甲州街道(黒野田宿→笹子峠→駒飼宿→鶴瀬宿→勝沼宿→栗原宿→石和宿)
2011年4月30日
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今日は笹子峠を越えて一気に石和宿までの30km以上の長い行程だったが、峠を越えて一般道に出てからはずっと下って行くので思ったより楽だった。
【ル-ト地図】
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地蔵というより少年力士のようだ。
本陣1、脇本陣1、旅籠14軒の宿場。
『広重道中記』には、「扇屋へ行く、断る故若松屋といへるに泊まる、此家古く、今きたなし、前の小松屋に倍して、むさいこといはん方なし、壁崩れ、ゆか落ち、地虫座敷をはひて、畳あれども、ほこり埋み、蜘蛛の巣まとひし破れあんどん、欠け火鉢一ツ、湯呑形の茶碗のみ家に過ぎたり」とたいそうご立腹で、散々のいわれ様だ。前の小松屋とは野田尻宿でのことで、そこでもかなり怒っていたが、ここの方が怒りも倍している。
左の門柱の左側に「一里塚跡 黒野田」の標柱、右の門柱の右側に「江戸日本橋ヨリ二十五里」の石柱が立つ。普明院は毘沙門天で有名な寺。
ここは三軒茶屋跡(中の茶屋・笹子茶屋ともいった)
矢立の杉 《地図》
出陣する武士がこの杉に矢を射立てて冨士浅間神社を祀り、戦勝を祈願したという。樹齢は千年以上。
根元は空洞になっていて、以前は中に入って空を眺められたようだが今は立ち入り禁止。ボランティアの管理人のおじさんの話だと、根元部分に苔が生えてきて木の状態は良くないそうだ。
杉良太郎地蔵ともいい、「矢立の杉」の歌もあるが、あまり聞く気がしない。
この先は一たん下って沢を渡る。
涸れている沢を丸太のような橋で渡る。道っぽくない所だ。雨が降ると沢になるのか。
登山者だろうか車が数台止まっていた。
笹子峠への急登となるが距離は短い。熊が出るかどうかは、熊に聞かないと分からない。とっくに登り口から鈴をぶら下げ鳴らして歩いてはいるが、熊除けになるかも分からない。鈴の音を気に入った熊ちゃんが浮かれて出てくるかも知れない。
笹子峠(1096m)は近い。 《地図》
「大和村日影 かいやまと駅」方向に下る。
天神宮の鳥居と小祠(昭和56年)と常夜灯(享保14年(1729))。
峠から下ってトンネルの反対側に出る。ここにも車が駐車している。
県道を少し下り「甲州街道峠道」の標識に従って左に山道に入る。
再び県道に接近する所に甘酒茶屋の標柱と、その先に清水橋への標識が立つ。
林道から離れ右へ下る。ここにも「甲州街道峠道」の標識が立つ。
小さな沢を渡る。橋はないがたいした水量ではない。雨の時は分からないが。
「雑事場の馬頭観音」(嘉永5年(1852))は見当たらない。
自害沢天明水の方へ入ってみたが、どの位先にあるのか分からないので引き返した。またどういう由来があるのか調べても分からず。「自害沢」と「天明水」は別物かとも思った。
ここから5分も歩けば県道に出る。
県道をひたすら下る。車はほとんど通らないので歩きやすいが飽きてくる。
スサノオ命を祀る。
手前に脇本陣富屋跡(標柱のみ)、前方はジョギング姿で笹子峠を越えて来た若い2人連れの男女。宿の案内板を見ていたから甲州街道を走っているようだ。県道を走って笹子トンネルを抜けたのか、山道を走って峠越えをしたのか聞けばよかった。
本陣1、脇本陣1、旅籠6軒。
