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2011年7月31日 (日)

唐津街道②(二島駅→芦屋宿→海老津駅)

2011年7月18日

小倉駅(JR鹿児島線)→折尾駅(JR若松線)→二島駅・・・県道26号・・・新法寺川・・・(竹並バイパス)・・・払川交差点・・・魚鳥池跡・・・魚鳥池神社・・・汐分橋(江川)・・若戸病院・・・汐分地蔵  ・・・太閤水・・太閤橋・・・県道26号・・・向田橋交差点・県道202号・・・大君交差点・・・咳地蔵・・安徳天皇行在所跡・・大君神社・・・唐戸橋(汐入川)・・・山鹿城跡・・・城山神社・・・天満宮・・山鹿魚町跡碑・芦屋橋(遠賀川)・・芦屋渡し場跡碑・・芦屋宿・・福岡藩焚石会所跡・・金台寺・・光明寺・・蛭子神社・・遠賀郡役所跡・・芦屋宿構口跡・火切地蔵堂・・白浜稲荷神社・岩津宮・・芦屋小学校・・・航空自衛隊芦屋基地(唐津街道消滅・迂回)・・・神武天皇社・・・白浜町交差点・国道495号・・・(芦屋競艇場)・・・唐津街道復活・・(粟屋バス停)・・・(岡垣町)・・・岡垣四国霊場73番・・・須賀神社・・・前牟田橋交差点・・・宝樹院・・氏森神社・・・(国道3号)・・・山田橋(矢矧川)・・・県道287号・・・海老津駅(JR鹿児島本線)

 少しでも早く二島駅に着こうと、小倉駅から折尾駅まで短い間だが特急に乗ったら、どこかの人身事故の影響で折尾駅で若松線を30分以上待たされた。汐分橋あたりの江川沿いは大規模な改修工事中で道も寸断され、汐分地蔵堂もどこへ行ったやら、若戸病院付近をあちこちとうろつくも見あたらず。あきらめかけていたら汐分地蔵を仮に移設したプレハブ小屋をやっと見つけやれやれだ。

 昨日の紅影池の二の舞を踏まないように、太閤橋で自転車に乗ったお兄ちゃんに太閤水の場所を聞いたら、ここが太閤水という地名で、太閤水バス停はあっちと連行されそうになった。実際の太閤水跡はどこかと聞いても分からず、笑いながら礼を言って立ち去ってもらう。何てことはない、太閤水は太閤橋から50mも離れていなかった。

 どうも今日は歩くリズムに乗れないと思いながら歩いていると雨が降ってきた。蒸し暑いことこの上ない。大君神社では藪蚊の恰好な餌食になり、わが身の不幸を嘆きながら芦屋橋を渡って芦屋宿へと入った。まあ、その後は予定の見所を消化し、道を間違えることもなく、雨風も強まらず、おおむね順調な道中で3時半頃には海老津駅に着いた。「終わりよければ、すべてよし」としておこう。でも台風が近づく中、唐津街道歩きは続くが、明日のことは「ケセラセラ」よ。

 *参考:『芦屋案内記

  【ル-ト地図】(25.6km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0215 魚鳥池(ぎょちょうが池) 【ル-ト地図】の①

神功皇后の伝説地だが、正面の囲いの中のとても池とは呼べない湧き水の井戸跡。

Img_0217 説明板

Img_0213 魚鳥池神社 《地図

祭神は神宮皇后。隣には観音堂がある。

Img_0223 江川沿いを進む。

対岸は工事中で、この先の塩屋橋から先は両岸とも工事中で通行できず。

Img_0231 汐分橋 《地図

昔は、洞海湾と遠賀川から江川に満ち上がって来る潮がこの付近で合流し、また両側へ引き退いて行く潮の分岐点、江川の分水嶺だった。橋を渡って若戸病院あたりと工事現場を汐分地蔵を探すが見つからず。《地図》の「笠地蔵」(汐分地蔵は笠を被っている)が汐分地蔵の元の位置の所だろう。(いつの間にか標示はなくなってしまった。若戸病院の東側あたりだったと思う)

Img_0234 やっと見つけた。この「お地蔵さん」が「汐分地蔵」のこと。矢印に進んで、左折して唐津街道を進むと写真のプレハブがある。

Img_0235 右のプレハブ小屋に汐分地蔵は移されている。《地図

Img_0236 四国中央三十九番が汐分地蔵 

Img_0242 汐分地蔵

ここに仮安置して工事が終わればもとの所へ戻されるのだろうか? お堂は新しく作ってもらえるのか?

