熊野古道(紀伊路⑥ 塔下王子→逆川王子)
2011年5月31日
海南駅(JR紀勢本線)→藤白王子(藤白神社)・・・紫川・・・有間皇子の墓・椿の地蔵・・・藤白坂・・・筆捨松跡・硯石・・・宝篋印塔・・・地蔵峰寺・塔下王子跡・・御所の芝・・・阿弥陀寺・橘本王子跡・・・福勝寺・裏見の滝・・・加茂土橋(加茂川)・・三界万霊塔・・・所坂・橘本神社・所坂王子跡・・・市坪中橋(市坪川)・・・一壺王子(山路王子神社)・・・沓掛の松等説明板(沓掛児童会館)・・・拝ノ峠・・・蕪坂・・・万葉歌碑・・・蕪坂塔下王子・・・太刀の宮・・・爪書地蔵(金剛寺)・・・山口王子跡・・・渡り郷橋(露谷川)・・・伏原の墓・・・宮原神社(太刀の宮)・・・夕暮橋・・・熊野古道ふれあい広場・・・橘踏切(JR紀勢本線)・・・札場地蔵・・天神社・宮原の渡し跡・宮原橋(有田川)・・・得生寺・・糸我の一里塚跡・・・糸我稲荷神社・くまの古道歴史民俗資料館・・・道標・・・雲雀山道標・・・徳本名号塔・・・糸我王子跡・・・糸我の道標・糸我王子社跡碑・・・七曲り・・・糸我峠・峠の茶屋跡・・・夜泣松跡・・・行者石・・・道六路・・・逆川神社・逆川王子・・・逆川巡礼橋・・・方津々坂・・腰掛岩跡・・・弘法井戸・・・方津戸峠・峠の地蔵 ・・・湯浅の一里松跡・・・北栄橋(山田川)・・・湯浅の町並み(麹資料館・甚風呂・角長・職人蔵・北恵比須神社・大仙堀・深専寺)・立石の道標・・・湯浅駅(JR紀勢本線)
【ル-ト地図】
紀伊路の続きを中辺路の起点の紀伊田辺まで5日位で歩く。今日は梅雨の合間なのか台風一過のせいなのか、久しぶりの晴天で気分がいい。ちょっと暑いが、藤白坂、拝ノ峠、蕪坂、糸我峠、方津戸峠を越え、醤油発祥の地で古い家並みが残る湯浅の町を散策した。明日は鹿ケ瀬峠越えだが雨になるようで気分が重い。
写真をクリックすると拡大します。
有間皇子の墓・万葉歌碑 【ル-ト地図】の27
かつては椿の大木があり、その下に無縁仏が並び「椿の地蔵」と呼ばれていた。今も後ろに石仏たちと椿の木がある。
万葉歌碑は有間皇子が護送される途中で詠んだ歌、「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」
藤白坂の17体の丁石地蔵のうち、当時(享保の初め頃)のまま現存する4体の地蔵の一つ。 ここから約18丁(約2km)の上り坂が続く。丁石地蔵ができたため、距離をごまかせなくなった駕籠かきが地蔵を谷へ蹴落としてしまって4体になってしまったとか。今はすべて復元されて道しるべとなっている。
万葉で歌われた「名高の浦」、「黒牛潟」は埋め立てられてしまった。手前は紙袋に包まれたビワの実。
舒明天皇と巨勢金岡に由来する同じ松の跡。巨勢金岡は甲州街道の鶴瀬宿で岩に地蔵を描き、竹内街道には金岡神社がある。
紀州家初代藩主の徳川頼宣が、硯の形彫らせて筆捨松の根元に置いた大石。風流というより、権力者の驕りを感じる。
この先に17丁の丁石地蔵がある。
県内4大宝篋印塔の一つだそうだ。もっと大きなものをいくつでも見ているような気がするが。(和歌山県以外で)
「地蔵峰寺の石造地蔵菩薩坐像と同年代の15世紀前半頃・・・」とあるが、石造地蔵菩薩坐像には元亨3年(1323)の銘があるから間違いだろう。
ここは藤白坂の坂上で標高291m。
高さ3.1mの石造地蔵坐像
橘本神社に合祀
「御所の芝」から海南港・和歌浦湾 《地図》
白河上皇の熊野詣の際の行宮所となった所。
ここに明治の中頃まで茶店が3軒あったという。
橘本神社に合祀
白河法皇の歌の「入佐の山」は加茂川の南の鉢伏山(195m)のこと。
高さ20m、幅30mで裏側は岩窟になっていて不動明王が祀られている。台風の雨で流量は多いようだ。
裏見の滝は八丈島、四国札所の番外霊場「星の岩屋」にもある。芭蕉が「奥の細道」で訪れた日光の裏見の滝は、今は裏からは見ることができない。
本堂の縁に残るという「手形」は、どれか分からなかった。
橘本土橋跡 《地図》
熊野詣での帰途、険しい藤白坂を避け、ここから加茂川に沿って下り、舟の津(今の塩津)から船で和歌浦に到ったことが天仁2年(1109)の中御門右大臣藤原宗忠の旅行記「中右記」に記されている。
このあたりに所(トコロ)(ヤマノイモ(山芋)で別名を野老(ヤロウ))が自生していた。トロロ≒トコロか?
