善光寺街道(北国街道)①
2011年8月21日
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【ル-ト地図】
北国街道は加賀百万石の参勤交代の道、佐渡の金を江戸に運んだ道で、善光寺参りの信仰の道でもあった。中山道追分宿の「分去れ」から善光寺宿までの北国街道の一部の善光寺街道を4回で歩く。
猛暑はどこへ行ったやら、信濃追分駅へ降りた途端、寒さで身震えした。おまけに冷たい雨で出だしから参ったが、追分宿からは下る一方で、それも追い風で歩き安い。雨も途中から降ったり止んだりで予定通り滋野駅までたどり着いた。だがこの時はまだ3日間も雨に降られ続けるとは思ってもいなかったが。
*参考:『歴史の道調査報告書 北国街道』(長野県教育委員会)・『信濃路を行く 上(中山道の歩き方 付 善光寺街道』(学習研究社)・『北国街道を歩く』(岸本豊・信濃毎日新聞社)
写真をクリックすると拡大します。
日曜でもこの冷たい雨の中、神田坂を歩いているのは我一人。まだ8時を過ぎたばかりで早いせいもあるか。「宿よし 出女あり」の賑わいは遠い昔のことなのだ。(出女は飯盛女のこと)
もとは追分宿本陣土屋家の裏門で、内堀家から軽井沢町に寄贈されここに移築された。
もとは街道の左手に脇本陣油屋があった。この隣が本陣土屋家跡だが「明治天皇追分行在所」の標柱が立つのみ。
もうコスモスの季節か。堀辰雄のお気に入りの石仏があるようだが探さなかった。
ここは追分宿の西口で枡形となっていた。
右が北国街道、左の中山道はこの先で国道18号から離れ左に入って行く。道標・常夜灯・石地蔵 ・森羅亭万象歌碑・道祖神などが並んでいる。「分去れの碑」には、「さらしなは右 みよし野は左にて 月と花とを追分の宿」で、「更科の里、姨捨の月」の方へ向かう。
追分原刑場跡 《地図》
幕末の偽官軍事件で赤報隊士の桜井常五郎ら3名が小諸藩に捕らえられ処刑された所。処刑後、浅間山の雲が瞬く間に広がり、土砂降りとなった。人々は「桜井の涙雨」といったとか。
庚申塔、二十三夜塔などの石造物の奥に、なぜかシャーロック・ホームズ像が立つ。
犯人を割り出し、刑場へ送ってきたのに自分が刑場の中に立とうとは・・・。
作者「コナン・ドイル」はスコットランドのエジンバラ生まれ(「スコットランド年表」)
軽井沢町から御代田町に入った所でもまだ標高929m。涼しいというより寒いはずだ。
この先、街道から離れ三ツ谷東交差点から馬瀬口一里塚跡に向かう。
馬瀬口一里塚跡 《地図》あたり
説明板には東塚も良好に現状を留めているというが、林か藪の中にあるのかはっきり見えない。塩野に通じる北国街道の支道の一里塚というが、旧北国街道はここを通っていたのかも。一里塚は江戸時代になって築かれたものだから、東山道の一里塚ということはありえない。
その名の通りだ。
柵口(ませぐち)神社 《地図》
柵(ませ)とは「馬塞」で、馬が出られないようにした柵(さく)のこと。
大きな馬の石像が台座に乗っている。やはり狛犬や石灯籠のように対になっていないとバランスが悪いようで変な感じだ。
雨で光っている赤屋根
(新)十石坂を下る。《地図》
このあたりから下って繰矢川を渡って上り返すのが十石坂だが下り口が見当たらない。国道を進み左カーブして行く。
このあたりに十石城があったようだが詳細不明。
十石坂の横穴(繰矢川の対岸の正面の岩壁の下)
戦時中に勤労奉仕の学生らに掘らせた軍事用貯蔵庫。残り少なくなった航空燃料や爆弾を格納して、本土決戦に備えようとした作戦の一つだったという。
この先は草に覆われ道跡が分からず。雨で膝から下、靴の中はぐっしょりとなった。
国道に戻り、平原跨道橋(上信越自動車道)を越える。
寺はないようだが、今でも二十五菩薩来迎会は行われているようだ。
右の家の土蔵前の「平原の松」が這っている。
参勤交代に通った加賀の殿様も絶賛したとか。
雨が上がって夏休みの子どもたちが出てきた。
下って左折し、平原橋(北川)を渡り国道へ出る。
乙女坂を下る。《地図》
振り返って見ている。
ここから県道へ上り返すのも乙女坂か。
唐松一里塚跡 《地図》
2つの塚の間の道は北国街道ではない。一つの塚を分断してここに築いたそうだ。いい加減なことをするものだよ、まったく。説明板にはそのことに全く触れていない。お粗末の極み。
真楽寺道標・馬頭観音など(正面右) 《地図》
唐松一里塚からこのあたりまでは美しい松並木があったそうだ。
道標には「浅間山別當真楽寺 従是一里拾丁」で追分宿へは北国街道より半里近道。御代田町塩野の真楽寺は北国街道よりずっと北側の浅間サンラインの南側にある。厄除観音で有名のようだ。 《地図》
「現金○○屋」の看板が多い。掛け売りはしないということだろう。
祇園坂・権兵衛坂・闇坂・浄斎坂が載っている。
小諸藩の御用金の銭蔵も移築され、土蔵の床下に石室があるそうだ。
小諸城主も時々訪れ、座敷の床の間には殿様が身を隠すための隠し扉が残っているとか。
もう営業はしていないか?
