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2011年6月19日 (日)

熊野古道(紀伊路⑧ 河瀬王子→海士王子)

2011年6月2日

湯浅駅(JR紀勢本線)→河瀬橋・・徳本名号碑・・・河瀬王子跡・・旅籠街跡・・・(東の)馬留王子跡・・・徳本名号碑・・・立場跡・・・痔の地蔵・・・法華の壇・・・大峠(鹿ケ瀬峠)・・・小峠・・・石畳道・・・金魚茶屋跡・・・沓掛王子跡・弁財天社・・・法華経塚遺跡碑・・・爪書地蔵・・・黒竹民芸品組合・・・四つ石聖蹟・・原谷皇太神社・・・(西の)馬留王子跡・・・光明寺・・・一里塚跡・・・雨司神社参道跡・・・(県道176号)・・なめら橋(西川)・・・今熊野神社・・・内ノ畑王子跡・・・萩原浄水場・・・愛子の淵・・高家王子(内原王子神社)・・・王子橋(西川)・・・一里塚跡・・道分け地蔵  ・・・善童子王子跡・・・徳本名号碑・・富安橋・・・愛徳山王子跡・・・かみなが姫公園・・吉田八幡神社・・八幡橋(北吉田川)・・・蛇塚・・・道成寺・・・八幡橋・・・海士王子跡・・・吉田橋(斉川)・・・重力(しこりき)踏切(紀勢線)・・・御坊駅(JR紀勢本線)

 今日も雨模様だが鹿ケ瀬峠を目指す。上りの途中から雨の中に入ったが、昨日のような激しい降りではなく難なく大峠に着いた。小峠の先からは古い石畳道が残っている。傘を杖代わりにして滑らぬように慎重に下る。やっと石畳が終わったと思ったら、その先も新しい丸石が敷き詰められていて歩きづらく参った。地道になって金魚茶屋あたりからは平坦になる。そのうちに雨も上がってきた。いくつもの王子跡をたどりながら道成寺に寄り、御坊駅まで以外に早く着いた。

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8908 河瀬橋(ごのせばし)を渡る。

正面左に徳本名号碑

 

Img_8911 徳本名号碑道標(天保14年(1843))

徳本は現在の日高町の生まれの各地を行脚した念仏聖で、名号碑もいたる所にある。

道標のとおり「右く満み道」を進む。

 

Img_8909 説明板

 

Img_8912 道標

「左ハきみいてら ・・・・」

 

Img_8914 河瀬王子跡 【ル-ト地図】の37

巨岩は王子の古態を伝えるという。津木八幡神社に合祀

 

Img_8915 説明板

 

Img_8918 旅籠、茶屋が並んでいた河瀬集落を抜ける。

 

Img_8923 鹿ケ瀬峠への上りとなる。

今にも降り出しそうな空模様を気にしていたら、峠へ上る人の後押しをしてくれるという「汗かき地蔵」(延命寺)を通り越してしまった。

 

Img_8925 (東の)馬留王子跡

津木八幡神社に合祀

左に「徳本名号碑道標」、電柱脇に「鹿ケ瀬峠まで2340m」の標柱、少し先の左側に「立場跡」の看板が立っている。

 

Img_8927 説明板

 

Img_8929 徳本名号碑道標

「右 くまのみち 左 ・・・念佛堂」

 

Img_8930 立場跡

「駕籠はここまで、これよりは牛馬の背に頼ることとなる」とあるが、むろん己が頼るのは2本の短い足のみ。

 

Img_8934 小動物除けのフェンスが立ちはだかる。

まむし、ハチ、猿、鹿、狐狸妖怪、何でも出て来いだ。でも熊公と猪ちゃんにはご遠慮願おう。このあたりには熊はいないと思うが。左端の歩行者用扉を開けて通り抜ける。

 

Img_8937木の間から下界の眺め

 

Img_8940 じっとりした暗い道を上る。このあたりは雨の中に入っている。しばしこの陰鬱な雰囲気を楽しむ。

 

Img_8970 案内図

今は右端あたりを歩いている。

 

Img_8945 痔の地蔵(縛られ地蔵)(享保20年(1735))