Img_0240嘉永7年(1854)の石柱ももとは汐分地蔵堂にあったもの。

Img_0239 この地蔵も移されてきたようだ。 

Img_0248_2 太閤水へ

この太閤橋を渡らず川沿いに行く。

Img_0247 太閤水 【ル-ト地図】の②

Img_0246 説明板

Img_0255 咳地蔵

咳が止まればお礼に豆腐を供えるそうだ。 

Img_0259 安徳天皇行在所跡 【ル-ト地図】の③

壇ノ浦では死ななかったという判官びいきの逸話の地だろう。

Img_0257 大君神社へ

Img_0258 大君神社

大君とは安徳天皇で、拝殿の奥に天皇を祀る石祠が見える。

Img_0266 曲川(手前)と遠賀川(突堤の向う側)の合流地点

Img_0268 唐戸橋から山鹿城跡 《地図

Img_0270 城山神社

Img_0272 天満宮

Img_0279 芦屋橋から遠賀川

Img_0282 蘆屋の渡し場跡碑(芦屋橋を渡った右側)

Img_0290 福岡藩焚石会所跡  【ル-ト地図】の④

焚石とは石炭のこと。

Img_0289 金台寺

体内に源頼朝の念持仏の小地蔵を宿していた子安地蔵を安置。

Img_0287 説明板

Img_0291 旧家

芦屋千軒といわれた名残か。

Img_0293 みさき食品

「あしやみりん」の店

Img_0296 蛭子神社 《地図

Img_0297 振り返ると遠賀川

Img_0298 遠賀郡役所跡

この少し西側に大国座があった。

Img_0309 芦屋宿構口跡

西構口か?それとも構口はここ一か所だけなのか? 左は火切地蔵堂(火除延命地蔵)

Img_0306 構口跡碑

Img_0317 唐津街道は芦屋小学校の校庭、自衛隊基地を突っ切っていた。かつては「鈴の松原」があった所だそうだ。今は大きく東から南側を迂回する。

Img_0319 旧家

神武天皇社前

Img_0321 神武天皇社

参道の石畳が大きく盛り上がっている。大もぐらでも通ったのか。

Img_0324 寂しげな芦屋の町並みを抜ける。ここは唐津街道ではないが。

Img_0325 右の自衛隊基地を迂回する。

Img_0326芦屋競艇場を横目に進む。

今日はレース開催日だ。

Img_0328唐津街道復活地点(粟屋バス停そば)

右に入ると街道跡が少し残っている。

Img_0329街道は自衛隊基地を横切りここへ通じていた。《地図

(糠塚)公民館前交差点から左に旧道に入る。

Img_0335 岡垣四国霊場七十三番(正面右の小堂)

本尊は四国八十八ヶ所の73番出釈迦寺と同じ阿弥陀如来。

Img_0340 須賀神社 《地図

糠塚の氏神、境内裏手に岡垣四国霊場72番の大日如来堂があるそうだ。

前牟田橋交差点で県道287号に入り南下する。

Img_0346 かわせみ日暮し館

これがデイサービス(通所介護施設)とは、なかなかいい雰囲気の建物だ。

Img_0352 氏森神社 【ル-ト地図】の⑤

安産の守り神

Img_0354 安産腰掛石(社殿の後ろ)

身重の女性が座るとバランスを崩しそうだが。

Img_0353 説明板

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2011年7月28日 (木)

唐津街道①(小倉駅→常盤橋→若松宿→二島駅)

