青梅街道⑤
2011年4月8日
箱根ヶ崎駅(JR八高線)・・・都道5号・・・宗安塚跡(岩蔵街道分岐点)・・・瑞穂松原交差点(新青梅街道合流点)・・・箱根ヶ崎西交差点(国道16号)・・・東善院・・・青梅新町境交差点・・新伝馬道・・・新田山公園(伝馬公園)・・・六道の辻跡あたり・・・庚申塔道標・馬頭観音道標(新町桜株交差点)・・・・東禅寺・・・原江戸道合流点あたり(御嶽神社入口交差点)・・・大井戸公園・・・御嶽神社・・・旧吉野家住宅・・・鈴法寺跡(鈴法寺跡前交差点)・・・大曲り跡あたり(野上交差点)・・・(都道63号)・・・道間公園・・・馬頭観音堂(師岡会館)・・・師岡の追分道標・・・六万部薬師堂・・・成木街道入口交差点・・・勝沼第一踏切(青梅線)・・・青梅宿・・宗徳寺・・宗建寺・・住吉神社・・薬師堂・・常保寺(猫地蔵)・・旧稲葉家住宅・・中武馬車鉄道森下駅跡・・金剛寺・・森下陣屋跡(熊野神社)・・裏宿町・七兵衛公園・・七兵衛通り・・青梅坂(小曽木街道)・・七兵衛通り・・・(青梅線)・・・七兵衛地蔵尊・・・英稲荷神社・・・青梅駅(JR青梅線)
【ル-ト地図】
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宗安塚跡 《地図》
中世武士団の流れの村山家の先祖の名で、江戸時代には道標が2本立っていたそうだ。右に岩蔵街道(旧成木街道)が分岐する。上空で大きな音がした。見上げると横田基地へ帰る米軍機が低空を横切って行った。
成木から八王子、小田原城下への古伝馬道を近世の初頭に吉野織部之助らが江戸へ向かう道に付け替え、ここで青梅街道に合流させた。新伝馬道を進む。
新田山公園(伝馬公園) 《地図》
公園内で伝馬道は二股に分岐している(下の写真)。南へ分岐する伝馬道は古伝馬道で、真っすぐ進む道は新伝馬道。古伝馬道は拝島→八王子の滝山城→小田原城下への道だった。江戸時代に入り吉野織部之助は、この古伝馬道をこの南にある原江戸道(旧江戸街道)に接続して、江戸城修築のため白壁の漆喰材料の成木の御用白土(石灰)を馬で運んだ。そのため「堊附(あくつけ)街道」とも呼ばれた。真っすぐ進む道が新伝馬道で、青梅街道に接続させ、ここでも成木石灰を運んだ。
新伝馬道は直進し青梅街道に合流する。古伝馬道は右折して原江戸道と合流していた。
六道の辻跡? 《地図》
青梅街道、古伝馬道、伊奈道が交わっていた辻で、一里塚があったというが、今はただの十字路で何の痕跡もない。また上の地図では古伝馬道はここでは交差せず、少し東側で交差している。一つ東側の交差点あたりかも。
慶長16年(1611)吉野氏の努力により、ここ新町地区に新田を開拓することになった。武蔵野で新田開拓をするには井戸を掘り水を確保することが必要で、井戸があちこちに掘られたのだろう。
庚申塔(文化14年(1817))・馬頭観音(新町桜株交差点) 《地図》
庚申塔には「右ハ江戸道」、馬頭観音には「左ハ川越道」とあるそうだがすり減っていて確認できず。
吉野織部之助が開基。「鈴法寺」の扁額と観音堂は、明治の廃宗の際に東禅寺に移された。
原江戸道合流点あたり 《地図》
交差点の向うに御嶽神社の御神燈。
新町の大井戸 《地図》
東西約22m、南北約33m、深さ7mのすり鉢状で、掘られた時期は不明。地表から筒型井戸を掘る技術が一般化する以前の様式で、江戸時代以前から道行く人馬への水の供給場だったと推定される。羽村の「まいまいず井戸」を思い出した。
御嶽神社 【ル-ト地図】の23
吉野織部之助が新町村開拓完成に伴い、大和国金峯山権現を勧請し御嶽大権現と称して村内鎮守として祀ったのが始まり。
