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2011年8月28日 (日)

善光寺街道(北国街道)①

2011年8月21日

信濃追分駅(しなの鉄道)・・・(国道18号)・・追分宿(中山道)・神田坂・・堀辰雄文学記念館(本陣門)・脇本陣油屋跡・本陣跡・高札場跡・泉洞寺・茶屋つがるや跡・枡形跡・追分宿交差点・国道18号・・分去れ・北国街道・・追分原刑場跡・・・国道18号・・・三ツ谷東交差点・・・雀ケ谷交差点・・・馬瀬口一里塚跡・・・(国道18号)・・・旧道・・・濁川橋(濁川)・・・三ツ谷西交差点・・・明治天皇馬瀬口小休所跡(高山家)・・・柵口神社・・馬頭観音堂・長泉寺・・・国道18号・・・(新)十石坂・・十石坂(跡)・・・平原跨道橋(上信越自動車道)・・・平原東交差点・・旧道・・平原一里塚跡・・・金山宮・・・長龍寺・・・十念寺(跡)・・・光明寺・・・曲り沢・・平原橋・・国道18号・・・四ツ谷東交差点・国道141号・・・乙女坂・・四ツ谷交差点・・乙女道標・・乙女橋(乙女川)・・県道141号・・・唐松一里塚跡・・・真楽寺道標・・蛇堀川・・小諸宿・北国街道与良館・・高浜虚子記念館・・海応院・・光岳寺・・祇園坂・・ほんまち町屋館・・権兵衛坂・・丁子庵・・鍋蓋城址・・養蓮寺・・闇坂・・浄斎坂・・小諸城大手門・・(しなの鉄道)・・三の門・懐古園・・小諸市観光交流館・・本陣主屋・・脇本陣粂屋跡・・問屋山兼跡(山兼酒造)・・本陣問屋跡・・(しなの鉄道)・・・天王社・・・中沢川・・・諏訪神社・・・栃木川・・布引観音道標・・・花川橋(花川)・・・青木一里塚跡・・・第一北国街道踏切(しなの鉄道)・・・芦原中学校入口交差点・国道18号・・・東山道清水駅跡・・・菱野薬師道標・・・西光寺・・・深沢橋(深沢川)・・・国道18号・・・古民家(たかこの布あそび)・・・深沢交差点・・・旧道・・・眼鏡橋(大石沢川)・剣持双体道祖神・・・多古神社・・・牧家一里塚跡・・・牧家橋・・・雷電の碑・・・櫻井神社・・・宮前橋・・・滋野駅(しなの鉄道)

  【ル-ト地図】(29.6km)

 北国街道は加賀百万石の参勤交代の道、佐渡の金を江戸に運んだ道で、善光寺参りの信仰の道でもあった。中山道追分宿の「分去れ」から善光寺宿までの北国街道の一部の善光寺街道を4回で歩く。

 猛暑はどこへ行ったやら、信濃追分駅へ降りた途端、寒さで身震えした。おまけに冷たい雨で出だしから参ったが、追分宿からは下る一方で、それも追い風で歩き安い。雨も途中から降ったり止んだりで予定通り滋野駅までたどり着いた。だがこの時はまだ3日間も雨に降られ続けるとは思ってもいなかったが。

 参考:『歴史の道調査報告書 北国街道』(長野県教育委員会)・『信濃路を行く 上(中山道の歩き方 付 善光寺街道』(学習研究社)・『北国街道を歩く』(岸本豊・信濃毎日新聞社)  

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1271中山道追分宿

日曜でもこの冷たい雨の中、神田坂を歩いているのは我一人。まだ8時を過ぎたばかりで早いせいもあるか。「宿よし 出女あり」の賑わいは遠い昔のことなのだ。(出女は飯盛女のこと)

Img_1276堀辰雄文学記念館

もとは追分宿本陣土屋家の裏門で、内堀家から軽井沢町に寄贈されここに移築された。

Img_1282旅館油屋

もとは街道の左手に脇本陣油屋があった。この隣が本陣土屋家跡だが「明治天皇追分行在所」の標柱が立つのみ。

Img_1292高札場跡

Img_1289説明板

Img_1299泉洞寺

もうコスモスの季節か。堀辰雄のお気に入りの石仏があるようだが探さなかった。

Img_1306茶屋つがるや跡(追分宿方向を振り返る)

ここは追分宿の西口で枡形となっていた。

Img_1305説明板

Img_1304_2「つがるや」の看板

Img_1307分去れ 【ル-ト地図】の①

右が北国街道、左の中山道はこの先で国道18号から離れ左に入って行く。道標・常夜灯・石地蔵 ・森羅亭万象歌碑・道祖神などが並んでいる。「分去れの碑」には、「さらしなは右 みよし野は左にて 月と花とを追分の宿」で、「更科の里、姨捨の月」の方へ向かう。

Img_1308説明板

Img_1315追分原刑場跡 《地図

幕末の偽官軍事件で赤報隊士の桜井常五郎ら3名が小諸藩に捕らえられ処刑された所。処刑後、浅間山の雲が瞬く間に広がり、土砂降りとなった。人々は「桜井の涙雨」といったとか。

庚申塔、二十三夜塔などの石造物の奥に、なぜかシャーロック・ホームズ像が立つ。

Img_1317シャーロック・ホームズ像

犯人を割り出し、刑場へ送ってきたのに自分が刑場の中に立とうとは・・・。

Img_1318説明板

Img_1330国道18号の長い下り。

軽井沢町から御代田町に入った所でもまだ標高929m。涼しいというより寒いはずだ。

この先、街道から離れ三ツ谷東交差点から馬瀬口一里塚跡に向かう。

Img_1344馬瀬口一里塚跡 【ル-ト地図】の②

説明板には東塚も良好に現状を留めているというが、林か藪の中にあるのかはっきり見えない。塩野に通じる北国街道の支道の一里塚というが、旧北国街道はここを通っていたのかも。一里塚は江戸時代になって築かれたものだから、東山道の一里塚ということはありえない。

