青梅街道③
2011年4月4日
田無駅(西武新宿線)・・・田無駅北口交差点・青梅街道・・・庚申塔・百箇所供養塔道標・田無町5丁目交差点(府中道)・・・久米川道分岐・・田無用水跡・馬頭観音・地蔵道標・・・橋場交差点・地蔵・庚申塔・・・北芝久保庚申塔・・・円成院・・一願也地蔵・・・(小金井街道)・・・子守地蔵・・・武蔵野神社・・地蔵堂跡・・・(西武新宿線)・・・多摩湖自転車道・小平ふるさと村・・・(新小金井街道)・・・延命寺・多摩野神社・・・熊野宮・・・平安院・・馬頭観音・・・西武多摩湖線(青梅街道駅)・・・新小平駅(JR武蔵野線)
【ル-ト地図】
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庚申塔(右)・百箇所供養塔道標(左・安永5年(1776)) 《地図》
供養塔の右側面に「是よりふちう道」
馬頭観音(右)と地蔵道標(左)は、もとは青梅街道との分岐点にあったもの。 承応3年(1654)に玉川上水が開削されて間もなく、明暦3年(1657)に玉川上水から小川分水が引かれる。その小川分水から更に分水されたのが新堀用水。そして元禄9年(1696)に玉川上水に沿って進んだ新堀用水から更に分水されたのが田無用水だそうだ。
天保15年(1844)造立
「右 くめ川 をんだ」・「左 をめ」
橋場交差点 《地図》
青梅街道(直進)と成木往還(右)との分岐に地蔵と庚申塔の祠。左折は立川道(鈴木街道)。青梅街道を横切る田無用水に橋が架けられていたことによる地名という。
色褪せ、薄汚れたコートを被せられ迷惑顔、可哀そうな地蔵 さん。庚申塔にも布?が載せられている。
延宝2年(1674)建立で、青面金剛像のない古い形式のもの。
円成院(えんじょういん) 【ル-ト地図】の16
野中新田を開発した黄檗宗の大堅が享保11年(1726)に上保谷村から引寺。
文化5年(1808)の造立というが、由来は分からず。
文化13(1816)年生まれの浅田秀五郎は小平の良寛といわれ、無類の子供好きだった。「死んだら地蔵にしてくれ、子供を数多くの災難から救いたい」と遺言し没したという。文久3年(1863)年、その甥の勘兵衛がこの地蔵を建立したという。
青梅街道沿いにある手打ちうどん指田屋の店主が造って寄贈したそうだ。強そうだがちょっと威厳さに欠けていると思うが。
地蔵堂跡 《地図》
手前が地蔵堂供養塔
佐渡の小浦村の呑海が、安永9年(1780)に名主の先代の高橋定右衛門宅で世話になった折に造ったもの。明治3年の御門訴事件(武蔵野新田12か村が品川県の社倉政策に反対し、日本橋浜町の品川県庁の門前で門訴を行なった)で獄死した定右衛門の墓はこの奥の墓地にある。五日市街道の武蔵野市関前3丁目には御門訴事件記念碑が立っている。
旧神山家の主屋
左端に庚申塔(笑う庚申)
笑う庚申(嘉永3年(1850))
熊野宮(一本榎神社) 【ル-ト地図】の18
夫婦欅(ケヤキ)
昔はこのあたりは荒涼たる武蔵野の原野だったが、遠くから眺望できる大木で、街道を行く人々の目印となっていた。
馬頭観音(享保2年(1717)) 《地図》
小川弥一郎たちが造立したという。この先で旧小川村に入ると道幅が広くなり、そこに馬継ぎ立て場があった。
府中街道までの1.3kmの間が石灰などの荷物の馬継ぎ立て場だった。
まだ1時を過ぎたばかりで10kmも歩いていないが、帰りの交通の便がいい武蔵野線の新小平駅から帰路についた。
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