥多摩地域観光まちづくり実行委員会と連携し、商店のイメージに合わせた映画看板を作成した。この先の町並みにはレトロな映画看板が多く見られる。『昭和レトロ映画看板群

Img_4656 宗建寺 《地図

青梅七福神の毘沙門天。義賊の裏宿七兵衛の墓、江戸時代後期の国学者で詩人の根岸典則の墓がある。七兵衛さんにはこの後も何度か出会うことになる。

Img_4663 昭和幻燈館

Img_4664 住吉神社

旧青梅村の総鎮守

Img_4668 説明板

Img_4667 歌碑

Img_4666 説明板

Img_4673 赤塚不二夫記念館(左)・昭和レトロ商品博物館

Img_4677 キネマ通り

Img_4680 ほてい屋

Img_4682 柏倉洋品店

Img_4686 猫地蔵(常保寺) 《地図

昭和の中頃、青梅市内の無住寺院の土地処分に伴って引き取ったという。招き猫として造立されたのだろうか。世田谷の豪徳寺は招き猫発祥の地として有名だ。 

Img_4696 柳屋米店

母屋は明治時代のもので、店内には太い梁が通っている。

Img_4702 旧稲葉家住宅 《地図

青梅宿の町年寄を務めた家柄で、江戸時代後期の建築。

Img_4703 説明板

Img_4704 屋内

Img_4706 中武馬車鉄道の「森下駅」跡。「おかざき」はここの酒店の名。(稲葉家の西隣)

Img_4715 金剛寺

Img_4721 右奥は青梅の地名の由来となったという「将門誓いの梅」だが今は老衰期。将門伝説は、「青梅に入った将門は、馬の鞭として持っていた梅の枝を逆さにして金剛寺の庭に挿し「わが祈願叶うなら根づくべし、その暁には必ず一寺を以て建立奉るべし」と祈願した。やがて梅の枝は大きく成長し、春になると毎年美しい花を咲かせるようになった。しかし、梅の実は季節を過ぎても青々として熟することはなかった」というもの。

手前の樹齢150年の枝垂桜は数年前の大雪で太い枝が折れてしまったそうだ。

Img_4718 説明板

Img_4708 森下陣屋跡(熊野神社) 【ル-ト地図】の④

この前で街道は鉤型に曲がっていた。今は緩いカーブで曲がって裏宿に入って行く。正面左のシラカシ(白樫)は陣屋が置かれた折、鎮守として祀られた熊野神社の境内に植えられたものという。

Img_4709 説明板

Img_4729 七兵衛公園 《地図

義賊の裏宿七兵衛にちなむ公園。馬頭観音、庚申塔、地蔵石造などが集められて並んでいる。

Img_4731 説明板

Img_4732 七兵衛供養塔

Img_4734 供養碑

Img_4737 青梅坂 《地図

青梅街道の青梅坂下交差点から北に上る小曽木街道。

Img_4738 七兵衛通りを青梅駅へと向かう。

Img_4740 榎戸家

Img_4743 七兵衛地蔵堂 【ル-ト地図】の⑤

七兵衛さんは盗賊といいながら公園・供養塔・供養碑・通り・地蔵などにその名を残している。よほど人気があったのだろう。

Img_4747_2 由来

Img_4744 七兵衛地蔵

大正6年頃の作という小さな木彫り像。韋駄天の七兵衛さんだけに足腰、旅道中、交通安全にご利益があるそうだ。青梅マラソン参加の参拝者も多いそうだ。青梅マラソンは何度か走ったが知らなんだ。拝んでいればもっと速く走れたかも。

Img_4754 青梅駅地下道にも懐かしい映画看板がぎっしり。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月10日 (日)