Img_1343説明板

Img_1351濁川(濁川橋)から

その名の通りだ。

Img_1362明治天皇馬瀬口小休所跡(高山家)

Img_1364説明板

Img_1373柵口(ませぐち)神社 《地図

柵(ませ)とは「馬塞」で、馬が出られないようにした柵(さく)のこと。

Img_1375馬頭観音堂

大きな馬の石像が台座に乗っている。やはり狛犬や石灯籠のように対になっていないとバランスが悪いようで変な感じだ。

Img_1378長泉寺

雨で光っている赤屋根

Img_1382(新)十石坂を下る。《地図

Img_1384このあたりから下って繰矢川を渡って上り返すのが十石坂だが下り口が見当たらない。国道を進み左カーブして行く。

このあたりに十石城があったようだが詳細不明。

Img_1401旧十石坂はここへ上って来るようだ。下って見る。

Img_1394_3十石坂の横穴(繰矢川の対岸の正面の岩壁の下)

戦時中に勤労奉仕の学生らに掘らせた軍事用貯蔵庫。残り少なくなった航空燃料や爆弾を格納して、本土決戦に備えようとした作戦の一つだったという。

Img_1395この先は草に覆われ道跡が分からず。雨で膝から下、靴の中はぐっしょりとなった。

国道に戻り、平原跨道橋(上信越自動車道)を越える。

Img_1407平原東交差点の先で左に旧道に入る。

Img_1408平原一里塚跡

Img_1415十念寺(跡)

寺はないようだが、今でも二十五菩薩来迎会は行われているようだ。

Img_1416説明板

Img_1420平原の家並み

右の家の土蔵前の「平原の松」が這っている。

Img_1424平原の松

参勤交代に通った加賀の殿様も絶賛したとか。

Img_1426_2懸け樋か?

Img_1427平原の家並み

雨が上がって夏休みの子どもたちが出てきた。

Img_1436曲り沢

下って左折し、平原橋(北川)を渡り国道へ出る。

Img_1446乙女坂を下る。《地図

Img_1451乙女道標(右角) 【ル-ト地図】の③

振り返って見ている。

Img_1450「右甲州街道 左江戸街道」

Img_1453_2乙女川だが川は濁っている。

ここから県道へ上り返すのも乙女坂か。

Img_1458_2唐松一里塚跡 《地図

2つの塚の間の道は北国街道ではない。一つの塚を分断してここに築いたそうだ。いい加減なことをするものだよ、まったく。説明板にはそのことに全く触れていない。お粗末の極み。

Img_1459説明板

Img_1463真楽寺道標・馬頭観音など(正面右) 《地図

唐松一里塚からこのあたりまでは美しい松並木があったそうだ。

Img_1464真楽寺道標・馬頭観音・地蔵

道標には「浅間山別當真楽寺 従是一里拾丁」で追分宿へは北国街道より半里近道。御代田町塩野の真楽寺は北国街道よりずっと北側の浅間サンラインの南側にある。厄除観音で有名のようだ。 《地図

Img_1467小諸宿へ入る。

「現金○○屋」の看板が多い。掛け売りはしないということだろう。

Img_1476案内図

祇園坂・権兵衛坂・闇坂・浄斎坂が載っている。 

Img_1473北国街道与良館

小諸藩の御用金の銭蔵も移築され、土蔵の床下に石室があるそうだ。

Img_1477高浜虚子記念館

Img_1478元庄屋小山家

小諸城主も時々訪れ、座敷の床の間には殿様が身を隠すための隠し扉が残っているとか。

Img_1479_2レトロな商店

もう営業はしていないか?

Img_1480銀座堂

Img_1482嶋田屋

Img_1485「御味噌」の屋根付き看板を掲げる「山吹味噌」の酢久商店

Img_1490潜竜の松(海応院

Img_1491光岳寺境内から北国街道本町の通り。

山門は小諸城の足柄門を移築。

Img_1496つたや旅館とつるやホテルの間を上って左折するのが祇園坂で、健速神社方向に下って行く。《地図

健速神社の祇園祭にちなむ坂名だろう。

Img_1499本町の通り

ここが小諸宿の中心部だったが、寛保2年(1742)「戌の満水」の大洪水で流失し、本陣などはこの先の市町に移った。昔は中央に水路があったそうだ。

Img_1503大塚味噌醤油店

Img_1505
そば七

江戸末期の建物。

Img_1507浅間山は右方向で晴れていても裾野しか見えないようだ。(本町町屋館の庭から)

Img_1511権兵衛坂を少し下って、丁子庵の前を左折するのが北国街道。小諸城の鍋曲輪があって迂回させられた。《地図

Img_1512_2丁子庵(右)の前を通り、車道を横切って養蓮寺の前まで下って行く。

昼時で混んでいたがここで昼飯とする。美味いそばだった。

Img_1513丁子庵

Img_1514養蓮寺

雷電が江戸から着物のたもとに入れて持ち帰ったという「雷電の袂(たもと)鐘」を吊るす鐘楼。雷電は幼少期にこの寺で寺男をしていたともいう。

Img_1517闇坂を上って本町の通りへ戻る。「くらやみ」か「やみ」か? 《地図

養蓮寺の前の坂で昔は昼でも暗かったのだろう。今はまったくその面影はない。この左側が小諸ではじめての平城の鍋蓋城跡(長享元年(1487)大井光忠が築城)だが遺構は残らず。江戸時代は家老屋敷だったそうだ。

