« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »

2011年6月30日 (木)

房総往還①

2011年6月24日

船橋駅(JR総武線)・・・成田街道(佐倉道)・・・(御殿通り)・・道祖神社・・・御蔵稲荷神社・・・海老川橋(海老川)・・・大神宮下交差点・房総往還分岐・・・船橋大神宮・・・東光寺・・・大日会館・・・船橋競馬場3号踏切(京成千葉線)・国道14号(千葉街道)・・・(谷津駅)・・・庚申塔祠・・・喜久地蔵尊・・・鷺沼1交差点・・・鷺沼古墳(鷺沼城址公園)・・・白鷺橋・・・根神社・・・慈眼寺・・・幕張IC・・(千葉市)・・・県道57号・・・大日堂跡・首塚・・・下八坂橋・・・金比羅神社・・・子守神社・・・馬加代官所跡(幕張町3丁目公園)・・・秋葉神社・昆陽神社・・青木昆陽甘藷試作地・・・新花見川橋(花見川)・・・検見川神社・・・宝蔵院・・検見川駅(京成千葉線)

  【ル-ト地図】(12.8km)

 船橋で佐倉道(成田街道)から分かれ、内房沿いに木更津を経て館山に至る道で、上総道、木更津道、千葉街道、房州往還などとも呼ばれる。一部は古代東海道の道筋とも重なるようだ。梅雨だというのに暑い日が続いている。今日は熊谷で39.7度を記録した。こちら船橋、千葉は猛暑というほどではないが、やけに風が強い日だった。まあ晴れようが降ろうがゆっくりと行くとしよう。

船橋駅から房総往還分岐点までは『東金御成街道①』に記載。『成田街道②』にも船橋宿の記事あり。

   写真をクリックすると拡大します。

Img_9626 大神宮下交差点 【ル-ト地図】の①

房総往還(右折)・成田街道(佐倉道・左)で、正面は船橋大神宮の裏参道の鳥居。

Img_9635 廻国供養塔道標(宝永6年(1709))

「右ハ かつさ道」(上総道で房総往還のこと)・「左ハさくら道」

分岐点にあったもので、現在は船橋大神宮の隣の東光寺に移されている。ここから表参道まではかつて横宿と呼ばれていた所だが、今はただの車道で建物などにも往時の面影は残っていない。

Img_9630 船橋大神宮表参道

今日はここから遥拝のみ。

Img_9633 東光寺

波除け不動堂か?

Img_9645 京成線の踏切を渡り、線路沿いにしばらく進む。

Img_9650 庚申塔(元禄5年(1692))・右下にも小さな青面金剛塔(文政5年(1822)) 《地図

Img_9654 左の新しい、お堂らしからぬ建物が「厄除喜久地蔵尊」 【ル-ト地図】の② 

Img_9658 喜久地蔵尊(元禄8年(1695))

はやり目にご利益があったという。今は厄除け地蔵に商売替えしたようだ。

Img_9665 鷺沼古墳B号墳(鷺沼城址公園内) 【ル-ト地図】の③

前方後円墳の後円部か。

Img_9671 説明板

Img_9672 案内図

Img_9673 箱式石棺

前方部と後円部の境の覆い屋の中に保存されている。

Img_9674鷺沼太郎源太義碑(説明板の「源太石碑」)

正応年間(1288~92)に鷺沼太郎源太義が、ここ鷺沼城を本拠にしたという。『千葉郡誌』 また『関八州古戦録』には、鷺沼太郎源太義が永禄7年(1564)の第2次国府台合戦に参戦したとあるそうだ。 義は義の末裔だったのか?

Img_9681 根神社 《地図

周辺地域の産土神

Img_9685 旧家(根神社の裏)

鷺沼集会所に使われているようだ。

Img_9692 波切地蔵(享保11年(1726)・慈眼寺観音堂前)

船乗りや漁師の信仰が篤かった。台座に「舟中間中 願主船橋屋五兵衛」とある。

Img_9696 幕張ICを突っ切る。歩道はないがさほど歩きづらくはない。

Img_9700 花見公園あたりで左に入る。

Img_9727 大日堂跡

もとは大きな堂があり「堂の山」とも呼ばれていた。暴風雨で倒壊し、小さな仮の堂を建てたがそれも平成13年に取り壊されたそうだ。南側は海に面していたというから、房総往還は海岸沿いを通っていたのだろう。

この右手に郷土力士の荒馬大五郎の墓、奥の左に風邪ひき地蔵の祠、その後ろを左に上った所のタブ林の中に首塚と五輪塔がある。

Img_9702 大日如来像(千葉市指定文化財)

現在は宝幢寺(子守神社の東方)に安置。

Img_9703 大須賀山説明板

Img_9722 風邪を治すという「風邪ひき地蔵」 

『千葉県歴史の道調査報告書 房総往還Ⅰ」では大阿闍梨印天鏡(享保13年(1728)死去)の墓としている。

Img_9707 首塚へ樹木に覆われた暗い道を上る。

Img_9717 タブの林

Img_9709 首塚・五輪塔 【ル-ト地図】の④

享徳の乱に乗じて、千葉氏宗家を攻め滅ばして19代当主なったが、その後東常縁に滅ぼされた馬加康胤(まくわりやすたね)の首塚と供養の五輪塔とされるが、五輪塔は寛永14年(1637)?の造立で、台座に「朝惟 宥光 二親 宥得」とある。僧の宥得が2親の供養のために建てたものでは。

『南総里見八犬伝』に康胤の同族として、馬加大記が登場する。馬加=幕張で、元々は下総国千葉郡の西側一帯を指していた。

Img_9711 台座

寛永十の次がはっきりしないが。

Img_9730 金比羅神社 《地図

参道はしっかりしているが。

Img_9731 社殿はなく、立入禁止の虎ポールに囲われている。東日本大震災で倒壊でもしたのか?

Img_9734 子守神社

三山の七年祭り」に参加する神社。社伝では千葉常胤の子の大須賀四郎胤信が建久5年(1194)に幕張縫坂の屋形に造営し、永正5年(1508)に当地に移された。大イチョウが聳えている。

Img_9737 明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)之所碑(左)・説明碑(幕張町3丁目公園)

ここは馬加代官所大須賀家跡で、後には明治天皇の休息所跡。かつては見事なからたち並木があり、山田耕筰の『からたちの花』ゆかりの所。

Img_9738 説明碑文

Img_9745 昆陽神社(右)・秋葉神社(左) 【ル-ト地図】の⑤

「芋神さま」の青木昆陽を祀る。

Img_9742 由緒

Img_9746青木昆陽甘藷試作地(昆陽神社前)

Img_9747 説明板

Img_9754検見川神社 地図

Img_9755 由緒

まだ2時を過ぎたばかりだが、今日はあまり歩く気がせず、検見川駅から帰路についた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月23日 (木)

熊野古道(紀伊路⑩ 千里王子→出立王子→中辺路・大辺路分岐点)

2011年6月4日

岩代駅(JR紀勢本線)・・・汐入橋(東岩代川)・・・(JR紀勢本線)・・千里の浜・・千里王子社・・・千里観音堂・・・(JR紀勢本線)・・・南部峠・骨つぎ地蔵・・・(JR紀勢本線)・・・桜川橋・・・紀州梅干館・・・南部大橋(南部川)・・・古川橋・・・北茶屋橋・・・丹河地蔵堂・・・三鍋王子社・小栗井戸・・・南部高校・・・鹿島神社・・・南茶屋橋・・・(田辺市)・・・井原隧道・・・井原観音・・・松井橋(芳養川)・・・南海道地震津波潮位標識・芳養交差点(国道42号)・・・芳養王子(芳養大神社)・・・善徳寺・・・一里塚地蔵尊・・・国道42号・・・牛の鼻聖徳地蔵・・・芳養漁港・・芳養八幡神社潮垢離所・・・県道210号・・・潮垢離浜跡(江川児童公園)・・・(県道210号)・・・出立王子跡・・・県道210号・・龍泉寺・・浄恩寺・・旧会津橋(会津川)・・・本町会館・・・道分け石・・・道分け石(中辺路と大辺路分岐点)・・・蟻通神社・・・闘鶏神社・・・紀伊田辺駅(JR紀勢本線)

 好天の紀伊路の最終日だ。距離は短いか相変わらず右足が痛む。岩代駅から千里王子、南部(みなべ)峠までの道が分かりにくく、ずいぶんと時間をロスした。昨日、岩代王子まで行っていて正解だった。三鍋王子の先で国道42号沿いの海岸線に近い道を行き、みなべ町から田辺市に入った。潮垢離浜跡の公園で小休止し、紀伊路最後の出立王子に向かった。旧会津橋を渡り、中辺路と大辺路分岐の道分け石の所を紀伊路歩きの終点とした。続きの中辺路は秋の涼しくなった頃としよう。

  【ル-ト地図】(17.4km)