「鹿ケ瀬峠まで152m」の道標の所を左に少し上った所。

水と米を備え、それを頂いて帰り粥にして食べると痔が治るという。「縛られ地蔵」は尋ね人が見つかるように地蔵を縛って祈り、見つかると縄を解くという。今は痔はともかく尋ね人もいないようで、地蔵さんは縛られずにほっとしているか。もっと陰惨な話もあるようだが書かずともいいだろう。道標にもなっていて、地蔵像の右に「是より紀三井寺七里」と刻むそうだ。

 

Img_8947 新しい石畳道となっている。

 

Img_8949 法華の壇(法華塚)

骸骨の舌が読経していたという話(一叡持経者聞屍骸読誦音語):「今は昔、一叡という法華経の信仰が厚い僧が熊野に詣でた。その道中、鹿ノ瀬山で野宿をした。すると夜半に法華経を読誦する貴い声が聞こえてきて、一夜明ける頃に全巻を読誦し終わった。明るくなって一叡がそのあたりをを見ると、人影はなく、ただ骸骨だけが横たわっていた。近くに寄ってこれを見ると、骸骨の上には苔が生え、口の中に舌がある。その舌は鮮やかで生きた人の舌のようである。一叡はこれを見て去りがたく、経の声をもっと聞くためにその場所に留まった。そしてその夜もまた法華経を誦する声を聞いた。翌朝、一叡は骸骨のもとに寄って礼拝して、「骸骨であるといえ、法華経を読誦されている。どうかあなたの過去をお聞かせくだいさい」と請うた。骸骨が答えるには、「私は比叡山の僧で円善という。法華経を六万遍読誦しようと修行に出たが、半分を読誦し終えたところで、この山中で死んでしまった。そのため、残りを読誦し終えるためにこの場所に留まっているのだ。もうじき読誦し終える。その後には兜率天に生まれ変わりて弥勒菩薩に出会って教えを受けようと思う」と。一叡は骸骨を礼拝して熊野に詣でた。後年、一叡はその場所を訪ねたが骸骨の影も形もない。夜そこに留まって耳を澄ましても、読経の声は聞こえない。一叡は骸骨(円善)が六万遍読誦し終え、兜率天に生まれ変わったと知り、有難さの涙を流しながらその跡を礼拝して立ち去った」(『今昔物語集』・『法華験記』より)

今でも4月16日に「円善まつり」が行われているそうだ。

 

Img_8951 大峠(354m)

平坦になっていて玉屋、日高屋、とら屋の茶屋があったという。藤原定家が「鹿ノ瀬の山をよじ昇る。崔嵬の険阻」と嘆いた「鹿ヶ瀬峠」だが、道は整備されていて、さほど急でもなかった。

 

Img_8957 小峠

この先から熊野古道で最長(503m)の江戸時代の石畳が残っている。

 

Img_8966 石畳道

小峠方向を振り返る。雨で道の両側から垂れ下がった小枝を傘で振り払う際に、何度が滑って転びそうになった。

 

Img_8969 雨に煙った眺め

 

Img_8971古い石畳が終わって一安心と思ったら新しい石が敷き詰められていて歩きにくく参った。どうして地道のままにしておかなかったのか。余計なムダなことをしたものだ。

 

Img_8973 草の道になってほっとする。雨で靴の中はぐしゃぐしゃになるが、こっちの方が全然歩きやすい。

 

Img_8975 法華堂跡

右に法華堂跡にあった板碑が集められている。

 

Img_8976 説明板

 

Img_8977 板碑

すべて室町時代のもの。

 

Img_8982 金魚茶屋跡 【ル-ト地図】の38

 

Img_8981 説明板

 

Img_8986 平坦地になって日高町の原谷地区へ入って行く。

 

Img_8988 沓掛王子跡

原谷皇太神社に合祀。少し上に弁財天社がある。

 

Img_8990 説明板

 

Img_8993 原谷の集落へ入る。

 

Img_8995 法華経塚道標

「経塚遺跡 是より二十五丁」、台座に「左旧道」で、鹿ケ瀬峠手前の「法華の壇」(法華塚)のことだろう。右側面には「水瀧不動曝 是より十丁」、台座に「右 新道」とある。滝まではそんなに遠くない。

 

Img_8999 爪書地蔵の祠(左) 

 

Img_9000 説明板

 