Img_1522浄斎坂を上る。 《地図

小諸観光交流館の管理人の話では浄斎とは僧の名らしい。坂沿いに寺院はないようだが。

Img_1525大手門

Img_1526説明板

Img_1528三の門をくぐれば小諸城址の懐古園

Img_1533本陣主屋  《地図

もとは本陣問屋の隣のしなの鉄道の線路の所にあったそうだ。明治になって佐久市の桃源院に売却されたが、平成7年に寄贈されここに移築復元された。しかし平成17年から休館中で近づけず、線路側へ回り込んで遠くから撮影した。それにしても6年間も休館とは長過ぎる。何かもめ事でもあるのか?
(平成24年より「城下町にぎわい協議会」で実験的に開館しているそうだ)

Img_1538脇本陣粂屋跡 《地図

Img_1539問屋山兼跡(山兼酒造)

Img_1543本陣問屋跡

出梁(だしばり)造りで、2階部分が張り出ている。ここは今では宿のはずれという感じだ。

Img_1544説明板

Img_1549新町の家並み

昔の清水町で茶屋が数軒あったそうだ。

Img_1550諏訪神社前 《地図

神社入口左に臼田亞浪の歌碑がある。ここを右にカーブして行く。

Img_1554布引観音道標(正面の大きな石柱) 【ル-ト地図】の④

老婆を「牛に引かれて善光寺参り」させた牛に化身した布引観音へは左折する。《地図》 北国街道は直進。

Img_1561北国街道道標に従い右へ入る。《地図

Img_1562青木一里塚跡(第一北国街道踏切手前)

第一北国街道踏切でしなの鉄道を渡り、芦原中学校入口交差点で北国街道から離れ、国道18号を右へ東山道清水駅跡へ行く。

Img_1569東山道清水駅(しみずのうまや)跡 【ル-ト地図】の⑤

Img_1570説明板

Img_1571菱野薬師道標(左下・西光院近く)

菱野温泉がある菱野薬師への道標 《地図

Img_1574
旧家

Img_1578たかこの布あそび」の古民家

Img_1583芝生田の家並み

Img_1584多古神社

長野県神社庁のHPに、「北方に多古駅と称すあり、明治14年(1881)に多古神社と改称する」とある。東山道の多古駅(うまや)は篠ノ井あたりともいうが。
近くに芝生田城跡があるのだが分からず。東漸寺との間あたりか?

Img_1594眼鏡橋(大石沢川)

明治14年完成の石橋で、それまでの迂回路を通らずともよくなった。今は上の道路は盛り土(石)されて平坦になっているが、当時はここまで下って眼鏡橋を渡っていたのだろう。

Img_1597剣持双体道祖神(眼鏡橋を渡った右側)

男神の持つ剣が女神の着物の前に伸びている。男女の陰陽を表わしているらしい。

Img_1598牧家の家並み

Img_1607牧家一里塚跡 《地図

Img_1615雷電の碑(右向う)の立つ交差点を左折し、滋野駅に向かった。《地図

ここを右折すると雷電の生家跡がある。雷電は晩年を成田街道臼井宿(千葉県)で過ごした。浄行寺跡の墓地には雷電夫妻の墓がある。『成田街道③』  東京港区の三分坂の報土寺にも墓がある。『港区の坂-6』 

さらに北西に東町の歌舞伎舞台がある。

Img_1619新(左)旧(右)雷電の碑

雷電にあやかり立身出世、勝負事に強くなるように、削ったり欠いたりして持ち去られ、碑文が読めなくなって新しい碑が立てられた。

Img_1617説明板

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2011年8月 8日 (月)

唐津街道⑥(姪浜駅→姪浜宿→今宿→前原宿→筑前前原駅)

2011年7月22日

姪浜駅(地下鉄空港線)・・・姪浜宿・・万正寺・・光福寺・・旦過だるま堂・・住吉神社・・順光寺・・法蔵院・・西構口跡・・・(興徳寺)・・興徳寺橋(名柄川)・・・壱岐橋(十郎川)・・・生の松原元寇防塁跡・・・壱岐神社・・鯰川橋・・・今宿・・享保飢饉地蔵尊・・二宮神社・・馬つなぎ石・・徳正寺・・天満宮・・(JR筑肥線)・・・湯溜池・・・丸隈山古墳・・・龍松禅寺・・・女原踏切(JR筑肥線)・・・金剛橋(周船寺川)・・・伊覩神社・・・池田川橋(瑞梅寺川)・・波多江小学校・・・潤橋(雷山川)・・・専徳寺・・・浦志八幡宮・・・前原宿東構口跡・・綿屋跡・・人馬継立所跡・・代官所跡・・町茶屋跡・・郡屋跡・・御茶屋跡(本陣跡・法林寺)・・・筑前前原駅(JR筑肥線) 

 姪浜宿の続きを歩き、生の松原元寇防塁跡、下山門駅の先の壱岐神社に寄る。生の松原の先で海岸沿いの道となり、海からの風が強い。今宿には往時の宿場の面影はなかった。開発工事中の九大学研都市駅周辺を過ぎ、丸隈山古墳から周船寺、波多江と通って行く。このあたりは以前に所々歩いたことがあるが、当時の様子はすっかり忘れている。なんとか宿場風情が残る前原宿に入りやれやれだ。今回の唐津街道歩きはここまでとして帰路についた。