  熊野古道(中辺路①)』へ続く。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9403 案内図

千里の浜づたいは通行不能なので、JR線と国道42号の間の丘陵地を行き、山道を千里の浜へ下りる。標識がない所もあり、何度も道を間違えそうになった。

Img_9400 丘陵地を行く。標識が少なく分かりにくい所もある。

Img_9414 南に下ってJR線をくぐって千里の浜へ。

Img_9417 千里の浜(岩代王子方向)

枕草子、伊勢物語などにも記された景勝地で、赤ウミガメの産卵地でもある。

Img_9419 目津崎・三鍋王子方向

浜を少し歩いて左が千里王子

Img_9423 千里王子社 【ル-ト地図】の①

須賀王子に合祀されたが本殿は残された。浜辺の貝を拾って奉納したことから、「貝の王子」とも呼ばれた。

Img_9424 説明板

Img_9421 花山法皇歌碑

法皇がここで病いになり、傍らの石を枕にして休んだ時の歌。

「旅の空 夜半の煙と のぼりなば 海人の藻塩火 焚くかとや見む」 (自分がここで死んで火葬されても、その煙を人々は藻塩を焚く煙と見るだろう)

Img_9425 千里観音

熊野で病気が治った小栗判官が船で京へ戻る途中、南部の沖で暴風に襲われた。小栗が観音経を一心に唱えると馬のいななきが聞こえ、白馬がやってきて小栗を救った。気が付くと白馬の姿はなく、海面に馬の首の形の一本の木が漂っていた。小栗はそれを拾い馬頭観音像を刻み奉納した。

近西国観音霊場の33番札所

Img_9428 縁起

Img_9429 JR線に近い道を行き、この先でガードをくぐり南部峠へと上る。このあたりも分かりにくい。

Img_9435 南部峠(地蔵峠) 【ル-ト地図】の②

正面に地蔵の祠

Img_9436 骨つぎ地蔵

室町時代のもの。 骨折に霊験あらたかという。

Img_9438説明板

Img_9439 峠から下りとなって再びJRガードをくぐる。

Img_9448 紀州梅干館 《地図

Img_9455 南部の家並み

Img_9459 丹河地蔵のイチョウ(樹齢350年) 《地図

銀杏がごっそりとなりそうな感じだ。ここは熊野詣の人たちの休憩所で、「丹河のお地蔵 さん」と呼ばれる延命子安地蔵が祀られている。 

Img_9460 説明板

Img_9471 三鍋王子

鹿島神社に合祀された際に社殿も移された。手前は熊野へ向かう小栗判官が飲んだと小栗井戸跡。

Img_9467 説明板

Img_9465 説明板(小栗井戸)

Img_9477 鹿島神社 《地図

三鍋王子から移された立派な本殿

Img_9478_2説明板

Img_9476 ヤマモモの木(鹿島神社境内)

Img_9484 鹿島

3つの鍋をひっくり返して並べたように見えるので三鍋(南部)の由来になったという。ここからだと2つにしか見えないが。

岬の「森の鼻」には平家塚、国道42号の海岸沿いには清姫袖摺岩があるが、相変わらず右足が痛むので寄らずに行く。

Img_9490 泊城址 

前方の大屋トンネル(国道42号)の小高い所が湯川氏の城跡で、城山崎の地名が残る。左の道を進み、井原トンネルを抜ける。

Img_9496 井原隧道 《地図

今日は暑いがトンネル内は涼しい。

Img_9499 井原観音

近西国観音霊場28番札所

Img_9502 南海道地震津波潮位標識碑(芳養交差点) 《地図

昭和21年の地震のことか? 芳養湾からは200mくらいしか離れてなく、高さもなく津波が押し寄せても不思議はないか。

Img_9506 芳養王子(芳養大神社)

Img_9508 説明板

Img_9513 善徳寺のビャクシン(柏槇)

道成寺、光専寺にも見事な柏槇があった。

Img_9515 一里塚地蔵(右) 【ル-ト地図】の③

和歌山から18里で、地元からは「塚の地蔵」と呼ばれているそうだ。

Img_9519_2 地蔵が2体 

Img_9526 牛の鼻聖徳地蔵 《地図

このあたりに牛の鼻に似た岩穴があったという。バス停も「牛の鼻」

Img_9524 地蔵の顔はすり減っているか。

Img_9528「日高熊野神社渡御旧蹟」碑(牛の鼻聖徳地蔵の前)

御坊市の熊野(いや)神社(岩内王子を合祀している)の御輿が450年くらい前までここまで渡御していたという。

Img_9532 芳養漁港

向うは天神崎と元島

Img_9536芳養八幡神社潮垢離所

11月3日の例祭の宵宮には、ここまで潮垢離に来るそうだ。

Img_9544 潮垢離浜跡(江川児童公園) 《地図

風邪気味の藤原定家も先達の強い勧めで潮垢離を余儀なくされたと、『熊野御幸記」(12日の最後)にある。

Img_9545 説明板

Img_9550 江川の家並み

県道210号を横切り、紀伊路最後の出立王子に向かう。

Img_9555 出立王子跡 【ル-ト地図】の④

八立稲神社に合祀

Img_9557 説明板

ここから会津川沿いに秋津方向に向かうのが中世以前の熊野古道のルートだが、旧会津橋を渡り田辺市街に入り、中辺路と大辺路の「道分け石」への道筋を行く。

Img_9568 旧会津橋を渡って田辺の中心街へ。

Img_9572 道分け石(左の「ほしかや陶器店」前) 《地図

「右 くまのみち」 「左 きみゐてら」でここを右折する。

Img_9577 このあたりもシャッター通り商店街になりつつあるか。

Img_9578_2辻の餅

「おけし餅」は美味そうだ。次回、中辺路を歩く時に食べてみよう。

Img_9580 道分け石(丸三呉服店前) 【ル-ト地図】の⑤

紀伊路の終点、中辺路(左折)と大辺路(直進)の分岐点。次回はここから中辺路を行くことになる。

Img_9585 説明板

Img_9586 中辺路方向

Img_9587 丸三呉服店

このあたり衣類の店が多い。

Img_9588 岩崎商店

Img_9591 蟻通神社

「蟻通」の由来はまさに民話だ。(信濃の民話『姥捨山』)。右は安政元年(1854)の大地震の火災の際に水を噴き出したという、スプリンクラーのようなクスノキ。

Img_9593 由来

Img_9609 闘鶏神社

背後の仮庵山(かりおやま)は古代祭祀跡で、南方熊楠が自然林の保護を訴え、多くの植物を採取した所。

Img_9610 「闘鶏」の由来

鶏が源平以降の日本の歴史を決めたか。むろん八百長で、強い白(源氏)の鶏を集めたか、それよりも「闘鶏」の話自体が伝説、作り話だろう。

Img_9600 弁慶像(紀伊田辺駅前)

田辺が生地ともいう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月21日 (火)

熊野古道(紀伊路⑨ 岩内王子→岩代王子)

2011年6月3日

御坊駅(JR紀勢本線)・・・湯川子安神社(小松原館跡)・・・法林寺・・・九品寺・・・小松原東交差点・県道27号・・・野口新橋(日高川)・・・岩内1号墳(有間皇子塚)・・・岩内王子跡・・・琴野橋(熊野川)・・・天田橋南詰(日高川)・・・湊歩道橋・・・北塩屋交差点(国道42号)・・・塩屋王子神社・・・王子橋(王子川)・・・光専寺・・・観音山自然公園遊歩道・・・祓井戸観音・・・(国道42号)・・・一里塚跡・・・十三塚あたり・・清姫草履塚・・・国道42号・・・旧道・・・中村酒店・・御首地蔵道標・・・観音寺(お首地蔵)・・・秋近橋・国道42号・・・旧道・・・和歌山高専・・・(国道42号)・仏井戸(上野王子旧地)・・・上野王子跡・・・津梅橋(上野川)・・・清姫の腰掛石・・・国道42号・・旧道・・・庚申塔祠・・・濱川橋・・・国道42号・・・(印南町)・・・叶王子(津井王子)跡・・・国道42号・・・平和橋(印南川)・旧道・・のこぎり坂・・・宝来橋(光川)・・国道42号・・・旧道・・・斑鳩王子神社・・・国道42号・・・旧道・・・豆坂・・・切目王子神社・・・切目橋(切目川)・・・JRガード・・・光明寺・・・若宮社遺跡・・・宝篋印塔・・・中山王子神社・・榎峠・・・徳本名号碑・・・庚申塔祠・・・万葉歌碑(光照寺)・・・国道42号・・・有間皇子岩代の結び松記念碑・・・旧道・・・岩代王子神社・・・千里の浜・・・岩代駅(JR紀勢本線)

 紀伊路の終点が近づいてきた。当初は切目王子(切目駅)までと思っていたが、岩代王子(岩代駅)まで行けば明日の行程が楽になる。歩いている間にどちらかに決めようと御坊駅から出発した。すぐに湯川子安神社の先で道を間違え、上野王子手前の仏井戸でも、かなり先に進んでしまって引き返すはめになり、かなりのロスタイムとなった。その上、途中から右足首と脛が痛くなり始めた。日は長いし時間にも余裕があったので痛い足を引きずりながら、なんとか岩代王子までたどり着いた。