橘本神社は、蜜柑と菓子の神様として全国のみかん、菓子業者の信仰が篤い。
垂仁天皇の命を受けた田道間守が常世の国から持ち帰ったという「非時香菓」(ときじくのかぐのこのみ)で、紀州蜜柑の原種という。
一壺王子(山路王子神社) 《地図》
「泣き相撲」の土俵
沓掛の松・弘法井戸・爪書地蔵の説明板(沓掛児童会館・地蔵堂(大師堂)?前)
拝ノ峠 《地図》
神武天皇東征の折り、八咫烏が先導されたのでこの名があると伝える。ここには茶屋があったという。
標高300mくらいか
「鏑矢もて鹿を打ちし坂なれば蕪坂と名付しにや」(紀伊国名所図会)
宮原神社に合祀されが、平成元年に小祠が再建された。
猿田彦を祀る道中安全の道祖神的な神社で、今は宮原神社の道祖神社(太刀の宮)の奥宮になっている。
いずれもプラスティック製のおもちゃ。
阿弥陀と地蔵というが、はっきり見えず。弘法大師が爪で書いたが、爪を痛めたので椿油を塗ろうとしたが手に入らず、以来この地では椿の実から油がとれなくなったという。むろん伝説でこの線彫石仏は室町時代以降のもの。
宮原神社に合祀されたが、平成3年に小祠が再建された。
行き倒れなどの無縁仏の供養墓
本殿の左端に道祖神社がある。
街道沿いの「太刀の宮」(前記)の本宮で、ここに「蕪坂塔下王子」が合祀されている。
このあたりは熊野参詣道と高野参詣道が合流して賑わった所。
有田川が増水した時に、ここに川止めの制札を立てた。
ここから川向いの糸我稲荷神社のお旅所付近に渡ったという。このあたりに熊野御幸の頓宮の「お茶屋の芝」があった。今は宮原橋を渡る。
台風の雨で増水しているか。
平地にあり樹木は少なく、代わりに処世訓じみた標語の立札がいくつも立っていて、中将姫のイメージも湧かない興ざめの境内だった。
日本最古の「お稲荷さん」とか。境内には樹齢500年以上という大楠が3本聳えている。
「すぐ熊のみち」
中将姫ゆかりの山で、「親子対面岩」、「写経の岩」などがあるそうだ。
手前は熊野道道標。
糸我稲荷神社に合祀されたが、平成7年に小祠が再建された。
道を挟んで2店の茶屋があった。今はみかん畑だけの殺風景な所。
往時はこんなに賑わっていようとは。TVの「仁」のようにタイムスリップして行ってみたいものだ。
もとは逆川沿いの祓い井戸のそばにあって、旅人はこの石の上で体を清め、道中の安全を願った。
道六路 《地図》
六道路から転訛したという。
国津神社に合祀されたが、昭和12年に社殿と石段を新たに建立し、再建された。
確かに海とは逆方向に流れている。東に流れて山田川に合流し、湯浅湾に入るそうだ。「逆」を嫌って村の名を吉川にしたが、川の逆川はそのままのようだ。
今日最後の上りの方津々坂(程遠坂)を方津戸峠へと上って行く。峠といっても100mの高さもないが。
後白河法皇が熊野詣の折に腰掛けた岩だったという。
水は溜まっているが飲める代物ではない。
方津戸峠 《地図》
左へ直進し、すぐに右へ未舗装の道に入り下る。
湯浅の一里松跡(郡民体育館前) 《地図》
山田川沿いを進み、北栄橋を渡って熊野古道から離れ、湯浅の町並みを散策する。
『まち歩きマップ』
戸津井醤油醸造所
江戸後期の民家を改装。右は戸津井家の樽蔵
今は民俗資料館になっている。
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湯浅醤油の角長
大仙堀(しょうゆ堀) 《地図》
山田川から湯浅港へと醤油などを運送した。右は角長。今は山田川とはつながっていない。
「古伝径山寺味噌大坂屋三右衛門」の看板を掲げる。
山門左に「大地震津なミ心え之記」碑
立石の道標 【ル-ト地図】の31
左は「立石茶屋」、この先で左折し湯浅駅方向に向かうのが中世以前の熊野街道で、右折して広川へ向かうのが近世の熊野街道。
道標の立つ1坪ほどの空き地は、聖護院の門跡が熊野入峯の途次に、護摩修法を行った護摩壇の跡という。
左折が中世以前の熊野街道、右折して近世の道筋を広川近くまで行ってみた。
甚風呂の管理人の女性が言っていた明治時代(大正かも)から続く風呂屋。
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コメント
私も行ってきました
素敵なルートですよね
投稿: 熊野古道ガイド | 2011年6月16日 (木) 02:16