青梅街道②
2011年4月1日
新高円寺駅(地下鉄丸ノ内線)・・・旧五日市街道分岐点・・・清見寺・・・猿田彦神社・・・海雲寺・・天桂寺・・・天沼陸橋交差点・・・立教寺・・・馬屋門・・・地下道・・・四面道交差点・・・井荻町役場跡(桃井第一小学校)・・・薬王院・・・荻窪八幡神社・・・井草八幡宮・・・浅間神社・・・上井草4丁目交差点・江戸向地蔵・・・善福寺・・・竹下稲荷神社・・・関町1丁目交差点・伊勢橋(千川上水)・・・関のかんかん地蔵・・・牟礼道交差地点・・・大日如来墓石(保谷家)・・・坂下橋(石神井川)・・・東伏見稲荷神社・・・西武柳沢駅南交差点・・(石神井川)・・庚申堂・・・六郷田無道分岐地点(深大寺道交差地点)・・・(西武新宿線)・・・弘法大師供養塔・富士街道・・・六角地蔵尊・・・柳沢庚申塔・・・田無町1丁目交差点・田丸屋・・・田無神社・・・総持寺・・・下田家・稗倉・野分初稲荷社・・・田無駅北口交差点・・・田無駅(西武新宿線)
【ル-ト地図】
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清見寺石地蔵 【ル-ト地図】の7
馬橋村、阿佐ヶ谷村の村民が奉納。「馬橋の灸寺」として知られた寺。
海雲寺山門 《地図》
江戸城内紅葉山の徳川家霊廟山門の一つを移築。
庚申観音と呼ばれる聖観音像(寛文4年(1664))か。杉並の地名は、開創の岡部氏が青梅街道沿いに植えた杉並木に由来するといわれる。岡部氏の氏祖、忠綱の孫の岡部六弥太忠澄は一の谷の戦いで平忠度(ただのり)を討ち取った。中山道深谷宿の清心寺には、六弥太の建てた平忠度供養塔がある。JR高崎線岡部駅の東方には六弥太の墓がある。山陽道の明石宿には、忠度塚・腕塚神社などがある。
原水爆禁止運動のモニュメント。原子力そのものから脱却、禁止しなければあかんよ。
写真の部分(西郊ロッヂング)は賃貸アパートになっていて、旅館は隣の旧館で営業しているようだ。もとは賄い付きの下宿屋だっだ。内部の写真は『東京街歩きガイド』
説明板などはない。
地下道でJR中央線をくぐり、荻窪駅北口へ
①街道沿いに光明寺持ちの4つの堂が建っていた。②下荻窪村・上荻窪村・天沼村・下井草村の四か村の境だった。③常夜燈が四か村を照らすので「四面燈」と呼ばれ、やがて四面道の名に転じた。などの説があるようだ。
元禄13年(1700)の創建で、現在は観泉寺薬師堂となっている。
参道両脇は東日本大震災で倒れた鳥居跡か?
太田道灌が戦勝を祈願して植えた槇というが、幹は細く枝葉もまばらで余命いくばくもないといった姿だ。
井草八幡宮東参道
もとは遅井野八幡宮と称された上・下井草村の鎮守。
後ろに古墳のような塚がある。神社の敷地でなく、桃井第4小学校の敷地内か?
左は「西国・秩父・坂東百番供養塔」
地名の由来となった寺と思っていたが、元は福寿院という名の寺院が1923年に地名をとって改名したそうだ。木々に覆われた古い寺と期待していたが、何の情緒、風情もない寺でがっかり。でも地名の由来となった寺はどこにあったのか? 依然として疑問は残る。
竹下稲荷神社 《地図》
伊勢橋(千川上水緑道) 《地図》
伊勢橋から千川通りと平行して400メートルほど続く遊歩道。千川上水はこの北側からは暗渠となる。かつてはこの地点に水番所が置かれていた。
伊勢橋西側の小社
伊勢神宮の末社?
関のかんかん地蔵(正徳元年(1711)造立) 【ル-ト地図】の11
石で叩けば願い事が叶うといわれ、長年叩かれ続け足もとが細くなり近年補修された。人間の強欲さは石をも穿つか。まあ叩かれなかったら有名にもならなかったろうが。
東伏見四丁目交差点あたりで牟礼道と交差する。
保谷家・大日如来墓石の祠(右) 《地図》
この地域を開発した土豪の保谷家の敷地。
この地は保谷氏の館跡ともいう。小高い所で館を構えるには格好の地か。朱色がはで過ぎてなじめない神社だ。
庚申堂(上柳沢橋脇) 《地図》
もとは青梅街道沿いにあったもの。
左のコンビニの所で六郷田無道が右に分かれ、北から来る深大寺道と合流して南下している。【ル-ト地図】の12
右に鳥居の小祠
富士街道が右に分岐 【ル-ト地図】の13
弘法大師供養塔(右)(嘉永7年(1854)造立)?
台座の左側面に「練馬江三里 府中江二里半 所沢江三里 青梅江七里」と刻むというが確認できず。
六角地蔵尊(六角地蔵石憧)(寛政7年(1795)) 《地図》
「つや」という女性と「光山童子」の菩提を弔うために建立。ここは富士街道と深大寺道との合流地点で、脚部は道標になっている。
柳沢庚申塔(享保8年(1723)・2015年1月31日撮影) 《地図》
道標を兼ねていて、「是より 右ハ はんのふ道」・「是より左ハ あふめミち」で、もとはこの先の田無一丁目交差点の飯能道(所沢道)と青梅街道の分岐に立っていたが、所沢道拡幅のためここに移設された。
旧青梅街道は左折、秩父街道(所沢街道)は直進。
正面の田丸屋酒店が田無宿(柳沢宿)の旅籠田丸屋跡で、その前の分岐に柳沢庚申塔が立っていた。
明治元年(1868)の神仏分離令までは「尉殿大権現」と称し、西光寺(現総持寺)の管理下に置かれていた。
明治8年(1875)に地元の大工が建築。
本堂の左前の小祠は、もとは旅籠田丸屋の奥庭にあった「滝の不動尊」。手前のケヤキは嘉永3年(1850)の本堂建替え完成を記念して植えられた樹の一つという。寺には名主の下田半兵衛の木像がある。
宿といっても本陣などはなく、伝馬の継ぎ立て所だった。
かつては茅葺屋根で、明治天皇も立ち寄ったという。
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