甲州街道(甲府柳町宿→韮崎宿)
2011年5月1日
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【ル-ト地図】
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石和温泉駅前の足湯
まだ早過ぎて湯は入っていない。歩く前から入る気はないが。歓楽温泉のイメージしか持っていなかったが今は健全な温泉?に脱却したか。
甲運橋(第二平等川)を渡って甲府市に入る。《地図》
かつての笛吹川の流路で、石和(川田)の渡し跡。冬場は橋で夏場は舟渡しだった。
「右 富士山 大山 東京道」、「東京」は「江戸」とあった上に追刻したもの。親切それとも余計なお世話、お節介か。
武田信虎が躑躅ケ崎館に移るまでの武田氏の拠点地で、今でも「御所曲輪」の地名が残るという。
このあたりは古くて立派な造りの家が多い。
山崎三差路 《地図》
右から青梅街道(国道140号)が合流
酒折宮~善光寺~長禅寺~舞鶴城公園(甲府城跡)は4月29日に歩いている。
身延山58世日環の題目塔や六地蔵など。
身延線をくぐると「かねんて」(金手)という枡形道になり、左折しすぐ右折する。そこが甲府柳町宿木戸跡。
石川家住宅 《地図》
もとは金物屋、糸繭問屋で屋号を河内屋、塗籠土蔵造の江戸時代の代表的な町屋造り。ネットは何のために張られているのか?
大久保長安の墓
長安は国奉行として慶長6年(1601)から翌7年にかけて甲斐一国の検地(石見検地)を行った。
八王子宿には陣屋跡、八王子千人同心屋敷跡があった。墓は島根県大田市大森町の大安寺跡にも、石見銀山(世界遺産)開発の顕彰碑とともにあるそうだ。
境内には「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」の山口素堂の句碑と墓もある。
「印伝」とは印度から伝来したという、鹿皮に漆で模様をつけた革の伝統工芸品。天正10年(1582)に上原勇七が独自の技法で印傳屋を創業した。店内を冷かして見る。手頃な値段の皮製の小物もあるが、やはり「かわず飛び出す」だった。
右はワシントンプラザホテル。本陣1、脇本陣1、旅籠21軒の宿場だったが、今は往時の面影も、活気も感じられない通りだ。
身延道道標(丸の内郵便局東交差点) 《地図》
信州道(甲州街道)と身延道(河内路)の分岐点。
湖だった甲府の地を、鰍沢口を切り開き、豊かで肥沃な土地にしたという「湖水伝説」の神社。
地元では夫婦サイカチと呼ぶ。ただ両方とも雌の木だそうだが。
「ミレー美術館」ともいう県立美術館のある「芸術の森公園」前を通る。「新富嶽百景」33の所でもある。今日は曇っていて、富士も甲斐の山並みもよく見えず。
【ル-ト地図】の66竜王新町交差点から右に旧道に入る。
まだ球形道祖神が活躍している。
くり抜き井戸(称念寺) 《地図》
上水道が引かれるまで付近の生活用水として使われ、また、赤坂を行き来した旅人の休憩用の井戸だった。
【ル-ト地図】の67地蔵らしからぬユニークな顔立ちが並んでいる。もとは地蔵院の本尊で、明治には石橋に転用されたという哀れな流転を味わった6人で、それが表情にも表れているように見える。中には顔がつぶされた地蔵さんもいる。
右は赤坂供養塔。今は長いが舗装されて傾斜もさほどではないが、昔は赤土の剝き出た、雨の時などは滑りやすい吹きっさらしの坂で、上り下りに苦労したのだろう。旅人の行き倒れも多かったようだ。
坂上には三軒茶屋があったという。振り返ると晴れていれば富士の姿が大きく見えるようだ。あいにく坂の頂上あたりで、雨が降り出し、風も強くなってきた。坂上近くには「クリーンエネルギーセンター」(県営発電総合制御所)がある。HPには八ヶ岳、富士山、南アルプスの眺望写真が載っている。クリーンで安全なエネルギーで、豊かな自然を守って欲しいものだ。
坂上から下今井の方へ下る。
庚申塔道標(右・弘化3年(1846)) 《地図》
「庚申 右 市川駿■ 左 甲府江■」、■部分は埋まっている。駿河、江戸だろう。 左のは元禄6年(1693)の古いもので、「庚申」の下が折れたので右の新しいものが立てられたのだろう。
明和2年(1765)以来の石畳の参道。つつじにはまだ早いか。
滅亡に向かう武田氏の道筋での一コマ。
球形道祖神(文化15年(1818))・三界万霊塔(寛政5年(1793)・その向こうに二十三夜塔
双葉西小学校バス停近く。
船形神社鳥居(応永4年(1397)) 《地図》
どっしり、ずんぐりむっくりした明神鳥居。頭をぶつけそうで自然と頭が下がるので、一礼して社殿に向かう形になるすぐれ物か。このあたりに志田一里塚があったようだが。
芭蕉句碑(六反川手前の路地を右に入った所) 《地図》
「 昼見れば 首すじ赤き 蛍哉 」
「昼の蛍」とは恐れ入った。芭蕉の時代には六反川は蛍で有名だったのだろう。
田畑交差点から旧道に入り、再び県道6号に出る。
増水時には「桶を浮かべて人を渡す」『国志』で、たらい舟みたいな光景が見られたのだろう。
家の前に三角の空き地を置いた。今はちょうど駐車スペースになっているか。①敵が攻めてきた時に、この陰から矢や鉄砲を撃つため。②大名行列が通るときに陰に隠れるので長く座っていなくてもよい、などの説があるようだが、①、②とも一方からは陰になるが、他方からは丸見えになり、どちらの説も説得力に乏しいのでは。
鰍沢横丁
円朝の三題噺の落語『鰍沢』もある。
宿場風情は薄いが、電線がないのがいい。
本陣跡(千野眼科前) 《地図》
日程の関係で、韮崎宿では諸大名は宿泊せず通過し、甲府宿まで行ったので問屋が本陣を兼ねていた。諸大名といっても甲州街道を通って参勤交代をしたのは諏訪(高島)藩・高遠藩・飯田藩だけだったが。
七里岩の南端に穿かれた洞窟と懸崖造の観音堂
弘法大師自作の自画像というが、顔立ちがよろしくないように見える?
これも大師の作というが・・・。
梅天神社 《地図》
ここも道に斜めに建っている。
「ふくよかだねえ」、「何が」、「顔立ちだよ」←嘘
長野県内強風のため、中央線は遅れていた。
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