熊野古道(紀伊路⑨ 岩内王子→岩代王子)
2011年6月3日
御坊駅(JR紀勢本線)・・・湯川子安神社(小松原館跡)・・・法林寺・・・九品寺・・・小松原東交差点・県道27号・・・野口新橋(日高川)・・・岩内1号墳(有間皇子塚)・・・岩内王子跡・・・琴野橋(熊野川)・・・天田橋南詰(日高川)・・・湊歩道橋・・・北塩屋交差点(国道42号)・・・塩屋王子神社・・・王子橋(王子川)・・・光専寺・・・観音山自然公園遊歩道・・・祓井戸観音・・・(国道42号)・・・一里塚跡・・・十三塚あたり・・清姫草履塚・・・国道42号・・・旧道・・・中村酒店・・御首地蔵道標・・・観音寺(お首地蔵)・・・秋近橋・国道42号・・・旧道・・・和歌山高専・・・(国道42号)・仏井戸(上野王子旧地)・・・上野王子跡・・・津梅橋(上野川)・・・清姫の腰掛石・・・国道42号・・旧道・・・庚申塔祠・・・濱川橋・・・国道42号・・・(印南町)・・・叶王子(津井王子)跡・・・国道42号・・・平和橋(印南川)・旧道・・のこぎり坂・・・宝来橋(光川)・・国道42号・・・旧道・・・斑鳩王子神社・・・国道42号・・・旧道・・・豆坂・・・切目王子神社・・・切目橋(切目川)・・・JRガード・・・光明寺・・・若宮社遺跡・・・宝篋印塔・・・中山王子神社・・榎峠・・・徳本名号碑・・・庚申塔祠・・・万葉歌碑(光照寺)・・・国道42号・・・有間皇子岩代の結び松記念碑・・・旧道・・・岩代王子神社・・・千里の浜・・・岩代駅(JR紀勢本線)
紀伊路の終点が近づいてきた。当初は切目王子(切目駅)までと思っていたが、岩代王子(岩代駅)まで行けば明日の行程が楽になる。歩いている間にどちらかに決めようと御坊駅から出発した。すぐに湯川子安神社の先で道を間違え、上野王子手前の仏井戸でも、かなり先に進んでしまって引き返すはめになり、かなりのロスタイムとなった。その上、途中から右足首と脛が痛くなり始めた。日は長いし時間にも余裕があったので痛い足を引きずりながら、なんとか岩代王子までたどり着いた。
【ル-ト地図】
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湯川(子安)神社 《地図》
湯川氏の小松原館跡。善童子王子はここに合祀されている。
松平頼雄の大名塚という五輪塔があるそうだが、どれか分からず。
城ではなく結婚式場
渡し船を断られた清姫は、全身蛇体となって泣きながらこの川を泳ぎ渡り、安珍を追い続けた。渡河地点は一定でなく、藤原定家たちはこの橋と天田橋の間の御坊大橋あたりの浅瀬を渡ったようだ。
もとは日高川の魚だったという盲人が、熊野権現に祈請して開眼したという話が『古今著聞集』にある。
しばらく土手沿いを南に進む。《地図》
被葬者に有間皇子があげられている。処刑された藤白坂からは、かなり離れてはいるが。
熊野(いや)神社に合祀
琴野橋(熊野川)を渡って左折し南下し、塩屋王子に向かうのが中世以前の熊野古道らしいが、日高川沿いに進み、天田橋南詰を通って塩屋王子に向かった。《地図》
このあたりに「天田の渡し」はあったのか?