  【ル-ト地図】(27.9km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9127 湯川(子安)神社 《地図

湯川氏の小松原館跡。善童子王子はここに合祀されている。

Img_9128 説明板

Img_9133 九品寺

松平頼雄の大名塚という五輪塔があるそうだが、どれか分からず。

Img_9134 潮路城(小松原東交差点)

城ではなく結婚式場

Img_9136 蛇頭の欄干の日高川(野口新橋)を渡る。

渡し船を断られた清姫は、全身蛇体となって泣きながらこの川を泳ぎ渡り、安珍を追い続けた。渡河地点は一定でなく、藤原定家たちはこの橋と天田橋の間の御坊大橋あたりの浅瀬を渡ったようだ。

もとは日高川の魚だったという盲人が、熊野権現に祈請して開眼したという話が『古今著聞集』にある。

Img_9143 しばらく土手沿いを南に進む。《地図

Img_9153 岩内1号墳 【ル-ト地図】の①

被葬者に有間皇子があげられている。処刑された藤白坂からは、かなり離れてはいるが。

Img_9147 説明板

Img_9150 両袖式横穴石室

Img_9158 岩内王子(焼芝王子)跡(岩内コミュニティ館前)

熊野(いや)神社に合祀

Img_9156 説明板

Img_9159 琴野橋(熊野川)を渡って左折し南下し、塩屋王子に向かうのが中世以前の熊野古道らしいが、日高川沿いに進み、天田橋南詰を通って塩屋王子に向かった。《地図

Img_9163 天田橋(日高川)

このあたりに「天田の渡し」はあったのか?

Img_9170 北塩屋の家並み 《地図

Img_9178 塩屋王子神社

五体王子の一つで、祭神の天照大神像が美しいことから「美人王子」とも呼ばれている。神社前の北野商店でみやげに「美人王子絵馬」を買う。

Img_9179 説明板

Img_9181 御所の芝(塩屋王子神社境内)

後鳥羽上皇の行在所跡という。

Img_9187 南塩屋の家並み

Img_9191 光専寺のビャクシン(柏槇・推定樹齢600年以上) 《地図

道成寺の槇柏(シンパク)より背は低いが、幹は太いか。

Img_9193 説明板

Img_9196 左折して観音山遊歩道に入る。

Img_9198 民家の石垣前で右折し、細い道に入る。ここを直進すると民家内に入ってしまう。

Img_9199 説明板(正面)の所で右に海側に下る。

Img_9211 説明板①(祓井戸)

Img_9212 説明板②(十三塚・清姫草履塚)

祓井戸は神功皇后に由来し、十三塚は熊野詣の途中で、阿波の海賊に襲われ殺された羽黒山の山伏一行を供養する13の塚ということ。

Img_9202海が見えてきた。

Img_9209 祓井戸観音(西向寺跡)

右は徳本名号碑

Img_9206 由来

Img_9205 本尊の千手観音

Img_9207 八十八石仏だろう。(本堂裏手)

Img_9215 一里塚跡

右の生垣の間に石柱が立つ。

Img_9219 十三塚・清姫草履塚へ

1往復半したが十三塚は見当たらず。

Img_9221清姫草履塚 《地図

清姫はこの時、上半身は蛇体で、足はまだ人間だった。日高川を渡る時は全身、蛇体となって泳ぎ渡り、道成寺まで安珍を追い続けた。

Img_9222 説明板

Photo この縁起図の11・12の場面

Img_9226清姫草履塚の先の入江から

向うは関西電力御坊火力発電所だろう。

Img_9233 中村酒店

Img_9235 「御首地蔵尊」道標

Img_9236 観音寺 《地図

ここの地蔵堂が「お首地蔵尊」

Img_9242 お首地蔵尊(東海近畿地蔵霊場の第30番札所)

石棺中より発掘されたミイラのような首と延命地蔵尊を合祀しているそうだが、首はどこにあるのか?首から上の病いにご利益があるという。 

Img_9244 左奥は和歌山高専の建物か?

Img_9251 仏井戸 【ル-ト地図】の②

井戸地蔵と呼ばれた上野王子の旧地。井戸底の壁に、地蔵ではなく阿弥陀、勢至、観音像が彫られているという。覗き込んで撮った写真にはその姿は見えなかった。「信心がないせいだ」というなかれ。

ここは熊野古道沿いになく分かりにくい。上野王子の先の津梅橋まで行ってしまって引き返し、曲がる所が分からずウロウロしていたら、近くで作業中のおじさんが途中まで案内してくれた。

Img_9252説明板

Img_9265 仏井戸(紀伊国名所図会)

Img_9261 上野王子跡(名田漁民センター前)

Img_9268 清姫腰掛石(正面の凹みに水が溜まっている石)

安珍はどんどん逃げて行く。のんびり休んでいる場合ではないよ、清姫さん。

Img_9271 いったん国道42号に出て、右に旧道に入る。

Img_9275 庚申塔の祠

Img_9278 再び国道に合流。

「宮子姫生誕之地」御坊市とも別れ、印南(いなみ)町へと入って行く。

Img_9282 叶王子跡へ左折する。

Img_9284 叶王子跡

津井王子が移転して叶王子となったようだ。山口八幡神社に合祀されたが、「願いが叶う」の意から「おかのさん」と親しまれている。願い事でもしようかと思ったが、やぶ蚊に攻撃され早々に退散した。

Img_9285 説明板①

Img_9286 説明板②

Img_9289 印南港

印南は「鰹節のふるさと」だそうだ。

Img_9295 のこぎり坂を上る。 【ル-ト地図】の③

熊野に参る途中で病んだ小栗判官は、この坂の近くの東光寺に参籠し快方に向かった。再び照手姫と熊野に旅立つ2人を村人たちは、この坂まで見送り名残りを惜しんだ。そこでこの坂を「残りの多い坂」というようになり、それが訛って「のこぎり坂」になったとか。かなりこじつけの感もあるが伝承は伝承だ。

東光寺で小栗が詠んだという歌:「常盤萌ゆ 印南の梛(なぎ)の 瑠璃の日は いつの世までも 闇照らすなむ」 梛の木は樹齢700年以上という竹柏のこと。

Img_9296 坂の途中の地蔵の祠 

Img_9299 宝来橋を渡っていったん国道に出で、再び左に入って上る。

Img_9301 印南港を振り返る。

Img_9303 斑鳩王子神社

印南八幡神社に合祀された後、昭和25年に分祀された。

Img_9304 説明板①

Img_9305 説明板②

Img_9310_2 東光寺の案内塔と説明板

Img_9311 小栗判官・照手姫東光寺参詣図

美形で気丈そうに描かれている照手に引き替え、小栗はひどい有様になっている。笑っては叱られるか。小栗と照手の夫婦愛物語、安珍と清姫の愛憎物語、宮子姫のシンデレラ物語、その他数限りなしで、熊野古道歩きは疲れることはあっても飽きることはない。

Img_9316 豆坂を下って切目王子へ 【ル-ト地図】の④

豆坂の由来の「黄粉化粧伝説」:「その昔、切目王子の横暴ぶりをいさめようとした僧を王子は殺してしまう。熊野へ戻った王子は捕らえられて右足を切られて切目山に追放された。ところが王子は、熊野詣の帰途にある者たちから熊野権現利生を奪うようになり、参詣者たちを嘆かせた。そこで熊野権現は稲荷大明神と相談し、王子と恋仲の「あこまち」という女を差し向け、王子が臭いといって嫌う豆の粉、黄粉(きなこ)で化粧した者には害を及ぼさないことを約束させた。それからというもの、切目王子の前を通る時には皆、黄粉で化粧をするという風習が生まれた」 この黄粉化粧は実際に行われていて、『熊野詣日記』(応永34年(1427))に額や鼻、頬、おとがいなどに黄粉をつけて王子社の前を通過したとの記述がある。切目王子がスサノオ命のように乱暴者だったというのも面白いか。

Img_9319 切目王子神社

五体王子の一つ。平治の乱の際の平清盛、元弘の乱の時の大塔宮護良親王などの逸話が残る。大塔宮が飲んだという「清水井戸」跡もあるが荒れている。

Img_9323 説明板

Img_9324由緒

Img_9326 ホルトの木(県指定文化財)

樹齢300年以上

Img_9333 切目川(切目橋から) 《地図

この川のあたりで清姫は安珍に追いつくが、安珍は人違いだといって逃げる。清姫が水面に我身を映すと、上半身が蛇に化身していた鏡川。

Img_9336 光明寺 《地図

Img_9338 戦時中に供出された釣鐘の変わりに、(軽くなった鐘楼堂が風などの被害を受けないようにバランスを取るために)吊るされていた石。

Img_9342中山王子、榎峠への急坂の上りとなる。

右の足首と脛が痛み始めてきた。岩内王子あたりで発熱した藤原定家も、病身でこの坂を上っているのだ。昔の公家さんを見直さねばならないようだ。

Img_9343 若宮社遺跡(右)

