甲州街道(金沢宿→上諏訪宿→下諏訪宿)
2011年5月16日
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【ル-ト地図】
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富士見高原を行く。と言ってもすぐ原の茶屋の集落に入って行くが。
とちの木村と御射山神戸村の間は距離が長く人家も無く、旅をするのに不便であったため、安永元年(1772)頃に松目新田の名取与兵衛が向原に出て茶屋を始めた。その後ここを中心にして次第に人家が増えて周囲の村と紛争が起きたので高島藩が40間四方の築地を築かせその中で茶屋を営ませたという。
「左千夫は・・・入信し・・・」とあるから、何かの宗教へ信者になったのかと思ってしまった。よく読むと信州へ入ったということだった。
公園にゆかりのある伊藤左千夫、島木赤彦の歌碑や、芭蕉句碑などがある。
ここは標高961mで、笹子峠より100m低いだけだ。けっこう上って来たわりには集落内のせいか、それほどの高さは感じない。「駐輦之処」とは明治天皇が小休止した場所のこと。
「甘露、甘露」と誉めたか?
原の茶屋の集落を抜けて行く。左は旅館「桔梗屋」跡か? 明治から大正にかけ島木赤彦、土屋文明、竹久夢二、斎藤茂吉、田山花袋ら多くの歌人、文人が訪れたという。
前方はカゴメ工場の大きな敷地 《地図》
この先単調な道を進み、枡形跡を下りて国道20号と合流し、間の宿だった御射山神戸(みさやまごうど)地区に入る。
御射山神戸八幡神社 《地図》
社殿左は樹齢400年近いケヤキ。社殿の右前下に芭蕉句碑、左前下に双体道祖神がある。
「雪散るや 穂屋の薄(すすき)の 刈り残し」
お互いの手が怪しげな所に延びている?
馬頭観音の所で左へ旧道を上る。《地図》
東西の塚が残っている。特に西塚上の樹齢400年近くの大ケヤキは根で塚を鷲づかみにしていて見事だ。
簡単に揺れる不思議から道中の名物であったとか。民家の畑の中だし試しには行かなかった。下は国道20号で、この先で合流する。
高島藩によって処刑された金沢宿本陣小松三郎左衛門の墓がある。右の木の下に「おてつき石」がある。宿の上下(かみしも)の入口に1つづつあり、藩主などの往来の時に、宿役人がこの石に手をついて宿役人である趣を言上 したとか。小仏関所にあった「手付石」といい、いやな時代だねえ。
本陣小松家跡(金沢交差点の所) 《地図》
建物は残らず。本陣1、旅籠17の宿で、元は青柳宿といい、北西の権現原平(権現の森)に設置されたが、宮川の氾濫や大火で焼失するなどで、この地に移り金沢宿と改称した。
高島藩のひどい仕打ちが書かれている。
左は茶屋近江屋跡
左の大きな石の前に「馬繋ぎ石」がある。
すぐ先を右に入った所に処刑された小松三郎左衛門を供養する如意輪観音堂があるそうだ。
この中に処刑された小松三郎左衛門を供養する地蔵があると伝えるそうだが、どれかは分からず。ここはリサイクル用の置き場になっていて、「古新聞」・「古雑誌」などの札が掛かっている。
ここがかつての青柳宿跡
正面の石祠の後ろが説明板の承応3年(1654)建立の石祠だろう。
この先の茅野駅近くの店で、「寒天チキンカレー」と「寒天フルーツ蜜豆」を昼飯にした。
【ル-ト地図】の22宮川の向う側にある。
右にUターンするように上る。もとは斜め前方に進みJR線路を横切っていたのだろう。《地図》
宮川沿いになり、この先でJRガードをくぐり、宮川坂室交差点で国道20号に合流する。《地図》
酒室神社境内 《地図》
古墳という「雨降塚」碑が立っているが、古墳の形ははっきりしない。酒室神社は、御射山祭りに濁酒(どぶろく)を作り、山の神に供える前夜祭をとり行った神聖な地に、酒解子之神(=木花咲耶姫)を祭神として祀った。
手前に茅野一里塚跡があるはずだが見つからず。
【ル-ト地図】の23 【ル-ト地図】の24松川村の鈿女(うずめ)神社から分祀された、「天の岩戸神話」でお馴染みの天鈿女命を祀る神社。後には猿田彦神と共に「道祖神」として祀られるようになった。
旧家 《地図》
ここも明治天皇小休所の五味邸の敷地内だったのか? 変わった造りの建物だ。地図には「米屋金物店」とある。 今は修理か解体をしているようだ。
敷地内には貧乏神神社が祀られている。不愛想で有名な看板犬?が見張っている。
諏訪家中興の祖の諏訪頼忠(武田信玄に滅ぼされた頼重の従弟)の菩提寺。