「御味噌」の屋根付き看板を掲げる「山吹味噌」の酢久商店
潜竜の松(海応院)
光岳寺境内から北国街道本町の通り。
山門は小諸城の足柄門を移築。
つたや旅館とつるやホテルの間を上って左折するのが祇園坂で、健速神社方向に下って行く。《地図》
健速神社の祇園祭にちなむ坂名だろう。
ここが小諸宿の中心部だったが、寛保2年(1742)「戌の満水」の大洪水で流失し、本陣などはこの先の市町に移った。昔は中央に水路があったそうだ。
江戸末期の建物。
浅間山は右方向で晴れていても裾野しか見えないようだ。(本町町屋館の庭から)
権兵衛坂を少し下って、丁子庵の前を左折するのが北国街道。小諸城の鍋曲輪があって迂回させられた。《地図》
丁子庵(右)の前を通り、車道を横切って養蓮寺の前まで下って行く。
昼時で混んでいたがここで昼飯とする。美味いそばだった。
雷電が江戸から着物のたもとに入れて持ち帰ったという「雷電の袂(たもと)鐘」を吊るす鐘楼。雷電は幼少期にこの寺で寺男をしていたともいう。
闇坂を上って本町の通りへ戻る。「くらやみ」か「やみ」か? 《地図》
養蓮寺の前の坂で昔は昼でも暗かったのだろう。今はまったくその面影はない。この左側が小諸ではじめての平城の鍋蓋城跡(長享元年(1487)大井光忠が築城)だが遺構は残らず。江戸時代は家老屋敷だったそうだ。
浄斎坂を上る。 《地図》
小諸観光交流館の管理人の話では浄斎とは僧の名らしい。坂沿いに寺院はないようだが。
大手門 【ル-ト地図】の4
三の門をくぐれば小諸城址の懐古園。
もとは本陣問屋の隣のしなの鉄道の線路の所にあったそうだ。明治になって佐久市の桃源院に売却されたが、平成7年に寄贈されここに移築復元された。しかし平成17年から休館中で近づけず、線路側へ回り込んで遠くから撮影した。それにしても6年間も休館とは長過ぎる。何かもめ事でもあるのか?
(平成24年より「城下町にぎわい協議会」で実験的に開館しているそうだ)
脇本陣粂屋跡 《地図》
出梁(だしばり)造りで、2階部分が張り出ている。ここは今では宿のはずれという感じだ。
昔の清水町で茶屋が数軒あったそうだ。
諏訪神社前 《地図》
神社入口左に臼田亞浪の歌碑がある。ここを右にカーブして行く。
老婆を「牛に引かれて善光寺参り」させた牛に化身した布引観音へは左折する。《地図》 北国街道は直進。
北国街道道標に従い右へ入る。《地図》
第一北国街道踏切でしなの鉄道を渡り、芦原中学校入口交差点で北国街道から離れ、国道18号を右へ東山道清水駅跡へ行く。
東山道清水駅(しみずのうまや)跡 《地図》
菱野温泉がある菱野薬師への道標 《地図》
多古神社 【ル-ト地図】の7
長野県神社庁のHPに、「北方に多古駅と称す駅あり、明治14年(1881)に多古神社と改称する」とある。東山道の多古駅(うまや)は篠ノ井あたりともいうが。
近くに芝生田城跡があるのだが分からず。東漸寺との間あたりか?
明治14年完成の石橋で、それまでの迂回路を通らずともよくなった。今は上の道路は盛り土(石)されて平坦になっているが、当時はここまで下って眼鏡橋を渡っていたのだろう。
男神の持つ剣が女神の着物の前に伸びている。男女の陰陽を表わしているらしい。
牧家一里塚跡 《地図》
雷電の碑(右向う)の立つ交差点を左折し、滋野駅に向かった。《地図》
ここを右折すると雷電の生家跡がある。雷電は晩年を成田街道臼井宿(千葉県)で過ごした。浄行寺跡の墓地には雷電夫妻の墓がある。『成田街道③』 東京港区の三分坂の報土寺にも墓がある。『港区の坂-6』
さらに北西に東町の歌舞伎舞台がある。
雷電にあやかり立身出世、勝負事に強くなるように、削ったり欠いたりして持ち去られ、碑文が読めなくなって新しい碑が立てられた。
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