 唐津街道⑦』へ続く。

  【ル-ト地図】(18.3km)

 参考:『唐津街道姪浜まちづくり協議会

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1061万正寺(まんしょうじ)

最後の九州探題、渋川尭顕(たかあき)の菩提所。

Img_1062旧網屋町の旧家 《地図

唐津街道の一本北側の通り。

Img_1064_3光福寺

門前の桜、横には細い路地が通っている。

Img_1066_2旦過だるま堂 【ル-ト地図】の①

興徳寺を訪れた旅の僧の宿泊施設。

Img_1067説明板

Img_1071住吉神社

漁師の帰港の目印にもなったという樹齢700年のイチョウの大木。

Img_1069説明板

Img_1059_2「まちづくり協議会」(味噌蔵「マイヅル味噌」) 《地図

ここに姪浜宿のパンフ・マップが置いてある。

Img_1081姪浜宿西構口跡 《地図

Img_1102生(いき)の松原元寇防塁跡 【ル-ト地図】の②

「生の松原」も神功皇后が戦勝を祈念して逆さに差した松の枝が生えてきたという伝説の地。

説明板Img_1093

Img_1097防塁前の海

ここへ蒙古軍船が押し寄せたのだろう。向うは能古島か。

Img_1110壱岐神社 《地図

武内宿禰の伝承がある。

Img_1107説明板

Img_1115参道は県道で分断されるが、生の松原の鳥居まで続いている。

Img_1119海とJR筑肥線の間を行く。太閤水があるのだが見逃した。線路の反対側のようだ。

Img_1128享保の大飢饉の犠牲者を供養する地蔵堂。 《地図

鳥居が立っているとは、まさに神仏一体か。

Img_1126今宿歴史かるた

Img_1162二宮神社 【ル-ト地図】の③

社殿の背後は今宿海水浴場だが、このところ海水浴の暑さではない。

Img_1167馬つなぎ石

今宿には街道沿いには宿場の名残りが見当たらない。駅名と町名、この馬つなぎ石くらいなものか。

Img_1166今宿歴史かるた

Img_1178工事中で街道の道筋から離れる。上はJR筑肥線、九大学研都市駅周辺は大規模な開発工事中。

Img_1186丸隈山古墳 【ル-ト地図】の④

街道沿いの後方部の後ろ側から石段で上れる。ここは2003年に訪れたことがある。まさか2度も来るとは思わなかった。よほど被葬者に縁があるのかも。

Img_1188説明板

Img_1193後円部上の横穴石室

Img_1197中央に仕切りのある石棺

Img_1204周船寺の家並み

Img_1210伊覩神社地図

祭神の一柱、伊覩県主命が丸隈山古墳の被葬者ともいう。

Img_1211説明板

Img_1218潤橋の手前に旧道が残っている。潤橋を渡ってまた右に旧道に入る。《地図

Img_1233前原(まえばる)宿東構口跡 《地図

福岡藩最後の宿場で、隣の深江宿は中津藩の宿場。

Img_1256前原宿説明板

Img_1258宿場図

Img_1237綿屋(分家で出店(通称)という)

寛政7年(1795)の創業という、米・麦・櫨蝋・金融・呉服などの多角経営で発展し、福岡藩にも多くの献金をして、「西に前原綿屋あり」といわれた豪商だった。今は「古材の森」という食事処、喫茶になっている。

Img_1243人馬継所(問屋場)跡

Img_1245代官所跡

左の光文堂楽器店に文字が薄れた「御代官所」の木の看板が立つ。代官所の隣に法林寺があった。

Img_1249町茶屋跡

伊能忠敬も泊まった宿。現在は陶磁器の辰美商店。左隣に郡屋があった。

Img_1252法林寺 【ル-ト地図】の⑤

前原宿の御茶屋跡(本陣跡)で、その後前原小学校となり、その跡地へ唐津街道沿いから移ってきた。

Img_1267寄り合い処

前原宿の資料が少しある。

宿の西構口に関番所、追分石があるが次回とし前原駅に向かった。

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2011年8月 7日 (日)

唐津街道⑤(箱崎駅→箱崎宿→博多宿→福岡城下→姪浜宿→姪浜駅)

2011年7月21

箱崎駅(JR鹿児島本線)・・・県道21号・・・箱崎宿・・筥崎宮・・表粕屋郡境石・・恵光院(燈籠堂)・・・九州大学病院・・・崇福寺・・・博多宿・・水茶屋跡・・濡れ衣塚・石堂橋(御笠川)・・綱敷天満宮・・鏡天満宮・・東中島橋(博多川)・・国広神社・・・西中島橋(那珂川)・枡形門跡・・福岡宿・・赤煉瓦文化館・・・水鏡神社・・・福岡藩東学問所跡・・鴻臚館跡・・福岡城跡(扇坂・松ノ木坂)・・・大濠公園・・・黒門跡・・・唐人町商店街・・(西学問所跡)・・・善龍寺・・・簗橋跡・・・平野神社・・・鳥飼八幡宮・・・大通寺・・・金龍善寺・・・今川橋(樋井川)・・・元寇防塁跡①・元寇神社・・・元寇防塁跡②・・・千眼禅寺・・・猿田彦神社・・・藤崎一里塚跡・・・飛石橋(金屑川)・・・室見橋(室見川)・・・地蔵院・・・音次郎稲荷神社・・・愛宕神社・・・観音寺・・・姪浜宿東構口跡・探題塚・埴安神社・・・姪浜駅(地下鉄空港線)→博多駅 

