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2011年9月11日 (日)

房総往還③

2011年8月30日

姉ヶ崎駅(JR内房線)・・・県道287号・・妙経寺・・・大手橋(椎津川)・・・修来館(藩校)跡・鶴牧藩陣屋跡・・・県道24号・・・長遠寺・・・稲荷社・・・姉崎橋(椎津川)・・・八坂神社・(椎津城跡)・・・行伝寺・・・瑞安寺(徳川義軍兵士の墓)・・・(袖ヶ浦市)・・・成龍寺・・・馬場踏切(内房線)・・弘法清水・水神宮・金毘羅神社・・・長浦駅(内房線)・・・密蔵院・蔵波八幡神社・愛宕神社・蔵波城跡・・・蔵波橋(蔵波川)・・・巡礼坂・・・県道287号・・・(内房線)・・・神明社・・・国道16号高架橋(内房線)・・・県道87号・・いぼとり地蔵・・・おふごの森・大六天神社・・・福王神社・・・喜光院・・・袖ヶ浦駅入口交差点・・旧道・・・満蔵寺・・・坂戸橋(浮戸川)・・・旧道・・若宮神社・・・坂戸市場交差点・県道270号・・小櫃橋(小櫃川)・・旧道・・水天神社・・・県道270号・・・(木更津市)・・・(東京湾アクアライン連絡道)・・・高柳八幡神社・・・旧道・・・福寿寺・・・長須賀踏切(JR久留里線)・・・日枝神社・・・薬師堂・・・畳ケ池・・久留里道合流地点・・・観音堂地蔵堂・木更津駅(JR内房線) 

  房総往還②』からの続きです。 『房総往還④』へ続きます。

  【ル-ト地図】(20.9km)

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Img_2657妙経寺地図

元禄8年(1695)の「おたけ騒動」の儀僕市兵衛の墓と其角の句碑があるというが分からず。

Img_2659鶴牧藩陣屋跡 【ル-ト地図】の①

右の空き地が藩校の修来館跡で、正面の姉崎小学校が陣屋跡。周辺には藩士邸が軒を連ねていたという。今は何の標示もないが手前の大手橋(椎津川)にその名を残すか。

Img_2660用水桶のある旧家

江戸期の姉崎村は房総往還の継立場として栄えた。

Img_2662旧家

Img_2674八坂神社 《地図

右は3本の大ケヤキ。この裏山が「城山」の椎津城跡。椎津三郎の築城とも伝え、天文7年(1538)の国府台合戦以降は真里谷(まりやつ)武田氏の拠点となった。その後、里見氏が支配したが、北条氏政に攻められ、さらに天文18年(1590)徳川軍によって落城した。『歴史の道調査報告書 房総往還』

Img_2670由緒

Img_2672天王さまの大銀杏(八坂神社境内)

樹齢700年以上というボリュームたっぷりの大木。ぎんなんが沢山とれるだろうか。

Img_2675説明板

Img_2679瑞安寺(ずいあんじ)

入口右に百番札所道標、入って左に徳川義軍の墓碑、文殊堂がある。

Img_2682百番札所道標(文政元年(1818))

右側面に「かさがみ道八丁」・左側面に「ここよりちばてら四里八丁」。「かさがみ」はどこか?、「ちばてら」は千葉寺だろう。

Img_2684戊辰戦争での徳川義軍に参加した鶴牧藩士5名の墓碑

Img_2685椎津のカラダミ」(空荼毘)

裏の説明を読まなかった。

Img_2688内房線沿いの道になる。けっこう車の往来があり、歩道は狭く雑草がはびこっていて歩きにくい。昔は内房線あたりが波打ち際だったという。単調な道で陽射しも強く蒸し暑い。雨で涼しかった善光寺街道が懐かしい。

Img_2693成龍寺参道 《地図

この上(南方)あたりが久保田城址で、天文7年(1538)以降に上総椎津城に入った武田(真里谷)信政の築城といわれる。天文21年(1552)に里見義堯・義弘が椎津城を攻略した時に落城し、里見氏の支配下になり、さらに小田原北条市の家臣松田尾張守により落城したという。『歴史の道調査報告書 房総往還』

Img_2701弘法清水(復元) 【ル-ト地図】の②

江戸時代はここは海で、海中から真水が湧いていたそうだ。

Img_2699説明板

Img_2706水神宮・金毘羅社(弘法清水そば)

埋め立てられた地に村内の他所から移転した。

Img_2708蔵波城址 《地図

この城も里見氏に対する備えとして、武田(真里谷)信政が築いた椎津城の出城といわれる。密蔵院、八幡神社、愛宕神社がかつての城域にある。

Img_2713蔵波八幡神社

この上が愛宕神社、下の密蔵院には本多作左衛門重次の墓と伝える宝篋印塔の一部があるというが見当たらず。重次は一時、上総国古井戸に蟄居していた。市原市「潤井戸」、君津市「小糸」ともいう。後に下総国に知行替えとなり、その地で死去した。墓は取手市にある。『取手市の坂

Img_2720巡礼坂(御輿の坂)

ここを左折して上る。手前に地蔵が2体。

Img_2737地蔵

1体は首が欠けている。 造立年代は不詳。

Img_2722坂上方向 【ル-ト地図】の③

昔、この坂で死んだ巡礼者を村人が手厚く葬り、地蔵を建立したという。飽富八幡神社や蔵波八幡神社の御輿が浜に下る時に通った坂で、御輿の坂ともいった。

Img_2727坂下方向

正面に東京湾が見える?

Img_2728坂上近くにも地蔵が立つ。

Img_2730右前の地蔵が文化10年(1813)の造立で、その後ろの欠けているのが天明○年の造立、左側の2体は新しいようだ。 

この先は街道は内房線より海側を通っていたという。

Img_2748神明社 《地図

このあたりが海岸線だったそうだ。境内に置かれた大きな釜に湯を沸かし、そこへ隈笹をひたして参詣者に振りかけ、疫病退散を祈願する「湯立」が行われる。

Img_2755いぼとり地蔵(左)  【ル-ト地図】の④

左上が「おふごの森」で大六天神社がある。

Img_2756いぼとり地蔵 

道標になっていて、右の地蔵  には「右かさもり うしく道 左江戸道」、左の地蔵  には「右うしく かさもりミち 左江戸道」。「かさもり」・「うしく」はどこのことか?