青梅街道④

2011年4月6日

新小平駅(JR武蔵野線)・・・(鎌倉街道)・・・(府中街道)・・・(西武国分寺線)・・・小川寺・・小平神明宮・・・小川三叉路・・・日枝神社・・・青梅橋交差点・青梅橋跡(野火止用水)・東大和駅(西武拝島線)・・・桜街道・・・(多摩都市モノレール桜街道駅)・・・村山団地・・・榎交差点・・・伊奈平橋(残堀川)・・・上砂橋(残堀川)・・・残堀交差点・・・グリーンタウン南交差点・・・馬頭観音道標(武蔵村山高校バス停)・・・中原公園・・・一本榎の庚申塔・・・瑞穂石畑交差点(新青梅街道)・・・瑞穂第一小学校・・・稲荷社・旅籠関谷跡・・・日光街道・・・旧日光街道交差点・・・円福寺・・・箱根ヶ崎交差点(都道166号)・・・鎌倉街道・杉山稲荷神社・・・箱根ヶ崎駅(JR八高線)

  【ル-ト地図】(14.7km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4413 鎌倉街道交差点 【ル-ト地図】の①

左折すると玉川上水の鎌倉橋から五日市街道へと通じている。

Img_4411 説明板

Img_4421 旧名主小川家

旧家は前回に寄った小平ふるさと村に移築されている。

Img_4427 小川寺(しょうせんじ) 《地図

Img_4425 梵鐘

貞享3年(1686)に鋳造され、檀家57戸から寄進されたもの。宝暦13年(1763)に建立された鐘楼がその後、昭和37年に二天門の山門に改装された。それも老朽化して現在の山門(鐘楼)に交代した。この鐘楼は旧山門の部材で作られている。太平洋戦争の時に供出されたが、溶かされる寸前に命拾いをして元に戻ったという運のいい鐘。

Img_4423 説明板

Img_4432 道標(小平神明宮の前)

「是より 北山口 東江戸 道」 山口は所沢市の山口だろう。西武狭山線に下山口駅がある。正面はすり減っていて何が彫られていたか分からず。左側面は見るのを忘れた。

Img_4428 小平神明宮

Img_4429 由緒

Img_4436 小平上宿交差点(小川三叉路)

立川通り(砂川道)沿いの正面左は竹内家の大けやき

Img_4441 日枝神社 《地図

Img_4440 説明板

Img_4443 青梅橋跡 【ル-ト地図】の②

野火止用水に架かる橋だった。木の下の小祠に庚申塔、その左に青梅橋の橋柱の一部がある。西武拝島線をくぐると小平市から東大和市に入る。

Img_4444 説明板

Img_4445 庚申塔道標(安永5年(1776))・青梅橋の橋柱(昭和のもの)

庚申塔の右側面に「西 おうめみち 北山くちみち」・左側面に「東 江戸 南 八王子 道」とあるそうだ。

Img_4447 江戸時代の青梅橋あたり

Img_4454桜街道を北西に直進する。《地図

往時は千本桜と呼ばれた桜並木が街道の中央に4kmも続いていたという。右は森永乳業の工場。

Img_4455 多摩都市モノレールの桜街道駅をくぐる。

Img_4457 武蔵村山市に入り、村山団地を抜ける。

Img_4459 榎交差点 《地図

ここを直進し、細い道に入る。かつては榎が聳えていたのだろうか?

前の自転車に乗ったお兄ちゃんから「ダイヤモンドシティはどこですか?」と聞かれたが分からず。「イオンモールむさし村山ミュー」のことだろうか?

Img_4462 武蔵村山病院とイオンの間を行く。

このあたりの旧道は消滅している。昔は人家もない武蔵野の原野で、追はぎ、狐狸の類が出没するので、旅人は足早に通り過ぎたという。我もさっさ通り抜ける。

Img_4464残る原野もいずれ建物で埋め尽くされるか。

Img_4467 伊奈平橋から残堀川 《地図

名前のとおりこのあたりは堀だけ残る川か。

Img_4472 上砂橋を渡り北西に進み、三つ藤橋からの道と合流する。

Img_4475震災対策指定井戸

いざという時使えるようにメンテを怠るなよ。

Img_4478 グリーンタウン南交差点 《地図

青梅街道はこの先の経塚向公園の東で右折し北方向に進み一本榎へと続いていた。直進するのは原江戸道(旧江戸街道)で、米軍横田基地を横切り、江戸街道公園を通り、御岳神社の参道入口の交差点あたりで、再び青梅街道と合流していた。グリーンタウン武蔵村山内の青梅街道は消滅しているので、ここを右折して武蔵村山高校南バス停そばに移されている青梅街道と原江戸道の分岐にあったという馬頭観音道標から一本榎を目指す。