 筥崎宮から中洲、天神と博多の繁華街を通り、福岡城跡、大濠公園から元寇防塁跡に寄り道し、室見橋を渡り愛宕神社に上って下り姪浜宿に入った。今日も拍子抜けするほど涼しい一日だった。

  【ル-ト地図】(18.2km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0501_2筥崎宮楼門

敵国降伏」の扁額を門前の外人女性は何と見るか。

Img_0506_2説明板

Img_0504_2蒙古軍船碇石

Img_0503_2説明板

Img_0508_2レトロなパン屋

Img_0510_3粕屋表郡境石(文久元年(1861)) 【ル-ト地図】の①

粕屋郡は粕屋表郡と裏郡に分かれていた。

Img_0514燈籠堂 (恵光院)

ここで秀吉のために千利休が茶会を催した。

Img_0513説明板

Img_0519九大病院

構内に「利休釜掛松跡」がある。当時はこのあたりは浜辺で、松の枝に釜を掛けて茶会を開いたそうだ。「驕れる太閤、茶会にうつつを抜かす」か。

Img_0520崇福寺山門

もとは福岡城本丸表門

Img_0522説明板

Img_0524旭地蔵堂(崇福寺境内)

開基の湛慧が横穴を掘って隠棲し、息絶えたとされる地に石塔が立てられ、のちに地蔵が祀られた。崇福寺が現在の地に移転した際に地蔵も移され、百度参りの地として崇敬を集めているそうだ。

Img_0529唐門

名島城からの移築と伝える。

Img_0536水茶屋券番跡? 《地図

博多芸妓の券番(料亭への芸妓の手配、出入りなどを取り仕切る事務所。検番、見番)があったあたり。ここは「茶房水茶屋

以前はこのあたりは料亭街で、明治の一時期には遊郭を兼ねていたこともあったそうだ。

Img_0543濡れ衣塚 【ル-ト地図】の②

「濡れ衣を着せる」の語源となったという由来話。

Img_0546濡衣塚(康永3年(1344)銘)

濡れ衣を着せられて死んだ娘を供養する板碑。もとは聖福寺の西門近くにあったという。

Img_0545説明板

Img_0537石堂橋

Img_0541橋の欄干

濡衣塚の由来話の一場面。

Img_0542こちらは「石堂(童)丸」のお話

石堂橋と石堂大橋の間に石堂地蔵堂があるようだが見逃した。
高野街道には「石童丸物語玉屋宿跡」、高野山には「刈萱堂」がある。『高野街道②
善光寺街道の西光寺には、刈萱塚、親子の対面像がある。『善光寺街道④

Img_0555綱敷天満宮 《地図

Img_0554説明板

Img_0558鏡天満宮 《地図

菅原道真が博多に到着した時に鏡に姿を映した場所で、その鏡を神体とする。

Img_0562中洲国広稲荷神社

天保5年(1834)、中洲岡新地繁栄のため、それまで小さな社であった中洲稲荷神社を改築し改名した。
祭神は、倉稲魂命、稲荷大明神の二柱。

中洲の守り神、商売繁盛の神としてはビルの谷間の細い路地で窮屈そうだ。

Img_0571西中島橋(那珂川)から(右に薬院新川が分岐)

博多町と福岡城下をつなぐ橋で、枡形門が設けられていた。北門は唐津街道に通じ、南門は福岡城の大手門へ通じていた。

Img_0567枡形門の図

Img_0569説明板

Img_0573赤煉瓦文化館(福岡市文学館)《地図

Img_0578水鏡神社

水鏡天神、容見(すがたみ)天神と呼ばれていた。繁華街「天神」の名の由来という。

Img_0577説明板

Img_0584福岡藩東学問所跡(右の三井住友海上ビル) 《地図

天明4年(1784)、福岡城下に創設された藩校・修猷館の跡。説明板があるはずだが見つからず。

Img_0586福岡城案内図

扇坂と松ノ木坂門跡がある。

Img_0598扇坂

Img_0603祈念櫓

本丸の鬼門封じのための二層の櫓。


Img_0602説明板

Img_0606_2天守台へ

Img_0610_2大濠公園公園方向

Img_0619松ノ木坂を下る。

Img_0625長屋門

「黒田節」の豪傑、母里太兵衛の屋敷の門。天神2丁目から移築した。

Img_0626説明板

Img_0627(伝)潮見櫓と下之橋御門

Img_0957大濠公園

福岡城の外堀でもとは草香江という入江だったそうだ。

Img_0962唐人町商店街を抜ける。《地図

唐津街道沿いで商売をしていた町家が起源というが古い家並みは残っていないようだった。一本北側の通りに西学問所があったようだ。

Img_0964ここを左折する。正面奥は善龍寺

Img_0967簗橋跡 《地図

ここを流れていた菰川に架かっていた。今は「やなばし交差点」

Img_0968説明板

Img_0971平野神社 《地図

平野国臣を祀る。

Img_0970説明板

Img_0976鳥飼(とりかい)八幡宮

神功皇后ゆかりの神社。

Img_1147元寇防塁跡① 【ル-ト地図】の③

高さ2.5~3mというから実際はもう少し高かったのか? そばに元寇神社がある。

Img_1143説明板

Img_1140元寇防塁跡② 《地図

Img_1138説明板

Img_0984西新中央商店街を抜ける。

Img_0985旧家

Img_0987猿田彦神社

Img_1159藤崎一里塚跡 【ル-ト地図】の④

建物前左に一里塚碑と説明板が立っている。福岡城の上の橋御門が起点という。

Img_1157説明板

Img_0995室見橋(室見川)から博多湾方向

右奥に福岡タワーが見える。

Img_0996地蔵院前の坂を上る。 《地図

日切地蔵を祀っている。

Img_1004音次郎稲荷神社

吉太郎、音吉郎、音平、松下稲荷を合祀しているそうだ。お狐さんにもいろいろ名前があるのだ。

Img_1007説明板

Img_1014愛宕神社  《地図

日本三大愛宕(東京港区・京都市右京区)の一つ。それよりも境内からの眺めが好い。夜景も見事なようだ。

Img_1012説明板

Img_1016室見川・博多湾・福岡タワー方向

Img_1019能古島だろうか?

