熊野古道(紀伊路⑦ 久米崎王子→津兼王子)
2011年6月1日
湯浅駅(JR紀勢本線)・・・(紀勢線ガード)・・・満願寺・・・紀文の碑・勝楽寺・・・久米崎王子跡・・・不動弘法大師道道標・・・新柳瀬橋(広川)・・・井関王子跡・・国道42号・殿井橋(広川)・・(湯浅御坊道路)・・・津兼王子跡・・・国道42号・・・井関交差点・県道21号・・旧道・・養生場跡・・・旅籠街跡・・・丹賀大権現社・・河瀬橋・・・(来た道を戻る)・・・湯浅駅(紀勢線)→紀三井寺駅・・・紀三井寺・・・紀三井寺駅(紀勢線)→和歌山駅・・・日前宮・国懸神宮・・・和歌山駅
【ル-ト地図】
昨日とはうって変って本降りの雨だが、とにかく湯浅駅から鹿ケ瀬峠を目指す。峠への登り口近くの河瀬橋に着いた頃には雨脚は激しく、南風も強くなってきた。民家の軒下で30分以上様子を見るも一向に弱まる気配はない。藤原定家をして「鹿ノ瀬の山をよじ昇る。崔嵬の険阻」と嘆かせた「鹿ヶ瀬峠」だ。それほどの登りでもないと思うが、下りの長い石畳で滑って転んで怪我でもしたら元も子もない。急ぐ旅でもなし今日は断念して湯浅駅へ引き返し、紀三井寺と熊野御幸とも縁のある日前神宮・国懸神宮へ参り、明日の好天を祈願した。
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紀伊国屋文左衛門之碑(勝楽寺前)
「紀文」はここ湯浅町別所の生まれという。墓も勝楽寺にあるようだ。
「史跡 久米崎王子社趾」碑が立つのみ。顕国神社に合祀されている。
地蔵や三界万霊塔などが集められている。
ここは直進する。「不動弘法大師」とは柳生寺のことだろうか? 調べても分からず。
広川の向うの倉庫あたり。津木八幡神社に合祀(丹賀大権現社にも合祀か?)
このあたりの道筋はややこしい。道標もあるが分かりづらい。両王子跡は200mも離れていない。
津兼王子(中世以前)→井関王子(近世以降)としているが、藤原定家の『熊野御幸記』には「(久米崎王子の)次に井関王子に参る」とある。
津木八幡神社に合祀(丹賀大権現社にも合祀か?)
『紀伊続風土記』では、「井関王子社は村の北入口にあり、今は地名をとって津兼王子という」で、井関王子=津兼王子で、井関王子の名の方が古いとしている。
両王子社の関係は、①両社は同一の社か、別々の社か? ②別々の社としたらどちらが古いのか? よく分からんが、「中世以前には東側(今の津兼王子跡)に井関王子があり、近世以降に熊野街道が西側に移ったのに伴い井関王子も移って、名も地名をとって津兼王子に改称された」、と降りしきる雨の中、回らぬ頭を回転させて勝手に理解したが。
ここをくぐって国道42号に戻る。くぐった先は水浸しで国道に降りるのに苦労した。
国道42号に戻りしばらく進み、国道と分かれ井関交差点を直進する。
馬などを養生した場所で、このあたりは旅籠が並んでいた。
藤屋、竹屋跡(井関簡易郵便局)の標示もある。
「白井原王子・井関王子・津兼王子 合祀」の看板が立っている。白井原王子は井関王子と同じとも考えられている白原王子(津兼王子の説明板にある)のことだろうか? 白原王子は河瀬橋の北側の山麓にあったが、川向いに移され河瀬王子になったというが。
強くなった雨の中、すぐ先の河瀬橋(ごのせばし)までとし湯浅駅まで引き返した。今来た道だし、追い風で緩やかに下って行く感じで、ちょっと悔しく残念だったが楽な帰り道ではあった。明日は湯浅駅からタクシーでここまで来るとしよう。
****紀三井寺と日前神宮・日懸神宮***
本尊は十一面観音で、西国三十三観音霊場の第2番札所。
紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表参道の231段の石段。途中からは女厄除坂(33段)、男厄除坂(42段)、還暦厄坂(60段)と区切られて名付けられている。
由来話:「文左衛門が若い頃のある日、観音に参るため母を背負ってこの石段を上って行くと、草履の鼻緒が切れてしまった。困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、紀三井寺の真向かいにある和歌浦湾の玉津島神社の宮司の娘「おかよ」だった。これがきっかけとなり、2人の間に恋が芽生え結ばれたという。そして文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、みかんと材木を江戸へ送って大儲けをしたとさ」
紀三井寺の由来となった、3つの井の一つ。
「見上ぐれば 桜しもうて 紀三井寺」
紀三井寺を秀吉の軍勢から救ったにしては、この「春子狐」の祠は小さ過ぎやしないか。
説明板によると「吉祥天女の内証よりわき出たものとされ」とある。ということは吉祥天の小便なのだ。そんな品のないことを言うなって。
紀三井寺駅からJRで和歌山駅に出る。わかやま電鉄貴志川線で2駅目の日前宮駅まで乗ってみたかったが、ちょうど発車してしまったので歩くことにした。
樹林の間の参道を突き当たって左に日前(ひのくま)神宮、右に日懸(くにかかす)神宮が鎮座する。
伊勢神宮の神宝の八咫鏡に先立って鋳造されたという、日像鏡(ひがたのかがみ)・日矛鏡(ひぼこのかがみ)を神体する準皇祖神的な神社。熊野御幸の途上、当社に奉幣使を派遣することが恒例となっていた。後鳥羽上皇に随行した藤原定家は奉幣使として吐前王子から当社に向かい、和佐・平緒王子には参らずに奈久智王子に直行している。
降り続く雨の中、長い間熱心に手を合わせる女性。こちらは明日の天気回復と熊野古道歩きの道中安全を願って、さっさと引き上げた。
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