江戸末期から明治中頃にかけて、個人の家ごとに行われる冠婚葬祭で使われる食器類を地域で共同使用するため、資産家の家や専用の建物(膳椀倉)で保管していたそうだ。
正式には廓嶺山虚空院鈴法寺と称する、全国120ヶ寺の末寺を持つ虚無僧の普化宗の総本山の一つだった。もう一つは水戸街道の小金宿の一月寺。
下田街道沿いの龍源寺跡には虚無僧の墓がある。
ここ先の「大曲り」(野上交差点あたり)から北西に入って行くのが旧道だが道筋は消滅している。
馬頭観音堂(師岡会館) 《地図》
この前の道が二日市場と呼ばれた市が立っていた所という。
右が青梅街道の江戸方向、左は川越道。
「右 江戸道」「左 はんのふ 加王こゑ ミち」で、中央に「南無阿彌陀佛」
飯能・川越のこと。
六万部薬師堂 《地図》
天正18年(1590)、師岡城(勝沼城)落城後、近隣で疫病がはやり、防除の祈祷と戦死者追福を祈願して、天寧寺8世正翁長達和尚が法華経六万部を読誦書写して創立したものと伝える。
青梅線の勝沼第一踏切を渡り青梅宿に入る。『ぶらり青梅宿』の「青梅宿さんぽ絵地図」・「青梅宿町屋めぐり」を参考にレトロな町並みをぶらつく。
織物工業組合旧試験場 《地図》
青梅線の線路上に覆い被さるほどだ。
青梅宿の商店街の町おこしの一環として作られた、昭和の古い映画の看板。市内には日本で最後の現役映画看板師が在住していて、平成5年頃からこの看板を描いた。平成20年、明星大学青梅校の学生たちが、青梅・奥多摩地域観光まちづくり実行委員会と連携し、商店のイメージに合わせた映画看板を作成した。この先の町並みにはレトロな映画看板が多く見られる。『昭和レトロ映画看板群』
宗建寺 《地図》
青梅七福神の毘沙門天。義賊の裏宿七兵衛の墓、江戸時代後期の国学者で詩人の根岸典則の墓がある。七兵衛さんにはこの後も何度か出会うことになる。
旧青梅村の総鎮守
昭和の中頃、青梅市内の無住寺院の土地処分に伴って引き取ったという。招き猫として造立されたのだろうか。世田谷の豪徳寺は招き猫発祥の地として有名だ。
母屋は明治時代のもので、店内には太い梁が通っている。
旧稲葉家住宅 《地図》
青梅宿の町年寄を務めた家柄で、江戸時代後期の建築。
中武馬車鉄道の「森下駅」跡。「おかざき」はここの酒店の名。(稲葉家の西隣)
右奥は青梅の地名の由来となったという「将門誓いの梅」だが今は老衰期。将門伝説は、「青梅に入った将門は、馬の鞭として持っていた梅の枝を逆さにして金剛寺の庭に挿し「わが祈願叶うなら根づくべし、その暁には必ず一寺を以て建立奉るべし」と祈願した。やがて梅の枝は大きく成長し、春になると毎年美しい花を咲かせるようになった。しかし、梅の実は季節を過ぎても青々として熟することはなかった」というもの。
手前の樹齢150年の枝垂桜は数年前の大雪で太い枝が折れてしまったそうだ。
街道は鉤型に曲がっていた。今は緩いカーブで曲がって裏宿に入って行く。正面左のシラカシ(白樫)は陣屋が置かれた折、鎮守として祀られた熊野神社の境内に植えられたものという。
七兵衛公園 《地図》
義賊の裏宿七兵衛にちなむ公園。馬頭観音、庚申塔、地蔵石造などが集められて並んでいる。
青梅坂 《地図》
青梅街道の青梅坂下交差点から北に上る小曽木街道。
七兵衛さんは盗賊といいながら公園・供養塔・供養碑・通り・地蔵などにその名を残している。よほど人気があったのだろう。
大正6年頃の作という小さな木彫り像。韋駄天の七兵衛さんだけに足腰、旅道中、交通安全にご利益があるそうだ。青梅マラソン参加の参拝者も多いそうだ。青梅マラソンは何度か走ったが知らなんだ。拝んでいればもっと速く走れたかも。
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