Img_1028愛宕山ケーブルカー(昭和3年~18年)

日本で2番目、九州では初だった。

Img_1027説明板

Img_1037姪浜宿東構口跡 《地図

神功皇后が三韓遠征の帰途、浜に上陸する際に下着の袙(あこめ)が濡れたので砂浜で乾かして、そこが「あこめのはま」となり、それが訛って「めいのはま」になったとか。

姪浜宿は、『唐津街道姪浜まちづくり協議会』が参考になる。

Img_1047

宿場案内図

Img_1040説明①~④

Img_1041説明⑤・⑥

Img_1045説明板⑦~⑩

Img_1046説明⑪・⑫

Img_1056⑩探題塚・埴安神社 【ル-ト地図】の⑤

九州探題最後の渋川尭顕の墓という。

右の鳥居の先は道は途切れ、埴安神社の社殿もないようだ。

姪浜宿の途中だが今日はここまでとし、姪浜駅から博多に戻った。

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2011年8月 5日 (金)

唐津街道④(赤間駅→畦町宿→青柳宿→箱崎駅)

2011年7月20日

赤間駅(JR鹿児島本線)・バス→自由が丘1・・自由が丘2交差点・県道503号・・・宮田橋(朝町川)・・・野坂交差点(国道3号)・・原神社・・原町・・・(県道503号)・・・正覚寺・・・蛭子神社・・・大穂橋(高瀬川)・・・県道503号・・・太閤水①・・・月ケ森池・・このみ窯・・・畦町橋(西郷川)・・畦町宿・・八幡宮・・護念寺・・観地山地蔵尊・・西構口跡(畦町入口交差点)・・・・大道橋(本木川)・・・内殿橋(大内川)・・・ならの木坂・・・駕籠立場跡・玄望峠・・・飯盛山登山口・・・旦ノ原井戸・・・鷺白橋(大根川)・・・福岡県馬術競技場・・・粕屋北部13番霊場・・浄土院・・・(九州自動車道)・・・川原橋(谷山川)・・・青柳交番前交差点・県道504号・・・青柳四ツ角・為息庵・・青柳宿東構口・・託乗寺・・青柳醤油・・西構口跡・青柳村役場跡・・・橋本橋(青柳川)・・・五所八幡宮・・・長泉寺・・・太閤水②・子宝地蔵堂・・・祥雲寺・・・千田交差点・・夜泣き観音・・・原上交差点・・・旧道・・駕籠立場跡・・・国道3号・・・下原交差点・県道504号・・・旧道・・・浄光寺・・・石原橋(唐原川)・・・県道504号・・・九産大九州高校・・・馘塚・・・香椎跨線橋(鹿児島本線)・・・冑塚・・・鎧坂・・県道504号・・浜男橋(浜男川)・・・浜男神社・・・香椎橋(香椎川)・・・(鹿児島本線)・・・博多高校・・・国道3号・・・蓮華坂・わくろ石・・・火の見下交差点・・・大橋(多々良川)・・・(国道201号)・・・浜田橋(多々良新川)・・・(国道3号)・・・原田橋(須恵川)・・・筥松新橋(宇美川)・・・箱崎駅(鹿児島本線)

 台風の影響からかやけに涼しい。今日は起伏のある長い道のりだがこれはありがたい。赤間宿と畦町宿の間の原町の街並みは予想以上に見事だった。おそらく唐津街道沿いでは一番の街並み風景だろう。夏草に覆われたならの木坂では、ちょっと立ち往生するも無事にクリアーでき、鎧坂では真新しい立派な石柱にも出会えた。まあ「坂道散歩」としては満足の1日というべきか。香椎駅から先は所々歩いたこともあり、電車も近くなり気が楽だ。博多の中心部が近づいてきた箱崎駅まで足を伸ばした。

  【ル-ト地図】(31.1km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0635自由ヶ丘2交差点から上って、宮田橋の方へ下る。正面は「許斐山」

通りかかった中年の女性に向うの山は何という山か尋ねる。「このみ山」という答え。どういう字を書くのかの聞くと説明しにくい様子で、このあたりに多い姓と同じ字という。関東には少ない名で分からず、後で地図を見てやっと分かった。許斐氏の築いた許斐城跡がある。このあたりでは今でも許斐姓が多いのだろうか。

Img_0636唐津街道道標

宮田とある。

Img_0644原神社 《地図

Img_0642説明板

Img_0646原町(はるまち)地区に入る。

赤間宿と畦町宿の間の中継点で休憩所的な役割の所だった。

Img_0647説明板

Img_0654風情ある家並みが続く。

Img_0657「街なみ整備事業」(平成20年度竣工)で整備、保存された景観。

Img_0658右は「丸正本店」

Img_0660丸正本店

Img_0662さらに静かで落ち着いた雰囲気のいい家並みが続く。

Img_0667旧家

Img_0672経石様(右)・幸福稲荷大明神(左)

Img_0670説明板

Img_0677お大師さま

Img_0676説明板

Img_0683許斐山(このみやま・271m)