Img_9001 爪書地蔵

薄く線彫りが見えるような気がする。信心があれば水をかけると地蔵が浮かび上がるというが、むろん信心などは全く無しで試しはしなかった。近くに水があれば試したかも。 

 

Img_9013 四ツ石聖蹟地

後鳥羽上皇一行の休憩所跡とか。辻褄合わせのように、4つの石がぽつんと置かれている。

 

Img_9012 説明板

 

Img_9015 原谷皇太神社

沓掛王子、(西の)馬留王子が合祀されている神社。

 

Img_9018 (西の)馬留王子跡

原谷皇太神社に合祀

 

Img_9020 説明板

 

Img_9024黒竹(くろちく)

原谷は日本一の生産地。民家の人に「こくちく」と聞いたら、一瞬「はあ・・」という顔をされた。

 

Img_9025 一里塚跡

右のブロック塀の間に、「史跡 一里塚跡」の石柱が挟まれて立っている。このあたりにあることを知らないと見過ごしてしまうだろう。

 

Img_9027 雨司神社参道

この上で石段は途切れ廃道となっている。

 

Img_9028 説明板

 

原谷地区を抜け、県道176号を横切り、なめら(滑)橋を渡り、内ノ畑王子へと向かう。

Img_9036 今熊野神社参道

長く急で不規則な石段(107段?)を上ると、寂れた小祠のみで肩透かしを食った感じで、汗が噴き出た。

 

Img_9038 今熊野神社

 

Img_9039 内ノ畑王子跡

木の枝で槌を作り、榊の枝を結びつけて王子に持参する風習があり、「槌王子」とも呼ばれた。今熊野神社から内原王子社へと合祀された。

 

Img_9042説明板

 

Img_9056 愛子(あいご)の淵 【ル-ト地図】の39

由緒板より少し先の流れの合流地点。けっこう流れが速い。淵は残るが千代を救った観音の円応寺は廃寺になってしもうたとさ。

 

Img_9054 由緒

 

Img_9057 高家(たいえ)王子(内原王子神社)

 

Img_9058 説明板

 

Img_9066 一里塚跡(左に石柱)

 

Img_9068 道分け地蔵

台座の正面は「左ハきみいてら」 熊野詣の人達が、ここで道成寺を見ながら一服したということから、地元の人は「茶処(ちゃど)のお地蔵さん」と呼んでいたという。

ここの東方に地元の人に「あしきりさん」と親しまれてる万福寺(足切地蔵院)がある。弘法大師が讃岐で彫った仏像が大師の熊野参詣を追ってきて、帰れと言っても聞かないため爪先を切ってこの地に祀ったという。この仏像は「足切地蔵」と呼ばれ、足の病、通行安全の地蔵として信仰が篤く、「足切り」の名から大学入試の守り地蔵でもあるそうだ。「溺れる者、藁をもつかむ」か。

 

Img_9073 善童子王子跡 【ル-ト地図】の40

「よいこ神社」とある。大般若経六百巻を蔵する大社で、五体王子に次ぐ准五体王子の一つであったというがその面影はない。なぜか吉田八幡神社を通り越して湯川子安神社に合祀されている。小祠と説明碑があるはずだが見当たらない。連同寺王子、田藤次王子、伝童子王子、出王子、出童子などとも呼ばれていたようだ。

 

Img_9074_2 熊野路説明板

 

Img_9076左へ進み富安橋を渡る。分岐点には徳本名号碑が立つ。

 

Img_9077 徳本名号碑

 

Img_9080 愛徳山王子跡へ

民家の間に入って行く。道標に忠実に従えばたどり着く。

 

Img_9082 草の覆う道を進み、竹林の間の道を行く。

 

Img_9084 愛徳山王子跡

ここも五体王子に次ぐ規模だったという。吉田八幡神社に合祀。

 

Img_9085 説明碑

 