Img_2768大六天神社

かつてはここから海が見え、下を通る船は帆を下げて通ったという。手前の塚が「おふごの森」(福王森)の長見塚か?

壬申の乱で敗れた大友皇子が上総へ逃れ、皇子の一人「福王丸」がこの地に居を構え、死去後に墓が造られたという伝説がある。その墓は長見塚ではないようだが。

Img_2763「おふごの森長見塚」碑

Img_2772福王神社への急な石段

Img_2773福王神社

祭神は福王丸で、「おふごの森」から延宝2年(1674)に当地へ移したという。

Img_2777東京湾アクアライン連絡道が見える。

Img_2782喜光院 《地図

上総国薬師如来霊場の16番で、本堂の右手に薬師堂がある。

奈良輪村は姉崎村の次の継立場で、袖ヶ浦駅入口交差点あたりに問屋場があったという。

Img_2786袖ヶ浦駅入口交差点の先で左に旧道?に入る。すぐに県道に戻ってしまうが。

Img_2787坂戸橋(浮戸川)

手前に地蔵の祠

Img_2790地蔵さん

ちょっと着せられ過ぎで暑苦しいか。

Img_2794旧道

もう夏休みは終わったのか?

Img_2797小櫃(おびつ)川を渡る。(正面は内房線)

かつては渡し舟で渡った。「小櫃」も大友皇子の亡骸をおさめた棺からついた地名という伝説もあるようだ。『君津市の歴史

Img_2801木更津市へ入り、東京湾アクアライン連絡道をくぐって行く。

ここから先、木更津駅までは見所は少なく、蒸し暑くてバテてきた。

Img_2804高柳八幡神社 《地図

Img_2807久留里線を渡れば木更津の市街地は近い。

Img_2812薬師堂 【ル-ト地図】の⑤

Img_2814畳ヶ池 

挙兵して兵を募りつつ北上する源頼朝に、木更津の人々が水辺に畳を敷きつめてもてなしの宴を開いたという。また、頼朝はこの池の葭を箸の代わりに用いたところ、誤って葭で唇を切ってしまい、その葭を池に捨てた。爾来、この池には葭が生えなくなったという。

すぐ先で、木更津から久留里に至る『久留里道』に突き当たり右折して、踏切の手前から木更津駅に向かった。

Img_2818観音堂・地蔵堂(木更津駅東口前)

まだ時間は早いが、木更津駅周辺は次回とした。

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2011年9月 7日 (水)

善光寺街道(北国街道)④

2011年8月24日

篠ノ井駅(しなの鉄道)・・・秋葉神社と天神社・・・薬師・地蔵堂・・・原村役場跡・・・蓮香寺・・・明治天皇原御膳水・・・中津村・昭和村村役場跡・・・北原区薬師堂遺跡・・・(国道19号)・・・親鸞上人旧跡碑・・唯念寺・・・新田共同井戸・・・丹波島宿・・浄生庵(観音堂)・・於佐加神社・・高札場跡・・脇本陣問屋跡柳島家・・本陣跡柳島家・・・丹波島の渡し跡(碑)・・・丹波島橋(犀川)・・善光寺常夜灯・・荒木交差点・・旧道・・・赤い馬頭観音・・・吹上地蔵堂・・・蓮心寺・・・木留神社・・・観音寺・・・(長野新幹線)・・・柳原神社・・・こうじ屋・・・西光寺・・・栽松院・しまんりょ小路(栗田街道)・・・十念寺・・・北野文芸座・・・鳴子清水・・・善光寺宿本陣跡・・・善光寺・仁王門・駒返し橋・濡れ仏・山門・本堂・・・長野駅

 4日目にしてやっと晴れた。少々暑いが丹波島宿から犀川を渡り、善男善女が行き交う善光寺までの道のりを楽しんだ。

  【ル-ト地図】(13.4km)

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Img_2442秋葉神社・天神さん(右・芝沢地区)

隣に蚕神の石塔が並んでいる。

Img_2443説明板

Img_2450
石造薬師如来・地蔵堂

Img_2447説明板

Img_2448右が薬師如来で左が地蔵だろう。

Img_2455蓮香寺 《地図

長野オリンピックでドイツのゲストハウスとなったそうだ。

Img_2460明治天皇御膳水

蓮香寺の手前の火の見が立つ所が茶屋本陣跡で、右に入った南原公民館の所に、「明治天皇小休所跡碑」が立っているようだ。

Img_2463北原区薬師堂遺跡

節婦おせんの顕彰碑(右端)は、明治4年に今井村の農民の妻のせんが、東京から来た祈祷師に言い寄られたが撥ね付けたため殺害された。国は金を下賜して表彰したそうだ。

Img_2464説明板

Img_2476親鸞上人旧跡碑 《地図

奥が唯念寺

Img_2477新田共同井戸

Img_2478説明板

Img_2482川中島地区の旧家

Img_2485浄生庵(観音堂) 【ル-ト地図】の①

中央に小さな観音像と右に延命地蔵。堂の外に徳本名号碑がある。

Img_2483説明板

Img_2515丹波島宿マップ

慶長16年(1611)、松平忠輝はそれまで松代道(北国東往還)が正式の北国街道であったのを、矢代宿、丹波島宿から善光寺へのコースを正式の北国街道とし、丹波島宿を伝馬宿に指定した。

Img_2493於佐加神社 《地図

右は石柱の上に乗せられた秋葉社。洪水で流されるのを防止したのか?