許斐氏の許斐山城跡がある。

Img_0685大穂町に入る。

Img_0703太閤水① 《地図

Img_0707説明板

Img_0711月ケ森池沿いに進む。《地図

正面に「このみ窯」の煙突が見える。

Img_0715このみ窯

ギャラリーと喫茶店もあるようだ。

Img_0724八幡宮参道の大蘇鉄(ソテツ) 《地図

このあたりが畦町宿の東構口あたりか。

Img_0748畦町宿説明板

Img_0726畦町宿の家並み

左は廃屋のようだ。御茶屋(本陣)、町茶屋(脇本陣)などの宿泊施設はなかった。

Img_0732旧家

造り酒屋だったようだ。

Img_0734護念寺

宗像四国霊場畦町8番札所

Img_0736観地山地蔵尊 《地図

Img_0739観地山地蔵は中央だろうか。石の表面に地蔵を彫ってあるのか? 

Img_0742由来①

哀れで、救われない、やりきれない由来話だ。

Img_0741由来②

Img_0746西構口跡から振り返る。【ル-ト地図】の①

県道503号(左)との合流地点

Img_0750一里塚跡みたいだが戦死した軍馬の墓だとか。

上西郷小交差点の先で右に旧道に入る。

Img_0757右へ「ならの木坂」に向う。

Img_0761山道風になる。この先は雑草に覆われ道筋は見えなくなり一度引き返すが、再度突進する。背丈以上ある雨に濡れた雑草や蔦をかき分けて行ったらすぐ開けた所に出た。「ならの木」があるのか、どれがならの木なのかも分からず。

Img_0762抜け出て振り返るとこんな様子

Img_0763この先で舗装道路に出て下り県道503号に合流する。【ル-ト地図】の②

Img_0768県道503号に下って行く。このあたりが駕籠立場跡か?県道の左上あたりが玄望峠のようだ。正面は飯盛山だろう。

Img_0775飯盛山(157m)

この先の登山口から10分ほどで登れるが遠慮した。戦国時代には飯盛山城が築かれ、合戦の舞台にもなったという。

Img_0783_2旦の原井戸 《地図

右は井戸を掘った伊東忠平の顕彰碑

Img_0781説明板

Img_0785起伏のある道を行く。右奥は西部清掃工場の煙突。

Img_0790湯釜池

Img_0793道標

「右 青柳町 一里」・「左 畦町 二里」

ここを左に旧道に入る。

Img_0795小祠 《地図

右の鉄柵の中には・・・。

Img_0799秘宝館ではありません。五穀豊穣、夫婦和合、安産、縁結びの守護神で、この前には女陰石のような物も置いてある。

この先ですぐ県道503号に出て下り、鷺白橋を渡り、福岡県馬術競技場前を通り、浄水場交差点を過ぎて右に旧道に入る。

Img_0807粕屋北部四国霊場の13番の十一面観音堂 《地図

Img_0810十一面観音

Img_0817青柳四ツ角 《地図

右は粕屋北部四国霊場10番の為息庵(いそくあん)と11番薬師堂・12番大師堂。

ここは青柳宿の東構口跡

Img_0821説明板

Img_0822この観音像の体内に川原観音があるのか?

Img_0833青柳宿東構口(青柳四ツ角)

左に辻行燈と説明板が立っている。

Img_0828説明板

Img_0831宿場図

Img_0835青柳宿の家並み

Img_0836託乗寺

Img_0843青柳醤油 《地図

ここが制札場、下の茶屋跡あたり。

Img_0848西構口跡

左に構口の石積みの一部と説明板がある。右の白壁屋根の所は青柳村役場跡

Img_0849説明板

Img_0853構口碑と石積み跡

Img_0864

丘越山長泉寺

背後が丘越山

Img_0873太閤水② 【ル-ト地図】の③

後ろの子宝地蔵堂の後ろから湧き水をポンプで汲み上げている。

Img_0872説明板

Img_0877今も湧き水は絶えることなし。車で来た女性がポリタンクに水を詰めていた。水道水とはだいぶ違ういい水と言っていた。

Img_0876こんな注意書も貼られていた。

Img_0874子宝地蔵だが姿がはっきりしない。「ぽっくり地蔵」ともいうようだ。あまり熱心に見ると「ぽっくり」いきそうなどで引き上げる。 

Img_0882旧家

Img_0895夜泣き観音堂 《地図

夜泣き観音の由来話に出てくる立花城のあった立花山(367m)は向うの山の後ろあたりか? 

Img_0894由来

Img_0891立花城落城の昔話の観音像としては随分と新しそうに見える。木彫り像のようだ。

原上交差点で国道3号を渡り、旧道に入る。

Img_0897国道3号の西側の旧道を行く。

Img_0901未舗装の道になる。駕籠立場のあったのはこのあたりか?

