甲州街道(台ケ原宿→教来石宿→蔦木宿)
2011年5月15日
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今日は黄砂も飛んでないようですっきり晴れた。左に甲斐駒、鳳凰三山、右の七里岩の向うに八ヶ岳、花水坂からは富士山を眺めながら国堺橋を渡り長野県に入り、信濃で最初の宿場の蔦木宿を通り、小高い富士見峠あたりまで歩く。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
甲斐駒ヶ岳(右・2967m)・鳳凰三山(地蔵岳(2764m)・観音岳(2840m)・薬師岳(2780m))
(武川)一里塚跡 《地図》
国道20号に合流する手前右下に石柱が立つ。
「甲府ヨリ六里ナノデ 六里塚トモ云う」とある。
万休院の「舞鶴松」は2008年に枯れて「万事休す」となってしまったので寄らずに行く。庭園も見事というが、それほどの数寄者ではない。
【ル-ト地図】の7木の下に石柱。
かつての信州往路で、古甲州街道の「はらぢみち」(原路通)の道筋。西は台ケ原宿へ通じ、東は長坂町渋沢から七里岩沿いに青坂(車坂)を下って韮崎宿へ通じている。
坂の途中の休憩所
「富士見三景」の一つ。目で見るともっとくっきりしているが、写真だと霞んでいる。
【ル-ト地図】の9馬頭観音(3基)で2基は道標も兼ねている。
「右 かうふみち」・「左 はらぢ通」(安永5年(1776)建立)
もう1基には「左りはらみち」(寛政4年(1792)建立)
馬頭観音・庚申塔・説明板(左)の並ぶ一般道となり、国道を横切り台ケ原宿へと入って行く。
右上の「甲州街道古道」(はらぢみち)を通って台ケ原宿へ入った。
【ル-ト地図】の10右に秋葉山燈籠と本陣跡標柱が立つ。向い側が脇本陣跡。
七賢酒造(山梨銘醸)
左に北原家住宅が続く。
寛延3年(1750)に信濃の高遠から移住して造酒屋を営んだのに始まりという。幕末には信濃諏訪高島藩の御用商人になった。明治13年の明治天皇巡幸の際には菅原行在所として使われた。
元祖「信玄餅」の店
童歌『ずいずいずっころばし』にも歌われた、悪名、悪評高き「お茶壺道中」の連中もこんな所へ泊まったのだ。
【ル-ト地図】の11左に石柱が立つ。「日本橋から四十三里十町余」とある。
今は使用されてなく、右の新しい建物で営業しているようだ。
白須松林跡碑(右)・宗良親王歌碑(左)(竹花スポーツ広場(前沢ちびっこ広場バス停))
平安時代からの4kmにも続く松林は昭和10年代に伐採されてしまった。宗良親王の歌の前書き?にも「志らすといふ所の松原・・・」とあるが、今は全く痕跡をとどめない。
下教来石交差点の先で左折し、地名の由来という「教来石」に向かう。
「教来石」は墓地の前を通った先の畑の中にある。
教来石(きょうらいし) 《地図》
説明板、標示などはない。上には道祖神が5体乗っている。日本武尊が東征の折りに座った大きな石を、村人が「経て来石(へてこいし)」と呼んで村名にしたが、経を教と書き誤り、今の名になったとか。また一説には国の境を清める「清ら石」の祭祀が宿名の由来とも伝えるそうだ。このあたりには同じような石がいくつもあり、そのどれもが教来石だともいう。
【ル-ト地図】の12「明治天皇小休所跡」碑のみ。本陣1、脇本陣1、旅籠7軒の甲州最後の宿場だったが、往時の名残りは感じられない。もっともこの宿場は旅人のためではなく、甲州と信濃の国境の警備が目的で、「山口関所」が置かれた。
郵便局の手前で右に旧道に入る。《地図》
本殿の彫刻を見損ねた。
ここから明治天皇が明治13年6月23日に田植えを眺めたという。今日から1ヶ月ちょっと後だ。随分と遅い田植えと思うが、ここは標高が600m位はあるからその時期か。今は水が張られ田植えの準備中か、それとももう済んだのか? 七里岩の向うに八ヶ岳。
