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2011年4月15日 (金)

甲州街道(日本橋→新宿追分)

2011年4月12日

東京駅・・・日本橋・・・呉服橋交差点・・・一石橋(日本橋川)・・・常盤橋(日本橋川)・常盤橋門跡・・・北町奉行所跡あたり・・・(JR山手線)・・・評定所・伝奏屋敷跡・・・大手町交差点・・・将門首塚・・・内堀通り・・・大手門・・・二重橋・・・祝田橋交差点・・・桜田門・・・三宅坂・・・半蔵門交差点・・・四谷見附跡・JR四ツ谷駅・・・津の守坂上・・・円通寺坂上・・・女夫坂上・・・大木戸坂上・四谷大木戸跡(四谷4丁目交差点)・水番所跡・内藤新宿記念碑・・・三遊亭円朝旧居跡(花園公園)・・・太宗寺・・・成覚寺・・正受院・・・花園神社・・・新宿追分(青梅街道分岐)・・・新宿駅

 甲州街道は江戸日本橋を起点に内藤新宿、府中、八王子から小仏峠を越え、甲府を経て下諏訪宿で中山道に合流する全長約208mの江戸五街道の一つ。
 はじめは日本橋から内藤新宿の新宿追分までの短い区間だが、人、車、交差点での信号待ちが多く大いに疲れた。早く多摩川を渡りたいものだ。

  【ル-ト地図】(12.6km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4758 一石(いちこく)橋 《地図

南北の橋詰に両後藤家があり、「五斗+五斗=一石」だとか。

Img_4762 説明板

Img_4774_2 「まよひ子のしるべ石」(安政4年(1857))(一石橋の南詰)

岡山城下の京橋(旭川)のたもとにもあった。それは明治時代に立てられたものだった。『牛窓往来

Img_4760 説明板

Img_4772 一石橋から常盤橋

これが明治10年に架け替えられた旧常盤橋とてっきり思っていたが、常盤橋門跡の間を抜けた所の橋が旧常盤橋だった。

Img_4765 日本銀行

1896年の竣工

Img_4771 常盤橋門跡

ここを抜けると今は歩行者専用の旧常盤橋常磐橋)があるのだ。

Img_4766 説明板

Img_4757 北町奉行所跡あたり 《地図

石碑があるというが見当たらず。ホテルシャングリラ内に移されているというが未確認。

Img_4799 周辺地図(下が北)

左上方に評定所・伝奏屋敷跡、右下方に平将門塚がある。

Img_4779評定所・伝奏屋敷跡 【ル-ト地図】の①

現在は「丸の内1-4計画工事」中。

甲州街道は大手町交差点で左折し、外堀通りを南下するが将門首塚へ寄り、内堀通りから皇居の堀沿いを進み、祝田橋交差点へ出た。ジョガーと観光客、花見客で皇居の周りはけっこうな人出だった。

Img_4786 将門首塚 【ル-ト地図】の②

将門の首級は都まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んで行き、数か所に落ちたとされる。その伝承地の一つ。この地は寛文年間(1661~72)には酒井雅楽頭の上屋敷の中庭で、歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末、伊達安芸、原田甲斐が殺害された所。

Img_4789 由来

Img_4793 説明板

Img_4797石塔婆と将門の墓ともいう石灯籠

Img_4796 石塔婆説明板

Img_4794 石灯籠説明板

Img_4802 大手門

Img_4807 二重橋と思っていたが、これは「正門石橋」で、この奥にある「正門鉄橋」が二重橋だった。《地図

Img_4810 桜田門

Img_4824 三宅坂 《地図

坂上近くの国立劇場あたりに三宅備前守の上屋敷があった。

Img_4827 半蔵門

天皇や各皇族の皇居への日常の出入り口で、一般人は通行不可。服部半蔵の子孫?の警備が厳重で近づけず。

Img_4836 四谷見附跡 【ル-ト地図】の③

左の石垣と右の石垣跡の間に高麗門があった。

Img_4831 説明板

Img_4832 復元図

Img_4833 明治4年の写真

Img_4838四谷大木戸跡あたり案内図

Img_4840四谷大木戸跡 【ル-ト地図】の④

木戸は寛政4年(1792)以降は撤去された。

Img_4847四谷大木戸跡碑(正面左)・水道碑記(右) 《地図

ここに水番所があった。

Photo「玉川堤の花」(歌川広重の『名所江戸百景』)