追剥に襲われ首を切られた巡礼を供養するため村人が立てた地蔵という。これが「歴史の道調査報告書」に載る「西ヶ原の首無し地蔵」のことだろう。 今は首はある。新しく据えたものなのか、初めからあるのか確認しなかった。
国道20号に出て、立会橋の先で左に旧道に入る。
巨勢金岡が日川沿いの岩壁に地蔵を描き、水をかけると地蔵像が鮮明に現れるので「水かけ地蔵」 とも呼ばれたという。岩は享保年間(1716~35)の水害で崩れ碑のみが立つ。
新府城から落ち延びて来た武田勝頼の腰掛石も付近にあるようだが見逃した。
「甲州十二関」の一つで、鶴瀬の口留番所といわれ、主に物資の流通と「入鉄砲に出女」を取り締まった。取り締まりは厳しくなく、平然と裏道を抜けて行く者もあったという。左隣が本陣塩野家跡で斜め向かいに関守の家があったようだ。
国道に出ると、「甲州街道 鶴瀬宿」の標柱、「鶴瀬地区」碑が立っている。
本陣1、脇本陣1、旅籠4軒の宿場。
【ル-ト地図】の55武田勝頼らが落ちて延びて行く時、勝頼の家臣の土屋惣蔵昌恒が逃亡した跡部大炊介を討ち取り、この沢で血を洗い流したという。跡部大炊介は最後まで勝頼に従い田野で殉死したともいう。
逃亡する長坂長閑が土屋惣蔵に追われ、落ちた鞍が路傍の桜の木に懸っていた所という。長坂長閑も勝頼に殉死したとするのが一般的なようだが、何故かこのあたりでは土屋惣蔵の活躍、カッコよさだけが強調されている。
京の清水から遷したものといい、養蚕の守護神としての信仰が篤く、4月3日の縁日には馬の藁沓半足を借りて帰り、後日1足にして返すという風習があったそうだ。ここが聖観音堂跡と思ったが、後日、ここからかなり上った墓地の方に、観音堂と納藁堂があることを知った。そして崖沿いを細い旧道が続き、観音トンネルの上を越しているようだ。残念至極後の祭りだ。
【ル-ト地図】の56今でもこの下の急峻な断崖の観音沢に吊り橋は架かっているようだが見逃した。
「観音の 甍(いらか)見やりつ 花の雲」
武田勝頼一行がここを通った折、武運長久を祈り、守りの不動明王像を村人に託した所という。
往時の道中の面影を残す共和地区の横吹あたり。横吹一里塚跡があったのはこのあたりか?
球形道祖神には、この先いやというほど出会う。
柏尾古戦場跡(深沢入口交差点の所)
【ル-ト地図】の57この近藤勇像の顔はどうもしっくりこないね。甲陽鎮撫隊は官軍との1時間ほどの戦いで敗走し、江戸まで逃げ帰るはめになろうとは情けない。ここは「鎮撫隊」ではなく、「珍舞台」となってしまった。
往時はここを下って柏尾橋で深沢川を渡っていた。この坂は「ころび石」ともいわれた急坂だったそうだ。
勝沼宿脇本陣家が中心で造った、3面に馬頭観音が彫られたすぐれ物。
養老2年(718)、修行中の行基の夢の中に、葡萄(ぶどう)を持った薬師如来が現れた。 行基はその夢を喜び、夢と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが始まりで、この地に葡萄が栽培されるようになった。甲州葡萄発祥の地の「ぶどう寺」。
新府城から岩殿城へ落ちて行く武田勝頼はこの寺で一夜を明かした。「武田滅亡記」ともいう「理慶尼記」を書いた理慶尼の墓もある。この寺は商売っ気が満々で入る気がそがれた。
養老2年行基がこの磐石上で修行中に、葡萄薬師如来の姿を見たというが、あたりに磐石は見当たらず。下の日川の川岸にあるのか? 修行中に居眠りをして夢の中で薬師の姿を見たということか。行基も俗人と変わらず一安心か? それとも居眠りして夢を見るのも修行の一つか?