Img_4480 馬頭観音道標(明治44年)(グリーンタウン南交差点方向を見ている) 【ル-ト地図】の③

Img_4482 右側面に「右青梅道」・左側面に「左羽村道」

羽村道は原江戸道のことだろう。

Img_4486馬頭観音前を桜並木の遊歩道が横切っているが、今年の桜はあまりぱっとしない感じだ。まだ早いのか、東日本大震災、原発事故などで暗いこちらの気分を映しているのか。

Img_4496 一本榎の庚申塔 【ル-ト地図】の④

文化10年(1813)造立

この先の新青梅街道を横切って最初の十字路が二本榎があった所というが何の痕跡もない。

Img_4504「江戸街道」の標識(瑞穂一小前)

江戸に向かう道はすべて江戸街道となる。

Img_4505 旅籠関谷(関屋)跡(左) 《地図

ここは箱根ヶ崎宿の上宿で、石灰を運ぶ馬の継ぎ立て場だった。宿場の機能もあり天保12年(1841)には9軒の旅籠があったという。この先で旧日光街道に出て右折する。

Img_4513_2 旧日光街道交差点 【ル-ト地図】の⑤

ここを左折して現青梅街道(都道5号)を進む。旧日光街道(千人同心日光道)は日光東照宮の警護で八王子千人同心が日光へ赴くために作られた。

Img_4518 円福寺

Img_4519庚申塔道標(六地蔵の後ろの右端)

もとは旧日光街道交差点にあったもので、台座に「左みたけ道」とあるというが、すり減っていてはっきりとは確認できなかった。 「みたけ」は奥多摩の武蔵御嶽神社のことだろう。

Img_4522 箱根ヶ崎交差点(都道166号)を渡り、鎌倉街道(右)へ入り箱根ヶ崎駅へ 《地図

正面右は杉山稲荷神社、その先の左側の民家内に「鎌倉街道」の標柱が立っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月 9日 (土)

青梅街道③

2011年4月4日

田無駅(西武新宿線)・・・田無駅北口交差点・青梅街道・・・庚申塔・百箇所供養塔道標・田無町5丁目交差点(府中道)・・・久米川道分岐・・田無用水跡・馬頭観音・地蔵道標・・・橋場交差点・地蔵・庚申塔・・・北芝久保庚申塔・・・円成院・・一願也地蔵・・・(小金井街道)・・・子守地蔵・・・武蔵野神社・・地蔵堂跡・・・(西武新宿線)・・・多摩湖自転車道・小平ふるさと村・・・(新小金井街道)・・・延命寺・多摩野神社・・・熊野宮・・・平安院・・馬頭観音・・・西武多摩湖線(青梅街道駅)・・・新小平駅(JR武蔵野線)

  【ル-ト地図】(8.3km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4310 庚申塔(右)・百箇所供養塔道標(左・安永5年(1776)) 《地図

供養塔の右側面に「是よりふちう道」

Img_4313 田無用水跡(やすらぎの小径)  【ル-ト地図】の①

馬頭観音(右)と地蔵道標(左)は、もとは青梅街道との分岐点にあったもの。  承応3年(1654)に玉川上水が開削されて間もなく、明暦3年(1657)に玉川上水から小川分水が引かれる。その小川分水から更に分水されたのが新堀用水。そして元禄9年(1696)に玉川上水に沿って進んだ新堀用水から更に分水されたのが田無用水だそうだ。