Img_9344 説明板

Img_9347右にさらに上る。

Img_9349 印南・御坊方向の眺め(中山王子神社の手前から)

Img_9352宝篋印塔

いずれも室町時代のもの。

Img_9359 中山王子神社 《地図

右は「足の宮」

Img_9355 説明板

Img_9356 説明板

Img_9357 「足の宮」由来

Img_9358 奉納されているワラジは多くない。信仰もすたれてきているか。

Img_9360 ここで右に未舗装の道を下って行く。

Img_9362 気分のいい道だが、足痛がこたえてきた。

Img_9368 農家の間を抜けて行く。

Img_9369 単調な道で周りに何もなく、この道でいいのかちょっと不安になる。正面方向は海のはずだが、霞んでいるのか、普段からここからは見えないのか? しばらく行くと徳本名号碑の立つ辻に出て一安心。

Img_9372 徳本名号碑 《地図

Img_9371 説明板

Img_9373 庚申塔の祠

Img_9381 万葉歌碑(光照寺脇)

左が有間皇子の「岩代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む」

Img_9376 説明板①

Img_9380 説明板②

Img_9386 岩代の結びの松跡 《地図

謀反の疑いで捕らえられた有馬皇子の遺跡。

Img_9384 説明板

Img_9391 岩代王子神社 【ル-ト地図】の⑤

追手を逃れて高野山から熊野へ向かう平維盛一行は、当王子前で7.8騎の武者と出会った。武者たちは維盛と知りながら一礼して立ち去ったという。彼らは湯浅宗重の子、宗光とその郎党であった。『平家物語』巻10の「維盛出家」から

Img_9393 説明板

Img_9396 千里の浜

往時は浜づたいに千里王子へと向かったが、今は通行不能。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月19日 (日)

熊野古道(紀伊路⑧ 河瀬王子→海士王子)

2011年6月2日

湯浅駅(JR紀勢本線)→河瀬橋・・徳本名号碑・・・河瀬王子跡・・旅籠街跡・・・(東の)馬留王子跡・・・徳本名号碑・・・立場跡・・・痔の地蔵・・・法華の壇・・・大峠(鹿ケ瀬峠)・・・小峠・・・石畳道・・・金魚茶屋跡・・・沓掛王子跡・弁財天社・・・法華経塚遺跡碑・・・爪書地蔵・・・黒竹民芸品組合・・・四つ石聖蹟・・原谷皇太神社・・・(西の)馬留王子跡・・・光明寺・・・一里塚跡・・・雨司神社参道跡・・・(県道176号)・・なめら橋(西川)・・・今熊野神社・・・内ノ畑王子跡・・・萩原浄水場・・・愛子の淵・・高家王子(内原王子神社)・・・王子橋(西川)・・・一里塚跡・・道分け地蔵  ・・・善童子王子跡・・・徳本名号碑・・富安橋・・・愛徳山王子跡・・・かみなが姫公園・・吉田八幡神社・・八幡橋(北吉田川)・・・蛇塚・・・道成寺・・・八幡橋・・・海士王子跡・・・吉田橋(斉川)・・・重力(しこりき)踏切(紀勢線)・・・御坊駅(JR紀勢本線)

 今日も雨模様だが鹿ケ瀬峠を目指す。上りの途中から雨の中に入ったが、昨日のような激しい降りではなく難なく大峠に着いた。小峠の先からは古い石畳道が残っている。傘を杖代わりにして滑らぬように慎重に下る。やっと石畳が終わったと思ったら、その先も新しい丸石が敷き詰められていて歩きづらく参った。地道になって金魚茶屋あたりからは平坦になる。そのうちに雨も上がってきた。いくつもの王子跡をたどりながら道成寺に寄り、御坊駅まで以外に早く着いた。

  【ル-ト地図】(17.4km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8908 河瀬橋(ごのせばし)を渡る。

正面左に徳本名号碑

Img_8911 徳本名号碑道標(天保14年(1843))

徳本は現在の日高町の生まれの各地を行脚した念仏聖で、名号碑もいたる所にある。

道標のとおり「右く満み道」を進む。

Img_8909 説明板

Img_8912 道標

「左ハきみいてら ・・・・」

Img_8914 河瀬王子跡 【ル-ト地図】の①

巨岩は王子の古態を伝えるという。津木八幡神社に合祀

Img_8915 説明板

Img_8918 旅籠、茶屋が並んでいた河瀬集落を抜ける。

Img_8923 鹿ケ瀬峠への上りとなる。

今にも降り出しそうな空模様を気にしていたら、峠へ上る人の後押しをしてくれるという「汗かき地蔵」(延命寺)を通り越してしまった。

Img_8925 (東の)馬留王子跡

津木八幡神社に合祀

左に「徳本名号碑道標」、電柱脇に「鹿ケ瀬峠まで2340m」の標柱、少し先の左側に「立場跡」の看板が立っている。

Img_8927 説明板

Img_8929 徳本名号碑道標

「右 くまのみち 左 ・・・念佛堂」

Img_8930 立場跡

「駕籠はここまで、これよりは牛馬の背に頼ることとなる」とあるが、むろん己が頼るのは2本の短い足のみ。

Img_8934 小動物除けのフェンスが立ちはだかる。

まむし、ハチ、猿、鹿、狐狸妖怪、何でも出て来いだ。でも熊公と猪ちゃんにはご遠慮願おう。このあたりには熊はいないと思うが。左端の歩行者用扉を開けて通り抜ける。

Img_8937木の間から下界の眺め

Img_8940 じっとりした暗い道を上る。このあたりは雨の中に入っている。しばしこの陰鬱な雰囲気を楽しむ。

Img_8970 案内図

今は右端あたりを歩いている。

Img_8945 痔の地蔵(縛られ地蔵)(享保20年(1735))

「鹿ケ瀬峠まで152m」の道標の所を左に少し上った所。

水と米を備え、それを頂いて帰り粥にして食べると痔が治るという。「縛られ地蔵」は尋ね人が見つかるように地蔵を縛って祈り、見つかると縄を解くという。今は痔はともかく尋ね人もいないようで、地蔵さんは縛られずにほっとしているか。もっと陰惨な話もあるようだが書かずともいいだろう。道標にもなっていて、地蔵像の右に「是より紀三井寺七里」と刻むそうだ。

Img_8947 新しい石畳道となっている。

Img_8949 法華の壇(法華塚)

骸骨の舌が読経していたという話(一叡持経者聞屍骸読誦音語):「今は昔、一叡という法華経の信仰が厚い僧が熊野に詣でた。その道中、鹿ノ瀬山で野宿をした。すると夜半に法華経を読誦する貴い声が聞こえてきて、一夜明ける頃に全巻を読誦し終わった。明るくなって一叡がそのあたりをを見ると、人影はなく、ただ骸骨だけが横たわっていた。近くに寄ってこれを見ると、骸骨の上には苔が生え、口の中に舌がある。その舌は鮮やかで生きた人の舌のようである。一叡はこれを見て去りがたく、経の声をもっと聞くためにその場所に留まった。そしてその夜もまた法華経を誦する声を聞いた。翌朝、一叡は骸骨のもとに寄って礼拝して、「骸骨であるといえ、法華経を読誦されている。どうかあなたの過去をお聞かせくだいさい」と請うた。骸骨が答えるには、「私は比叡山の僧で円善という。法華経を六万遍読誦しようと修行に出たが、半分を読誦し終えたところで、この山中で死んでしまった。そのため、残りを読誦し終えるためにこの場所に留まっているのだ。もうじき読誦し終える。その後には兜率天に生まれ変わりて弥勒菩薩に出会って教えを受けようと思う」と。一叡は骸骨を礼拝して熊野に詣でた。後年、一叡はその場所を訪ねたが骸骨の影も形もない。夜そこに留まって耳を澄ましても、読経の声は聞こえない。一叡は骸骨(円善)が六万遍読誦し終え、兜率天に生まれ変わったと知り、有難さの涙を流しながらその跡を礼拝して立ち去った」(『今昔物語集』・『法華験記』より)

今でも4月16日に「円善まつり」が行われているそうだ。

Img_8951 大峠(354m)

平坦になっていて玉屋、日高屋、とら屋の茶屋があったという。藤原定家が「鹿ノ瀬の山をよじ昇る。崔嵬の険阻」と嘆いた「鹿ヶ瀬峠」だが、道は整備されていて、さほど急でもなかった。

Img_8957 小峠

この先から熊野古道で最長(503m)の江戸時代の石畳が残っている。

Img_8966 石畳道

小峠方向を振り返る。雨で道の両側から垂れ下がった小枝を傘で振り払う際に、何度が滑って転びそうになった。

Img_8969 雨に煙った眺め

Img_8971古い石畳が終わって一安心と思ったら新しい石が敷き詰められていて歩きにくく参った。どうして地道のままにしておかなかったのか。余計なムダなことをしたものだ。