国見坂を下る。(右に坂標) 《地図》
元和元年(1612)に甲州街道の往還筋の地名としてつけられたという。このあたりから甲府城が見えたのだろうか。何しろ笹子峠を越えてからずっと下りっぱなしなのだ。この先では同じ道筋でも「ようあん坂」と呼ぶ所もある。
勝沼氏館家臣屋敷跡 《地図》
勝沼氏は武田信虎の弟の五郎信友に始まる武田の親族衆。子の信元の時に、信玄により滅ぼされた。
勝沼氏館跡の前にある。
本陣1、脇本陣2、旅籠23軒。問屋場は中町にあり、江戸方面へは1~20日までは鶴瀬宿へ、21~晦日までは駒飼宿へ、甲府方面へは栗原宿へ継ぎ立てた。
中央に脇本陣・本陣、左端に問屋場・脇本陣が見える。
「槍掛けの松」は手入れ中。
小佐手小路 《地図》
突き当りに勝沼氏の菩提寺の泉勝寺がある。
蔵とその右が東屋敷で、その右端が西屋敷。左端は野田家だったか。
天野養庵(どんな人物なのか?)の屋敷が近くにあったとか。勝沼宿内で最も急な坂というがそれほど急には感じられない。このあたりは海抜400m、笹子峠からは700m近く下って来たことになる。
惣門、鐘楼門、本堂が一直線に並ぶ。
樹齢300年というケヤキ
延命地蔵堂 《地図》
丸顔の地蔵さんか。
【ル-ト地図】の59聖徳太子の命を受けて調子麿が開創したと伝えられる寺。当寺を訪れた親鸞が、杉の箸を地面に挿して帰った後、その箸が杉の大木になったとの伝承から「杉の御坊」と呼ばれるようになったという。この杉は寛延の火災で焼失した。その代わりムクの大木がある。
「行駒の麦に慰むやどりかな」
手前は聖徳太子の馬蹄石で、甲斐の黒駒に乗ってこの地に飛来した太子がこの石の上に駐まったという伝説がある。
山梨市に入る。甲府市・甲州市・甲斐市などどこも山梨県の本家を名乗っているようでややこしい。
白百合醸造では見学、試飲もできるというが、まだ先が長いので横目で眺め通り過ぎる。
往時の景観はない。本陣1、脇本陣1、旅籠20軒。
社殿の前が舞台にもなる歌舞伎造りという建物で、江戸からの芝居役者はここで興業し、評判を確かめてから甲府へ入ったという。
「老松」の標柱のように、今にも倒れそうで支えられている。
称名院のある一町田中交差点を右折し、田安陣屋跡による。
この先で日川の土手沿いに出る。南田中一里塚跡はどのあたりか。
白山神社 《地図》
この先で笛吹川に出る。
国道411号(左)と合流 《地図》
「甲州桃太郎街道」の標柱が立つ。桃の産地として有名だそうだ。国道に入ってしばらく行くとローラースケートの2人連れが追い抜いて行った。男だけ馬鹿でかいリュックを背負っていた。そこまでしなくてもよかろうに。女はつけ上がるだけよ。
【ル-ト地図】の61聖牛(せいぎゅう・復元・笛吹橋下)
武田信玄が考案した水防、治水工作物
笛吹権三郎像、球形道祖神のある分岐から右に「権三郎通り」に入る。《地図》
孝行息子というより、マザコン男の哀れで救いようがないお話。
石和川中島簡易郵便局で、「郵便 貯金 為替 ・・・」の看板が立っている。隣の長昌寺にも武田勝頼の腰掛石があったが明治の水害で流失したそうだ。
4時で閉門で入れず。八田家は武田家の蔵前奉行として、年貢や軍の食料を司っていた。門は石和陣屋の表門を移築した。
謡曲「鵜飼」の発祥地
【ル-ト地図】の62本陣1、脇本陣2、旅籠18の宿場。
現在は民俗文化財展示館
武田信光が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請。
笛吹権三郎像(第二平等川の石和橋) 《地図》
ここは明治40年の大水害までの笛吹川の流路。
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コメント
筆者の思い込み意見がいちいち失礼な内容で、気に障って最後まで読めませんでした。残念です。
投稿: | 2023年3月15日 (水) 07:13