Img_9117 八幡山(かみなが姫公園) 《地図

宮子姫の伝説:「九海士(くあま)の浦(八幡山周辺)の小さな漁村で生まれた宮子という女の子には、髪の毛が生えなかった。ある日、母親が海底から小さな黄金の観音を拾い上げ「娘の髪が生えてきますように…」と願いを掛けると、不思議なことに黒髪が生えてきて日毎に長くなった。この髪をつばめがくわえ、奈良の都へ飛んで行き、藤原不比等の屋敷の軒へ巣を作った。巣から垂れ下がった長い髪を見た不比等は、宮子を探し出し養女に迎え入れた。髪が長く美しい宮子姫は「かみなが姫」と呼ばれるようになり、文武天皇の妃となり、聖武天皇の生母となった。宮子姫は観音に感謝し、文武天皇の勅願により道成寺が建立された」

宮子は心的病いで、首(おびと)皇子(後の聖武天皇)の子育てを放棄したとも伝える。この公園もひっそり寂しげであった。雨の平日のこともあろうが。NHKTVドラマの『大仏開眼』では、江波杏子が病気の宮子を好演していた。宮子の墓は奈良郊外の黒髪山(宮子に由来する黒髪ではない)に小さくひっそりとある。『奈良市の坂』に記載。

 

Img_9116宮子姫生誕地碑

 

Img_9113 吉田八幡神社

宮子姫にあやかってか「初宮詣」の絵馬がいくつか掛けられていが、この神社も静かで寂しげだ。

 

Img_9092 蛇塚道標

「きよひめ志やつか」? ここを入れば蛇塚だが今は通れなく迂回する。

側面に「泉州堺 神南辺降光」と刻まれているそうだ。これを建てた神南辺隆光は、鋳物師で素行が悪く、嫌われ者だったという。その後、悟って仏門に入り、橋を架けたり道標や地蔵を建立した。河内から大和、紀伊に至るまで道標、社寺の石碑に彼の名が刻まれている。『竹内街道』にも彼が立てた道標があった。

 

Img_9093 蛇塚 【ル-ト地図】の41

道成寺の釣鐘に巻きついて安珍を焼き殺した清姫が入水自殺した海の入江(跡)という。

 

Img_9094 道成寺仁王門(元禄4年(1691)建立)

能楽「道成寺」の乱拍子を生んだとされる62段の石段と仁王門。

文武天皇の勅願寺で、「かみなが姫」宮子の縁の寺。今は安珍清姫の怨炎の物語(『「安珍と清姫の物語」(道成寺)』にお株を奪われてしまったが。いずれも伝承だが「かみなが姫物語」の方が日本版「シンデレラ姫」のようで後味はいい。こちとらにはどろどろの恋物語はもう用無しだからだろう。
パロディ落語の『弥次郎

 

Img_9108 安珍塚(手前)

安珍と釣鐘を葬った所という。奥州街道の白河の先の安珍の生誕地という根田宿には安珍堂と墓がある。『奥州街道(白河宿→笠石宿)

まだ20代の頃、この寺で「安珍清姫」の絵解き説法を聞いたことがある。節談説教のようで面白かったことをまだ覚えている。

 

Img_9107 入相桜(2代目)

ここは鐘楼跡で、この桜の周りから焼けた土が出土したという。清姫伝説は真実だったという「心霊スポット」か。ただの火事の跡だろうよ。

 

Img_9105 説明板

 

Img_9098 説明板

 

Img_9104 槙柏(シンパク・樹齢600年以上)

 

Img_9111 道成寺参道

平日で梅雨空とはいえ閑散として寂しい。「釣鐘まんじゅう」看板の清姫は、髪が長く可愛い宮子姫風に描かれているか。

 

Img_9112 再び八幡山の方に戻る。

 

Img_9121 海士(九海士)王子跡

もとは「クアマ」、「クワマ」王子と書かれていた。近世後期の資料では、(九)海士王子を道成寺伝説の一部に取り入れ、道成寺の観音像を海中より引き上げた海女に因むとしているが、九海士王子ないし海士王子と書かれるようになるのは近世のこと。

吉田八幡神社に合祀。この王子社にあった宮子姫像(本来は天照大神と推定)は道成寺に祀られているそうだ。

 

Img_9120 説明板

 

重力(しこりき)踏切を渡り、御坊駅に向かった。

Img_9126 崩れそうな旧家

 

Img_9397紀州鉄道

JR御坊駅の0番線ホーム。バスみたいな1輛の電車。御坊駅←→西御坊駅間の営業キロ2.7kmという日本最短のローカル線。

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