Img_8973 草の道になってほっとする。雨で靴の中はぐしゃぐしゃになるが、こっちの方が全然歩きやすい。

Img_8975 法華堂跡

右に法華堂跡にあった板碑が集められている。

Img_8976 説明板

Img_8977 板碑

すべて室町時代のもの。

Img_8982 金魚茶屋跡 【ル-ト地図】の②

Img_8981 説明板

Img_8986 平坦地になって日高町の原谷地区へ入って行く。

Img_8988 沓掛王子跡

原谷皇太神社に合祀。少し上に弁財天社がある。

Img_8990 説明板

Img_8993 原谷の集落へ入る。

Img_8995 法華経塚道標

「経塚遺跡 是より二十五丁」、台座に「左旧道」で、鹿ケ瀬峠手前の「法華の壇」(法華塚)のことだろう。右側面には「水瀧不動曝 是より十丁」、台座に「右 新道」とある。滝まではそんなに遠くない。

Img_8999 爪書地蔵の祠(左) 

Img_9000 説明板

Img_9001 爪書地蔵

薄く線彫りが見えるような気がする。信心があれば水をかけると地蔵が浮かび上がるというが、むろん信心などは全く無しで試しはしなかった。近くに水があれば試したかも。 

Img_9013 四ツ石聖蹟地

後鳥羽上皇一行の休憩所跡とか。辻褄合わせのように、4つの石がぽつんと置かれている。

Img_9012 説明板

Img_9015 原谷皇太神社

沓掛王子、(西の)馬留王子が合祀されている神社。

Img_9018 (西の)馬留王子跡

原谷皇太神社に合祀

Img_9020 説明板

Img_9024黒竹(くろちく)

原谷は日本一の生産地。民家の人に「こくちく」と聞いたら、一瞬「はあ・・」という顔をされた。

Img_9025 一里塚跡

右のブロック塀の間に、「史跡 一里塚跡」の石柱が挟まれて立っている。このあたりにあることを知らないと見過ごしてしまうだろう。

Img_9027 雨司神社参道

この上で石段は途切れ廃道となっている。

Img_9028 説明板

原谷地区を抜け、県道176号を横切り、なめら(滑)橋を渡り、内ノ畑王子へと向かう。

Img_9036 今熊野神社参道

長く急で不規則な石段(107段?)を上ると、寂れた小祠のみで肩透かしを食った感じで、汗が噴き出た。

Img_9038 今熊野神社

Img_9039 内ノ畑王子跡

木の枝で槌を作り、榊の枝を結びつけて王子に持参する風習があり、「槌王子」とも呼ばれた。今熊野神社から内原王子社へと合祀された。

Img_9042説明板

Img_9056 愛子(あいご)の淵 【ル-ト地図】の③

由緒板より少し先の流れの合流地点。けっこう流れが速い。淵は残るが千代を救った観音の円応寺は廃寺になってしもうたとさ。

Img_9054 由緒

Img_9057 高家(たいえ)王子(内原王子神社)

Img_9058 説明板

Img_9066 一里塚跡(左に石柱)

Img_9068 道分け地蔵

台座の正面は「左ハきみいてら」 熊野詣の人達が、ここで道成寺を見ながら一服したということから、地元の人は「茶処(ちゃど)のお地蔵さん」と呼んでいたという。

ここの東方に地元の人に「あしきりさん」と親しまれてる万福寺(足切地蔵院)がある。弘法大師が讃岐で彫った仏像が大師の熊野参詣を追ってきて、帰れと言っても聞かないため爪先を切ってこの地に祀ったという。この仏像は「足切地蔵」と呼ばれ、足の病、通行安全の地蔵として信仰が篤く、「足切り」の名から大学入試の守り地蔵でもあるそうだ。「溺れる者、藁をもつかむ」か。

Img_9073 善童子王子跡 【ル-ト地図】の④

「よいこ神社」とある。大般若経六百巻を蔵する大社で、五体王子に次ぐ准五体王子の一つであったというがその面影はない。なぜか吉田八幡神社を通り越して湯川子安神社に合祀されている。小祠と説明碑があるはずだが見当たらない。連同寺王子、田藤次王子、伝童子王子、出王子、出童子などとも呼ばれていたようだ。

Img_9074_2 熊野路説明板

Img_9076左へ進み富安橋を渡る。分岐点には徳本名号碑が立つ。

Img_9077 徳本名号碑

Img_9080 愛徳山王子跡へ

民家の間に入って行く。道標に忠実に従えばたどり着く。

Img_9082 草の覆う道を進み、竹林の間の道を行く。

Img_9084 愛徳山王子跡

ここも五体王子に次ぐ規模だったという。吉田八幡神社に合祀。

Img_9085 説明碑

Img_9117 八幡山(かみなが姫公園) 《地図

宮子姫の伝説:「九海士(くあま)の浦(八幡山周辺)の小さな漁村で生まれた宮子という女の子には、髪の毛が生えなかった。ある日、母親が海底から小さな黄金の観音を拾い上げ「娘の髪が生えてきますように…」と願いを掛けると、不思議なことに黒髪が生えてきて日毎に長くなった。この髪をつばめがくわえ、奈良の都へ飛んで行き、藤原不比等の屋敷の軒へ巣を作った。巣から垂れ下がった長い髪を見た不比等は、宮子を探し出し養女に迎え入れた。髪が長く美しい宮子姫は「かみなが姫」と呼ばれるようになり、文武天皇の妃となり、聖武天皇の生母となった。宮子姫は観音に感謝し、文武天皇の勅願により道成寺が建立された」

宮子は心的病いで、首(おびと)皇子(後の聖武天皇)の子育てを放棄したとも伝える。この公園もひっそり寂しげであった。雨の平日のこともあろうが。NHKTVドラマの『大仏開眼』では、江波杏子が病気の宮子を好演していた。宮子の墓は奈良郊外の黒髪山(宮子に由来する黒髪ではない)に小さくひっそりとある。『奈良市の坂』に記載。

Img_9116宮子姫生誕地碑

Img_9113 吉田八幡神社

宮子姫にあやかってか「初宮詣」の絵馬がいくつか掛けられていが、この神社も静かで寂しげだ。

Img_9092 蛇塚道標

「きよひめ志やつか」? ここを入れば蛇塚だが今は通れなく迂回する。

側面に「泉州堺 神南辺降光」と刻まれているそうだ。これを建てた神南辺隆光は、鋳物師で素行が悪く、嫌われ者だったという。その後、悟って仏門に入り、橋を架けたり道標や地蔵を建立した。河内から大和、紀伊に至るまで道標、社寺の石碑に彼の名が刻まれている。『竹内街道』にも彼が立てた道標があった。

Img_9093 蛇塚 【ル-ト地図】の⑤

道成寺の釣鐘に巻きついて安珍を焼き殺した清姫が入水自殺した海の入江(跡)という。

Img_9094 道成寺仁王門(元禄4年(1691)建立)

能楽「道成寺」の乱拍子を生んだとされる62段の石段と仁王門。

文武天皇の勅願寺で、「かみなが姫」宮子の縁の寺。今は安珍清姫の怨炎の物語(『道成寺安珍清姫編』にお株を奪われてしまったが。いずれも伝承だが「かみなが姫物語」の方が日本版「シンデレラ姫」のようで後味はいい。こちとらにはどろどろの恋物語はもう用無しだからだろう。
パロディ落語の『弥次郎

Img_9108 安珍塚(手前)

安珍と釣鐘を葬った所という。奥州街道の白河の先の安珍の生誕地という根田宿には安珍堂と墓がある。『奥州街道(白河宿→笠石宿)

まだ20代の頃、この寺で「安珍清姫」の絵解き説法を聞いたことがある。節談説教のようで面白かったことをまだ覚えている。

Img_9107 入相桜(2代目)

ここは鐘楼跡で、この桜の周りから焼けた土が出土したという。清姫伝説は真実だったという「心霊スポット」か。ただの火事の跡だろうよ。

Img_9105 説明板

Img_9098 説明板

Img_9104 槙柏(シンパク・樹齢600年以上)

Img_9111 道成寺参道

平日で梅雨空とはいえ閑散として寂しい。「釣鐘まんじゅう」看板の清姫は、髪が長く可愛い宮子姫風に描かれているか。

Img_9112 再び八幡山の方に戻る。

Img_9121 海士(九海士)王子跡

もとは「クアマ」、「クワマ」王子と書かれていた。近世後期の資料では、(九)海士王子を道成寺伝説の一部に取り入れ、道成寺の観音像を海中より引き上げた海女に因むとしているが、九海士王子ないし海士王子と書かれるようになるのは近世のこと。

吉田八幡神社に合祀。この王子社にあった宮子姫像(本来は天照大神と推定)は道成寺に祀られているそうだ。

Img_9120 説明板

重力(しこりき)踏切を渡り、御坊駅に向かった。

Img_9126 崩れそうな旧家

Img_9397 紀州鉄道

JR御坊駅の0番線ホーム。バスみたいな1輛の電車。営業キロ2.7kmという日本最短のローカル線。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月16日 (木)