北塩屋の家並み 《地図》
五体王子の一つで、祭神の天照大神像が美しいことから「美人王子」とも呼ばれている。神社前の北野商店でみやげに「美人王子絵馬」を買う。
後鳥羽上皇の行在所跡という。
光専寺のビャクシン(柏槇・推定樹齢600年以上) 《地図》
道成寺の槇柏(シンパク)より背は低いが、幹は太いか。
民家の石垣前で右折し、細い道に入る。ここを直進すると民家内に入ってしまう。
祓井戸は神功皇后に由来し、十三塚は熊野詣の途中で、阿波の海賊に襲われ殺された羽黒山の山伏一行を供養する13の塚ということ。
右は徳本名号碑
右の生垣の間に石柱が立つ。
1往復半したが十三塚は見当たらず。
清姫草履塚 《地図》
清姫はこの時、上半身は蛇体で、足はまだ人間だった。日高川を渡る時は全身、蛇体となって泳ぎ渡り、道成寺まで安珍を追い続けた。
向うは関西電力御坊火力発電所だろう。
観音寺 《地図》
ここの地蔵堂が「お首地蔵尊」
石棺中より発掘されたミイラのような首と延命地蔵尊を合祀しているそうだが、首はどこにあるのか?首から上の病いにご利益があるという。
井戸地蔵と呼ばれた上野王子の旧地。井戸底の壁に、地蔵ではなく阿弥陀、勢至、観音像が彫られているという。覗き込んで撮った写真にはその姿は見えなかった。「信心がないせいだ」というなかれ。
ここは熊野古道沿いになく分かりにくい。上野王子の先の津梅橋まで行ってしまって引き返し、曲がる所が分からずウロウロしていたら、近くで作業中のおじさんが途中まで案内してくれた。
安珍はどんどん逃げて行く。のんびり休んでいる場合ではないよ、清姫さん。
「宮子姫生誕之地」御坊市とも別れ、印南(いなみ)町へと入って行く。
津井王子が移転して叶王子となったようだ。山口八幡神社に合祀されたが、「願いが叶う」の意から「おかのさん」と親しまれている。願い事でもしようかと思ったが、やぶ蚊に攻撃され早々に退散した。
印南は「鰹節のふるさと」だそうだ。
熊野に参る途中で病んだ小栗判官は、この坂の近くの東光寺に参籠し快方に向かった。再び照手姫と熊野に旅立つ2人を村人たちは、この坂まで見送り名残りを惜しんだ。そこでこの坂を「残りの多い坂」というようになり、それが訛って「のこぎり坂」になったとか。かなりこじつけの感もあるが伝承は伝承だ。
東光寺で小栗が詠んだという歌:「常盤萌ゆ 印南の梛(なぎ)の 瑠璃の日は いつの世までも 闇照らすなむ」 梛の木は樹齢700年以上という竹柏のこと。
印南八幡神社に合祀された後、昭和25年に分祀された。
美形で気丈そうに描かれている照手に引き替え、小栗はひどい有様になっている。笑っては叱られるか。小栗と照手の夫婦愛物語、安珍と清姫の愛憎物語、宮子姫のシンデレラ物語、その他数限りなしで、熊野古道歩きは疲れることはあっても飽きることはない。
豆坂の由来の「黄粉化粧伝説」:「その昔、切目王子の横暴ぶりをいさめようとした僧を王子は殺してしまう。熊野へ戻った王子は捕らえられて右足を切られて切目山に追放された。ところが王子は、熊野詣の帰途にある者たちから熊野権現の利生を奪うようになり、参詣者たちを嘆かせた。そこで熊野権現は稲荷大明神と相談し、王子と恋仲の「あこまち」という女を差し向け、王子が臭いといって嫌う豆の粉、黄粉(きなこ)で化粧した者には害を及ぼさないことを約束させた。それからというもの、切目王子の前を通る時には皆、黄粉で化粧をするという風習が生まれた」 この黄粉化粧は実際に行われていて、『熊野詣日記』(応永34年(1427))に額や鼻、頬、おとがいなどに黄粉をつけて王子社の前を通過したとの記述がある。切目王子がスサノオ命のように乱暴者だったというのも面白いか。
五体王子の一つ。平治の乱の際の平清盛、元弘の乱の時の大塔宮護良親王などの逸話が残る。大塔宮が飲んだという「清水井戸」跡もあるが荒れている。
樹齢300年以上
切目川(切目橋から) 《地図》
この川のあたりで清姫は安珍に追いつくが、安珍は人違いだといって逃げる。清姫が水面に我身を映すと、上半身が蛇に化身していた鏡川。
光明寺 《地図》
戦時中に供出された釣鐘の変わりに、(軽くなった鐘楼堂が風などの被害を受けないようにバランスを取るために)吊るされていた石。
右の足首と脛が痛み始めてきた。岩内王子あたりで発熱した藤原定家も、病身でこの坂を上っているのだ。昔の公家さんを見直さねばならないようだ。
いずれも室町時代のもの。
右は「足の宮」
単調な道で周りに何もなく、この道でいいのかちょっと不安になる。正面方向は海のはずだが、霞んでいるのか、普段からここからは見えないのか? しばらく行くと徳本名号碑の立つ辻に出て一安心。
徳本名号碑 《地図》
左が有間皇子の「岩代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む」
岩代の結びの松跡 《地図》
謀反の疑いで捕らえられた有馬皇子の遺跡。
追手を逃れて高野山から熊野へ向かう平維盛一行は、当王子前で7.8騎の武者と出会った。武者たちは維盛と知りながら一礼して立ち去ったという。彼らは湯浅宗重の子、宗光とその郎党であった。『平家物語』巻10の「維盛出家」から
往時は浜づたいに千里王子へと向かったが、今は通行不能。
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