こんなアホラシイ物をよく建てるよ。それを写真に撮るアホもいるが。
今も水が流れ出ている。明治天皇は神だったから生水を飲んでも腹をこわしたりはしなかったろう。
開山は蘭渓道隆というが、境内は荒れた感じだった。
蘭渓道隆が立てたという地蔵や庚申塔、甲子塔、馬頭観音が並ぶ。この前で右に入って行く。
説明板には石地蔵は「最近ではいくつかの交通事故を救ってくれた」と訳の分からぬことを書いている。
山口関所跡 《地図》
天保7年(1836)の甲州騒動の際に関所を開門した番士の名取氏が後に若尾氏に改姓し、その若尾氏の子孫が建てた碑。開門したことを手柄、誇りと思っているのだろうか。甲州騒動といえば、犬目宿の犬目兵助のことを思い出した。
手前の高台に「山口素堂の生誕地碑」があるのだが、見逃して通り過ぎてしまった。
新国堺橋(右)を渡らず国道を横切り直進し、国堺橋に向かう。渡るとセブンイレブン跡の敷地内に山口素堂の句碑が立つ。
「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」 左のセブンイレブンは廃店になっていた。
国堺橋を渡るとネットが行く手を阻む。《地図》
小動物除け電流ネット(7000Vとか)が張られ、「危険さわるな!」の標識が掛かっている。左のポールの低い黒の方を帽子とタオルでつかんでずらして開けて通り抜ける。天下の往来、五街道の甲州街道にこんな物を設置して何の説明もない。富士見町の木っ端役人の猿智恵に腹が立つ(猿は笑っているか)のは拙者だけではあるまい。
坂の途中の教冠院か、坂上の真福寺に由来する坂名か。
馬頭観音、双体道祖神、歌碑などの石造物が並ぶ。
堂坂の坂下にしだれ柳の大木があったというが、逸見路と武川路(甲州街道)の追分にあったのでは。
日蓮がこの石の上で悪疫封じの加持祈祷を行ったという。
もとは少し先の逸見路と武川路の分岐にあったものだろう。《地図》
へみみち(逸見路)は古甲州街道の一つで、台ケ原宿を経由しない道筋なので、「韮崎まで無宿」ということか。武川筋は甲州街道のこと。
上部は欠けているようだ。文字はかすれて読めず。
「応安の古碑」の碑 《地図》
手前の新しい「応安の古碑」の碑と左の「子乃神塔」の間の後ろの台座のような石が「応安の古碑」。
宝篋印塔の基礎石らしい。右に「應安五壬子年十二月初日」と刻まれている。応安5年は1372年で、金石文の年紀としては諏訪地方で最古のものという。
「南の枡形道路」を通り宿に入る。
右の記念碑の位置が元の枡形の所。今は少し先を左折する。
蔦木宿の家並み 《地図》
国道沿いが宿場で、屋号札が掛かっている。
【ル-ト地図】の15門だけ残っている。
岩田屋建材の現場脇から旧道に入り、神代交差点手前で国道に戻る。国道沿いの左下に平岡一里塚跡があるというが見逃した。
机の標識で右に上る。《地図》
瀬沢大橋を渡り旧道に入る。
瀬沢地区の家並み 《地図》
何の店か?
中央に「富士・・・・」、右下に「右・・道」、左下に「左・・道」?
左前方の石垣前の石造物の中にも道標がある。
「右 左」だけは読めるが・・・。
瀬沢古戦場跡 【ル-ト地図】の17
しらかば園前あたりは平坦地になっている。まさに富士見高原という感じだ。正面方向に街道は続いて行く。《地図》
尾片瀬神社(右) 《地図》
寛政年間(1789~800)に設けられた防風林で、甲州街道に直交している。
一里塚跡碑(右)には「従江戸四十七里」とある。左は道祖神
T字路 《地図》
このあたりは標高950mほどだ。もとはこの台地を真っ直ぐ突っ切っていたのだろう。今は左折してしばらく行き右折して行く。今日はここまでとし、右折し富士見駅に向かう。
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