Img_2490説明板

Img_2488屋根に鍾馗さんが乗る民家

Img_2487説明板

Img_2494丹波島宿の家並み

住宅街だが所々に宿場風情が残っている。

Img_2503高札場・脇本陣問屋跡柳島家

Img_2501説明板①

Img_2506説明板②

Img_2509本陣跡柳島家

Img_2510説明板

Img_2511旧家

Img_2519丹波島の渡し跡碑

舟渡し(綱渡し)→舟橋→木橋→鋼橋→現在の橋と変遷した。

Img_2523碑文

Img_2521丹波島の渡し跡あたりから犀川 【ル-ト地図】の②

Img_2526丹波島橋から犀川

Img_2528渡しの変遷のレリーフ(橋の欄干)

渡し舟の時代:対岸を結んだ綱をたぐりながら舟で渡っていた。

Img_2532舟橋の時代:明治6年に46隻の舟を連ねた舟橋となった。

Img_2535木橋の時代:明治23年に初代の木橋が架けられた。

Img_2537鋼橋の時代:昭和7年から昭和61年。

Img_2525現在の橋を渡って長野市街地へ。

北から裾花川が流れ込んでいる。

Img_2538善光寺常夜灯

Img_2541馬頭観音

帽子を被ったしかめつらをしたおっさんにしか見えないが。

Img_2543帽子を取ると確かに赤い馬頭が乗っている。

Img_2545吹上地蔵堂

この前に高札場があった。

Img_2546吹上地蔵 

これもユニークな地蔵さんだ。「安産子育安穏延命長寿」だそうだ。

Img_2547蓮心寺

本尊の吹上如来は善光寺の建築用材を犀川から陸揚げする時、南風を吹かせて木材を揚げやすくしたという。

ここに茶屋があり、そばと餅が名物だったそうだ。

Img_2550木留(きとめ)神社

洪水で流されそうになった善光寺造営用のをこの地の神がこのあたりにめたという。大ケヤキは弱ってきているようで、「近寄らないで」との注意書きが貼ってある。

Img_2553観音寺 【ル-ト地図】の③

建久8年(1197)、源頼朝が善光寺参詣の際に創建。本尊の髻(もとどり)馬頭観音は、頼朝が石橋山の合戦で敗れ、木の洞に隠れた時、白鳩に化身して飛び立ち危難を救ったという。また政子の守仏の厄除正観音菩薩像を安置している。

この先で街道は途切れる。JR線のガードをくぐって反対側に出る。Img_2565

こうじや

味噌と醤油の店

Img_2570石童丸と父の対面像(西光寺) 《地図

先月、唐津街道の博多で石童(堂)丸ゆかりの地を通ったばかりで、なんとなく親しみを覚える。『高野街道』にもゆかりの所がある。

Img_2569説明板

Img_2578刈萱塚

石童丸の墓(右)・刈萱上人の墓(中)・千里御前(石童丸の母)の墓(左)

Img_2571説明板

Img_2583蛇塚

Img_2584説明板

Img_2586栽松院(島の寮)に沿う、栗田街道「しまんりょ小路」 【ル-ト地図】の④

Img_2585説明板

Img_2600道歌碑(十念寺)

Img_2598説明板

Img_2655北野文芸座

江戸時代には善光寺参道に芝居小屋が連なり、役者はここで舞台に立てないと佐渡まで回らなければならず、「どさ回り」 という言葉が生まれたとか。

Img_2653鳴子清水・鳴子大神(大門南交差点を西に入った先)

Img_2654説明板

Img_2610酒饅頭店つるや

Img_2612中沢時計本店

Img_2613柏與紙廛店

文政11年(1828)の創業。

Img_2650新しいがレトロっぽい店が並ぶ善光寺参道

Img_2619八十二銀行

大門交差点で左右に常夜灯が立つ。

Img_2648善光寺郵便局

Img_2625本陣跡藤屋旅館 【ル-ト地図】の⑤

THE FUJIYA GOHONJIN

Img_2626北国街道は右折し新町宿へと続いて行く。

Img_2627
善光寺仁王門

Img_2631仲見世通り

Img_2633旧本堂如来堂跡地蔵尊

Img_2632説明板

Img_2636駒返し橋

右の石橋跡に源頼朝の馬の蹄が入った穴が残る?

Img_2634説明板

Img_2645濡れ仏(お七地蔵)

なるほど八百屋お七のような若い娘の優しい顔立ちだをしている。

Img_2638説明板

Img_2640山門の扁額(鳩字の額)

「善」は牛の顔に見えるか?

Img_2642
本堂

戒壇巡り」は以前やったことがある。真っ暗な中、「極楽の錠前」にさわり本尊の阿弥陀如来と結縁し、地獄行きの片道切符は入手済みだ。
善光寺を題材にした落語『お血脈

参道近くの市立図書館に寄り、長野駅まで引き返し新幹線で帰京した。

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2011年9月 5日 (月)

善光寺街道(北国街道)③

2011年8月23日

テクノさかき駅(しなの鉄道)・・・(国道18号)・・・往海玄古碑・・・中之条交差点・国道18号・・・文化の館・・・逆木交差点・・・あけぼの橋(御堂川)・・・旧格致学校・・・逆木八幡神宮・・国道18号・・・四ツ屋交差点・旧道・・・栄橋(入田川)・・・田町十王堂・村上義清墓所・・坂木宿・・西宮神社・・心光寺・・本陣表門・坂木宿ふるさと歴史館・・大橋(日名沢川)・・満泉寺(村上氏居館跡)・・善光寺常夜灯・・・横吹坂跡あたり・・(しなの鉄道)・・・国道18号・・・榎坂跡あたり・・笄の渡し跡(苅谷原ミニパーク)・・・泉徳寺・・・(千曲市)・・・岩崎街道踏切(しなの鉄道)・旧道・・・上戸倉宿・・本陣玉井家跡・・問屋玉井家跡・・芝宮神社・・本陣跡小出家・・・磯部踏切・・・国道18号・・・戸倉交差点・・下戸倉宿・・水上布奈山神社・・大正橋(千曲川)・・佐良志奈神社・・下の茶屋(蔵元坂井銘醸)・・・今井交差点・・・旧道・・・信濃宮旧蹟道標・・・(千曲駅)・・・寂蒔水除土堤・・芭蕉塚(松風塚)・・・粟狭神社・・矢代宿・・藤屋旅館・・須々岐神社・・脇本陣跡・・法華寺・松代道(北国街道東脇往還)分岐・・本陣跡(明治天皇小休所跡)・・矢代寺・・・(長野自動車道)・・・矢代の渡し跡(千曲川土手)・・・(長野新幹線)・・・千曲堤防南踏切(しなの鉄道)・・・国道18号・篠ノ井橋・・・千曲堤防北踏切・・・軻良根古神社・・・郡役所・警察所跡碑・・・善光寺西街道合流地点・篠ノ井追分宿碑・・・欣浄寺・・・長野新幹線・第3北国街道踏切(しなの鉄道)・・・見六交差点(県道77号)・見六の道標・・見六橋(岡田川)・旧道・・・香福寺・・・宝昌寺・・・御幣川五差路・歯瘡医殿・幣川神社・・・篠ノ井駅(しなの鉄道)

  【ル-ト地図】(29.4km)

 今日が一番雨の時間が長かったが、千曲川を渡り篠ノ井追分宿まで進んだ。雨で歩きにくいこともあるが、その分涼しいおかげで3日間とも30kmほど歩けた。晴れていればこうは行かないだろう。もう善光寺まではたいした距離ではない。明日は晴れそうだしゆったりした、気分のいい街道歩きになりそうだ。 

 写真をクリックすると拡大します。

Img_2086往海玄古碑(右端)

江戸時代初期にたばこの栽培を広めた往海玄古の碑。明治になるまで「玄古たばこ」として、この地の名産品だったそうだ。左端は道祖神。

Img_2091旧家

Img_2095文化の館 《地図

坂城町の文化活動施設。元は塚田家住宅。この道路向いを入ったあたりに天領中之条陣屋があったらしい。

逆木交差点で右折し、旧格致学校に向かう。

Img_2105格致学校校舎 《地図

明治初期の擬洋風校舎。現在は歴史民俗資料館。

Img_2108逆木八幡宮

意外と小さな社だった。

Img_2110右に旧道入り、坂木宿に向かう。

Img_2112道標

「堂叡山道」とは東方の上田市との境の大道山(1289m)のことだろう。

Img_2114旧家

Img_2123水野源三(左)歌碑

右は沓掛仲子の「千曲川 ちゞにくだくる 波のうへに うつらふ月の 影の すゞしさ」

Img_2125筆塚・田町十王堂(閻魔堂) 【ル-ト地図】の①

その後ろが村上義清の墓所

Img_2129説明板

Img_2130村上義清墓所

信濃侵攻の武田晴信(信玄)軍を撃破したが、再度、攻められ上杉謙信を頼り、越後へ落ち延びて行った。

Img_2131説明板

Img_2143坂木宿本陣宮原家門 《地図

現在は「坂木宿ふるさと歴史館」(旧春日邸)の門。

坂城駅あたりが坂木藩陣屋跡。幕府領→越後高田藩領→坂木藩領→幕府領→明治維新と変遷した。

Img_2145説明板

Img_2147ふるさと歴史館

昭和4年建築の旧春日邸

Img_2150坂木宿の家並み

坂木宿は飯盛女の多い遊興地で、明治に入ってからも坂木遊郭を形成し、坂木甚句が歌われるなど大いに賑わったという。

Img_2153旧名主坂田家

Img_2154漆喰壁に屋号「さかた」

Img_2155大橋を渡ると大門町で道幅が狭まり、古い家並みが残っている。

Img_2157連子格子戸の旧家

Img_2158山浦家

Img_2164_2満泉寺 《地図

村上氏居館跡で、村上氏の菩提寺。本尊は鎌倉時代の作という「石造釈迦如来菩薩坐像

Img_2169坂城神社の鳥居が見える。

その上が村上氏の葛尾城跡

少し戻って右折し、道幅の広い新町に入る。

Img_2176善光寺常夜灯 《地図

嘉永6年(1853)に坂端の高橋孫七を世話人に建立。

坂木宿の西口で、ここを右折して行く。

Img_2180横吹坂跡

北国街道は右の山腹の断崖沿いを通っていた。「横吹八丁」といわれ、昨日の「岩鼻」と並ぶ難所だった。参勤交代の殿様も駕籠から降りて通ったという。

Img_2182説明板

Img_2198横吹坂を上り、横吹八丁を通り、榎坂を下って「笄の渡し」あたりに下りたのだろう。

Img_2191笄(こうがい)の渡し跡 【ル-ト地図】の②

葛尾城落城にまつわる伝説の地。

Img_2206笄の渡し跡から千曲川

右の橋は「こうがい橋」

Img_2202横吹碑

「灯しの松・裾無川・雲井の橋・舟繋石・弘法の八の字・笄の渡・比丘尼石」が「苅屋原の七不思議」だそうだ。「灯しの松」と「比丘尼石」は横吹八丁の真上、葛尾城跡の南方の姫城跡の近くにあるようだ。

Img_2203由来碑

Img_2211泉徳寺 《地図

Img_2212宮本虎杖の句碑(境内右手)

句はどこに刻まれているのか?

岩崎街道踏切を渡り上戸倉宿に入る。

Img_2218上戸倉宿の家並み 《地図

下戸倉宿と合わせて一宿として機能していた。毎月、22日から晦日まで宿業務を上戸倉宿が務めた。

Img_2222無残にも「上戸倉宿本陣」の説明板がゴミ置場に捨てられていると思ったが、ずっと以前からこんな状態で置かれて(放置されて)いるようだ。

ここが本陣玉井家跡で、幕末に小出家に本陣を譲った。

Img_2221説明板

Img_2224旧家

無住のようだ。

Img_2225問屋跡玉井家

廃屋に近いか。

Img_2234芝宮神社は健在だ。

Img_2227本陣跡小出家

Img_2233本陣の門

Img_2238宿のはずれあたりか。向うにしなの鉄道が走る。

磯部踏切を渡る。

Img_2241歌碑か?

国道18号側に出て左に入る。

Img_2243左に聖徳太子碑?道標か?

この先で国道18号に出る。戸倉交差点の右手が「上の酒屋」とも呼ばれた柳沢本陣跡で、「明治天皇行在所跡」碑が立つというが気づかず。

Img_2250水上布奈山神社 《地図

下戸倉宿の鎮守。

Img_2249説明板

Img_2253下戸倉宿の飯盛女が寄進した石灯籠(右)。左は旅籠屋の主人の寄進。(水上布奈山神社境内の稲荷社)

Img_2251説明板

みんな2文字。

Img_2252飯盛女の名前がぎっしり刻まれた台石。

千曲川の向うの佐良志奈神社に向かう。緩やかに上って行くようで、意外と遠かった。

Img_2272大正橋から千曲川

対岸の戸倉上山田温泉方向。

Img_2268橋の欄干に「恋しの湯伝説」

戸倉上山田温泉発祥にまつわる逸話で、赤い「小石」と「恋し」を掛けている。大正橋には100個(99個?)の赤い小石が埋め込まれているそうだ。

Img_2267佐良志奈神社 《地図

Img_2262由緒

Img_2266宝篋印塔(佐良志奈神社境内)

北朝の永和2年(1376)の銘があるそうだ。南朝方の兵士たちの逆修塚(生前に建てた自分の墓)とも伝えるというが、北朝の年号を刻むだろうか。

Img_2264説明板

Img_2279下戸倉宿の「下の酒屋」と呼ばれた「蔵元坂井銘醸」 《地図

「蕎麦料理処萱」もある。「そばきり」で昼食とした。自分ですったわさびが効いて美味かった。

 

Img_2275カフェや資料館もある。

駅入口交差点の右手北側が後の本陣宮本家跡。

Img_2280道標(明和元年(1764)・戸倉駅入口交差点先の左側)

「左おばすて・やはた」、月の名所の姥捨山への道。初日の中山道との追分の「分去れ」の碑を思い出した。

この後ろが助問屋跡児玉家らしいが、ブルーシートが掛かっていた。

Img_2282今井交差点の先で右に旧道に入る。《地図

Img_2285火の見の下に石碑が立つ。

Img_2286「信濃宮御古蹟迄二町」

ここを右折してしなの鉄道を渡った先の柏王神社にある、宗良親王(信濃宮)の髻塚のこと。この地で病にになり髻(もとどり)を切って快癒を願った。病も癒え髻を地に埋めて旅立ったという。

Img_2287道祖神・二十三夜塔などが並ぶ。

Img_2289古い家並みが残っている。

Img_2291_3宮本醤油味噌

営業していないか?

千曲駅は気づかずに通り過ぎてしまった。駅の近くに一里塚があったようで、一里塚踏切にその名を残している。

Img_2295寂蒔水除土堤跡(右)

すぐ先の左側に芭蕉塚がある。寂蒔には茶屋本陣があり、千曲川を隔てて姥捨山を眺望した眼鏡場が残っているという。

Img_2296説明板

Img_2302芭蕉塚(松風塚)

Img_2300説明板

Img_2304何の物語の壁画か?

右手に永昌寺参道を見て、鋳物師屋町を通り、矢代宿へ向かう。

Img_2312粟狭神社 《地図

落雷で空洞になったケヤキ

Img_2317旧家

屋代小学校に保存されている擬洋風旧校舎を見るつもりだったが、この先で粟佐交差点から横町交差点に出てしまい、かなり(少しか)通り過ぎてしまったのでパスした。

Img_6879 屋代小学校旧本館(明治21年建築・2012年5月1日撮影)

北国街道松代道の歩き始めに訪れた。ちょうど登校時で、生徒たちに「いい校舎だね」と声を掛けたら、きょとんとした顔で見上げていた。まあ、そんなもんだろう。

Img_2324


藤屋旅館 《地図

Img_2319「ふぢや作治衛門」の看板

Img_2318須々岐水神社

ここを右折し、すぐ先を左折して行く。

Img_2330
旧家

右の電柱にに森将軍塚古墳の看板が立っている。ここから1.5kmくらいか。寄って見たかったが、雨だし先が長いのでここもパスだ。まあ北国街道沿いではないから、よしとしよう。

Img_2333雨宮渡2.6km」の標識(高見町交差点) 《地図

川中島の戦いで上杉謙信軍が夜に千曲川を渡った所で、渡しの跡地には頼山陽の「鞭声粛々夜河を渡る……」の有名な詩碑が建っているそうだ。今の千曲川の流れからはだいぶ離れているようだ。

Img_2337矢代宿脇本陣跡

Img_2339松代道(北国街道東脇往還)は右へ 【ル-ト地図】の③

江戸時代初期までの北国街道の本街道だった。

Img_2342本陣跡

「明治天皇屋代御休所」碑が立つ。

この先、矢代の渡し(跡)へ向かう道筋は更埴IC・長野新幹線などで姿を消している。

Img_2346長い分かりづらい地下道をくぐって国道18号の反対側に出る。屋代小学校の生徒の壁画で飾られている。

ここを出てうっかり長野自動車道へ上る自動車道に入ってしまった。途中でおかしいと気づき引き返す。危ない、危ない。

Img_2353矢代の渡し跡へと向かう。

正面は長野自動車道、上は長野新幹線。

Img_2354千曲川の土手を行く。【ル-ト地図】の④

矢代の渡し跡あたりだが説明板はなく、河川敷が広く川の流れは見えなかった(と思う)。本降りの雨となり風も強くなってきて歩きにくい。

新幹線をくぐり、しなの鉄道を渡り、篠ノ井橋まで進む。

Img_2365篠ノ井橋から千曲川 《地図

明治天皇の北陸巡幸の際にはまだ橋はなく、軻良根古神社の宮司が天皇を板に乗せ担いで渡ったという。天皇は神だったからまさに御神輿だ。

篠ノ井橋には左右に歩道がついている。右だけにしか歩道はないと思い込み、ずいぶんと遠回りしてしまった。【ル-ト地図】には歩いた経路を示している。対岸に渡って再びしなの鉄道を渡り、新幹線をくぐって軻良根古神社前引き返す。

Img_2375矢代の渡し説明板(軻良根古神社前)

Img_2374矢代の渡し跡あたりから 《地図

河川敷が広がっている。右に千曲川の流れが見える。左は新幹線。

Img_2377軻良根古(からねこ)神社

①大鼠と壮絶な死闘を演じた唐猫を祀るとも(昨日の鼠宿の所に記事あり)、②「韓根古」で渡来系氏族との関わりがあるとも ③「唐禰子」とも書いて、平安時代以前の貴族の尊称など、いろんな説があるようだ。明治になって養蚕・養種業が盛んになり、ネズミによる被害が死活問題となった。唐猫神社がネズミ除けに霊験あらたかと崇敬され、寄進も多く受けていたという。

ただし、祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)で、長野県神社庁のHPには、(唐)猫のことなどの記述は一切ない。

Img_2382郡役所跡・警察所跡碑(左の電柱脇)

かつては更科郡の中心地だったのだ。

この先の突き当りで左から中山道の洗馬宿からの善光寺西街道が合流する。

Img_2387篠ノ井追分宿碑・善光寺西街道(洗馬宿方向) 《地図

間の宿で正式な宿ではなかったが、追分で矢代の渡しもあり旅人も多く、無許可の旅籠屋もあり結構繁盛していたそうだ。

洗馬宿からここまでは、翌月に『善光寺西街道①~③』で歩いた。

ここからまた新幹線をくぐり、しなの鉄道の踏切を渡って行く。いい加減疲れてきた。

Img_2396見六の道標(嘉永2年(1849)造立) 【ル-ト地図】の⑤

指さしの親切な道標。見六橋の架け替え工事中に川の中から発見された。

Img_2394説明板

Img_2403宝昌寺薬師堂

もとは茅葺だったが、平成16年の台風で被害を受け、何の変哲もない堂に新築されていた。平惟茂の戸隠山の鬼女「紅葉」退治にまつわる縁起の像を安置する。謡曲『紅葉狩

Img_2402縁起

Img_2408御幣川五差路・歯瘡医殿 《地図

交差点向うの左側に歯瘡医殿。北国街道は直進(右斜め)方向。

Img_2411説明板

篠ノ井駅前の通りまで行き、左折して駅に向かった。

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2011年9月 2日 (金)

善光寺街道(北国街道)②

2011年8月22日

滋野駅(しなの鉄道)・・・明治天皇牧家小休所跡・・・加沢橋(所沢川)・・・立場茶屋跡小林家・・・県諏訪神社・・・長久寺・・・法善寺道道標・・・田中宿・常田の剣持道祖神・・田中の石造仁王像(薬師堂)・・いぼとり地蔵・・脇本陣跡高木家・・本陣跡・・田中の勝軍地蔵・・・求女橋(求女沢)・・・第二北国街道踏切・・・海野宿・・白鳥神社・・媒地蔵・・海野宿資料館・・本陣跡小野家・・・西海野一号橋(成澤川)・・・御堂澤橋・・・大屋仁王尊・・・大屋神社・・・瀬澤橋・・・明治天皇岩下小休所跡・・・伊波保神社・・・太鼓岩・・・神川橋(神川)・・・馬頭観音・・・(しなの鉄道)・・国道18号・・信濃国分寺跡・国分尼寺跡・・国分寺・・瓦窯跡・・国道18号・国分西交差点・・・上堀交差点・・・信州大学繊維学部・・・上田宿・・科野大宮社・・毘沙門堂・・日輪寺・・宗吽寺・・本陣跡あたり・高市神社・・藩主居館跡・・上田城跡・・問屋跡・・真田太平記館・・柳町・・保命水・・緑橋・・紺屋町・・泉屋跡・・北向観音道標・・常福寺坂・・芳泉寺・・坂下延命地蔵  ・・高橋・・ぜんこうじ道道標・・・生塚延命地蔵尊・・・生塚交差点・国道18号・・旧道・・正福寺・・・秋和杉並木跡・・・長昌寺・・・猿田彦大神塔・・・北国街道一里塚公園・・・(国道18号)・・・(長野新幹線)・・・上塩尻・・・国道18号・・旧道・・・沓掛酒造・・・岩鼻・・・国道18号・坂城町・・・旧道・・・くらかけ橋・・一里塚橋・鼠宿(間の宿)・・会地早雄神社・・国道18号・・明治天皇小休所跡・ねずみ交差点・・旧道・・・白山神社・・・谷川交差点(国道18号)・・・テクノさかき駅(しなの鉄道)

 今日も朝から雨だが途中から晴れ間も見えてきた。晴れるとさすがに陽射しは強く、蒸し暑い。雨傘を日傘にしながら田中宿、海野宿、上田城下から間の宿鼠宿へと進んだ。

  【ル-ト地図】(29.4km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1626明治天皇牧家小休所跡

Img_1628今日も雨の中を行く。

Img_1629旧家

Img_1638立場茶屋跡小林家

雨脚が強くなってきた。

Img_1640県諏訪神社 《地図

Img_1643法善寺道標

「信州信濃の善光寺」、「大阪の法善寺」でもない「信州信濃の法善寺

Img_1646常田の剣持道祖神 《地図

昨日、眼鏡橋の所にあったものよりも大きい。男神がを女神の着物のひだの前に伸ばしている。男女の陰陽を表わしているそうだ。2人(神)とも真剣、深刻そうな顔をしている。何かの儀式でも執り行っているようだ。

Img_1650石造仁王像(薬師堂) 《地図

阿・吽像とも雷電の母にゆかりの仁王像。

Img_1649説明板

Img_1659いぼとり地蔵(いいなり地蔵) 《地図

石室のような中に入った地蔵 。左手の甲に小さなイボがあるとか。説明板の兎らしいものを抱いた地蔵はその右隣か?

Img_1656由来

Img_1660田中宿脇本陣跡高木家

田中宿は寛保2年(1742)の「戌の満水」で壊滅的な被害を受け、宿場機能を隣の海野宿に委譲した。さらに慶応3年(1867)の大火で町並みの大半を焼失した。現在は広い通りに昔風の新しい商店も立ち並び、さっぱりとした小奇麗な町並みになっている。

Img_1664本陣跡の門

「明治天皇田中小休所跡」

Img_1648田中宿の家並み

Img_1665商店

Img_1666西の枡形跡あたり(田中駅前交差点)

ここから田中駅近くにあるという勝軍地蔵を探しに行くが見つからず、聞いても分からずであきらめかけ、3人目の人に聞いてやっと分かった。ここの向い側のもとの位置近くに戻されていたのだ。

Img_1669勝軍地蔵  【ル-ト地図】の①

馬に跨る地蔵さん。

Img_1670説明板

「数回移転され、旧来の設置場所近くに安置された」とある。

Img_1679しなの鉄道沿いの遊歩道を進み、海野宿に向かう。

Img_1686白鳥神社 《地図

ここが海野宿の入口だ。神社近くの千曲川の白鳥河原が木曽義仲挙兵の地。

Img_1684説明板

Img_1688海野宿

うだつ・海野格子・出桁造り・気抜きの小屋根の残る家並み。

電線はなく東海道の関宿のように宿場風情が残る家並みが続いている。

Img_1691媒(なかだち)地蔵

Img_1689説明板

Img_1694海野宿資料館

寛政年間(1790年頃)に建てられた旅籠屋で、明治以降に養蚕農家に改造された。

Img_1696うだつの上がる家並み

手前の屋根に乗るのが、明治時代以降に造られた「袖うだつ」で装飾に重点を置いている。奥が江戸時代の防火壁の「本うだつ」で家屋と一体になっている。その他、小屋根のない「脇うだつ」と「軒うだつ」があるそうだ。

Img_1732旧家

2階の出格子は長短2本づつ交互に組み込まれた海野格子

Img_1704本陣跡の長屋門

Img_1706馬の塩舐め石

塩をなめてまでも働かされる馬たち。馬頭観音に祀ったくらいでは浮かばれないか。

Img_1713明治になり旅籠は蚕室に改造され、室内を保温した煙出し用の「気抜き」(小屋根)を造った。

少雨乾燥の地で養蚕・養種業に適していたという。

Img_1721本うだつ・出桁造りの旧家

Img_1722海野格子の旧家

Img_1726矢島家?

西の枡形跡を抜け街道を進む。

Img_1757大屋仁王尊 【ル-ト地図】の②

背後に千曲川が流れる。

Img_1756説明板

Img_1752仁王像

「戌の満水」で一度は千曲川に転落流失はしたが、慶安年間以来(1648~)の水害犠牲者、河川鎮護の守護神。可笑しみ親しみのある顔をしている。

Img_1759大屋神社 《地図

Img_1761猫石(大屋神社境内)

千曲川の中にあった大石の一部。説明板の民話、言い伝えの一つ。「東山道を通り、蝦夷征伐に向う征夷大将軍の坂上田村麻呂の軍は千曲川を渡ろうとしたが、橋はなく浅瀬の位置が分からなかった。そこにがあらわれ、川の浅瀬を渡ってこの大石へ登り、向こう岸に渡って行った。田村麻呂たちは猫の渡った所を通り、無事千曲川を越えた。それ以来、この大石を猫岩と呼ぶようになったという」 水が嫌いな猫に川を渡らせるとは、面白い話だ。

Img_1760説明板

Img_1768明治天皇小休所跡あたり

Img_1771明治天皇岩下小休所跡(尾崎家跡・明治11年の北陸巡幸)

右の「仁和寺宮嘉彰親王御遺跡」碑は、明治元年に中山道から北国街道に入り、会津征討に向かう仁和寺宮嘉彰の軍がここで休憩した記念碑。

Img_1774伊波保神社 《地図

石の鳥居は寛保3年(1743)の建立。

Img_1773説明板

Img_1781太鼓岩

昭和34年までこちら側の河岸との間に吊り橋が架かっていた。

Img_1779説明板

吊り橋の写真がある。

Img_1783吊り橋跡の鉄材が残っている。

Img_1785長野新幹線のハープ橋(斜張橋の第二千曲川橋梁)

Img_1788神川が勢いよく千曲川に流れ込む。(神川橋から)

Img_1789馬頭観音の立つ辻 《地図

北国街道は直進するが、右折して信濃国分寺跡に向かう。北国街道を進めば上田宿海野町から明治になって移転した本陣柳沢家がある。

Img_1790馬頭観音

加賀の飛脚たちが建立。

Img_1791説明板

Img_1802信濃国分寺跡(講堂跡手前から) 《地図

ちょうど金堂跡と中門跡の間をしなの鉄道が通過中。

Img_1821伽藍配置図

Img_1805現国分寺仁王門

Img_1810説明板

Img_1809本堂(長野県宝)

Img_1819三重塔(国宝)

Img_1817説明板

Img_1827瓦窯跡観察施設

Img_1823説明板

国分西交差点まで国道18号を進み、左折して上堀交差点で北国街道に戻る。

Img_1835北国街道踏入(ふみいり)村の生活用水、旅人の喉を潤した井戸。今年の3月に復元・新築・整備された。

Img_1840元名主平尾家

門と井戸は昔のままか。ここは枡形跡。

Img_1843信州大学繊維学部講堂(昭和4年完成) 《地図

Img_1842説明板

Img_1848科野(しなの)大宮社

信濃国の総社と推定され、国府も当初、このあたりにあったともいう。

Img_1846説明板

Img_1851上田宿に入る。

常田の街並み

Img_1849説明板

上田は真田一色という感じだ。

Img_1853毘沙門堂

活文禅師が寺子屋を開いた所。教え子の中には佐久間象山もいるそうだ。

Img_1852説明板

Img_1857昔風情の残る家並み

Img_1862宗吽(そううん)寺

Img_1868南朝の年号が彫られた家型地蔵石憧。左右に空けた日月は石憧の意味を知らない後人の改造だそうだ。

Img_1863説明板

Img_1872高市神社 《地図

海野町の商売繁盛の神。この道路向かいが本陣跡(移転した柳島家)で石柱が立っているというが見当たらなかった。

Img_1870海野町説明板

Img_2434上田藩主居館跡で「御屋形」と呼ばれていた。今は上田高校の敷地になっている。 《地図

Img_2435説明板

 

 

Img_2439居館跡の門は上田高校の正門になっている。毎日ここをくぐって登下校する生徒は藩主気分か? まあ、何も感じていないだろう。

Img_2419上田城跡

本丸櫓と東虎口櫓門

Img_2425真田神社

六連銭(六文銭)があちこちに。境内ではNHK大河ドラマで「真田幸村」実現の署名活動が行われていた。

Img_2433由来

Img_2426真田井戸

「抜け穴」になっているという。大阪の真田山の三光神社にも真田の抜け穴があった。『大阪市の坂
和歌山県九度山町にも、「伝真田の抜け穴」がある。

Img_2427説明板

Img_1876問屋跡

すぐ先の右側に「池波正太郎真田太平記館」がある。

Img_1878説明板

Img_1883柳町に入る。 《地図

Img_1886柳町の家並み

左は岡崎酒造、呉服屋が25軒もあったというが、今は皆無か?

Img_1889_2森文(喫茶と食事の店)

屋根に乗る袖うだつ、2階は長いもの(親)と短いもの(子)の「親付き切り子格子」。海野格子と同種類のものだろう。

Img_1898保命水 《地図

冷えたすいかが美味そうだ。

Img_1897説明板

保命水から左折して紺屋町へ入って行く。 

Img_1899ここも宿場風情ある家並みが続いている。

Img_1909泉屋跡

藍染商→穀類商→蚕種業と変遷したようだ。小屋根は蚕種製造業の煙出しのため明治になってから付け加えられた。

Img_1907説明板

Img_1916大島屋商店

Img_1925北向観音道標 《地図

左が北国街道で振り返って見ている。左折して常福寺坂、芳泉寺に向かう。北向観音はどこにあるのか?

Img_1923説明板

Img_1929芳泉寺

山門は六文銭でなく、永楽通宝だ。本堂には六文銭と三つ葉葵の紋(小松姫は徳川家康の養女)がついているそうだが。建物などは新しく、境内はいろんな物が並び一風変わっている。さっと通り過ぎ、本堂裏手の小松姫の墓所に向かう。

Img_1931説明板

Img_1937小松姫の墓

真田信之の正室。

Img_1927説明板

Img_1944常福寺坂 【ル-ト地図】の③

芳泉寺のもとの名は常福寺。

Img_1945坂下延命地蔵堂

Img_1947高橋を渡って左折し、道標の所で右折して行く。橋の手前が上田宿の西の枡形跡。

Img_1949善光寺道道標 【ル-ト地図】の④

Img_1951「右 ぜん加ヲし道」(元禄5年(1692))

Img_1953生塚(うぶづか)延命地蔵堂

Img_1955説明板

Img_1964千人塚(正福寺) 《地図

寛保2年の「戌の満水」の犠牲者の供養塚。石碑は老朽化したため新しくなっている。

Img_1962説明板

Img_1966秋和杉並木跡

宝永3年(1706)には267本あったという。

Img_1970杉の亡骸が祀られている。

Img_1974旧家

Img_1978秋和公会堂

右前に道標「北国街道」が立つ。

Img_1976道標「北国街道」

Img_1986豊秋霧原野神社の常夜灯・猿田彦大神の並ぶ辻

大蔵京古墳への道でもあるようだ。

Img_1983猿田彦大神塔

寛政12年(1800)に村人と北国街道の旅人の安全のために建立された。前のトラックが邪魔で正面からの写真は撮れず。

Img_1984

Img_1988北国街道一里塚公園(右) 【ル-ト地図】の⑤

Img_1989地蔵がぽつんと。公園といってもこの上に道標が立つのみ。 

Img_1991道標(文久元年(1861))

「右北国街道 左さくば道」、「さくば」は「作場」?で農道のこと。

Img_1990説明板

Img_2001上塩尻の家並み 《地図

Img_2004振り返って見る。

Img_2007色違いの長い土塀が続いている。蚕種業で財を成した藤本善右衛門家か。

Img_2015路地にも昔風情がある。

Img_2018緩やかに下って行く。

Img_2020小岩井紬工房

江戸時代は庄屋から養種業、明治になって上田紬の織り元になった。

Img_2022国道に出る手前に右に旧道が短く残っている。

Img_2024仲良く手をつないだ道祖神。剣持道祖神よりこっちの方が親しみがわく。

Img_2025国道18号に出て、再び右に旧道に入る。

Img_2027沓掛酒造の間を通って行く。 《地図

Img_2029猫が2匹、車に轢かれたのかと思いきや、寝そべってくつろいでいるだけだった。いつもこうしているのだろう。

Img_2036岩鼻の崖下を行く。昔は千曲川が崖下まで迫っていたので崖の中腹まで上って越したそうだ。参勤交代の加賀の殿様は岩鼻を通過できると国元へ飛脚で無事を伝えたという。

この上に村上氏の築城した和合城跡があるようだ。

Img_2045坂城町に入る。まだ標高415mもある。また空模様が怪しくなったきた。

Img_2054一里塚橋

すぐ先に鼠宿の説明板がある。

Img_2056鼠宿説明板

Img_2057会地早雄(おうぢはやお)神社

車輪のような太鼓橋? とても渡れない。

Img_2059_2境内に万葉防人歌碑がある。

万葉歌碑巡り

Img_2063明治天皇小休所跡(ねずみ交差点の手前左側) 《地図

鼠宿は上田宿と坂木宿の間の宿で、松代藩の設けた私宿だった。本陣、脇本陣、問屋、馬宿、茶屋もあって賑わっていたというが、宿場の面影は残っていない。「ねずみ」宿の由来については、①松代藩と上田藩の境で、越境者を門番が「寝ず見」張っていたとも、②篠ノ井の軻良根古(唐猫)神社にゆかりの唐猫と壮絶な死闘を演じ、岩鼻に噛みつき食いちぎり息絶えた大に由来するともいう。民話『神ネズミと唐猫様

Img_2070釈迦如来堂

民家の敷地内なので堂内は覗かなかった。

Img_2069説明板

Img_2079旧道を進む。

Img_2081旅人の喉を潤した井戸だろうか。

この先の小川の所で左折し、谷川交差点を渡り「テクノさかき駅」へ向かった。

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