熊野古道(紀伊路⑦ 久米崎王子→津兼王子)

2011年6月1日

湯浅駅(JR紀勢本線)・・・(紀勢線ガード)・・・満願寺・・・紀文の碑・勝楽寺・・・久米崎王子跡・・・不動弘法大師道道標・・・新柳瀬橋(広川)・・・井関王子跡・・国道42号・殿井橋(広川)・・(湯浅御坊道路)・・・津兼王子跡・・・国道42号・・・井関交差点・県道21号・・旧道・・養生場跡・・・旅籠街跡・・・丹賀大権現社・・河瀬橋・・・(来た道を戻る)・・・湯浅駅(紀勢線)→紀三井寺駅・・・紀三井寺・・・紀三井寺駅(紀勢線)→和歌山駅・・・日前宮・国懸神宮・・・和歌山駅

  【ル-ト地図】(11.0km)

 昨日とはうって変って本降りの雨だが、とにかく湯浅駅から鹿ケ瀬峠を目指す。峠への登り口近くの河瀬橋に着いた頃には雨脚は激しく、南風も強くなってきた。民家の軒下で30分以上様子を見るも一向に弱まる気配はない。藤原定家をして「鹿ノ瀬の山をよじ昇る。崔嵬の険阻」と嘆かせた「鹿ヶ瀬峠」だ。それほどの登りでもないと思うが、下りの長い石畳で滑って転んで怪我でもしたら元も子もない。急ぐ旅でもなし今日は断念して湯浅駅へ引き返し、紀三井寺と熊野御幸とも縁のある日前神宮・国懸神宮へ参り、明日の好天を祈願した。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8786 湯浅駅からJRガードをくぐり、勝楽寺方向に向かう。

Img_8789 勝楽寺への道標

Img_8791 紀伊国屋文左衛門之碑(勝楽寺前)

「紀文」はここ湯浅町別所の生まれという。墓も勝楽寺にあるようだ。

Img_8794 久米崎王子跡 【ル-ト地図】の①

「史跡 久米崎王子社趾」碑が立つのみ。顕国神社に合祀されている。

Img_8792 説明板

Img_8797 広川沿いに進む。

地蔵や三界万霊塔などが集められている。

Img_8800 「左 不動弘法大師道」道標(電柱下)

ここは直進する。「不動弘法大師」とは柳生寺のことだろうか? 調べても分からず。

Img_8806 井関王子跡 【ル-ト地図】の②

広川の向うの倉庫あたり。津木八幡神社に合祀(丹賀大権現社にも合祀か?)

Img_8804 案内図(東西が逆)

このあたりの道筋はややこしい。道標もあるが分かりづらい。両王子跡は200mも離れていない。

Img_8803説明板

津兼王子(中世以前)→井関王子(近世以降)としているが、藤原定家の『熊野御幸記』には「(久米崎王子の)次に井関王子に参る」とある。

Img_8809 津兼王子跡 【ル-ト地図】の③

津木八幡神社に合祀(丹賀大権現社にも合祀か?)

Img_8812 説明板

『紀伊続風土記』では、「井関王子社は村の北入口にあり、今は地名をとって津兼王子という」で、井関王子=津兼王子で、井関王子の名の方が古いとしている。

両王子社の関係は、①両社は同一の社か、別々の社か? ②別々の社としたらどちらが古いのか? よく分からんが、「中世以前には東側(今の津兼王子跡)に井関王子があり、近世以降に熊野街道が西側に移ったのに伴い井関王子も移って、名も地名をとって津兼王子に改称された」、と降りしきる雨の中、回らぬ頭を回転させて勝手に理解したが。

Img_8814 ここをくぐって国道42号に戻る。くぐった先は水浸しで国道に降りるのに苦労した。

Img_8815 国道42号に戻りしばらく進み、国道と分かれ井関交差点を直進する。

Img_8818 養生場跡(左)

馬などを養生した場所で、このあたりは旅籠が並んでいた。

Img_8820 旅籠亀屋跡

藤屋、竹屋跡(井関簡易郵便局)の標示もある。

Img_8821 丹賀大権現 【ル-ト地図】の④

「白井原王子・井関王子・津兼王子 合祀」の看板が立っている。白井原王子は井関王子と同じとも考えられている白原王子(津兼王子の説明板にある)のことだろうか? 白原王子は河瀬橋の北側の山麓にあったが、川向いに移され河瀬王子になったというが。

強くなった雨の中、すぐ先の河瀬橋(ごのせばし)までとし湯浅駅まで引き返した。今来た道だし、追い風で緩やかに下って行く感じで、ちょっと悔しく残念だったが楽な帰り道ではあった。明日は湯浅駅からタクシーでここまで来るとしよう。

****紀三井寺と日前神宮・日懸神宮***

Img_8827 紀三井寺

本尊は十一面観音で、西国三十三観音霊場の第2番札所。

Img_8831 結縁坂

紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表参道の231段の石段。途中からは女厄除坂(33段)、男厄除坂(42段)、還暦厄坂(60段)と区切られて名付けられている。

由来話:「文左衛門が若い頃のある日、観音に参るため母を背負ってこの石段を上って行くと、草履の鼻緒が切れてしまった。困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、紀三井寺の真向かいにある和歌浦湾の玉津島神社の宮司の娘「おかよ」だった。これがきっかけとなり、2人の間に恋が芽生え結ばれたという。そして文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、みかんと材木を江戸へ送って大儲けをしたとさ」

Img_8832 三井水の「清浄水」

三井寺の由来となった、3つの井の一つ。

Img_8835 芭蕉句碑(文化元年(1804))

「見上ぐれば 桜しもうて 紀三井寺」

Img_8841 楊柳水(三井水)

Img_8855 大楠

Img_8861 春子稲荷神社

紀三井寺を秀吉の軍勢から救ったにしては、この「春子狐」の祠は小さ過ぎやしないか。

Img_8860 由来

Img_8826 裏門を出て三井水の3つ目の吉祥水に向かう。

Img_8877 吉祥水

説明板によると「吉祥天女の内証よりわき出たものとされ」とある。ということは吉祥天の小便なのだ。そんな品のないことを言うなって。

Img_8878 説明板

紀三井寺駅からJRで和歌山駅に出る。わかやま電鉄貴志川線で2駅目の日前宮駅まで乗ってみたかったが、ちょうど発車してしまったので歩くことにした。

Img_8900 日前神宮・日懸神宮 《地図

樹林の間の参道を突き当たって左に日前(ひのくま)神宮、右に日懸(くにかかす)神宮が鎮座する。

伊勢神宮の神宝の八咫鏡に先立って鋳造されたという、日像鏡(ひがたのかがみ)・日矛鏡(ひぼこのかがみ)を神体する準皇祖神的な神社。熊野御幸の途上、当社に奉幣使を派遣することが恒例となっていた。後鳥羽上皇に随行した藤原定家は奉幣使として吐前王子から当社に向かい、和佐・平緒王子には参らずに奈久智王子に直行している。

Img_8898 日前神宮

降り続く雨の中、長い間熱心に手を合わせる女性。こちらは明日の天気回復と熊野古道歩きの道中安全を願って、さっさと引き上げた。

Img_8886 日懸神宮

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月11日 (土)

熊野古道(紀伊路⑥ 塔下王子→逆川王子)

2011年5月31日

海南駅(JR紀勢本線)→藤白王子(藤白神社)・・・紫川・・・有間皇子の墓・椿の地蔵・・・藤白坂・・・筆捨松跡・硯石・・・宝篋印塔・・・地蔵峰寺・塔下王子跡・・御所の芝・・・阿弥陀寺・橘本王子跡・・・福勝寺・裏見の滝・・・加茂土橋(加茂川)・・三界万霊塔・・・所坂・橘本神社・所坂王子跡・・・市坪中橋(市坪川)・・・一壺王子(山路王子神社)・・・沓掛の松等説明板(沓掛児童会館)・・・拝ノ峠・・・蕪坂・・・万葉歌碑・・・蕪坂塔下王子・・・太刀の宮・・・爪書地蔵(金剛寺)・・・山口王子跡・・・渡り郷橋(露谷川)・・・伏原の墓・・・宮原神社(太刀の宮)・・・夕暮橋・・・熊野古道ふれあい広場・・・橘踏切(JR紀勢本線)・・・札場地蔵・・天神社・宮原の渡し跡・宮原橋(有田川)・・・得生寺・・糸我の一里塚跡・・・糸我稲荷神社・くまの古道歴史民俗資料館・・・道標・・・雲雀山道標・・・徳本名号塔・・・糸我王子跡・・・糸我の道標・糸我王子社跡碑・・・七曲り・・・糸我峠・峠の茶屋跡・・・夜泣松跡・・・行者石・・・道六路・・・逆川神社・逆川王子・・・逆川巡礼橋・・・方津々坂・・腰掛岩跡・・・弘法井戸・・・方津戸峠・峠の地蔵 ・・・湯浅の一里松跡・・・北栄橋(山田川)・・・湯浅の町並み(麹資料館・甚風呂・角長・職人蔵・北恵比須神社・大仙堀・深専寺)・立石の道標・・・湯浅駅(JR紀勢本線)

