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2011年4月19日 (火)

甲州街道(新宿追分→下・上高井戸宿→布田五宿→武蔵野台駅)

2011年4月14日

新宿駅・・・新宿追分・・・明治通り・・・甲州街道(国道20号)・・・(JR山手線)・・・(山手通り)・・・旗洗池跡・・・子育地蔵・・・牛窪地蔵・道供養碑・笹塚交差点(中野通り)・・・大原交差点(環七通り)・・・(玉川上水)・・・北向子育地蔵 ・大原稲荷神社・・・(井の頭線)・・・明治大学・塩硝蔵跡あたり・・築地本願寺和田堀廟所・・・真教寺・託法寺・善照寺・法照寺・栖岸院・永昌寺・龍泉寺・永泉寺坂上・下高井戸橋(玉川上水永泉寺緑地)・・(荒玉水道道路)・・・覚蔵寺・・・宗源寺・下高井戸宿本陣跡あたり・・鎌倉街道入口交差点・下高井戸一里塚跡・・上高井戸宿本陣跡あたり(高井戸陸橋(環八通り))・旧道・・・下山地蔵・大橋場の跡碑・・給田坂・・仙川(大川橋)・・仙川坂・・・国道20号・・・昌翁寺・・仙川一里塚跡・・・滝坂道合流地点・馬宿川口屋跡・旧道・旧滝坂・・・国道20号・・・金子のイチョウ・・・佐須街道合流地点・・・馬橋(野川)・・・旧甲州街道入口交差点・・・布田五宿・・常性寺・・蓮慶寺・・小島一里塚跡・・・常演寺・・・源正寺・・・西光寺・・・(中央自動車道)・・・飛田給薬師尊・・品川街道(品川道)・・・武蔵野台駅(京王線)

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4908首都高速の下を行く甲州街道

往時の街道風情はまったくないが、松や杉並木の日よけ、風雨よけの代わりにはなるか。この屋根とは世田谷区との境の鎌倉街道入口交差点の下高井戸一里塚跡まで付き合うことになる。

Img_4912洗旗池碑 【ル-ト地図】の8

後三年の役の後、八幡太郎義家が白旗を洗ったという池跡。今は高知新聞社宅の洗旗荘の敷地内

Img_4910旗洗池跡説明板

Img_4918 子育地蔵(左) 《地図

うっかり通り過ぎそうになって気づいた。 ここには大ケヤキがあったそうだ。

Img_4917右が子育地蔵(貞享3年(1686)造立)か、 中央は「南無妙法蓮華経」の題目塔、左にも地蔵さん。 

Img_4914 説明板

Img_4920 牛窪地蔵・道供養碑 《地図

説明板には「道供養碑は中野通りの延長の鎌倉道に面して立てられていた」とあるが、鎌倉街道(中の道)は中野通りの西側を通り、延長を通っていないのでは? (十貫坂上交差点で交差するが)

Img_4921 説明板

Img_4922 牛窪地蔵(正徳元年(1711)造立)

この窪地に刑場があり、牛を使って股裂きの刑が行われ、牛窪の地名となったという。日本でも股裂きの刑があったのだろうか? 

Img_4926 由来碑

Img_4933玉川上水

四谷大木戸手前の水番所まで流れ、そこから先は木樋や石樋を用いた地下水道で、江戸市中へ分配されていた。

Img_4938 北向子育地蔵

右が大原稲荷神社 

Img_4937 大原稲荷神社 《地図

Img_4941 塩硝蔵跡あたり(右・明治大学)

【ル-ト地図】の9

甲州街道沿いの明治大学和泉校舎と築地本願寺和田堀廟所の敷地は江戸時代、幕府の鉄砲弾薬等の貯蔵地だった。説明板があるはずだが見当たらず。

築地本願寺和田堀廟所の先で、寺院が並ぶ通りに入る。

Img_4946 真教寺 《地図

民家っぽい感じの寺だ。麻布→浜町→(明暦の大火(振袖火事)で焼失)→築地→(関東大震災で焼失)→現地→(大空襲(昭和20年)で焼失)→再建という艱難辛苦の流転の寺。

Img_4948託法寺善照寺法照寺栖岸院永昌寺龍泉寺と並んでいる。

いずれも江戸市中から移転してきた寺。

Img_4951栖岸(せいがん)院

江戸時代には、住職が将軍に単独で拝謁のできる”独礼の寺格”を許されていた。

Img_4958 北向地蔵・六地蔵(龍泉寺)

北向地蔵は熱さましにご利益があるという。北を向いているので冷えるということか?