Img_4314 馬頭観音

天保15年(1844)造立

Img_4315 地蔵道標(安永8年(1779)造立)

「右 くめ川 をんだ」・「左 をめ」 

Img_4319 橋場交差点 《地図

青梅街道(直進)と成木往還(右)との分岐に地蔵と庚申塔の祠。左折は立川道(鈴木街道)。青梅街道を横切る田無用水に橋が架けられていたことによる地名という。

Img_4320 地蔵・庚申塔

色褪せ、薄汚れたコートを被せられ迷惑顔、可哀そうな地蔵 さん。庚申塔にも布?が載せられている。

Img_4325 北芝久保庚申塔 【ル-ト地図】の②

Img_4323 説明板

Img_4324_2 庚申塔

延宝2年(1674)建立で、青面金剛像のない古い形式のもの。

Img_4333 円成院(えんじょういん)

野中新田を開発した黄檗宗の大堅が享保11年(1726)に上保谷村から引寺。

Img_4329 説明板

Img_4334 一願也地蔵尊 【ル-ト地図】の③

文化5年(1808)の造立というが、由来は分からず。 

Img_4338 子守地蔵の祠(右) 【ル-ト地図】の④ 

Img_4339子守地蔵(秀五郎地蔵)

文化13(1816)年生まれの浅田秀五郎は小平の良寛といわれ、無類の子供好きだった。「死んだら地蔵にしてくれ、子供を数多くの災難から救いたい」と遺言し没したという。文久3年(1863)年、その甥の勘兵衛がこの地蔵を建立したという。 

Img_4342 武蔵野神社

Img_4341 説明板

Img_4344 猿田彦像

青梅街道沿いにある手打ちうどん指田屋の店主が造って寄贈したそうだ。強そうだがちょっと威厳さに欠けていると思うが。

Img_4350 地蔵堂跡 《地図

手前が地蔵堂供養塔

Img_4349 地蔵堂供養塔

佐渡の小浦村の呑海が、安永9年(1780)に名主の先代の高橋定右衛門宅で世話になった折に造ったもの。明治3年の御門訴事件(武蔵野新田12か村が品川県の社倉政策に反対し、日本橋浜町の品川県庁の門前で門訴を行なった)で獄死した定右衛門の墓はこの奥の墓地にある。五日市街道の武蔵野市関前3丁目には御門訴事件記念碑が立っている。

Img_4361 小平ふるさと村 《地図》(今日は休館日で外からの写真)

旧神山家の主屋

Img_4364 旧鈴木家穀櫃

Img_4369 旧小川村名主小川家玄関棟か?

Img_4386 延命寺

左端に庚申塔(笑う庚申)

Img_4381 説明板

Img_4374笑う庚申(嘉永3年(1850))

Img_4398 熊野宮(一本榎神社) 【ル-ト地図】の⑤

夫婦欅(ケヤキ)

Img_4395 説明板

Img_4396 一本榎の3代目(社殿の後ろ側)

昔はこのあたりは荒涼たる武蔵野の原野だったが、遠くから眺望できる大木で、街道を行く人々の目印となっていた。

Img_4403 平安院

Img_4401 説明板

Img_4405 馬頭観音(享保2年(1717)) 《地図

小川弥一郎たちが造立したという。この先で旧小川村に入ると道幅が広くなり、そこに馬継ぎ立て場があった。

Img_4404 府中街道までの1.3kmの間が石灰などの荷物の馬継ぎ立て場だった。

Img_4410 説明板(小平郵便局入口交差点)

まだ1時を過ぎたばかりで10kmも歩いていないが、帰りの交通の便がいい武蔵野線の新小平駅から帰路についた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月 6日 (水)