*熊野古道紀伊路⑤)』からの続きです。

  【ル-ト地図】(21.8km)

 紀伊路の続きを中辺路の起点の紀伊田辺まで5日位で歩く。今日は梅雨の合間なのか台風一過のせいなのか、久しぶりの晴天で気分がいい。ちょっと暑いが、藤白坂、拝ノ峠、蕪坂、糸我峠、方津戸峠を越え、醤油発祥の地で古い家並みが残る湯浅の町を散策した。明日は鹿ケ瀬峠越えだが雨になるようで気分が重い。 

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8219 有間皇子の墓・万葉歌碑 【ル-ト地図】の①

かつては椿の大木があり、その下に無縁仏が並び「椿の地蔵」と呼ばれていた。今も後ろに石仏たちと椿の木がある。

万葉歌碑は有間皇子が護送される途中で詠んだ歌、「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」 

Img_8220 説明板

Img_8224 丁石地蔵

藤白坂の17体の丁石地蔵のうち、当時(享保の初め頃)のまま現存する4体の地蔵の一つ。 ここから約18丁(約2km)の上り坂が続く。丁石地蔵ができたため、距離をごまかせなくなった駕籠かきが地蔵を谷へ蹴落としてしまって4体になってしまったとか。今はすべて復元されて道しるべとなっている。

Img_8223 説明板

Img_8230 藤白坂から海南の町を振り返る。

Img_8242 藤白坂の上り

Img_8243 海南港・和歌浦湾・マリーナシティー・海南火力発電所方向

万葉で歌われた「名高の浦」、「黒牛潟」は埋め立てられてしまった。手前は紙袋に包まれたビワの実。

Img_8249 竹林の間を上って行く。

Img_8254 筆捨松(投げ松)跡・硯石(右)

舒明天皇と巨勢金岡に由来する同じ松の跡。巨勢金岡は甲州街道の鶴瀬宿で岩に地蔵を描き、竹内街道には金岡神社がある。

Img_8255 由来

Img_8257 硯石

紀州家初代藩主の徳川頼宣が、硯の形彫らせて筆捨松の根元に置いた大石。風流というより、権力者の驕りを感じる。

Img_8256 説明板

Img_8258 藤白坂の坂上近く

この先に17丁の丁石地蔵がある。

Img_8260 17丁で藤白坂は「一丁上がり」だ。

Img_8265宝篋印塔(15世紀前半頃・高さ約3.8m)

県内4大宝篋印塔の一つだそうだ。もっと大きなものをいくつでも見ているような気がするが。(和歌山県以外で)

Img_8263 説明板

「地蔵峰寺の石造地蔵菩薩坐像と同年代の15世紀前半頃・・・」とあるが、石造地蔵菩薩坐像には元亨3年(1323)の銘があるから間違いだろう。

Img_8266 地蔵峰寺

ここは藤白坂の坂上で標高291m。

Img_8267 説明板

Img_8269峠の地蔵(元亨3年(1323)の銘)

高さ3.1mの石造地蔵坐像

Img_8282 塔下王子跡(地蔵峰寺境内)

橘本神社に合祀

Img_8283_2 説明板

Img_8278_2「御所の芝」から海南港・和歌浦湾 《地図

白河上皇の熊野詣の際の行宮所となった所。

Img_8277_2 説明板

Img_8285 地蔵峰寺からは下りとなる。

Img_8287鯉の池(手前)

ここに明治の中頃まで茶店が3軒あったという。

Img_8288 今はえさ代に苦労しているようだ。

Img_8293 細い道に入り、舗装道路を何度か横切って下って行く。

Img_8297_2下津町地区へ下って行く。

Img_8306 下津町橘本の家並み

Img_8310 橘本王子跡(阿弥陀寺境内) 

橘本神社に合祀

Img_8311 説明板

白河法皇の歌の「入佐の山」は加茂川の南の鉢伏山(195m)のこと。

Img_8318_2 裏見の滝(福勝寺境内) 【ル-ト地図】の②

高さ20m、幅30mで裏側は岩窟になっていて不動明王が祀られている。台風の雨で流量は多いようだ。

Img_8328滝の裏側から

裏見の滝は八丈島、四国札所の番外霊場「星の岩屋」にもある。芭蕉が「奥の細道」で訪れた日光の裏見の滝は、今は裏からは見ることができない。

Img_8324 不動明王(伝弘法大師作)

Img_8316 説明板

Img_8319昔話「天狗手がた」

本堂の縁に残るという「手形」は、どれか分からなかった。

Img_8339_2 橘本土橋跡 《地図

熊野詣での帰途、険しい藤白坂を避け、ここから加茂川に沿って下り、舟の津(今の塩津)から船で和歌浦に到ったことが天仁2年(1109)の中御門右大臣藤原宗忠の旅行記「中右記」に記されている。

Img_8342 説明板

Img_8343 三界万霊塔(寛政5年(1793))

Img_8344旅籠が並び伝馬所があった道筋。

Img_8345_2 所坂の途中に橘本神社(右)

このあたりに(トコロ)(ヤマノイモ(山芋)で別名を野老(ヤロウ))が自生していた。トロロ≒トコロか?

Img_8347所坂王子跡(橘本神社境内)

橘本神社は、蜜柑と菓子の神様として全国のみかん、菓子業者の信仰が篤い。

Img_8346 説明板

Img_8352 橘の樹(橘本神社境内)

垂仁天皇の命を受けた田道間守が常世の国から持ち帰ったという「非時香菓」(ときじくのかぐのこのみ)で、紀州蜜柑の原種という。

 

Img_8367 一壺王子(山路王子神社) 《地図

泣き相撲」の土俵

Img_8362 説明板

Img_8370 市坪地区を抜け沓掛から拝ノ峠へと上る。

Img_8374風力発電用の風車か?

Img_8378 傾斜がきつくなってくる。

Img_8384 沓掛の松・弘法井戸・爪書地蔵の説明板(沓掛児童会館・地蔵堂(大師堂)?前)

Img_8385 沓掛の松

Img_8386 弘法井戸

Img_8387 爪書地蔵 

Img_8389 爪書地蔵の写真

Img_8396 拝ノ峠への急登が始まる。

Img_8403 拝ノ峠 《地図

神武天皇東征の折り、八咫烏が先導されたのでこの名があると伝える。ここには茶屋があったという。

Img_8406 拝ノ峠あたりから

標高300mくらいか

Img_8407蕪坂を下る。

矢もて鹿を打ちし坂なれば坂と名付しにや」(紀伊国名所図会)

Img_8427 説明板

Img_8422 蕪坂の途中から有田市方向

Img_8435 蕪坂塔下王子跡

宮原神社に合祀されが、平成元年に小祠が再建された。

Img_8433 説明板

Img_8430 万葉歌碑

Img_8431 説明板

Img_8439 太刀の宮

猿田彦を祀る道中安全の道祖神的な神社で、今は宮原神社の道祖神社(太刀の宮)の奥宮になっている。

Img_8440 由緒

Img_8441 奉納された太刀

いずれもプラスティック製のおもちゃ。

Img_8450 湯浅方向の眺め

Img_8452 爪書地蔵堂(金剛寺) 【ル-ト地図】の③

Img_8453 説明板

Img_8454 阿弥陀と地蔵というが、はっきり見えず。弘法大師が爪で書いたが、爪を痛めたので椿油を塗ろうとしたが手に入らず、以来この地では椿の実から油がとれなくなったという。むろん伝説でこの線彫石仏は室町時代以降のもの。

Img_8455 写真 

Img_8469宮原町へ下って行く。

Img_8471 山口王子跡

宮原神社に合祀されたが、平成3年に小祠が再建された。

Img_8472 説明板

Img_8481 伏原の墓

行き倒れなどの無縁仏の供養墓

Img_8479 説明板

Img_8485 宮原神社 《地図

本殿の左端に道祖神社がある。

Img_8488 道祖神社(太刀の宮)

街道沿いの「太刀の宮」(前記)の本宮で、ここに「蕪坂塔下王子」が合祀されている。

Img_8490 宮原町の家並み

Img_8503 くまの古道ふれあい広場 (宮原小学校前)

このあたりは熊野参詣道と高野参詣道が合流して賑わった所。

Img_8508 札場地蔵 【ル-ト地図】の④

有田川が増水した時に、ここに川止めの制を立てた。

Img_8515 宮原の渡し跡

ここから川向いの糸我稲荷神社のお旅所付近に渡ったという。このあたりに熊野御幸の頓宮の「お茶屋の芝」があった。今は宮原橋を渡る。

Img_8511宮原渡場の図

Img_8520 宮原橋から有田川

台風の雨で増水しているか。

Img_8528 有田川を渡り、中将姫ゆかりの得生寺に向かう。

Img_8534 得生寺 《地図

平地にあり樹木は少なく、代わりに処世訓じみた標語の立札がいくつも立っていて、中将姫のイメージも湧かない興ざめの境内だった。

Img_8533 説明板

Img_8531 万葉歌碑

Img_8532 説明板

Img_8540 糸我の一里塚跡

Img_8539 説明板

Img_8546 糸我稲荷神社

日本最古の「お稲荷さん」とか。境内には樹齢500年以上という大楠が3本聳えている。

Img_8544 説明板

Img_8559 道標(文久4年(1864))

「すぐ熊のみち」

Img_8564 雲雀山(208m)道標

中将姫ゆかりの山で、「親子対面岩」、「写経の岩」などがあるそうだ。

Img_8566 説明板

Img_8567 徳本名号塔

手前は熊野道道標。

Img_8574_2 糸我王子跡

糸我稲荷神社に合祀されたが、平成7年に小祠が再建された。

Img_8573 説明板

Img_8580 熊野道道標(右)・糸我王子社跡碑(左)

Img_8579 説明板

Img_8586糸我峠への途中から振り返る。下は新池か?