玉川上水の右は甲州街道の最初の宿場、内藤新宿の岡場所(遊女屋・女郎屋)。この当時には堤沿いにこれほどの桜並木はなかったそうだ。桜並木の左は高遠藩主内藤家下屋敷で、今の新宿御苑。この手前に水番所があり、木樋や石樋を用いた地下水道で江戸市中に配水された。

『名所江戸百景』は、安政2年(1855)の安政の大地震で被害を受けた江戸の街の復興を祈念した、世直しの意図もあったという。

Img_4846 説明板

Img_4843 内藤新宿開設三百年記念碑

新宿御苑(高遠藩主内藤家下屋敷跡)の入口そば

Photo_2「四ツ谷内藤新宿」(広重の『名所江戸百景』)

上の絵の甲州街道沿いの表から見た内藤新宿の家並みで、馬のケツからの大胆な構図が面白く痛快なケツ作だ。

Img_4851三遊亭円朝旧居跡(花園公園) 《地図

Img_4852 旧居跡碑と説明板

Img_4853 説明板

Img_4855江戸六地蔵の二番(太宗寺) 《地図

Img_4856 説明板

Img_4857 説明板

Img_4859三日月不動堂(右)・塩地蔵尊・稲荷社(太宗寺境内)

Img_4866 三日月不動尊

額の三日月がくっきりと浮かぶ。不動の前に新宿山の手七福神の布袋尊が座っているのか?

Img_4863説明板

Img_4860 塩地蔵

いぼ、おできにご利益があり、この塩をもらって帰り患部に塩を擦り込むと治るという。そして治ったお礼に塩を倍にして奉納するそうだ。 

Img_4867 閻魔堂

金網が張ってあり、大きいがちょっと可笑しみのある閻魔像、それに引き替え迫力満点の奪衣婆像の写真はうまく撮れず。『閻魔堂開扉の写真

Img_4874 閻魔像説明板

Img_4875 奪衣婆説明板

「亡者の着物をはぐ」=「客の着物、金品を剥ぐ」で、内藤新宿の岡場所の商売神として「しょうづか(正塚)の婆さん」と呼ばれ信仰されていたという。

Img_4876 成覚寺

内藤新宿の飯盛女の投げ込み寺だった。

Img_4881 子供合埋(ごうまい)碑

子供とは内藤新宿の岡場所の飯盛女(遊女・女郎)のこと。

Img_4880 説明板

Img_4879 旭地蔵(夜泣地蔵)・恋川春町の墓(右)

心中した男女(内藤新宿の遊女と客)らを供養するための旭地蔵と、江戸時代中期の戯作恋川春町の墓

Img_4877 説明板

Img_4886 奪衣婆(正受院

咳止めに霊験があり、治ると綿が奉納され、綿がかぶせられたことから「綿のおばば」とも呼ばれた。

Img_4885 説明板

 

Img_4890 花園神社 《地図

新宿の総鎮守社

Img_4892 浅間芸能神社

囲いには芸能人の名が並ぶ。願いが叶わず芸能界から消え去った面々もいるようだ。

Img_4895藤圭子歌碑

2013年8月22日に逝ってしまった。悲しいねえ。

Img_4896追分だんご」の先の新宿三丁目交差点が青梅街道との新宿追分 【ル-ト地図】の⑤

目当ての豆餅は残り1個、あとはばらばら適当にみやげに買って新宿駅から帰路につく。

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