青梅街道②

2011年4月1日

新高円寺駅(地下鉄丸ノ内線)・・・旧五日市街道分岐点・・・清見寺・・・猿田彦神社・・・海雲寺・・天桂寺・・・天沼陸橋交差点・・・立教寺・・・馬屋門・・・地下道・・・四面道交差点・・・井荻町役場跡(桃井第一小学校)・・・薬王院・・・荻窪八幡神社・・・井草八幡宮・・・浅間神社・・・上井草4丁目交差点・江戸向地蔵・・・善福寺・・・竹下稲荷神社・・・関町1丁目交差点・伊勢橋(千川上水)・・・関のかんかん地蔵・・・牟礼道交差地点・・・大日如来墓石(保谷家)・・・坂下橋(石神井川)・・・東伏見稲荷神社・・・西武柳沢駅南交差点・・(石神井川)・・庚申堂・・・六郷田無道分岐地点(深大寺道交差地点)・・・(西武新宿線)・・・弘法大師供養塔・富士街道・・・六角地蔵尊・・・柳沢庚申塔・・・田無町1丁目交差点・田丸屋・・・田無神社・・・総持寺・・・下田家・稗倉・野分初稲荷社・・・田無駅北口交差点・・・田無駅(西武新宿線)

  【ル-ト地図】(15.8km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4130 清見寺石地蔵

馬橋村、阿佐ヶ谷村の村民が奉納。「馬橋の灸寺」として知られた寺。 

Img_4129 説明板

Img_4134 海雲寺山門 《地図

江戸城内紅葉山の徳川家霊廟山門の一つを移築。

Img_4133 説明板

Img_4137天桂寺

庚申観音と呼ばれる聖観音像(寛文4年(1664))か。杉並の地名は、開創の岡部氏が青梅街道沿いに植えた杉並木に由来するといわれる。岡部氏の氏祖、忠綱の孫の岡部六弥太忠澄は一の谷の戦い平忠度(ただのり)を討ち取った。中山道深谷宿の清心寺には、六弥太の建てた平忠度供養塔がある。JR高崎線岡部駅の東方には六弥太の墓がある。山陽道の明石宿には、忠度塚・腕塚神社などがある。

Img_4136 説明板

Img_4143オーロラの碑(荻窪体育館前) 《地図

原水爆禁止運動のモニュメント。原子力そのものから脱却、禁止しなければあかんよ。

Img_4145 天沼陸橋交差点から左に入る。

Img_4151旅館西郊 《地図

写真の部分(西郊ロッヂング)は賃貸アパートになっていて、旅館は隣の旧館で営業しているようだ。もとは賄い付きの下宿屋だっだ。内部の写真は『東京街歩きガイド

Img_4155 馬屋門 【ル-ト地図】の①

説明板などはない。

Img_4152 裏側の馬房?

地下道でJR中央線をくぐり、荻窪駅北口へ

Img_4160 四面道交差点

①街道沿いに光明寺持ちの4つの堂が建っていた。②下荻窪村・上荻窪村・天沼村・下井草村の四か村の境だった。③常夜燈が四か村を照らすので「四面燈」と呼ばれ、やがて四面道の名に転じた。などの説があるようだ。

Img_4167 薬王院

元禄13年(1700)の創建で、現在は観泉寺薬師堂となっている。

Img_4170荻窪八幡神社

参道両脇は東日本大震災で倒れた鳥居跡か?

Img_4182 説明板

Img_4176 道灌槇(右)

太田道灌が戦勝を祈願して植えた槇というが、幹は細く枝葉もまばらで余命いくばくもないといった姿だ。

Img_4173 説明板

Img_4183 ?マンション

Img_4188 井草八幡宮東参道

もとは遅井野八幡宮と称された上・下井草村の鎮守。

Img_4190 楼門

Img_4187 説明板

Img_4195頼朝手植えの松(2代目)

Img_4194説明板 

Img_4206 浅間神社

後ろに古墳のような塚がある。神社の敷地でなく、桃井第4小学校の敷地内か?