Img_0904薄暗い道を行く。正面の明るい所へ出てに進む。

Img_0906しばらく行くと雑草に覆われ道跡が見えなくなる。名のある坂でもないし、だいぶ疲れてきたので「ならの木坂」のように突進する気力はない。さっきの地点引き返し、に行き国道3号の下をくぐる。平山交差点の先で国道3号に出る。

Img_0916下原交差点から左に県道504号へ入る。《地図

浄光寺の手前で右に旧道に入り、石原橋を渡り、塚本池の南側を通り、九産大九州高校の手前で県道504号に出る。

Img_0930馘塚(みみづか・きりみみづか) 【ル-ト地図】の④

秀吉の朝鮮侵攻での耳切り・鼻削ぎの刑の供養塔という。民家の庭にあり説明板などはない。


Mimituka馘塚絵図

正面上の小高い所。下には蒸気機関車が通っている。

Img_0936冑塚 《地図

右はこの塚から発掘された冑に似た石で、左は花崗岩を冑のように彫った物。神功皇后伝説の地。

Img_0935説明板

Img_0943鎧坂(よろいざか) (坂上方向) 《地図

神功皇后のこの坂で鎧を着けたという伝説地。右に平成23年春に鎧坂町内有志で建てた立派な坂柱が立つ。「坂道散歩」としては嬉しいね。

Img_0947坂上方向

緩やかに北に上る長い坂だ。鎧坂町という地名は今はなくなったようだが、坂の途中には「よろい坂ハイツ」もある。

Img_0955香椎駅前の通りを横切る。《地図

JR香椎駅・西鉄香椎駅は松本清張の『点と線』の舞台になった。

Img_0466浜男神社

神功皇后が頭だけ男装にして浜に渡ってきたので、そこは半分男の「片男佐」海岸となり、鎧坂で鎧をまとい、冑塚で冑を被って立派な男になって浜を歩いたので「浜男」になったとか。

県道504号を南下し、博多高校の先で国道3号に合流する。

Img_0474わくろ石・蓮華坂 【ル-ト地図】の⑤

水利に苦労していた松崎の農民たちは、この雨ガエルに似たこの石を「雨乞いの神」として祀り、五穀豊穣、実りの秋を祈願した。以前は池のほとりに鎮座していたが、昭和57年の農地から宅地化への区画整理事業に伴い現在地に移転した。「わくろ」とはカエルのことなのか?

この前の坂が蓮華坂。

Img_0473蓮華坂を下る。

今は何の変哲もない坂だ。坂名の由来は分からず。

火の見下交差点で左に県道504号に入り、大橋を渡り、県道21号に合流し、原田橋、筥松新橋を渡って箱崎駅で今日の終点とした。

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2011年8月 3日 (水)

唐津街道③(海老津駅→赤間宿→赤間駅)

2011年7月19日

海老津駅(JR鹿児島線)・・・県道287号・・旧道・・・報恩母の家・・県道287号・・・赤鳥居・・・(鹿児島本線)・(岡垣バイパス)・・・国道3号・・(宗像市)・城山峠・・・県道69号・・・赤間交番前交差点・舞鶴歩道橋(鹿児島本線)・・赤間宿構口跡・・赤間坂・・(辻井戸跡)・・須賀神社・・法然寺・・五卿西遷之碑・・御茶屋跡(本陣跡)・・辻井戸跡・・今井神社・・西構口跡(赤間構口交差点)・・辻田橋(釣川)・・・お政墓・・・佐屋峠・・・自由ケ丘2丁目交差点・・・赤間駅(鹿児島本線)

  【ル-ト地図】(9.6km)

 台風の影響で風が強い。唐津街道は赤間宿から先は香椎駅までJR線と離れて進む。かなり距離があり風雨も心配なので今日は早めに切り上げ、赤間駅から博多に出て町をぶらついた。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0378 赤鳥居(敷島稲荷大明神)を右に見ながら直進する。【ル-ト地図】の①

Img_0380

城山トンネルの上を越えて行く。

Img_0381 右のトンネルを抜けると城山峠だが、城山は峠の西方にあるが。【ル-ト地図】の②

Img_0391 赤間宿東構口跡(教育大前駅の所)

この赤間坂を下って宿内へ。【ル-ト地図】の③

Img_0410 赤間宿説明板

Img_0412 赤間宿絵図①

右下から木屋瀬宿で長崎街道から分かれたもう一本の唐津街道がここで合流する。

Img_0413

Img_0401 須賀神社

左に阿政碑が立つ。貞節を守り自殺した女性を誉めそやかす、男尊女卑の表れか。

Img_0399 阿政碑説明板

Img_0405 法然寺

Img_0407 五卿西遷之碑

五卿とは「七卿落ち」の中の5人。

この先の城山中学校が赤間宿の御茶屋(本陣)跡でそこに五卿が滞在した。【ル-ト地図】の④

Img_0409 説明板

Img_0418 赤間宿の家並み

Img_0420出光佐三翁生家

出光興産の創業者

Img_0424枡屋

看板に「菓子・アイスクリーム問屋」とある。

Img_0428 勝屋酒造(寛政2年(1790)創業)

Img_0426 酒の銘柄に「赤間宿」がある。

Img_0429 辻井戸(右)

Img_0430 説明板

Img_0432 旧家(辻井戸の前)

橋口屋か?

Img_0433 旧家と今井神社(奥の鳥居の所)

Img_0437 西構口跡(構口交差点) 【ル-ト地図】の⑤

Img_0436 説明板

Img_0440 辻田橋の道標 《地図

右は「此方畦町道」・「此方鞍手郡山口道」とある。左は寛政3年(1791)の建立。このあたりは昭和25年頃までは映画館などが並ぶ歓楽街だったそうだ。

Img_0450 佐屋峠へ上って行く。振り返ると宗像四塚の一つの城山(369m)の眺めが好い。

Img_0451右に「節婦お政墓道」の石柱と説明板が立っている。樹木の中を上って行くと「烈女政碑」がある。

Img_0452 節婦政伝

Img_0454 「烈女政碑」

正面、側面、裏面にもぎっしりと碑文が書かれている。

ゆるやかに佐屋峠へ上って下って行く。昔は狐、狸、猪の出る原野だったというが、今は桜美台、自由ヶ丘の住宅街に一変した。

Img_0459 自由ケ丘2丁目交差点を右折して赤間駅に向かった。

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