2011年7月17日

小倉駅(山陽新幹線)・・・常盤橋(紫川)・・・室町商店街・・・大門跡・・妙乗寺・・長崎街道分岐・・・(溜池口門跡)・・鋳物師踏切(JR日豊本線)・・・長圓寺・・・八坂神社跡・・・立法寺・・・(北九州都市高速道)・・・(山陽新幹線)・・・極楽橋(板櫃川)・・・日明浜刑場跡・無縁法界塔・首切り地蔵・・・きんたま坂・・・貴船神社・・・宮川橋(境川・豊前国と筑前国境)・・・向江橋(新日鉄鉱滓鉄道)・・・宝福寺・・・戸畑一里塚跡(碑)・・・戸畑跨線橋(JR鹿児島本線)・・・照養寺・・東光禅寺・・戸畑恵美須神社・・お汐井汲の場碑・若松渡船(戸畑渡船場→若松渡船場)・・若松宿・洲口番所跡・・蛭子神社・・六地蔵堂・・御茶屋跡(本陣跡・金光教若松教会)・・善念寺・・吉祥寺・・ごんぞう小屋・・厳島神社・・林芙美子住居跡・・(国道495号)・・・極楽寺・・・(修多羅小学校)・・・(古前小学校)・・・善光寺・・・白山神社・・・畑堀地蔵尊・・・日吉神社・・・(紅影池)・・・徳雲寺・・・国道199号・・・二島駅(JR若松線)

  【ル-ト地図】(18.0km)

 今年の夏は奥州街道の続きを仙台から盛岡まで歩く予定だったが、まだ東北地方を歩く気にはなれない。そこで180度方向転換し九州へ向かった。まずは小倉の常盤橋を起点とする九州の五街道(長崎街道・唐津街道・中津街道・秋月街道・門司往還)の一つ唐津街道だ。猛暑→台風→梅雨寒のような天気で思ったより歩きやすく、歩きながら飲んだペットボトルも4本、3本、1本と日毎に減っていった。とはいえ夜のビールの量は相変わらずだったが。

 今日は常盤橋から西へ向い、大門跡の先で長崎街道と分かれ、戸畑一里塚跡を過ぎ、若戸大橋下で洞海湾を若戸渡船で渡り若松宿へ入った。さらに洞海湾の北側の起伏ある道を西に向かい、二島駅までの道のりだった。覚悟していたが、やっぱり暑さは応えた。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0828 唐津街道説明板(青柳宿入口に設置のもの)

赤間宿までの街道の道筋はいくつかあり、江戸時代以降は長崎街道を進み、木屋瀬宿から分かれて赤間宿へ向かうルートが主流となったようだ。今回は説明板と同じ、若松宿から芦屋宿への道筋をたどる。道筋には神功皇后ゆかりの伝説、朝鮮半島へ侵攻した太閤秀吉の遺跡などが残っている。

Img_0038 常盤橋 【ル-ト地図】の①

当初は大橋と呼んでいたが、元禄5年(1692)に架け替えた時に「常盤橋」とした。

Img_0043 橋脚(文政5年(1822)銘)の一部

Img_0037 説明板

Img_0047 小倉城大門跡(西小倉駅前) 《地図

Img_0045大門の図

Img_0061 極楽橋 《地図

江戸時代までは「地獄橋」と呼ばれていた。日明浜へで処刑される罪人が裸馬に乗せられて、泣く泣くこの橋を渡ったからという。

Img_0075 日明浜刑場跡 【ル-ト地図】の②

「日明浜処刑諸霊塔」 江戸時代は響灘に面した砂浜だった。現在は共同墓地になっている。

Img_0069首切り地蔵と無縁法界塔

天明7年(1787)に建立された無縁仏法界塔の上に、文化年間(1804~17)に起こった小笠原藩の白黒騒動で犠牲となった、儒者の上原与一らの処刑者を供養する地蔵が乗せられている。

Img_0079 きんたま坂(坂上方向) 《地図

昔、この坂にひとりの木こりが住んでいた。冬の日にたき火をして居眠りをしていたところ、睾丸(きんたま)に火がついて大やけどのすえ、とうとう死んでしまった。以後、誰がいうともなく、「きんたま坂」と呼ぶようになったという。

Img_0080(通称)なんて、カッコ書きをつけなくともよいものを。

Img_0087 宮川橋(境川) 《地図

豊前国と筑前国の境で、「国境石」が置かれていた。

Img_0088 説明板

Img_0093 向江橋

くろがね線」(新日鉄鉱滓鉄道)を渡る。

Img_0098 戸畑一里塚跡 【ル-ト地図】の③

Img_0099説明板

Img_0105 旧家(元宮町)