Img_4211 江戸向地蔵(享保14年(1729)造立) 【ル-ト地図】の②

左は「西国・秩父・坂東百番供養塔」 

Img_4212 善福寺

地名の由来となった寺と思っていたが、元は福寿院という名の寺院が1923年に地名をとって改名したそうだ。木々に覆われた古い寺と期待していたが、何の情緒、風情もない寺でがっかり。でも地名の由来となった寺はどこにあったのか? 依然として疑問は残る。

Img_4216 ケヤキ並木が続き練馬区に入る。

Img_4220 竹下稲荷神社 《地図

Img_4219説明板

Img_4225 伊勢橋(千川上水緑道) 《地図

伊勢橋から千川通りと平行して400メートルほど続く遊歩道。千川上水はこの北側からは暗渠となる。かつてはこの地点に水番所が置かれていた。

Img_4230

伊勢橋西側の小社

伊勢神宮の末社?

Img_4234 関のかんかん地蔵(正徳元年(1711)造立) 【ル-ト地図】の③

石で叩けば願い事が叶うといわれ、長年叩かれ続け足もとが細くなり近年補修された。人間の強欲さは石をも穿つか。まあ叩かれなかったら有名にもならなかったろうが。

Img_4232 説明板

Img_4236青梅街道石柱・説明板(石神井西小学校前)

Img_4238 説明板

東伏見四丁目交差点あたりで牟礼道と交差する。

Img_4243 保谷家・大日如来墓石の祠(右) 《地図

この地域を開発した土豪の保谷家の敷地。

Img_4245大日如来墓石(文政9年(1826))

Img_4252 東伏見稲荷神社

この地は保谷氏の館跡ともいう。小高い所で館を構えるには格好の地か。朱色がはで過ぎてなじめない神社だ。

Img_4253 由緒

Img_4259 庚申堂(上柳沢橋脇) 《地図

もとは青梅街道沿いにあったもの。

Img_4260 庚申塔(宝永5年(1708)造立)

左のコンビニの所で六郷田無道が右に分かれ、北から来る深大寺道と合流して南下している。

Img_4265 西武新宿線ガードの手前

右に鳥居の小祠

Img_4266祠は東日本大震災で倒壊か?

Img_4267富士街道が右に分岐 【ル-ト地図】の④

弘法大師供養塔(右)(嘉永7年(1854)造立)?

Img_4268台座の左側面に「練馬江三里 府中江二里半 所沢江三里 青梅江七里」と刻むというが確認できず。

Img_4272_2六角地蔵尊(六角地蔵石憧)(寛政7年(1795)) 《地図

「つや」という女性と「光山童子」の菩提を弔うために建立。ここは富士街道と深大寺道との合流地点で、脚部は道標になっている。

Img_0080柳沢庚申塔(享保8年(1723)・2015年1月31日撮影) 《地図

道標を兼ねていて、「是より 右ハ はんのふ道」・「是より左ハ あふめミち」で、もとはこの先の田無一丁目交差点の飯能道(所沢道)と青梅街道の分岐に立っていたが、所沢道拡幅のためここに移設された。

Img_0082説明板

Img_4274 田無一丁目交差点 

旧青梅街道は左折、秩父街道(所沢街道)は直進。

正面の田丸屋酒店が田無宿(柳沢宿)の旅籠田丸屋跡で、その前の分岐に柳沢庚申塔が立っていた。

Img_4280田無神社

明治元年(1868)の神仏分離令までは「尉殿大権現」と称し、西光寺(現総持寺)の管理下に置かれていた。

Img_4282由緒

Img_4283 東日本大震災の地震で倒れた石灯籠か?