Img_4959 永泉寺坂 《地図

昔、永泉寺がここにあり、後に永昌寺と合併した。そこで永昌寺と龍泉寺の間の坂をこの名で呼ぶ。

Img_4961坂上の玉川上水永泉寺緑地

Img_4969 覚蔵寺

日蓮上人の作という鬼子母神像を安置する。

Img_4977 宗源寺 《地図

境内の不動堂はかつて高台にあったため、「高井堂」と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源となったとする説がある。右は樹齢350年というラカンマキ。

寺の左隣が下高井戸宿の本陣「富吉屋」跡、高札場跡で、道路の向い側が問屋場跡ともいうが、何の表示・説明板もない。宿業務は上・下高井戸両村が半月交替で分担していた。上高井戸宿本陣並木家「武蔵屋」は、この先環八通りとの交差点の北東角にあったというが、これも何の痕跡もない。

Img_4984 下高井戸一里塚跡(4里) 【ル-ト地図】の10

高速道路下に塚があったそうだ。ちなみに1里目は半蔵門前あたり、2里目は新宿追分あたり、3里目は渋谷区笹塚2-12付近のようだ。ここは鎌倉街道入口交差点で北に進めば鎌倉橋(神田川)から五日市街道の鎌倉橋バス停付近へと通じている。

Img_4983 説明板

Img_4987 環八通りの高井戸陸橋をくぐり、左に旧道に入る。

Img_4999 ①下山地蔵・②大橋場の跡碑(左) 《地図

①下山家にゆかりの地蔵のようだ。②碑の後ろを流れていた烏山川に架かる大橋があった。碑の前の道は下道と呼ばれた古道で、南へ延びていて烏山神社へ続いている。

Img_4991_2下山地蔵由来碑

細かくて読みづらい。

Img_5005 給田坂を下り大川橋(仙川)を渡り、仙川坂を上り調布市に入り国道20号に合流する。《地図

Img_5007昌翁寺

調布七福神の寿老人。

Img_5011 仙川一里塚跡碑(5里) 【ル-ト地図】の11

Img_5012 碑文

Img_5014 新旧滝坂

信号の先で旧滝坂が右へ分岐

Img_5017瀧坂旧道碑(左)

ここが「馬宿 川口屋」跡で、渋谷の道玄坂上から来た滝坂道の終点でもある。

Img_5019 滝坂を下る。 【ル-ト地図】の12

甲州街道が武蔵野段丘崖を上下する坂で、東上する通行の人々や物資の輸送に当たる馬方らに難所の一つとして数えられたという。この坂の名は、大雨の時、雨水が路上を滝のように流れ下ったことから付いたと言われる。八王子以東で甲州街道の旧観をとどめる唯一の貴重な場所『調布の古道・坂道・水路・橋』

わずかに往時の面影が残る所か。左に薬師如来と地蔵。

Img_5020 薬師如来と首の欠けた地蔵。

Img_5025 金子のイチョウ 《地図

ここはもと金子村で、鹿島屋の山岡家の敷地内。竹藪の向うにイチョウと稲荷の祠がある。

Img_5024 説明板

柴崎駅入口交差点で佐須街道が右から合流する。

Img_5029 馬橋から野川

Img_5030 旧甲州街道入口交差点から左に入る。《地図

Img_5033布田五宿(国領、下布田、上布田、下石原、上石原)の国領の家並み

電柱の右に庚申堂

Img_5032 庚申塔

Img_5041 一願地蔵堂(正面)・小橋の馬頭観音堂(右)(常性寺境内) 《地図

Img_5036 小橋の馬頭観音(文政7年(1824)造立)

現在の馬橋から西50mにあった小橋の「捨て場」にあったもの。

Img_5035 説明板

Img_5038 一願地蔵尊

Img_5045天神通り商店街を北に行けば布多天神社があるが、「調布市の坂③」で寄っているので遥拝のみ。《地図

Img_5047 小島一里塚跡(6里) 【ル-ト地図】の13

「えの木」駐車場は昭和40年頃まで塚上にあった「榎」からつけた名だろうか?

Img_5048 小島一里塚跡碑

Img_5050 説明板

Img_5051 旧家

今は無住のようだが?

Img_5054 「火の見下」バス停近くに確かに「火の見」がある。

Img_5058常演寺門前の地蔵 《地図

今日の暑さには打ってつけな、涼しげな格好の好々爺という風だ。

Img_5062 源正寺前の地蔵・庚申塔

開基の太田対馬守盛久は120歳まで生きたとか。

Img_5070 西光寺山門・奥に鐘楼付き仁王門 《地図

観音三十三身像』(調布市文化財)

Img_5073 説明板

Img_5067 近藤勇像

山門の左側にいかめしく、深刻そうな顔をして座っている。近藤勇は上石原村の生まれで、野川公園(野水1)の南側に生家跡がある。『三鷹市の坂』に記載。

Img_5069 説明板

Img_5079 飛田給薬師尊 《地図

元仙台藩士の松前意仙は諸国遍歴の末、ここを生涯の地と定めて庵を結んだ。医業のかたわら仏道に志し、人々を救済するため石の薬師尊を刻んだ。薬師尊像完成の後の元禄15年(1702)、傍らに穴を掘り、その中に入って鉦を叩き経を唱えながら、そのまま入定(死去)したという。

Img_5082 説明板

Img_5081 行人塚

村人によって築かれた松前意仙の墓。昭和47年の塚の改修の際に遺骨が確認され、もとどおりに埋葬されたそうだ。

Img_5080 説明板

Img_5085 飛田給薬師尊の西側から品川街道(品川道・いかだ道)を進む。この道筋は江戸時代初期以前の甲州古街道で、次の常久一里塚(7里)は品川街道沿いにある。《地図

甲州街道が整備される江戸時代以前から武蔵の国府の府中と江戸の品川を結んでいて、大國魂神社の大祭に用いる清め水を品川沖から汲む禊祓式(みそぎはらえしき)に向かう神主たちや、奥多摩の材木を筏に組んで品川へ運んだ筏師たちが帰りに歩いた道でもあったという。

 

 

 

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