Img_8592 木の柵沿いに七曲りを上って行く。

Img_8597 糸我峠

道を挟んで2店の茶屋があった。今はみかん畑だけの殺風景な所。

Img_8598 説明板

Img_8558 糸我峠茶店の図

往時はこんなに賑わっていようとは。TVの「仁」のようにタイムスリップして行ってみたいものだ。

Img_8604峠から湯浅方向へ下る。

Img_8614 夜泣松跡

Img_8615 説明板

Img_8625 行者石

もとは逆川沿いの祓い井戸のそばにあって、旅人はこの石の上で体を清め、道中の安全を願った。

Img_8627 説明板

Img_8635 周辺図

Img_8632 道六路 《地図

六道路から転訛したという。

Img_8634 説明板

Img_8637 逆川王子(逆川神社)

国津神社に合祀されたが、昭和12年に社殿と石段を新たに建立し、再建された。

Img_8638 説明板

Img_8649 巡礼橋から逆川

確かに海とは逆方向に流れている。東に流れて山田川に合流し、湯浅湾に入るそうだ。「」を嫌って村の名を川にしたが、川の逆川はそのままのようだ。

Img_8622 説明板

今日最後の上りの方津々坂(程遠坂)を方津戸峠へと上って行く。峠といっても100mの高さもないが。

Img_8650 腰掛岩跡碑(左)

後白河法皇が熊野詣の折に腰掛けた岩だったという。

Img_8654 説明板

Img_8660 弘法井戸

水は溜まっているが飲める代物ではない。

Img_8662 方津戸峠 《地図

左へ直進し、すぐに右へ未舗装の道に入り下る。

Img_8666 説明板

Img_8668 説明板

Img_8672 未舗装道に入るがすぐ車道に出る。

Img_8676 湯浅の一里松跡(郡民体育館前) 《地図

Img_8677 説明板

Img_8682 山田川沿いを進み、北栄橋を渡って熊野古道から離れ、湯浅の町並みを散策する。

Img_8691 湯浅案内図

参考:『紀州 湯浅散歩

Img_8690 説明板

Img_8692 麹屋資料館

Img_8693 説明板

Img_8702 北町通りの家並み

Img_8703戸津井醤油醸造所

Img_8707北町茶屋いっぷく(左)

江戸後期の民家を改装。右は戸津井家の樽蔵

Img_8711 加納家   

Img_8720 甚風呂

今は民俗資料館になっている。

Img_8719 説明板

Img_8723 御影石の深い浴槽(手前)と金属製の洗い桶。ここは女湯

Img_8728 湯浅醤油の角長

Img_8730 説明板

Img_8737 北恵比須神社

Img_8738 説明板

Img_8745 大仙堀(しょうゆ堀) 《地図

山田川から湯浅港へと醤油などを運送した。右は角長。今は山田川とはつながっていない。

Img_8743 大正~昭和初期の大仙堀

Img_8742説明板

Img_8747 あら玉屋旅館跡

Img_8752 玉井醤大三味噌

「古伝径山寺味噌大坂屋三右衛門」の看板を掲げるが、シャッターは降りている。今でも営業しているのだろうか?

Img_8754懐かしさを感じさせる小路

Img_8763 深専寺 《地図

山門左に「大地震津なミ心え之記」碑

Img_8758 説明板

Img_8765 立石の道標 【ル-ト地図】の⑤

左は「立石茶屋」、この先で左折し湯浅駅方向に向かうのが中世以前の熊野街道で、右折して広川へ向かうのが近世の熊野街道。

Img_8767立石の道標・銅板張りの商家

道標の立つ1坪ほどの空き地は、聖護院の門跡が熊野入峯の途次に、護摩修法を行った護摩壇の跡という。

Img_8770 説明板

Img_8774 左折が中世以前の熊野街道、右折して近世の道筋を広川近くまで行ってみた。

Img_8775 布袋湯

甚風呂の管理人の女性が言っていた明治時代(大正かも)から続く風呂屋。

Img_8780熊野古道は直進しJR線のガードをくぐる。今日はここまでとし、左折して湯浅駅に出た。

 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年6月10日 (金)

熊野古道(紀伊路・黒江散歩)

2011年5月30日

海南駅(JR紀勢本線)・・・金比羅大権現・・・尾崎家住宅・・・子安地蔵堂・・・黒江ぬりもの館・・・黒牛茶屋(名手酒造)・・・温故伝承館・・川端通り・・・浄国寺・・・菊谷(屋)地蔵・・・中言神社・・・黒江坂・・・黒江駅(JR紀勢本線)

 【ル-ト地図】(4.7km)

 熊野古道の続きを歩く前に、紀州漆器のまち黒江を散策した。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8146 黒江の町並み案内図

Img_8089 集合住宅か?

Img_8097 尾崎家(国登録有形文化財) 【ル-ト地図】の①

紀州徳川家の地士として、伊勢国大杉山奉行、有田川普請奉行、海士郡代官等を務めた家柄で、座敷は江戸中期の建物。

Img_8094 風情ある蔵?

Img_8100 池庄漆器店(国登録有形文化財)

丸瓦や、つし二階(低い二階)が特徴の築220年の建物。

紀州漆器は室町時代に起源を持ち、紀州藩の保護を受けて発展した。今は漆を使った伝統漆器と、化学塗料の現代漆器を生産し、日本漆器四大生産地(輪島・山中・会津・黒江)の一つ。

Img_8105黒江ぬりもの館(右)

Img_8107 虫籠窓の旧家

Img_8113黒牛茶屋(名手酒造) 【ル-ト地図】の②

「黒牛の水」で造られた清酒「黒牛」の酒蔵休憩所。

Img_8116

名手酒造

Img_8121 温故伝承館

Img_8134木佐商会

隣家(右)との間に「うだつ」(防火壁)がある。

Img_8131 木佐商会

Img_8136池慶漆器店

Img_8154 のこぎりの歯状の家並み①

江戸時代に黒江の入江を埋め立ててできた平行四辺形の土地に家を建てたためという。家の前にできた三角形の空き地に漆器の材料を干したとか。

Img_8160のこぎりの歯状の家並み②

左側に紀州連子格子の家が並んでいる。 甲州街道の韮崎宿では新しい家も鋸の歯状に並んでいる所があった。

Img_8167 浄国寺たいこ堂

「黒江のごぼうさん」で親しまれている寺。

Img_8166 義人重根屋伊七の墓(浄国寺)

Img_8164 説明板

Img_8169 菊屋(谷)地蔵 【ル-ト地図】の③

海南駅でもらった「黒江散策マップ」では「 菊屋地蔵」で、川端通りの案内板の地図では「菊屋地蔵」となっている。地蔵の小祠にも書かれていないようでどちらか分からず。

Img_8170 地蔵さんが3体か? 

Img_8174 中言神社参道前

Img_8176 中言神社へ

Img_8177由緒

Img_8184 黒牛の水・万葉歌碑(中言神社境内) 【ル-ト地図】の④

紀の国名水の一つ「黒牛の水」は覆い屋の中。万葉の昔は神社のある山のふもとまでが海で、牛の姿をした黒い大きな岩があったことから黒牛潟と呼ばれていたとか。牛と入で「黒江」になったのだろう。

万葉歌碑:「いにしえに 妹とわが見し ぬば玉の 黒牛潟を みればさぶしも」 (柿本人麻呂)

「黒牛潟 潮干の浦を 紅(くれない)の 玉裳裾ひき 行くは誰が妻」(万葉集巻九) という色っぽい風情の歌もあるが、潟は埋め立てられてしまい、こんな情景も遥か昔の夢のまた夢か。

Img_8183つるべ井戸で「黒牛の水」を汲み上げるようだ。

Img_8188 黒牛像

Img_8194 名手酒造の裏

この近くに「黒牛岩」があったという。

Img_8195 黒江坂を上る。 【ル-ト地図】の⑤

Img_8199 坂の途中の商店

Img_8203坂上近くの家並み

Img_8208 出口米店

Img_8210 黒江駅へ方へ下って行く。

Img_8211 旧家 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »