房総往還②
2011年6月26日
検見川駅(京成千葉線)・・・三峯神社・・・(検見川陸橋下)・・・大坂・・・地蔵祠・・(東関東自動車道)・・・国道14号・・・花園橋・・・浅間神社前交差点・県道134号・・浅間神社・・・二本松弁財天・・・検見川6号踏切(京成千葉線京成稲毛駅)・・・(JR総武本線稲毛駅)・・・千葉陸軍高射学校跡(仲よし公園)・・・園生十字路・・・穴川神社・・・国道126号・・・天台駅(千葉モノレール2号線)・・・道標(縄しばり塔)・・作草部駅(千葉モノレール2号線)・・・庚申塔・・・千葉公園・綿打池・弁財天社(厳島神社)・・・国道126号・・・椿森陸橋(JR総武本線東千葉駅)・・・千葉神社・・・千葉市美術館・・・大和橋(都川)・・・お茶の水(跡)・・猪鼻城跡(千葉城跡・市立郷土博物館)・・・羽衣の松(羽衣公園・千葉県庁)・県庁前駅(千葉モノレール1号線)・・・(JR外房線・京成千原線)・・・君待公園・・君待橋(都川)・・・大橋(都川)・・・君待橋碑・・・厳島神社港町弁財天・・・寒川神社・・・道標・・・(JR京葉線)・・・稲荷神社・・・道標・・・蘇我比咩神社・・・(貨物線路)・・・平成橋(生実川)・・・塩田天満宮・・・県道66号・・・塩浜橋(浜野川)・・・諏訪神社・・・本行寺・・・伊南房州通往還分岐点①(浜野交差点)・・・県道24号・・・村田橋バス停(千葉市・市原市境)・・庚申塔・村田川渡船場跡(下総国・上総国境)・・・新村田橋(村田川)・・・庚申塔祠・・・飯香岡八幡宮・・・円頓寺・・・伊南房州通往還分岐点②・・・無量寺・・・(国道297号)・・・日吉神社・・・満蔵寺・・・金杉橋(金杉川)・御所跡あたり・・庚申塔・・・波渕バス停・地蔵堂・・・龍善院・・・大宮神社・・・新養老橋(養老川)・・・県道24号・・・島穴橋(前川)・・・白塚交差点・・・(JR内房線)・・・白塚境橋(今津川)・・馬頭尊道標・県道24号・・・白幡神社・・・延命寺踏切(JR内房線)・・・田中地蔵尊・・・二子塚古墳・・・姉ヶ崎駅(JR内房線)
【ル-ト地図】
今日は涼しい。前回は距離が短かったが、これなら倍は歩けるだろう。途中から小ぬか雨が降り出したが快調に3倍近くも歩いてしまった。別に急ぐつもりはないのだが。
*『房総往還③』へ続く。
写真をクリックすると拡大します。
三峯神社 《地図》
境内は荒れた感じで、立入禁止の札が掛かっている。ここも地震の被害を受けたのか?
「赤いきつねと緑のたぬき」なら武田鉄也のCMだが、「青いきつね」は頂けない。
明治末から検見川の人口が増加し、次男、三男の住宅難と浜の縄張り争いなどから、多くの人が住めるようにするために、三間間口の土地に二間半の家を建築したという。
子安観音(祠内)・地蔵・庚申塔など。
地蔵の祠 《地図》
上は東関東自動車道
境内は広く樹木も多いが、新しい社殿のある所は殺風景な感じがする。
南側の「きらくホテル」あたりに、多くの文人達が泊り、作品の舞台ともなった「海気館」があった。
浅間神社からは国道と離れ、東の台地に上がり京成線、総武線を越え穴川で南下し、天台、作草部、千葉公園脇から千葉神社前を通り、大和橋を渡って南西に進み、再び総武線、京成線を越え、港町から南下して寒川町に入って行く。稲毛から登戸へ通ずる真っ直ぐの国道14号は明治19年に千葉監獄の囚人を使って新設した道だ。
由来等は分からず。
この先で京成稲毛駅の踏切を渡り、JR稲毛駅を越えて行く。
穴川神社 《地図》
請負新田開発の許可を得た田村吉右衛門が文政9年(1826)創建したという。入植当時の苦労を歌った、「死んでしまおか穴川に出よか、死ぬにやましだ出たがよい」
ここは消防局の施設のようで、左の建物は倉庫になっている。
天台駅を発車した千葉モノレール2号線
道標(享保元年(1801)・大矢商店脇) 《地図》
正面に「右ハながのま村よなもと道 左ハそんのふ村小中台道」と刻むという。「左ハ園生(そんのう)・・・」は分かるが、「右ハながのま村よなもと道」がどこを指すのか分からず。
別名を「縄しばり塔」で、風をひくと塔を縄で縛り、平癒を祈願し、治ったら縄を解いてお礼をするという。その信仰も薄れたか縄くずのかけらも見当たらない。
弁天は綿打公園の南の弁天社に由来。
池の名の由来は、江戸時代このあたりが旗本領の作草部村と佐倉藩の寒川村との境界で、この池がどちらの村に属すかで争いが起こった。寒川村の綿打屋の太郎兵衛が役人の実地検分の前日に、村内の弁天の碑石を池の縁に移して置いたことにより、寒川村のものになった。太郎兵衛の機転を称え「綿打池」と名づけられたという。
厳島神社(弁財天社) 《地図》
綿打池の縁に置かれた弁天碑を祀っている。
綿打池の由来が書かれている。
左手一帯は鉄道第一連隊跡
もとは千葉氏の守護神である妙見菩薩を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立された。明治の神仏分離で神社となった。祭神の北辰妙見尊星王(天之御中主大神)は長年神仏習合により妙見菩薩と同一と看做されていて、今でも「妙見信仰」の中心地の一つ。
昭和2年に建てられた旧川崎銀行千葉支店の建物が、新しいビルの内部に包みこまれるようにそのまま復元保存されていて、内部はさや堂(鞘堂)ホールとなっている。
さや堂ホールになっている旧川崎銀行千葉支店の建物部分。新しいビルが上を覆っていて、中央区役所との複合施設になっている。
都川べりには、米、炭問屋、居酒屋、雑貨店などが軒を連ね、寒川港や登戸港から荷足船が上り、下りしていたという。大和橋・羽衣橋・君待橋・都橋など昔情緒を感じる橋の名がついている。
お茶の水(跡) 《地図》
①千葉常胤が猪鼻城に源頼朝を迎えた時、この井の水で茶を献じた。②千葉氏一族は代々この水を産湯水に使用した。③徳川家康が鷹狩りの際に立ち寄りこの湧き水を賞して以来、人が飲むことを許さなかった。などの伝承がある。井戸には新しい石囲いがしてあるが水は涸れている。
ここは猪鼻城址(千葉城址)の一画。大治元年(1126)に千葉常重によって築城され、康正元年(1455)の千葉一族の内紛で落城し廃城になったと伝える。土塁のほかに礎石等が発掘され、何らかの施設があったことが確認されたという。(この郷土博物館の建物とは全く無関係)
各地にある羽衣伝説と、千葉氏改姓の由来話。
終点の県庁前駅から延びている。
(新)君待橋(正面・大橋から) 《地図》
昭和44年3月まで「新川」という小さな溝(運河)があり、そこに架かっていた石橋が「君待橋」と呼ばれていた。
伝承① 長徳元年(995)に陸奥国へ下向途中の藤原実方がここを通り、里人に橋の名を聞いた。里人の「君待橋」との答えに一首を詠んだ。「寒川や 袖師が浦に 立つ煙 君を待つ橋 身にぞ知らるる」
伝承② 治承4年(1180)に千葉常胤が、源頼朝をこの橋のたもとで出迎えた時、六男の東六郎胤頼が歌を詠んだ。「見えかくれ 八重の潮路を 待つ橋や 渡りもあへず 帰る舟人」
伝承③ 長州から待ちに待った恋人が帰ってきたが、雨が激しく川に濁流が渦巻き、橋は流され恋人はこの川に呑まれてしまった。相手の娘は救うに救われず、自らも濁流に身を投じて後を追った。
①の藤原実方は光源氏のモデルともいうプレイボーイ貴族、歌人。「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」(小倉百人一首) 陸奥国へ下向途中にもあちこちで歌を詠んでいる。最後は笠島道祖神の前を下馬せず通ったため、「馬から落ちて落馬して」、馬に蹴られて死んじまった哀れなおっさん。死後は怨念により雀に転生し、殿上の物を食べあさったとも。(『東街道』に記載) 実方は都から古代東海道を通り足柄峠を越え、東京湾を上総へ渡り、下総から常陸に入り北上し福島、仙台を通り、陸奥国府の多賀城に向かったのだろうか。
厳島神社港町弁財天 《地図》
暗く湿っている雰囲気な場所で、なるほど「蛇の棲息しやすい環境の神域」と納得。
寒川の総鎮守で、沖合を通る船は礼帆といって帆を半ば下げて航行し、社前では必ず下馬して通行したという。
もっと大きな神社と思っていた。神奈川寒川町の寒川神社が頭にあったからだろう。前回は鷺沼という所もあった。以前、川崎市の鷺沼に住んでいたことがある。寒川町の隣は川崎町だ。登戸も千葉市中央区と川崎市多摩区にある。別にどうってこともないが。
左に道標(延享2年(1745)) 《地図》
稲荷神社 《地図》
甘藷澱粉製造発祥之地記念碑(稲荷神社境内)
京成幕張駅そばには昆陽神社と青木昆陽甘藷試作地がある。(『房総往還①』に記載)
道標「大がんじみち」 《地図》
竜沢山大厳寺への道で、天文17年(1548)(天文20年とも)、生実(北生実)城主の原胤栄と夫人の竜沢尼が帰依する道誉上人を開基として創建されたものと伝える。徳川家康の帰依を受け、寺領100石の寄進を受けるなど、代々徳川氏の保護を受けていた関東十八檀林の一つ。境内はかつてカワウの棲息地の「鵜の森」として有名で、一時は5万羽もいたというが、昭和35年頃には鵜は姿を消したそうだ。
このあたりは蘇我氏の部民の居住地で、彼らの氏神であったようだ。このあたりの地名、駅名に蘇我(JR京葉線)が残っている。
日本武尊と弟橘姫の伝説
塩田天満宮 《地図》
手前は「生浜小学校発祥の地記念碑」
かつては境内は松林で覆われていたそうだ。
右の寺柱に「七里法華根本寺」とある。暴風雨の中、同船した日泰の題目のおかげで沈没から免れた酒井定隆は後に土気城主となった際に、領内一円を日蓮宗に改宗させた。これを「上総七里法華」といい、その根本道場がこの寺。
伊南房州通往還分岐点① 【ル-ト地図】の⑥
前方の浜野交差点で左折するのが茂原から大原、勝浦の外房回りで館山へ至る伊南房州通往還。八幡宿にも分岐点②がある。この道もいずれ歩くことになるだろう。
継立場、浜野河岸、本行寺の門前町で賑わい遊郭も4軒あったというが、今はご覧の通り。
かつての下総国・上総国境で今は村田川公園になっている。ガードレールの内側に青面金剛庚申塔が立っている。
康生2年(1456)千葉宗家を倒した千葉(馬加)康胤が上総を目指して遁走中にこの付近で討たれた。水戸黄門もこの川を越し、明治維新の時は追われる幕軍がここを渡った。その他、小林一茶などの文人、墨客、軍馬なども渡って行った。
馬加康胤は市原市八幡(上総の八幡宿)で討たれこの川岸に首を晒されたとある。
もとは新村田川橋のたもとにあったという。
道標になっていて、右側面「右東金道」・左側面「江戸道」のようだ。ここは八幡宿の入口あたりだ。
社殿左に下総の千葉常胤を訪ねる途中で、源頼朝が源氏再興を祈願して植えたという「倒公孫樹」(さかさいちょう)があるというが見当たらず。
伊南房州通往還分岐点② 《地図》
閏井戸で浜野からの伊南房州通往還と合流する。八幡宿も継立場だが往時の面影は残していない。

御所跡あたり(金杉橋あたり) 《地図》
足利義明の八幡御所跡。今は「五所」という地名にその名が残るのみ。八幡宿の東側の墓地内に足利義明夫妻の墓と伝わる2基の五輪塔があるそうだ。
金杉橋を渡って左に入った所
左へ枡形のように曲がり、しばらくして右折し五位の町並みに入って行く。ここも継立場だったが、昔を感じさせる家並みなどは見当たらなかった。 《地図》
正面に六地蔵石幢の祠が立つ。
日本武尊が創祀し、源頼朝、北条氏直とも縁のある神社。
養老川(新養老橋から上流方向) 《地図》
江戸時代以前は橋はなく渡し船だった。橋より下流の出津渡船場あたりが戊辰戦争の上総義軍(徳川義軍)の陣営だった。養老川を挟んでの官軍との激戦で敗走した上総義軍は姉ヶ崎方面に敗走し、次々に戦死した。
江戸湾に面する半農半漁の村で、貝類がよく採れ、「バカ貝」を「青柳」と呼ぶようになったそうだ。
白塚交差点で左折し、内房線の踏切を渡り線路沿いに進み、今津川を渡り、再び県道24号に合流する。
馬頭尊道標(左・県道24号との合流地点) 《地図》
正面の「馬頭尊」は分かるが、左右側面?は「房州道 木更津 たかくら道江戸 ちば寺道」だそうだがはっきり読めず。もとは「馬頭尊」が道の方を向いていたのだろう。
田中地蔵尊 《地図》
「今津のいぼとり地蔵」として親しまれ、縁日には露店や茶店が出て賑わったという。
二子塚古墳(左が前方部) 【ル-ト地図】の⑧
5世紀中頃築造の全長106mの前方後円墳。直弧文石枕(国重文)や銀製耳飾り出土している。
参考:『更科いちはら紀行』
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