まだ先が長いので遥拝のみ。
上原八幡神社 《地図》
高島藩主が参勤交代の折には、下乗して道中安全を祈願したにしては社殿も小さく質素な造りだ。向いに別当寺だった極楽寺がある。
この先で甲州街道から離れ、鍛冶小路から千鹿頭神社、板垣平、上原城跡の下を通り、頼岳寺に寄り、大門道の追分で甲州街道に合流する道をたどる。
右に金剛寺跡の石碑が立つ。
鍛冶小路に入り上る。渋沢小路から大門道に合流するのが甲州街道の道筋。遊女小路なんてのもある。
千鹿頭神社 《地図》
前方が板垣平(板垣城址)あたりで、その上が上原城跡)
大門の追分 《地図》
道標・常夜灯が立つ。左から上って来る渋沢小路が甲州街道。
右が甲州街道で、左が今通って来た大門道。
火燈(ひとぼし)公園 《地図》
御柱年の盆の15日の夕、頼重院の裏山の「火燈し場」で諏訪大社へ鳥居火を灯して奉納したことを記念した公園。
武田信玄によって滅ぼされた諏訪頼重の菩提寺。頼重の娘が信玄の側室の諏訪御料人で、武田勝頼の母。
【ル-ト地図】の26スーツ姿の訪問販売の若者がこれを見ていて、一里塚とは何かと聞かれ説明した。彼は歴史に興味があると言っていたが、一里塚も知らないとは。
左が甲州街道で「江戸みち」
諏訪頼重は上原城からこの城に逃れ籠城したが、落城寸前に開城し降伏した。そして甲府へ送られて幽閉後、自刃した。
【ル-ト地図】の27脚摩乳命(あしなづちのみこと)を祀る。別名を足長彦神といい、諏訪大社の祭神・建御名方命に随従する神。スサノオのヤマタノオロチ退治伝説の奇稲田姫の父親でもある。
足も長いが石段も長い。ここで遥拝でご容赦を。
古墳の石室のような中にしっかりと守られ雨風の心配もなく、いつもいちゃついていられる幸せな2人か。
道祖神の後ろに「こんぼった石」
説明板もあるのだが小さな字で読みにくく、内容も迷文で分かりづらい。船の「舫(もや)い石」だったようだが。
国道に合流し甲州街道最後の上諏訪宿に入る。宿は上町・中町・本町で形成され、街道沿いには酒蔵が建ち並んでいた。本陣1、旅籠14の宿だった。
ワラ製品・荒物・雑貨の「丸二河西本店」
右の店舗はトラックに突っ込まれほぼ全壊で、復旧工事中。八丁堀の居酒屋「真澄」にはよく通ったものだ。今もあるだろうか。
生まれは諏訪の下桑原村。辞世の句は「春にわれ 乞食やめても 筑紫か奈」
豆・胡麻・胡麻油の店
諏訪仲町バス停あたりが本陣跡らしいが、何の標示もない。
【ル-ト地図】の28足長神社と平等にと勝手な言い訳をして、ここも遥拝で済ます。
吉田の松 《地図》
大きな盆栽風な松だが、樹齢は300年もあるそうだ。
【ル-ト地図】の29あと一つで一里塚も終わる。けっこう疲れてきた。
温泉寺から諏訪湖
下は多宝塔
これを探すのに本堂左右の墓地を上の方まで2回上り下りする苦労を味わった。墓は京都府木津川市の「山城古道」沿い、兵庫県伊丹市の「西国街道」沿いや、京都市の誠心院にもある。
ここからさらに上方に高島藩諏訪氏の歴代藩主の廟所があるようだ。
社殿前に「児玉石大明神」と称したという「いぼ石」が2つ。
先宮神社 《地図》
もとはこの地の産土神だったが、建御名方命が出雲を追われ諏訪に入った時に抵抗して服従したため、他の場所へ移ることを許されず、境内前の小川には橋も架けられなかったと伝えられている。祭神の高光姫命は、諏訪大社の祭神の建御名方命の姉という。
ここにも御柱が立っている。
高島藩の御用商人だったそうだ。
昔は諏訪湖が真下まで迫っていたので、湖面に向かって石を投げた場所だそうだ。
【ル-ト地図】の31甲州街道最後の一里塚跡で、あと一息、十一町(1100m)で中山道に合流だ。
承知川橋の橋石 《地図》
武田信玄ゆかりの橋で、表面の煉瓦模様は信玄の埋蔵金の隠し場所の地図だったとも。
諏訪大社下社秋宮
正面は夜中にいびきをかいて寝るという「寝入りの杉」。小枝を煎じて飲ませると子供の夜泣きが治まるとか。
塩羊羹の「新鶴本店」
「かめや」の看板下に「甲州道中 中山道合流之地」碑が立つ。
駐車場の奥に「甲州道中終点 中山道下諏訪宿問屋場址碑」(右)・「綿の湯碑」(左)
合流地点から中山道を通り下諏訪駅に向かう。次は梅雨に入らない前に熊野古道の紀伊路の続きを歩きたいが、どうなることやら。
明治時代の建物だが、江戸時代の宿場民家の特色を残しているそうだ。
国道20号に合流 《地図》
左が高札場跡
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