甲州街道(駒木野宿→小仏宿→小原宿→与瀬宿→吉野宿)
2011年4月22日
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【ル-ト地図】
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駒木野宿 《地図》
宿場の面影は残らず、本陣跡・脇本陣跡なども分からず。左は駒木野病院。小仏関跡手前左に駒木野橋碑がある。
【ル-ト地図】の26戦国時代には小仏峠にあった。江戸時代に甲州街道が整備されるに伴いここに移された。
旅人は手形石(奥)に手形を置き、手付石(手前)に手をついて通行の許しを待ったそうだ。
今は緩い坂だが、昔は大変な急坂で念仏を唱えながら上ったのでこの坂名とか。
ほかに青面金剛塔・南無阿弥陀仏碑などが坂の途中左側に並んでいる。
右端に蛇滝への道標が立つ。
「上行講」という講を組んで、蛇滝で水行を行った人達が記念として立てたのだろう。
昭和20年年8月5日12時20分頃、新宿発長野行の中央本線下り列車が湯の花トンネル付近で、米軍の戦闘機に銃撃された。2日の八王子空襲で線路に被害を受け、運転が再開されたばかりで、列車は長野、山梨の疎開地に向かう人で満員だった。死者は52名以上となり、列車銃撃事件としては日本最大の被害者を出した。
当時は単線だった。
「するさし(摺差)のとうふ」の峰尾豆腐店は客が並んでいた。相当うまいのだろう。食べてみたかったがこれから小仏峠への上りだし、先も長いので止めといた。
何が国際なのか?
小仏バス停あたりが小仏宿だが、民家がわずかにあるだけだ。
宝珠寺の「小仏のカゴノキ」(都天然記念物) 《地図》
幹が鹿の子模様になることから「鹿子の木」と書いてこの名が付いたという。
小仏一里塚跡あたり。ここから峠までは大した距離ではない。
武蔵国と相模国との境。かつて峠に1寸8分の小さな仏が安置されていたともいう。峠は広い平坦地になっていて茶屋跡などいろんな物で雑然とした感じだ。
昔この地に小仏関があった頃、道行く人の安全を願って立てられたという地蔵 。
三条実美歌碑(左)
「来てみれば こかひはた織り いとまなし 甲斐の旅路の 野のべやまのべ」
高尾山薬王院に詣でた時に詠んだ歌。当時は生糸が高騰し、「蚕飼い機織り」で賑わう様子を歌っている。
車道に出るとあちこちに猿の姿が。ハイカーやドライバーが餌を与えるのだろうか。
おじいちゃん、おばあちゃんに手をひかれ、美女谷温泉に向かうのは照手姫のように愛らしい子だった。(としておこう)
甲州街道は左折し、再び中央高速をくぐる。
照手姫を美女谷の生まれとしている。各地に残る『小栗判官照手姫伝説』の一つ。
モノレールのような中央自動車道が頭上を通る。無機質な自動車の通過音が不気味に響く。昔の旅人なら恐れおののき、腰を抜かすか一目散に駈け出したことだろう。
馬頭観音(右)の脇を上るのが本来の道だが、廃道となっている。
ここを上った先に底沢一里塚があったようだ。
底沢バス停で国道20号に合流。《地図》
資料館になっている。
神奈川県下には東海道と甲州街道合わせて26軒の本陣があったが、建物が当時のまま残っているのはこの小原宿本陣だけだそうだ。
小原宿と次の与瀬宿は片道継立の宿で、甲州へは小原宿から吉野宿へ継ぎ、江戸方面には与瀬宿から小仏宿へと継いだそうだ。
ここに泊まれるのは裕福な者達だけだったか。
上部が欠けている。
「旅館ひらの」の看板前から右に旧道を上る。大きく北に迂回する感じの道になる。《地図》
中央線を越えて下って行く。途中右にUターンするように「えんどう坂」を下る。
左のえんどう坂を下る。坂を拓いた「遠藤」さんの家が坂沿いにあるのか? 確認するのを忘れた。それとも「えんどう」には別な由来があるのか。
正面は中央線で相模湖駅の方へ下って行く。
国道20号に出ると与瀬宿となる。
与瀬宿本陣跡(右)を右折 《地図》
建物は普通の民家になっている。木々に隠れて「明治天皇與瀬御小休所址碑」も立っている。鮎が名物の宿場だったそうだ。
与瀬神社・慈眼寺
下は中央自動車道。
地図の通りに「細い取り付け道をくぐり」、「砂利道」、「古道復活道」を行こうと思ったが、「細い取り付け道」が分からず進んでしまい、誰もが通る普通の道筋を行くことになった。この付近の道筋はちょっとややこしい。【ル-ト地図】の「与瀬一里塚跡」あたり参照のこと。
復活した古道はここへ出てくる。ここを手前にちょっと上ると「与瀬一里塚跡」の標柱が立っている。《地図》
古道を進むと歩いてきた道(左)と合流する。合流点先に「甲州道中横道」の標柱が立っている。《地図》
秋葉神社は木の鳥居だけか? 道沿いには二十三夜塔・地蔵など。
二十三夜塔・庚申塔・首の欠けた地蔵など。後ろに小祠もある。(「甲州古道 間宿橋沢」標柱の先)
板金店の先で左折し下って行く。《地図》
右に「甲州古道 赤坂」の標柱。
古い街道の道筋は相模湖北岸を通って、ここを上って来たのだろうか。左が今下ってきた道。
このあたりは蚕影信仰が盛んだった。養蚕の神の蚕影神社が茨城県つくば市にある。
旅籠ふじ屋の後の養蚕のための建物で、組頭だった大房家から寄贈を受け資料館とした。
吉野宿本陣跡 《地図》
吉野家は承久の乱(1221)で天皇方についたが、戦いに敗れて大和の吉野からこの地に移り住み、開拓したという。江戸末期は五階建てだった。(下の写真)
昔は少し下流に架かっていて、大月の猿橋に似た造りで、「小猿橋」といった。
右に旧道に入る。 藤野中学校の先で国道20号に合流し、日連入口交差点を過ぎて藤野駅に出た。
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