Img_0109 恵美須神社 《地図

Img_0108 由来

Img_0113 お汐井汲み場碑(若戸渡船場)

ここで戸畑祇園が始まる前の山笠の柱の清め、安全祈願の海水を汲む。上は若戸大橋。

Img_0116 若戸渡船で若松宿へ 【ル-ト地図】の④

乗船料100円。対岸の若松渡船場までは500mもない。

Img_0121若松地区案内図

Img_0122 洲口番所跡

Img_0123 説明板

Img_0125 若松恵比須神社

「若松」の地名の起源となったともいう神社。

Img_0126 由緒

Img_0130 方位石(境内)

Img_0127 説明板

Img_0129 説明板

Img_0132 六地蔵堂

後ろにも薬師堂、観音堂、大師堂などが並んでいる。 

Img_0140 若松宿御茶屋跡 【ル-ト地図】の⑤

本陣のことで、現在は金光教若松教会。

Img_0143 善念寺

地蔵は享保4年(1719)に石井正五郎重勝によって寄進されたもの。

Img_0142 説明板

Img_0148 旧古河鉱業若松ビル(大正8年建築)

Img_0150 石炭会館(明治38年建築)

Img_0151 ごんぞう小屋

Img_0153 説明板

Img_0152 ごんぞうの姿

Img_0158 厳島神社

貞享2年(1685)、洞海湾の守護神に宗像郡玄海村に鎮座する市杵島姫命の分霊を祀ったのが起源とされ、海上交通の神として漁師や船乗り達の参詣で賑わった。

Img_0144 林芙美子住居跡

明治40年から3年間、若松で過ごした住居があったのが「オーモリ時計店」(右・店は閉じたようだ)という。芙美子4歳から6歳の頃、まだ砂浜のあった海岸で貝拾いなどをして遊んだそうだ。
広島県尾道市には文学記念室、尾道駅のそばにはブロンズ像、『尾道市の坂①
東京の世田谷区太子堂には住居跡、『滝坂道①
新宿区中井の「四の坂」には林芙美子記念館がある。

Img_0163 エスト本町商店街

美術館計画は進んでいるのだろうか?

Img_0167 極楽寺 《地図

「飛梅」伝説がある。

Img_0164 説明板

Img_0168 修多羅小学校前の坂 《地図

近くに火野葦平の「河伯洞」、福岡藩修多羅米蔵跡(碑)があるのだが気づかずに通り過ぎてしまった。

この先は国道199号の西側の起伏のある道を行くが、唐津街道の道筋ははっきりしない。

Img_0177 洞海湾の眺め

川のようにも見え、大渡川とも呼ばれていたそうだ。

Img_0181 長い下りとなる。

Img_0185 白山神社 《地図

Img_0184 由緒

Img_0192 日吉神社 

Img_0193 由緒

日吉神社前から左に紅影池へと向かう。

Img_0195 神功皇后の伝説の紅影池と思いきや、ただの溜池だった。何の標示も案内板などもなく、おかしいとは感じていたのだが。昭文社の「県別マップル福岡県」もこの池を紅影池としている。MapFanの《地図》もそうなっている。神功皇后の頬紅の赤さまできれいに水面に映ったという。甲冑を身にまとった男勝りの偉丈のイメージしか湧かないが、やはり頬紅もさす女性だったと知ってほっとした。まあ、神功皇后自体が伝説だろうが。

実際の「紅影池は日吉神社の北東側にある小さな湧水池(跡)で説明板も立っているようだ。

Img_0201 徳雲寺

慶長9年(1604)の創建で、道公(黒崎の麻生氏という)が開山したといわれている。

Img_0204 梵鐘

Img_0199 説明板

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2011年7月 2日 (土)

房総往還②

2011年6月26日

検見川駅(京成千葉線)・・・三峯神社・・・(検見川陸橋下)・・・大坂・・・地蔵祠・・(東関東自動車道)・・・国道14号・・・花園橋・・・浅間神社前交差点・県道134号・・浅間神社・・・二本松弁財天・・・検見川6号踏切(京成千葉線京成稲毛駅)・・・(JR総武本線稲毛駅)・・・千葉陸軍高射学校跡(仲よし公園)・・・園生十字路・・・穴川神社・・・国道126号・・・天台駅(千葉モノレール2号線)・・・道標(縄しばり塔)・・作草部駅(千葉モノレール2号線)・・・庚申塔・・・千葉公園・綿打池・弁財天社(厳島神社)・・・国道126号・・・椿森陸橋(JR総武本線東千葉駅)・・・千葉神社・・・千葉市美術館・・・大和橋(都川)・・・お茶の水(跡)・・猪鼻城跡(千葉城跡・市立郷土博物館)・・・羽衣の松(羽衣公園・千葉県庁)・県庁前駅(千葉モノレール1号線)・・・(JR外房線・京成千原線)・・・君待公園・・君待橋(都川)・・・大橋(都川)・・・君待橋碑・・・厳島神社港町弁財天・・・寒川神社・・・道標・・・(JR京葉線)・・・稲荷神社・・・道標・・・蘇我比咩神社・・・(貨物線路)・・・平成橋(生実川)・・・塩田天満宮・・・県道66号・・・塩浜橋(浜野川)・・・諏訪神社・・・本行寺・・・伊南房州通往還分岐点①(浜野交差点)・・・県道24号・・・村田橋バス停(千葉市・市原市境)・・庚申塔・村田川渡船場跡(下総国・上総国境)・・・新村田橋(村田川)・・・庚申塔祠・・・飯香岡八幡宮・・・円頓寺・・・伊南房州通往還分岐点②・・・無量寺・・・(国道297号)・・・日吉神社・・・満蔵寺・・・金杉橋(金杉川)・御所跡あたり・・庚申塔・・・波渕バス停・地蔵堂・・・龍善院・・・大宮神社・・・新養老橋(養老川)・・・県道24号・・・島穴橋(前川)・・・白塚交差点・・・(JR内房線)・・・白塚境橋(今津川)・・馬頭尊道標・県道24号・・・白幡神社・・・延命寺踏切(JR内房線)・・・田中地蔵尊・・・二子塚古墳・・・姉ヶ崎駅(JR内房線)

  【ル-ト地図】(36.0km)

 今日は涼しい。前回は距離が短かったが、これなら倍は歩けるだろう。途中から小ぬか雨が降り出したが快調に3倍近くも歩いてしまった。別に急ぐつもりはないのだが。

  房総往還③』へ続く。 

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9766 三峯神社 《地図

境内は荒れた感じで、立入禁止の札が掛かっている。ここも地震の被害を受けたのか?

Img_9767 「赤いきつねと緑のたぬき」なら武田鉄也のCMだが、「青いきつね」は頂けない。

Img_9774 二間半間口の家(検見川町5丁目)

明治末から検見川の人口が増加し、次男、三男の住宅難と浜の縄張り争いなどから、多くの人が住めるようにするために、三間間口の土地に二間半の家を建築したという。

Img_9776 まばらだが二間半間口の家が残っている。

Img_9779 往還から左折し大坂を上る。【ル-ト地図】の①

Img_9781 坂上近くの石造物

子安観音(祠内)・地蔵・庚申塔など。

Img_9782 子安観音

Img_9789 地蔵の祠 《地図

上は東関東自動車道

Img_9791 地蔵 

Img_9792 国道14号沿いを進む。

Img_9802 浅間神社参道 《地図

境内は広く樹木も多いが、新しい社殿のある所は殺風景な感じがする。

南側の「きらくホテル」あたりに、多くの文人達が泊り、作品の舞台ともなった「海気館」があった。

Img_9796 「十二座神楽」説明板

浅間神社からは国道と離れ、東の台地に上がり京成線、総武線を越え穴川で南下し、天台、作草部、千葉公園脇から千葉神社前を通り、大和橋を渡って南西に進み、再び総武線、京成線を越え、港町から南下して寒川町に入って行く。稲毛から登戸へ通ずる真っ直ぐの国道14号は明治19年に千葉監獄の囚人を使って新設した道だ。

Img_9803 二本松弁財天

由来等は分からず。

 この先で京成稲毛駅の踏切を渡り、JR稲毛駅を越えて行く。

Img_9809 千葉陸軍高射学校(防空学校)跡(仲よし公園) 《地図

Img_9817 穴川神社 《地図

請負新田開発の許可を得た田村吉右衛門が文政9年(1826)創建したという。入植当時の苦労を歌った、「死んでしまおか穴川に出よか、死ぬにやましだ出たがよい」

Img_9822 火の見(跡)?

ここは消防局の施設のようで、左の建物は倉庫になっている。

Img_9825 天台駅を発車した千葉モノレール2号線

Img_9827 道標(享保元年(1801)・大矢商店脇) 《地図

正面に「右ハながのま村よなもと道 左ハそんのふ村小中台道」と刻むという。「左ハ園生(そんのう)・・・」は分かるが、「右ハながのま村よなもと道」がどこを指すのか分からず。

別名を「縄しばり塔」で、風をひくと塔を縄で縛り、平癒を祈願し、治ったら縄を解いてお礼をするという。その信仰も薄れたか縄くずのかけらも見当たらない。

Img_9831 庚申塔(宝永2年(1705)・弁天4-1)

弁天は綿打公園の南の弁天社に由来。

Img_9838 綿打池(千葉公園)

池の名の由来は、江戸時代このあたりが旗本領の作草部村と佐倉藩の寒川村との境界で、この池がどちらの村に属すかで争いが起こった。寒川村の綿打屋の太郎兵衛が役人の実地検分の前日に、村内の弁天の碑石を池の縁に移して置いたことにより、寒川村のものになった。太郎兵衛の機転を称え「綿打池」と名づけられたという。

Img_9839 厳島神社(弁財天社) 《地図

綿打池の縁に置かれた弁天碑を祀っている。

Img_9844 縁起碑

綿打池の由来が書かれている。

Img_9845 椿森陸橋(JR総武本線)を渡る。

左手一帯は鉄道第一連隊跡

Img_9852 千葉神社

もとは千葉氏の守護神である妙見菩薩を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立された。明治の神仏分離で神社となった。祭神の北辰妙見尊星王(天之御中主大神)は長年神仏習合により妙見菩薩と同一と看做されていて、今でも「妙見信仰」の中心地の一つ。

Img_9856 千葉市美術館 《地図

昭和2年に建てられた旧川崎銀行千葉支店の建物が、新しいビルの内部に包みこまれるようにそのまま復元保存されていて、内部はさや堂(鞘堂)ホールとなっている。

Img_9854 さや堂ホールになっている旧川崎銀行千葉支店の建物部分。新しいビルが上を覆っていて、中央区役所との複合施設になっている。

Img_9859 大和橋(都川)を渡って左へ旧東金街道入り、猪鼻城跡に寄る。

都川べりには、米、炭問屋、居酒屋、雑貨店などが軒を連ね、寒川港や登戸港から荷足船が上り、下りしていたという。大和橋・羽衣橋・君待橋・都橋など昔情緒を感じる橋の名がついている。

Img_9861 お茶の水(跡) 《地図

①千葉常胤が猪鼻城に源頼朝を迎えた時、この井の水で茶を献じた。②千葉氏一族は代々この水を産湯水に使用した。③徳川家康が鷹狩りの際に立ち寄りこの湧き水を賞して以来、人が飲むことを許さなかった。などの伝承がある。井戸には新しい石囲いがしてあるが水は涸れている。

Img_9864 由来碑

Img_9869 千葉市立郷土博物館

ここは猪鼻城址(千葉城址)の一画。大治元年(1126)に千葉常重によって築城され、康正元年(1455)の千葉一族の内紛で落城し廃城になったと伝える。土塁のほかに礎石等が発掘され、何らかの施設があったことが確認されたという。(この郷土博物館の建物とは全く無関係)

Img_9875 羽衣の松(羽衣公園) 【ル-ト地図】の②

各地にある羽衣伝説と、千葉氏改姓の由来話。

Img_9874 由来

Img_9878 モノレールの尻尾

終点の県庁前駅から延びている。

Img_9884 (新)君待橋(正面・大橋から) 《地図

Img_9887 君待橋之碑 【ル-ト地図】の③

昭和44年3月まで「新川」という小さな溝(運河)があり、そこに架かっていた石橋が「君待橋」と呼ばれていた。

伝承① 長徳元年(995)に陸奥国へ下向途中の藤原実方がここを通り、里人に橋の名を聞いた。里人の「君待橋」との答えに一首を詠んだ。「寒川や 袖師が浦に 立つ煙 君を待つ橋 身にぞ知らるる」

伝承② 治承4年(1180)に千葉常胤が、源頼朝をこの橋のたもとで出迎えた時、六男の東六郎胤頼が歌を詠んだ。「見えかくれ 八重の潮路を 待つ橋や 渡りもあへず 帰る舟人」

伝承③ 長州から待ちに待った恋人が帰ってきたが、雨が激しく川に濁流が渦巻き、橋は流され恋人はこの川に呑まれてしまった。相手の娘は救うに救われず、自らも濁流に身を投じて後を追った。

①の藤原実方は光源氏のモデルともいうプレイボーイ貴族、歌人。「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」(小倉百人一首) 陸奥国へ下向途中にもあちこちで歌を詠んでいる。最後は笠島道祖神の前を下馬せず通ったため、「馬から落ちて落馬して」、馬に蹴られて死んじまった哀れなおっさん。死後は怨念により雀に転生し、殿上の物を食べあさったとも。(『東街道』に記載) 実方は都から古代東海道を通り足柄峠を越え、東京湾を上総へ渡り、下総から常陸に入り北上し福島、仙台を通り、陸奥国府の多賀城に向かったのだろうか。

Img_9892 厳島神社港町弁財天 《地図

Img_9899 「お穴」と呼ばれる奥の一隅

暗く湿っている雰囲気な場所で、なるほど「蛇の棲息しやすい環境の神域」と納得。

Img_9894 縁起

Img_9905寒川神社

寒川の総鎮守で、沖合を通る船は礼帆といって帆を半ば下げて航行し、社前では必ず下馬して通行したという。

もっと大きな神社と思っていた。神奈川寒川町の寒川神社が頭にあったからだろう。前回は鷺沼という所もあった。以前、川崎市の鷺沼に住んでいたことがある。寒川町の隣は川崎町だ。登戸も千葉市中央区と川崎市多摩区にある。別にどうってこともないが。

Img_9906 左に道標(延享2年(1745)) 《地図

Img_9908 「右ハかつさ道 左ハちばてら道」

Img_9910 稲荷神社 《地図

Img_9911 甘藷澱粉製造発祥之地記念碑(稲荷神社境内)

京成幕張駅そばには昆陽神社と青木昆陽甘藷試作地がある。

Img_9914 道標「大がんじみち」 《地図

竜沢山大厳寺への道で、天文17年(1548)(天文20年とも)、生実(北生実)城主の原胤栄と夫人の竜沢尼が帰依する道誉上人を開基として創建されたものと伝える。徳川家康の帰依を受け、寺領100石の寄進を受けるなど、代々徳川氏の保護を受けていた関東十八檀林の一つ。境内はかつてカワウの棲息地の「鵜の森」として有名で、一時は5万羽もいたというが、昭和35年頃には鵜は姿を消したそうだ。

Img_9919 蘇我比咩神社 《地図

このあたりは蘇我氏の部民の居住地で、彼らの氏神であったようだ。このあたりの地名、駅名に蘇我(JR京葉線)が残っている。

Img_9917 説明板

Img_9921 縁起

日本武尊と弟橘姫の伝説

Img_9926 塩田天満宮 《地図

手前は「生浜小学校発祥の地記念碑」

Img_9932 諏訪神社

かつては境内は松林で覆われていたそうだ。

Img_9933 説明板

Img_9936 本行寺

右の寺柱に「七里法華根本寺」とある。暴風雨の中、同船した日泰の題目のおかげで沈没から免れた酒井定隆は後に土気城主となった際に、領内一円を日蓮宗に改宗させた。これを「上総七里法華」といい、その根本道場がこの寺。

Img_9935 説明板

Img_9938伊南房州通往還分岐点① 《地図

前方の浜野交差点で左折するのが茂原から大原、勝浦の外房回りで館山へ至る伊南房州通往還。八幡宿にも分岐点②がある。この道もいずれ歩くことになるだろう。

Img_9940 伊南房州通往還方向

Img_9943 浜野の家並み

継立場、浜野河岸、本行寺の門前町で賑わい遊郭も4軒あったというが、今はご覧の通り。

Img_9945 村田川跡

かつての下総国・上総国境で今は村田川公園になっている。ガードレールの内側に青面金剛庚申塔が立っている。

Img_9950 村田川渡船場跡(村田川公園) 【ル-ト地図】の④

康生2年(1456)千葉宗家を倒した千葉(馬加)康胤が上総を目指して遁走中にこの付近で討たれた。水戸黄門もこの川を越し、明治維新の時は追われる幕軍がここを渡った。その他、小林一茶などの文人、墨客、軍馬なども渡って行った。

Img_9949 説明板

馬加康胤は市原市八幡(上総の八幡宿)で討たれこの川岸に首を晒されたとある。

Img_9953 庚申塔(享保13年(1728))

もとは新村田川橋のたもとにあったという。

Img_9957 (新)村田川(新村田川橋から)

Img_9958 庚申塔(中央・安永?年)

道標になっていて、右側面「右東金道」・左側面「江戸道」のようだ。ここは八幡宿の入口あたりだ。

Img_9967 飯香岡八幡宮

社殿左に下総の千葉常胤を訪ねる途中で、源頼朝が源氏再興を祈願して植えたという「倒公孫樹」(さかさいちょう)があるというが見当たらず。

Img_9966 説明板

Img_9969 夫婦銀杏

Img_9979 伊南房州通往還分岐点② 《地図

閏井戸で浜野からの伊南房州通往還と合流する。八幡宿も継立場だが往時の面影は残していない。

Img_9993 御所跡あたり(金杉橋あたり) 《地図

足利義明の八幡御所跡。今は「五所」という地名にその名が残るのみ。八幡宿の東側の墓地内に足利義明夫妻の墓と伝わる2基の五輪塔があるそうだ。

Img_9994 庚申塔(元禄8年(1695))

金杉橋を渡って左に入った所

Img_9999 左へ枡形のように曲がり、しばらくして右折し五位の町並みに入って行く。ここも継立場だったが、昔を感じさせる家並みなどは見当たらなかった。 《地図

正面に六地蔵石幢の祠が立つ。

Img_0007大宮神社 《地図

日本武尊が創祀し、源頼朝、北条氏直とも縁のある神社。

Img_0011 養老川(新養老橋から上流方向) 《地図

江戸時代以前は橋はなく渡し船だった。橋より下流の出津渡船場あたりが戊辰戦争の上総義軍(徳川義軍)の陣営だった。養老川を挟んでの官軍との激戦で敗走した上総義軍は姉ヶ崎方面に敗走し、次々に戦死した。

Img_0012 青柳地区に入る。

江戸湾に面する半農半漁の村で、貝類がよく採れ、「バカ貝」を「青柳」と呼ぶようになったそうだ。

白塚交差点で左折し、内房線の踏切を渡り線路沿いに進み、今津川を渡り、再び県道24号に合流する。

Img_0017 馬頭尊道標(左・県道24号との合流地点) 《地図

Img_0019 正面の「馬頭尊」は分かるが、左右側面?は「房州道 木更津 たかくら道江戸 ちば寺道」だそうだがはっきり読めず。もとは「馬頭尊」が道の方を向いていたのだろう。

Img_0027 田中地蔵尊 《地図

「今津のいぼとり地蔵」として親しまれ、縁日には露店や茶店が出て賑わったという。

Img_0026 大小さまざまな地蔵が居並んでいる。 

Img_0029二子塚古墳(左が前方部) 【ル-ト地図】の⑤

5世紀中頃築造の全長106mの前方後円墳。直弧文石枕(国重文)や銀製耳飾り出土している。
参考:『更科いちはら紀行

Img_0031 説明板

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