熊野古道(紀伊路⑩ 千里王子→出立王子→中辺路・大辺路分岐点)
2011年6月4日
岩代駅(JR紀勢本線)・・・汐入橋(東岩代川)・・・(JR紀勢本線)・・千里の浜・・千里王子社・・・千里観音堂・・・(JR紀勢本線)・・・南部峠・骨つぎ地蔵・・・(JR紀勢本線)・・・桜川橋・・・紀州梅干館・・・南部大橋(南部川)・・・古川橋・・・北茶屋橋・・・丹河地蔵堂・・・三鍋王子社・小栗井戸・・・南部高校・・・鹿島神社・・・南茶屋橋・・・(田辺市)・・・井原隧道・・・井原観音・・・松井橋(芳養川)・・・南海道地震津波潮位標識・芳養交差点(国道42号)・・・芳養王子(芳養大神社)・・・善徳寺・・・一里塚地蔵尊・・・国道42号・・・牛の鼻聖徳地蔵・・・芳養漁港・・芳養八幡神社潮垢離所・・・県道210号・・・潮垢離浜跡(江川児童公園)・・・(県道210号)・・・出立王子跡・・・県道210号・・龍泉寺・・浄恩寺・・旧会津橋(会津川)・・・本町会館・・・道分け石・・・道分け石(中辺路と大辺路分岐点)・・・蟻通神社・・・闘鶏神社・・・紀伊田辺駅(JR紀勢本線)
好天の紀伊路の最終日だ。距離は短いか相変わらず右足が痛む。岩代駅から千里王子、南部(みなべ)峠までの道が分かりにくく、ずいぶんと時間をロスした。昨日、岩代王子まで行っていて正解だった。三鍋王子の先で国道42号沿いの海岸線に近い道を行き、みなべ町から田辺市に入った。潮垢離浜跡の公園で小休止し、紀伊路最後の出立王子に向かった。旧会津橋を渡り、中辺路と大辺路分岐の道分け石の所を紀伊路歩きの終点とした。続きの中辺路は秋の涼しくなった頃としよう。
【ル-ト地図】
*『熊野古道(中辺路①)』へ続く。
写真をクリックすると拡大します。
千里の浜づたいは通行不能なので、JR線と国道42号の間の丘陵地を行き、山道を千里の浜へ下りる。標識がない所もあり、何度も道を間違えそうになった。
千里の浜(岩代王子方向)
枕草子、伊勢物語などにも記された景勝地で、赤ウミガメの産卵地でもある。
浜を少し歩いて左が千里王子
須賀王子に合祀されたが本殿は残された。浜辺の貝を拾って奉納したことから、「貝の王子」とも呼ばれた。
花山法皇歌碑
法皇がここで病いになり、傍らの石を枕にして休んだ時の歌。
「旅の空 夜半の煙と のぼりなば 海人の藻塩火 焚くかとや見む」 (自分がここで死んで火葬されても、その煙を人々は藻塩を焚く煙と見るだろう)
熊野で病気が治った小栗判官が船で京へ戻る途中、南部の沖で暴風に襲われた。小栗が観音経を一心に唱えると馬のいななきが聞こえ、白馬がやってきて小栗を救った。気が付くと白馬の姿はなく、海面に馬の首の形の一本の木が漂っていた。小栗はそれを拾い馬頭観音像を刻み奉納した。
近西国観音霊場の33番札所
JR線に近い道を行き、この先でガードをくぐり南部峠へと上る。このあたりも分かりにくい。
正面に地蔵の祠
室町時代のもの。 骨折に霊験あらたかという。
丹河地蔵のイチョウ(樹齢350年) 《地図》
銀杏がごっそりとなりそうな感じだ。ここは熊野詣の人たちの休憩所で、「丹河のお地蔵 さん」と呼ばれる延命子安地蔵が祀られている。
鹿島神社に合祀された際に社殿も移された。手前は熊野へ向かう小栗判官が飲んだと小栗井戸跡。
鹿島神社 《地図》
三鍋王子から移された立派な本殿
3つの鍋をひっくり返して並べたように見えるので三鍋(南部)の由来になったという。ここからだと2つにしか見えないが。
岬の「森の鼻」には平家塚、国道42号の海岸沿いには清姫袖摺岩があるが、相変わらず右足が痛むので寄らずに行く。
前方の大屋トンネル(国道42号)の小高い所が湯川氏の城跡で、城山崎の地名が残る。左の道を進み、井原トンネルを抜ける。
井原隧道 《地図》
今日は暑いがトンネル内は涼しい。
近西国観音霊場28番札所
南海道地震津波潮位標識碑(芳養交差点) 《地図》
昭和21年の地震のことか? 芳養湾からは200mくらいしか離れてなく、高さもなく津波が押し寄せても不思議はないか。
道成寺、光専寺にも見事な柏槇があった。
和歌山から18里の芳養一里塚跡で、地元からは「塚の地蔵」と呼ばれているそうだ。
牛の鼻聖徳地蔵 《地図》
このあたりに牛の鼻に似た岩穴があったという。バス停も「牛の鼻」
御坊市の熊野(いや)神社(岩内王子を合祀している)の御輿が450年くらい前までここまで渡御していたという。
向うは天神崎と元島
芳養八幡神社潮垢離所
11月3日の例祭の宵宮には、ここまで潮垢離に来るそうだ。
潮垢離浜跡(江川児童公園) 《地図》
風邪気味の藤原定家も先達の強い勧めで潮垢離を余儀なくされたと、『熊野御幸記」(12日の最後)にある。
県道210号を横切り、紀伊路最後の出立王子に向かう。
八立稲神社に合祀
ここから会津川沿いに秋津方向に向かうのが中世以前の熊野古道のルートだが、旧会津橋を渡り田辺市街に入り、中辺路と大辺路の「道分け石」への道筋を行く。
道分け石(左の「ほしかや陶器店」前) 《地図》
「右 くまのみち」 「左 きみゐてら」でここを右折する。
「おけし餅」は美味そうだ。次回、中辺路を歩く時に食べてみよう。
道分け石(北新町の道標・丸三呉服店前) 【ル-ト地図】の51
紀伊路の終点、中辺路(左折)と大辺路(直進)の分岐点。次回はここから中辺路を行くことになる。
このあたり衣類の店が多い。
「蟻通」の由来はまさに民話だ。(信濃の民話『姥捨山』)。右は安政元年(1854)の大地震の火災の際に水を噴き出したという、スプリンクラーのようなクスノキ。
背後の仮庵山(かりおやま)は古代祭祀跡で、南方熊楠が自然林の保護を訴え、多くの植物を採取した所。
鶏が源平以降の日本の歴史を決めたか。むろん八百長で、強い白(源氏)の鶏を集めたか、それよりも「闘鶏」の話自体が伝説、作り話だろう。
田辺が生地ともいう。
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