甲州街道(関野宿→上野原宿→鶴川宿→野田尻宿→犬目宿→下鳥沢宿→上鳥沢宿→猿橋宿)
2011年4月28日
藤野駅(JR中央線)・・・関野宿・本陣跡・・増珠寺・・・名倉入口交差点・・旧道・・・境沢橋(境川)・・(山梨県上野原市)・・(境川橋手前)・・乙女坂・・諏訪関所跡・・・船守寺・・諏訪神社・・・(中央線)・・・諏訪橋(中央自動車道)・・・疱瘡神社・塚場一里塚跡・・・新町交差点(国道20号合流)・・上野原宿・・牛倉神社・・脇本陣跡・・本陣跡藤田家・・本町三叉路・旧道・・・原の供養塔・・原の馬頭観音・・・鶴川入口歩道橋・・・県道30号・・・鶴川の渡し跡・鶴川橋・・鶴川宿・・鶴川神社・・・旧道・・・蔦ケ崎橋(中央自動車道)・・・大椚一里塚跡・・・二十三夜塔・・・大椚観音堂・吾妻神社・・・長峰の池跡・芭蕉句碑・長峰砦跡・・・新栗原橋(中央自動車道)・・・野田尻宿・・本陣跡・・犬嶋神社・・・西光寺・旧道・・天満宮祠・・・北久保橋(中央自動車道)・・・荻野一里塚跡・・・堂久保の廻国供養塔・・旧道・・矢坪坂古戦場跡・矢坪坂・・・武甕槌(軍勢)神社・・・庚申塔・牛馬尊塔・・・金比羅神社参道入口・・・座頭転がし・・・新田地区・・尾張の殿様定宿家・・・県道30号・・・犬目宿・・犬目兵助墓入口・・犬目兵助生家・・本陣跡・・宝勝寺・・・白馬不動尊鳥居・・・君恋坂・・・恋塚一里塚跡・・・聖徳太子塔・・山住神社・旧道・・馬宿跡・・石畳道・・県道30号・・・(大月市)・・・山谷地区・・三夜坂・・・坂下橋・・・(中央自動車道)・・・道祖神・馬頭観音・・・国道20号・・・下鳥沢宿・・鳥沢一里塚跡・・・上鳥沢宿・・本陣跡・・・三栄工業・旧道・・・国道20号・・・宮谷橋・・・稲荷社(東町自治会館)・・・旧道・・・猿橋(桂川)・・・新猿橋西交差点・・猿橋宿本陣跡・円行寺・三島神社・猿橋駅(JR中央線)
【ル-ト地図】
*参考:『歴史の道調査報告書 第4集 甲州街道』(山梨県教育委員会)
写真をクリックすると拡大します。
【ル-ト地図】の32右の空き地に説明板が立っている。本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠3軒の相模国最後の宿場だったが、明治21年と、その後の2度の火災で焼失してしまった。
江戸時代の力士追手風喜太郎ゆかりの寺。
小淵の歩道橋の先で右に上り、左に下って国道20号に合流し、名倉入口交差点で左に下るのが旧道の道筋。
境沢橋(境川)を渡って、相模国から甲斐国へ入る。 《地図》
境川橋の手前でUターンして乙女坂を乙の字を書くように上る。このあたりには旅籠、茶屋があり諏訪関所の手助けをしていたという。「あれに見えるは諏訪の関 夜泣き桜におぼろ月 女子にきびしいこの関は だれがつけたか女坂」と歌われた。
江戸へ向う女のみ通行手形を改められた。甲斐24関の一つ。向い側に「夜泣き桜」があったそうだ。
船守寺 《地図》
普通の寺っぽくない感じがいい。
故郷を捨て、伊豆国伊東の浦に住み着いて漁師となった諏訪の弥三郎は、弘長元年(1261)5月12日漁から帰る時に、日蓮をまないた岩の流罪から救った。日蓮は別れ際に弥三郎の海上安全を祈って、船守の守護を授けた。以来人々は彼を「船守の弥三郎」と呼びその徳を讃え、その名は天下に知れ渡ったという。昭和30年、伊東市蓮慶寺から弥三郎の骨を分骨し、ここに記念碑が建てられた。新町の植松菓子店では、「船守もなか」を販売しているそうだ。鎌倉には弥三郎の子の日実(弥三郎本人ともいう)が開山の妙長寺がある。
諏訪地区の氏神で、久安年間(1145~50)に上原氏が諏訪大社を勧請したとも、文永年間(1264~74)に蘭渓道隆が勧請したともいう。武田信玄が小田原の北条氏攻めの時に兵を休めた所で、帰りの三増峠の戦いの後、暖を取るため社殿から木をはがして火をつけたという。後に武田勝頼が修復したそうだ。
【ル-ト地図】の34神社裏手に小高くなった竹藪があり、塚の跡といわれている。塚上にはカヤ(説明板ではモミ)の木が植えられていたそうだ。
本陣1軒・脇本陣2軒・旅籠20軒の甲斐国最初の宿。
脇本陣跡か?
例大祭は郡内三大祭りの一つで、暴れ神輿で有名だそうだ。
ホテルルートイン上野原の所
【ル-ト地図】の35何の店だったのか?
上野原小学校の大ケヤキを見逃した。本町三叉路から旧道に入った右手に、「木喰白道上人加持水の井跡碑」があるはずだが見つからず。
道端の左右に文政10年(1827)の廻国供養塔が立つ。この先には原の馬頭観音(文政5年(1822))がある。
鶴川入口歩道橋を渡り、県道30号を鶴川橋へ下る。途中で左に入る歩道がある。《地図》
甲州街道で唯一、通常は橋渡しで、増水時は徒渡しだった。市川海老蔵が甲府へ芝居興行に行く時に川越人足から100両ゆすられたとか。何時の時代も海老様は事件が好きなようで・・・。
上部の切れた所は、「鶴川宿は、正徳三年(1713)一村一宿にて宿場を構成しました。また・・・」。村全体で宿場業務を担っていたのだろう。
細く急で不規則な石段は下りの方がきつい。
もとは街道沿いの家の庭先にあったもの。穴は開いてないので、石に手綱を巻きつけるのか。
【ル-ト地図】の36大正10年の火災で旧観は失われたが、古そうな家の残っている。柏屋が脇本陣と問屋を兼ね、本陣も代行することがあったという。
本陣跡か?
蔦ケ崎橋の方へ上って行く旧道。けっこうな急坂だ。《地図》
下は中央自動車道
【ル-ト地図】の37大椚は鶴川宿と野田尻宿の「間の宿」だった。
敏達天皇創建の行満寺跡と伝える。郡内三十三観音霊場の24番札所。吾妻神社は日本武尊の妃の弟橘姫を祀る。
鳶が崎から矢坪坂付近までの丘陵を長峰と呼ぶ。鳶が崎や鳶の巣はたびたび北条氏と武田氏が小競り合いをした中世の古戦場だった。ここに武田信玄の家臣の加藤丹後守景忠が砦を築き、外敵進攻に備えたという。
芭蕉の句は「古池や・・・」の有名な句。蓮二房の句は、「あがりては さがりあけては 夕雲雀」?
中央自動車道が通って街道の道筋も失われ、芭蕉句碑も移された。
野田尻宿の家並み 《地図》
『広重道中記』には「小松屋と云へるにとまる、広いばかりにて きたなき事おびただし」でおかんむりの様子だ。本陣1・脇本陣1・旅籠9の宿場だった。
野田尻地区の鎮守社。鎮守の森の雰囲気が残っている。
左が「お玉ヶ井」碑か? 旅籠の女中「お玉」が恋が結ばれたお礼に水不足で悩む野田尻の人たちのために、土地の一角に澄んだ水を湧き立たせたという。またお玉の正体は龍であり、結ばれた相手は「長峰の池」の主の龍神だったとも。西光寺は甲州八十八観音霊場の7番札所。
北久保橋(中央自動車道)を渡ると、旧道っぽい所がわずかだが残っている。
北側の丘の上には、地元の人が“ヒラマツ”と呼ぶ老松が1本あったが、伐採されてしまった。
堂久保の廻国供養塔(右・文化10年(1813))の先で矢坪坂(右)に入る。ここは矢坪坂古戦場跡。
社殿はかなり上の方にある。矢坪坂の合戦の際に祀られたとも伝える。
左側は急な崖になっている。盲人が茶屋へ向かう近道と聞き、断崖のあることを知らずにここを通って落ちて死に、「座頭殺し」が転じて「転がし」になったとも。
代々米山伊左衛門を名乗り、庄屋を勤めた家柄で、尾張家の紋所入りの器物や手紙も残っているそうだ。建物は新しくなっている。
小さすぎて読めないだろうな。
県道30号に合流し犬目宿へ入る。本陣2・旅籠15の宿場で、ここは標高500m以上あり房総の海まで望めたそうだ。
「甲州一揆」の首謀者の一人、犬目兵助墓入口。墓まで上れば眺めがいいかも。
道の向い側が問屋場大津屋跡らしい。
山中に不動堂と白滝があるのだが、ここから遥拝のみ。鳥居というのも神仏混淆で面白いか。右には不動明王石像も立っている。
君恋温泉案内板
東国征伐の帰途、日本武尊が自ら海神の生贄となった弟橘姫を恋しく思い偲んだことに由来するという。今はそんなロマンティックな雰囲気などは皆無だが。
【ル-ト地図】の43『甲州道中宿村大概帳』には「左右の塚共大目宿地内木立左杉、右松」とあるそうだ。北側の塚は道路の拡幅工事で削られた。
道路を挟んで向い側に山住神社がある。
短い集落を抜けて行く。家並みの最後が馬宿と呼ばれた家で、その先で未舗装に石畳道に入り下る。
大月市との境あたり
犬目宿の宝勝寺あたりからの眺めというが、気がつかず通り過ぎてしまった。
山谷地区の三夜坂を下り、中央自動車道をくぐって国道20号に突き当たる。
宿業務は上鳥沢宿と半月交代で行っていた。本陣1・脇本陣2・旅籠11。
右の文扇堂の右前に「一里塚跡 鳥沢」の標柱が立つ。
上鳥沢宿
旅籠叶屋跡(右)、長いひさしが特徴の出桁軒裏造りの家屋。
本陣1・脇本陣2軒・旅籠13。
日本三奇橋の一つ。上から見ると何の変哲もない橋だが。
「うき我を 淋しからせよ 閑古鳥 はせを」
猿橋宿は新猿橋西交差点の所に本陣があったようだ。今は古い家並みは残っていない。本陣1・脇本陣2・旅籠10の宿だった。
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コメント
写真・記事削除しました。
投稿: 坂道散歩 | 2021年9月21日 (火) 07:46
井上家は石碑の有る居所。隣家が井上家と記載されています。空き地ではなく、隣家の敷地駐車場です。訂正記載願います。
投稿: | 2021年9月20日 (月) 23:05