Img_4287 田無神社拝殿(都指定文化財)

明治8年(1875)に地元の大工が建築。

Img_4289総持寺

Img_4292本堂の左前の小祠は、もとは旅籠田丸屋の奥庭にあった「滝の不動尊」。手前のケヤキは嘉永3年(1850)の本堂建替え完成を記念して植えられた樹の一つという。寺には名主の下田半兵衛の木像がある。

Img_4293 説明板

Img_4296 田無宿の家並み

宿といっても本陣などはなく、伝馬の継ぎ立て所だった。

Img_4301旧下田名主役宅 《地図

かつては茅葺屋根で、明治天皇も立ち寄ったという。

Img_4305稗倉 【ル-ト地図】の⑤

Img_4302 説明板

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月 3日 (日)

青梅街道①

2011年3月30日

新宿三丁目駅(地下鉄丸ノ内線)・・・新宿追分(新宿三丁目交差点)・・・雷電稲荷神社・・・天龍寺・・・新宿追分・青梅街道・・・新宿駅東口広場・・・JR地下道・・・淀橋浄水場跡碑・策の井跡碑(新宿エルタワー)・・・常円寺・常泉寺・・・成子坂・成子天神社・・・成子子育地蔵・・・淀橋(神田川)・中野坂・・中本一稲荷・・・中野坂上交差点(山手通)・・・白金龍昇宮・・・庚申堂・・・宝仙寺三重塔跡碑(中野区立十中)・・・白玉稲荷神社・・・成願寺・・・象小屋跡(朝日ヶ丘児童館)・・・宝仙寺・・・犬坂・・・明徳稲荷神社・・・慈眼寺・・・(鍋屋横丁)・・・西町天神北野神社・・・蚕糸の森公園・・・(環七通)・・・五日市街道入口交差点・・・旧五日市街道分岐点・・・新高円寺駅(地下鉄丸ノ内線)

 青梅街道は甲州街道の内藤新宿の新宿追分から南武蔵野を横断し、青梅宿を経て大菩薩峠を越え、甲斐国に至り甲府の東の酒折宿で再び甲州街道に合流する脇往還。慶長11年(1606)に江戸城の増改築で使用する白土(漆喰壁の材料の消石灰)を、生産地の上成木と北小曽木の両村から搬出するために設けられたのが始まりと伝えられている。成木街道、石灰(いしばい)街道、御白土街道、甲州裏街道とも呼ばれ、青梅宿までには中野、田無、小川、箱根ヶ崎に伝馬継ぎ立ての宿駅が設けられていた。あちこちの寺社の境内に東日本大震災の爪痕を見る街道歩きとなった。

  *参考:『歴史の道調査報告書 第3集 青梅街道』(東京都教育庁)

  【ル-ト地図】(10.3km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4019 新宿追分 【ル-ト地図】の①

青梅街道は直進し新宿駅東口広場へ向かう。甲州街道は左折。

Img_4020 新宿元標

交差点手前の道路上に描かれている。

Img_4021 説明板

Img_4018 追分だんご

豆餅を買っていざ出発だ。

甲州街道を少し進み寄り道する。

Img_4022雷電稲荷神社 《地図

源義家ゆかりの稲荷とか。

Img_4026 時の鐘(天龍寺

江戸三名鐘の一つとされる「時の鐘」で、内藤新宿で遊興する人たちを追い出す「追い出しの鐘」だった。

Img_4027 説明板①

Img_4028やぐら時計」説明板

新宿追分に戻り、青梅街道を進む。

Img_4034馬水槽(新宿駅東口広場)

前面の上部の水槽が馬用、下部が犬猫用、その裏面が人間の水飲み場になっている。ロンドン水槽協会から東京市に寄贈されたものだが、大正初期までは荷馬車の馬が利用していたそうだ。

Img_4035 地下道でJR線をくぐって西口へ。

Img_4037 昔の新宿の雰囲気が残る「思い出横丁

Img_4040 淀橋浄水場跡碑 【ル-ト地図】の②

ここに正門があった。

Img_4039碑文

Img_4042策(むち)の井跡碑(淀橋浄水場跡碑の右側)

三角錐?のモニュメントと説明碑。家康が鷹狩の帰りにむち(策)を洗ったという井戸跡。

Img_4041 説明碑

Img_4046 常円寺

Img_4045 便々館湖鯉鮒狂歌碑狂歌碑

碑文は太田南畝の書。

Img_4044 説明板

Img_4053 成子天神社

境内に高層マンションを建築するようだ。

Img_4052 説明板

このあたりはマクワウリ(真桑瓜)の特産地だった。

Img_4057成子子育地蔵(享保12年(1727)) 《地図

子殺しの父親の悲しい伝説に由来するという。成子坂は地蔵坂とも呼ばれた。

Img_4059 成子坂下から新宿方向

手前は東京都が設置した立派な鉄製の坂標だが、文字はかすれ、いたずら書もされみじめな姿をさらしていて今はただ邪魔なだけだ。即刻撤去すべきだろう。

Img_4060 淀橋を渡り、中野坂を上る。《地図

淀橋には中野長者の鈴木九郎の伝承がある。鈴木九郎は中野のあちこち(長者橋・十貫坂・成願寺・熊野神社(新宿区)など)に登場する。熊野古道の藤白には、全国の鈴木姓のルーツの鈴木屋敷がある。

Img_4062 説明板

Img_4066 中本一稲荷神社

Img_4069 白金龍昇宮

たいそうな名だが、分岐点の空き地に小祠があるのみ。右は中野区立十中。

Img_4070 由来

Img_4073 庚申堂

Img_4072 庚申塔?

Img_4076宝仙寺三重塔跡 【ル-ト地図】の③

Img_4077 説明板

文字は薄く消えかかり、さらに金網フェンス越しで近づけず判読困難。

Img_4078 白玉稲荷神社

Img_4084 成願寺

中野長者の鈴木九郎の開創という。

Img_4083 成願寺墓地

鍋島家墓所、鍋島地蔵、鈴木九郎長者塚などがある。

Img_4079 説明板

Img_4082 鍋島地蔵

地蔵姿の墓碑 

Img_4080中野長者伝説」の長い絵巻風掲示板

Img_4087 象小屋跡 【ル-ト地図】の④

広南国(ベトナム)から将軍吉宗に献上された象が余生を送った小屋があった。姫街道には江戸に向かう象が通った「象鳴き坂」がある。宝仙寺には象の骨と牙の一部が残るという。

Img_4086 説明板

Img_4094宝仙寺三重塔

手前は臼塚・左は中野町役場跡碑。

Img_4092 説明板①

Img_4091 説明板②

Img_4098 やままさ醤油醸造所のレンガ塀(宝仙寺沿いの小公園に移築)

Img_4097 説明板

Img_4100 犬坂 宝仙寺の裏を曲がりながら東に上る坂。《地図

①「生類憐みの令」により中野駅を中心に30万坪にわたり野犬のための犬小屋が設けられたことにちむか。『今昔東京の坂』 ②江戸時代の末ごろ、将軍が狩猟のために連れていた猟犬がこのあたりの野犬とかみ合いのけんかをしたため、村人たちが飼い主のいない犬をつかまえてここにつないだことにより名づけられた。『中野区報第810号』

この坂の位置については、中野坂上東側の山手通りとする説もある。青梅街道の南側の成願寺の前の坂か?

Img_4105 明徳稲荷神社 《地図

中野村名主の堀江家の敷地内に中野宿の市場の繁栄安全を願って祀った市神。

Img_4107 説明板

Img_4109 慈眼寺

Img_4110 説明板

馬頭観音道標がどれか分からず。

Img_4114 鍋谷横丁が左斜めに分岐。

鎌倉街道「中の道」の道筋で、分岐点に鍋屋という茶店があったそうだ。

Img_4115 石神井道(右)との追分 《地図

ここに慈眼寺に移された馬頭観音道標があったという。以前は追分商店街の通りだが、今は商店は少なく、追分公園にその名が残るのみか。

Img_4119 西町天神北野神社

左が公孫樹(いちょう)で、右はかやの木。

Img_4118 説明板

Img_4121蚕糸の森公園

蚕糸試験場の跡地

Img_4123 青銅製燈籠 《地図

堀ノ内妙法寺への参道を挟んで対に並んでいる。

Img_4127五日市街道分岐点 【ル-ト地図】の⑤

青梅街道は直進。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »